アンビバレント人というものはみんな幼い頃に味わった感情の積み重ねでできている。
そんな当たり前のことを日常ではなかなか思い出すことはないだろう。しかし蘇枋は現在目の前の光景にそれを激しく痛感させられている。
今自分の目の前にいる小さな子供。
その子は蘇枋とその隣にいる楡井を見つめ、怯えた色をたたえた瞳を無理やり細めて威嚇していた。
ここまで怯える子供を今まで見たことがあっただろうか。そう考えてしまうほど目の前の子供は異質なほどの怖がり様。こんなに穏やかな日常でそれほどまでに追い詰められる要因とは何なのか。それを無意識に考え込んでしまうほど蘇枋には鮮烈で言葉にできないほど悲しい出来事だった。
蘇枋と楡井は学校に来なかった桜を心配して二人で家まで様子を見に行くことにした。
また無茶をして一人寝込んでいるのかもしれないとクラスメート達から託されたお見舞いの品を両手に持ち、途中何度か連絡を入れてみても全く返事がないのでよほど具合が悪いのかと少し足早に家まで向かった。
ドアノブに手をかけまた鍵がかかっていないことに眉を顰めていつものように勝手に開ける。
「桜さ―んいますか?」
「桜君、あがるよ」
そう声をかけてキッチンまで足を踏み入れた時、微かな物音で視線を上げた。
その先で見たものに二人は驚く。それがこの子供だった。
なぜここに子供がいるのだろうか。しかもその容姿は自分たちもこれまで一人しか出会ったことのない特殊なもので。
蘇枋と楡井は答え合わせをするように視線を合わせると無言で頷く。この場が桜の住まう家でなくても、二人は目の前の子供が桜本人であると疑う余地はなかった。
「えっと…桜、さん。ですよね?」
「そうだね。身体が小さいこと以外どうみても桜君だね」
一度顔を見合わせてからまた子供に視線を戻すとその子の肩がビクッと跳ねた。
見たところ小学校低学年くらいだろうか。部屋の角に身を寄せて少しでも自分たちと距離を取ろうと身体をこわばらせている。
何が起こっているのかと辺りを見渡してみても、桜が小さいこと以外に部屋の中はいつもと変わった様子がなく、困り果ててため息をつくとその子供が息を飲んで身体を硬くした。自分たちの全ての挙動に異様なまでの反応を示すことにとても違和感があり苦い思いが込み上げる。
このまま睨めっこをしていても事態が好転することはないので、蘇枋が一歩前に踏み出すとその子供は奥歯を噛み締めてようやく声を張り上げた。
「おっお前たちは誰だ!今度はここに閉じ込めるのか!?」
少し震える声でそう叫ばれはっとする。言葉から過去に閉じ込められたことがあるのだと察することができた。
風鈴高校で出会ってからの桜の言葉と表情で、過去に複雑な事情があるのだと薄々は感じていた。本人が話すことがなかったのでこちらから聞くこともしなかったが、きっとかなり粗末に扱われていたのだろうと思っていた。
蘇枋はずっと目で追っていたから嫌でも気がついてしまう。恋人になってからも時折見せる桜の辛い表情。
他人の嫌な出来事に自分を重ねて共感しているように見え、その根源がきっとこの目の前の頃の桜なのだろうと想像に難くない。
今の桜の様子が自分の考えていた憶測が間違っていなかったのだと証明していて、蘇枋は子供の桜を見つめながら思わず拳を握りしめた。
「桜さん…記憶も子供の頃に戻っているんでしょうか…」
そう楡井が悲しそうにもらし、その声には忘れられた寂しさと不思議な出来事への不安が含まれている。
「そうかもしれないね。…でも、きっと大丈夫だよ」
根拠などないけれど、そう思う他なかった。
蘇枋は一度桜から視線を外してキッチンから畳の部屋へと移動した。途端に桜は壁に張り付いて身構えるので、部屋には一歩入っただけですぐに立ち止まりそこに正座する。楡井が習うようにその横に正座して、そして二人はできるだけ穏やかな笑みを心がけて話しかけた。
「オレたちは君にそんなことしないよ」
「おっオレも!君とはお友達になりたいっす」
そう告げると桜はより険しい顔をする。
「いい奴ぶるのはやめろ!オレを騙そうとしたってそうはいかないぞ!」
「騙すだなんてそんな…」
肩を落とす楡井の背中に手を当て蘇枋は続けた。
「どうやったら信じてくれるの?」
「知らねえ奴のことなんか信用できるかよ。…お前ら大人は大っ嫌いだ、オレの言うことなんか聞いてくれないくせに全部をオレのせいにする…」
「そんなことは…」
「嘘つき!」
桜は泣きそうな顔をしながら全身を振り絞るように叫んでいた。小さな拳を握りしめ肩を怒らせて大きな声でそう訴える。それが目の前の二人というより世の中の全てを拒絶しているように見えて思わず言葉をつまらせた。
まるで野生の動物のような威嚇と拒絶をする桜に悲しみを通り越して虚しさすら感じ、昨日までの桜との落差に蘇枋は顔を歪めて膝の上でズボンを握りしめる。
すると蘇枋の想いを察したのか桜の表情が少しだけ怯み、この頃から今の桜と変わらず人の機微に聡いのだと心が苦しくなった。
「ど…どうしてもってんなら…オレと喧嘩しろ。お前らが勝ったらなんでも言うことを聞いてやる」
「それは友達とは言わないだろ?」
「そんな気なんかないくせに…」
「ふう……困ったなあ」
あまりにも頑なに他人を拒絶する子供。ここまで強い感情を植え付けた周りの大人に静かな怒りを覚えつつ、もどかしい状況にまたため息が漏れた。
このままでは原因の追求はおろか近づくこともままならない。もっと心を開いてくれるきっかけが欲しいと思考を巡らせる。子供とは何に興味を持つものだろうか。
そして蘇枋は安直な案ではあるが思いついたことを試してみることにした。
「にれ君みんなからの差し入れの中にチョコレートあったよね?」
「ありますけど…」
「それ頂戴」
何かを察したのか、急いで取り出したものを楡井から受け取って蘇枋は桜の前に差し出した。
「喧嘩はできないけど、オレは君と仲良くなりたいからその気持ちとしてこれを一緒に食べない?」
そう言うと桜の視線がそのチョコレ―トに固定された。
わずかに目の色が変わり子供らしい輝きを放っている。開いた口をきゅっと結びこくりと喉を鳴らすので興味をそそられているのは確かなのだが、しかし蘇枋が手に届きやすいように前に押し出してみても桜がそれに手を伸ばすことはなかった。
チョコと蘇枋を交互に睨みつつ、やっぱりなかなか警戒を解いてくれずに全く進歩がない。
仕方なく蘇枋はチョコを引き戻すとそのまま包み紙を開けた。
遠くで桜が見つめるなか、蘇枋はそれの端を一欠片だけ手で折りそれを口に含む。途端に口の中いっぱいに甘い香りが広がって舌の上でとろりと溶けた。
唖然とする桜に視線を向けて微笑み、そして簡単に包み直したチョコを再び差し出す。
「残りを桜君にあげるね。オレも同じもの食べたから変なものじゃないのわかっただろ?」
そう告げれば桜は小さく唸った。
蘇枋が包みを開けたことで部屋の中にはカカオの甘い香りが広がって、匂いに誘われるように桜は四つん這いになると蘇枋に近づき掠めるようにチョコを攫った。
おずおずと一口かじって咀嚼する。するとみるみるうちに表情が輝き出し弾かれたように口いっぱいに頬張った。夢中で食べ続ける桜に楡井と二人安心したように顔を見合わせる。ようやく一つの壁を打ち破ったらしい。
「ねえ桜君、もう少し近づいてもいいかな?」
そう言うと桜は手を止め、またじっと蘇枋を見つめる。
「…お前ら変わってんな。他の奴ならとっくに腕捕まえて押さえつけてるのに…」
「オレ達は君にそんなことしないよ。まずはいろいろと話を聞かせて欲しいな」
「へっ…変なやつ」
その時、桜の小さなお腹がぐうと鳴った。チョコを食べて身体がもっとよこせと欲張りになったのかもしれない。
見舞いの品には飲み物やお菓子、あってもゼリーくらいのもので子供のお腹を満たす物としてはちょっと考えてしまう。
すると楡井が急に立ち上がり蘇枋を見下ろした。
「オレご飯になりそうなもの買ってきます!桜さん、好きなおにぎりの具材はなんですか?」
「おに、ぎり?な…なんで?なんで…オレに構うの?」
「そりゃあ!オレが桜さんのこと大好きだからですよ」
楡井が人懐っこい笑顔を浮かべれば桜は困惑した顔をして押し黙る。しかし少し時間をおいた後、下を向いたまま小さい声で呟いた。
「………しゃけ…」
「了解です!じゃあ蘇枋さん、桜さんのことお願いします!」
「うん。わかった」
そう答えると楡井はいそいそと部屋を出ていった。蘇枋は桜に視線を戻し優しく問う。
「隣に行ってもいい?」
躊躇いながらも桜がゆっくり首を縦に振ると、蘇枋は慎重に隣まで進み膝を抱えて座り込んだ。
不安げに見上げてくる桜の瞳が蘇枋のよく知る色をしていて、ここまできてやっと桜の記憶の中から自分の存在が消えていることに寂しさを覚える。
同じ瞳なのに自分のことを知らない桜。そう思うとなんとなく、胸がかきむしられるような思いがした。
「なあ…あんた達オレのこと知ってるの?」
「そうだね。君が桜遥くんだってことは知ってるよ」
「どこかで会ったことある?」
「あるよ。でも君は覚えていないだろうね」
さすがに恋人だとは言えなくて言葉をそれだけに留める。すると桜は「そうなんだ」とぽつりと言うと足元を見つめた。
「桜君はいつからここにいるの?」
「わかんねえ。気がついたらここにいた」
「その前に何か変わったことはなかったかな?誰かが来たとか、変なものを食べたとか、何かいつもと違う体験をしたとか」
「特に変わったことはなかったけど…夢を見ていた気がする」
「夢?」
「うん。…でも忘れちゃった」
そう言うと桜は長いまつ毛を伏せた。
夢の内容を忘れたことが残念だったのか、表情に少しの憂いを帯びている。そんな顔をされればこれ以上この話を長引かせるのも気が引けて「そっか」と一言同意して、話題を変えることにした。
「チョコレート美味しかった?」
そう言って顔を覗き込むときょとんとした子供らしい顔を覗かせる。蘇枋が微笑むとじわじわと頬が赤くなってそのまま顔を伏せてしまった。
こんな所もよく知る桜と一緒で身体が小さい分、特に可愛くてしょうがない。思わず軽く握った手を唇に当て笑ってしまって、気がついた桜に怪訝な目を向けられた。
「…うまかった」
「それはよかった」
少し恥じらうように言う桜にまた頬が緩む。まだこの頃の彼はこんなに素直なのだと密かに嬉しくなる。
しかしその後に続く言葉に蘇枋の顔から笑みが消えた。
「チョコレート…久しぶりに食べた。前は母さんが買ってきてくれたからよく食べていたけど、でも親戚の家に行ってからはオレの分はなかったから」
悲しむでもなく怒るでもなく淡々と。一点を見つめて虚ろな顔で桜は話す。
「チョコだけじゃない。ご飯とか、学校で使うものとか。オレにはいつも何かが足りなかった。何軒か親戚の家を回ったけど何もくれないところもあったから今の家はマシな方かな。セケンテイ?ってやつを気にしてるらしいし。……まあ、もう慣れたけど」
何もかも諦めたようなそんな目。こんな小さい子供にさせていい目じゃない。
蘇枋は人知れず息苦しくなって胸を押さえ唇を噛み締めた。
難しい、予想はしていたけど桜には他人が無遠慮に踏み入れてはいけない部分が多すぎる。
恋人の桜も余計な気を使わせたくなくて話さなかったのだろうけど、正直記憶のない桜から聞いていい話なのか迷うところだ。
できれば桜が話したくなったタイミングで打ち明けて欲しい内容であって、素直な子供から聞いてしまうには気が引ける。
なんでもいい、また話題を変えた方がいいだろうと思い蘇枋はさっき会話に出て来た母親に話をすり替えた。
「そう、なんだ。………でもお母さんは優しかったんだね」
そう聞くと桜は顔を上げ蘇枋の顔を見て笑うので、やっと見れた年相応の顔に蘇枋はほっと胸を撫で下ろす。
「うん。オレ母さん大好きなんだ!母さんは優しくていつも笑ってぎゅってくれた。母さんの作るご飯は美味しいし、なんでも知っててたくさんのことをオレに教えてくれたんだ!」
爛々と目を輝かせて熱く語る桜の頬がさっきまでとは違う意味で上気していく。好きなものを語る瞳は光に溢れていて、蘇枋は桜の話を無言で頷きながら聞いていた。
親と過ごした幸せな日々を細かく説明しながら気持ちが溢れ出して止まらない、そんなふうに見えた。
興奮がおさまらない思い出話を蘇枋は聞き役に徹して相槌を打つ。少なくともちゃんと愛情を受けながら心を育んでいた時期があったと知ることができた。
しかしある話を語り終えた頃、何かを思い出したように桜の動きがぴたりと止まる。その瞳からはまた光が消え、まるで感情が抜け落ちたかのような虚無が広がっている。
「……でも、…急にいなくなっちゃった」
桜が小さな声で呟いた。
「オレ一人を置いて、いなくなった……オレ…オレ、何か…悪いことしたかな…。どうして神様は連れていっちゃったんだろう……」
そう言うと桜は自分の膝を抱えてうずくまった。自分で自分の身体を抱きしめて必死に何かを耐えている。
たまらず蘇枋はそっと桜の髪を撫でる。ゆっくり、そして優しく一定のリズムで怖がらせないように。
すると桜の表情がどんどん崩れていく。瞳にはうっすらと水分の膜が張り、小さい唇はキュッと結ばれて、それでも悲しみを必死に抑え込んでいるようで涙をこぼすことはしない。
それがかえって哀愁を漂わせ、いっそ子供らしく大声で泣いてくれればいいのにと思う。
「お母さんに何があったのかは知らないけど、でもきっとそれは桜君のせいじゃないと思うんだ。こんなに小さい身体で君に何ができたって言うんだい?」
「でっ……でもおじさんやおばさんは、オレが悪いって…オレがこんななりだから不幸を呼び寄せたんだって……そう、言って……」
「そんな意地の悪い大人の言うことなんか聞かなくてもいいんだよ。だってお母さんは君の前では笑っていたんだろう?それは辛そうだったかい?」
桜が無言で首を横に振ると瞳に蓄えていた涙がようやく溢れた。
「きっと幸せで笑っていたんじゃないかな?きっと桜君のこと大好きだったんじゃないかと思うんだ。君がお母さんのこと大好きだったみたいに」
そう伝えると桜は無言ではらはらと涙を流した。
母親の話題など本当は出してはいけなかったのかもしれない。桜の心の奥の一番柔らかい部分に直接触れてしまった。
それでも溜め続けるだけでは心が壊れてしまう。今の小さい桜には風鈴での桜のようにうまく促してくれる人がいないと思うから、今少しでも自分に吐き出してほしかった。
きっと親から受けた愛情と現実とのギャップがこの小さな桜を苦しめている。幸せを知っているから今がより辛く感じられるのだろう。
震えて泣く桜にかける言葉をまだ蘇枋は持ち合わせていないけど、言葉ではそう簡単に心に浸透しないとそう思うから。蘇枋は一度桜から手を引くとゆっくりと両腕を広げた。
「桜君、おいで」
本当はもっと早くに抱きしめてあげたかった。
自分から引き寄せて抱きしめることは容易いが、でも桜本人の意思でこの腕の中に飛び込んで欲しい。そういう思いで蘇枋はできるだけ優しく、しかし懇願するように腕を広げて待った。
目を見開いた小さい桜は泣きはらした顔を隠すことなく蘇枋を見つめている。少し怯えを含んだ顔は時間が経つにつれ少しづつ緩んでいき、ほんのわずか蘇枋ににじり寄った。
まだ迷っている桜に蘇枋はもう一度告げる。
「おいでよ」
そう言って首を傾けて微笑めばようやく桜はゆっくりと小さい両腕を蘇枋に伸ばした。
慎重に、怖がらせないように、優しくその身体を抱え上げると膝の上に乗せる。それから蘇枋はゆっくりと宝物を壊さないように抱きしめた。
腕の中で強張った身体が徐々にほぐれていく。ふわふわの髪を指ですいてやると落ち着いていくのかようやく全身を蘇枋に委ねた。
「オレはね、桜君のことが大好きでとても大切なんだ。だからこうやって生きていてくれることを神様に感謝してるんだよ。お母さんは君を置いて行ったんじゃない、君にその先の未来を歩んで欲しかったんじゃないかな。今は辛くてもきっとその先で幸せなことが待っている、そう教えてくれたんだと思う」
その先で自分と出会って欲しいと思うのは完全に自分のエゴだけど。
小さな桜にはまだよくわからない話でも、この声が未来の桜に届くことを願ってそう囁けば再び桜の肩が震える。
しかしそれはこれまでとは違う震えなのだと蘇枋にはわかっていた。
「あれ?もしかして寝ちゃったんですか?」
買い物から帰ってきた楡井が小さな声でそう呟いた。それに軽く微笑んで腕の中の小さな身体をゆっくりと抱え直した。
軽い身体は簡単に抱えることができて、今更ながら同年代の子供の中でも小さいように感じる。さっき彼が言ったとおり満足するまで食事を与えられていないのかもしれない。
高校にきた桜の食い意地が張っているのはもしかしたらそれに起因しているのかと考える。食べられる時に食べておく、そんな感じか。
確か以前、水の味の違いがわかると言っていたことがあって、それすら良くない想像をしてしまう。
蘇枋は胸が押しつぶされそうな思いが湧いて、桜の頭を手で支えるとそっと額に唇を寄せた。
楡井がひいてくれた布団にその身体を横たえて一息つくと楡井が同じように顔を覗き込む。
「随分と懐いてくれましたね」と言いつつ、桜の目元が赤くなっていることに気がつくと眉根を寄せた。
「桜さんは元に戻るんでしょうか…」
「そう信じて、今は待つしかないかな」
この小さな桜が怯えなくなった今、目が覚めればもっといろんなことを話してくれるだろう。時間があれば聞くだけでなく新しい何かを教えることだできるかもしれない。
「伝え続けないとね。君が大切な存在だって」
そう呟くと楡井が大きく首を振る。
桜が大きくても小さくてもその気持ちに変わりはなかった。
◇◆◇
よく澄んだ心地の良い声だった。そん声に名前を呼ばれると胸が躍るように嬉しくなった。
『はるか』
名前を呼んで伸ばされた手は優しく身体を包み込み、頬を擦り寄せればくすぐったいと言って微笑む。
その人からはとてもいい匂いがして、その匂いも気持ちを落ち着かせ安心することができた。
大好きだった。心穏やかになれた。幸せだった。
いつまでもこの腕がずっと自分のそばにあるものだと、その頃の桜は信じて疑わなかった。
「いろいろ…悪かったな」
翌朝、元に戻った桜には子供に戻った時の記憶が残っているようで、目が覚めたとき覗き込む蘇枋と楡井の顔を見て飛び上がると部屋の隅まで後ずさった。そして赤くなった顔を逸らしてそう呟く。
蘇枋と楡井は顔を見合わせて思わず苦笑いするとともにほっと胸を撫で下ろした。
数日後、蘇枋と二人になったタイミングで桜は言った。母親の夢を見たのだと。そして目が覚めると子供の姿になっていたようだ。
「子供になっていた時は今の記憶はなかったの?」
「あったら…あんなこと言うと思うか?」
「だよね」
普段から自分の過去を話さない桜があんなに素直に話したのだ。予想はしていた。
夕日に染まる川べりで太陽色に染まった顔は予想に反して穏やかに見えた。
「オレ………ちゃんと愛されてたんだなって。…今更ながら思い出した」
噛み締めるように桜は言う。
親と過ごした幸せな日々より、辛い期間の方が長くなって上書きされるように忘れてしまっていたようだ。
「思い出せて…よかった」
遠くに視線を向けて思いを馳せる桜の横顔が泣きそうに見えて蘇枋はただ黙って頷いた。
あの不思議な出来事はもしかしたら、桜にそのことを思い出させるための夢の女性からのプレゼントだったのかもしれない。いやきっとそうだろうと蘇枋は思っている。
「そうだね。桜君の根底にある優しさはきっとその素敵なお母さんから頂いたものなんだろうね。だから君はこれまで辛い目にあっても人を思いやることを忘れないし、他人にだって優しくなれる。自分の芯を曲げない強さと実直さがこの街に来てようやく花ひらいたんだ。だから今君の周りにはたくさんの人との繋がりがあってみんなが君を認めている。まあ、オレもそんな君に惹かれた一人なんだけどね」
これまで不遇な環境に身を置いていた桜がどうしてここまで人を思いやれるのか。ずっと不思議に思っていたことが理解できて蘇枋もまた嬉しくなっていた。
人と接するのが苦手なくせに友達のことで心を痛め時折辛そうな顔を見せていた桜。自分のことは隠すのに人のことになると必死になって助けようとする彼の元素となるものが、ちゃんと幸せな時期を経て作られ定着していたのだと知ることができて嬉しさを通り越して幸せな気持ちになる。
決して不安定なものではない彼本来の人間性。それに自分は憧れ惹かれたのだと気がついて、やっぱり彼のことが好きなのだと再認識した。
「おっお前ぇ…恥ずかしげもなくよくそんなことが言えるよな…」
夕焼けのせいか、照れたせいか、赤く染まった顔を下に向け桜はそう呟いた。
耳どころか首まで赤くして本当に自分の恋人はなんと可愛いことか。
「いやいやそんな」
「褒めてねえよ!」
素直な想いを素直に受け入れられないのはきっと辛い時期の弊害なのだろうけど、でも今はそれも愛しいと思っている。その気持ちをまた言葉にするときっと桜は逃げ出してしまうので、蘇枋はそっと桜の手を握ると表情に込めて見つめる。そんな蘇枋の意図を正しく汲み取ったのか、桜は顔を上げると目を見開いてそしてまた顔を逸らした。
空いた手で口を隠しその手までも真っ赤に染めて、きっとすでに全身が赤くなっていることだろう。しかし繋がった手を外すことなく桜は顔を逸らしたままぶっきらぼうに、そして小声で言葉を紡ぐ。
「まあ…お前にも感謝してる」
かろうじて届いた言葉に蘇枋は思わずふるりと身震いをする。これからも君が大切なんだと、もっと一緒にいたいのだと思いを伝え続けるつもりだ。
そうすることで自分が桜の心を解きほぐしているのだとすればこんなに至福なことはない。
こんな気持ち一度だけでは伝えきれない。
「桜君、生まれてきてくれてありがとう」
「……は?」
「そして、オレと出会ってくれてありがとう」
「なっ…ばっ―――――…っっくそっ!」
溢れそうになる胸の内をどこまでちゃんと伝えられるだろうか。でも焦ることはない。これからじっくりと伝え続ければいいのだから。
そう決意して握った手に力を込めると、低く唸った桜がその手を握り返してくれた。