時計マツバがハヤトに贈った腕時計はシンプルなものだった。ベルトは水色に染められた柔らかい革で、白い文字盤に茶色の数字がぐるりと並ぶ。そのデザインはハヤトの白い手首によく映えた。
「空を飛んでるときに、ポケギア出すわけにはいかないでしょ? 迷ったけど、気に入ってくれて良かった」
ベルトを腕に巻いたハヤトにマツバはにこにことしていた。時間はポケギアを見ればわかる。しかし空の上で物を落としたら大事故に繋がりかねない。そんな事情を考えたマツバの贈り物だった。ハヤトはふわふわとした心持ちで、文字盤を覆う透明なガラスをそっと撫でた。
ハヤトはそれから毎日のように腕時計を身につけた。あれば便利なもので、ジムの勤めの合間に手首に視線を落とすことが増えた。ジムにも大きな壁がけ時計はあったが、壁に視線をはわすよりずっと楽だ。
マツバと会う時も当たり前に腕時計は手首に巻かれていた。マツバは「きみに似合って良かった」と微笑んだきり、特に何も言うことはなかったが。
「これから少し修行に出るよ」
ある日、マツバはそう告げた。しばらくジムも休みをもらうのだという。山にこもっている間は連絡が取れない。ハヤトはなんでもないような顔で、元気でやれよと送り出した。心配だと喚く姿は見せるべきじゃない。
翌日、ハヤトがいつものように腕時計を手首に巻くと違和感があった。秒針がその場で震え、五秒に一度くらいしか進んでいない。それに、だいぶ時間もずれてる。電池切れだろうか?でも、使い始めてからそんなに経っていないのに……。
ハヤトはため息を吐いて引き出しに時計を仕舞った。次の休みにでも電池を交換してこよう。
修行から戻った知らせに、エンジュまで飛んで行った。
お土産に買い求めた羊羹を食べながら色々と話をした。一ヶ月分の他愛のない話はいくら時間があっても足りない。
「ハヤトくん、今日は時計してないの?」
日が暮れる前の帰り際、マツバにおずおず指摘されてらばつの悪い気持ちになる。
「電池が切れたみたいで…秒針が進まないんだ。ごめん、はやく修理に出すつもりだったんだけど」
「そうなんだ。この前買ったばかりなんだけどな」
マツバはどこかほっとした表情を浮かべた。軽い左手首がうらめしい。バタバタとしていて、今日まで来てしまった。なんでもっと早く時計屋に行かなかったんだろう。
帰宅したハヤトが引き出しを開けて、思わずあれっと声を上げた。
時計は寸分の狂いなく時を刻んでいる。家の壁掛け時計と見比べる。全く同じ六時半を指していた。
それからというもの、マツバが家を空けると決まって時計が狂うようになった。そして、帰ってくると正確に時を刻み始める。ハヤトは、流石にその連動性に得体の知れないものを感じ始めていた。
「きみ、この時計どこで買ってくれたの?」
「コガネのデパートだよ。どうかした?」
「普通のお店だった?」
何かこう、オカルト系のではなく。ハヤトの潜ませた疑問に気づく様子もなく、マツバはうーんと思い出すような仕草で答えた。
「普通といえば、普通の売り場だと思うけど……。僕が帰った後でよければ、行ってみようか? それに、デパートから少し離れたところに美味しい喫茶店を見つけたんだ」
「そうだな。楽しみにしてる」
次回の約束をして別れた。ハヤトは狂った時計を引き出しに仕舞った。
マツバが帰るのは、また一月後らしい。それまで時計は使い物にならないだろう。
いつもと変わらない出立ちのマツバが微笑んだ。紫色のヘアバンド、夏でも手放さないマフラー。
ハヤトが用意した麦茶に口もつけず、にこにことするばかりだ。
修行はどうだった、と問いかけたハヤトの声は自分自身には聞こえない。しかしそういうものだと、何故かハヤトはわかっていた。ぼこぼこと水底から湧き上がっては弾ける泡のように、浴びせた質問は次々と消えていく。
マツバがハヤトの両手首を握り、祈るように額に押し付ける。ハヤトの手首はされるがままで、文字盤が照明を反射してきらり光った。あれ、おれ、時計なんかしてたっけ。
「ハヤトくん、腕時計、これからも大切にしてね」
はっ、と目が覚めた。これが目覚めだとわかる覚醒だった。
向かい合っていたはずのマツバがいない。咄嗟に壁時計を見ると、夕方の五時を指している。誰もいない家の、誰もいない部屋だ。警告音のように心臓の音ばかりが頭に響く。
ハヤトは自分の左手首を見た。いつのまにか止まった時計が巻きついている。跳ねるように立ち上がって、ポケギアを起動させた。
「もしもし、エンジュジムですか。あの、マツバの安否ってわかりますか?」
「本当に心配かけてごめんね。まさか下山中に滑落するとは思わなくて」
後日、コガネシティの喫茶店でマツバとハヤトは向かい合っていた。ハヤトの前には豪華なプリンアラモードが鎮座しているが、マツバの前には小さめのコーヒーカップだけだ。
「……そんなのんびりと。お前なあ」
「ハヤトくんでしょ、エンジュに連絡くれたの。すぐにレスキューが動いてくれたから、助かったよ」
「今度から限界を見定める修行もするんだな」
マツバは山籠りの帰り道で遭難しかけていたのだった。その割にはケロリとしているが、もう性分なのだから修行を控える忠告などは無駄だ。せめていつも無事で帰ってくるように言い聞かせるしかない。
せめてものお礼だと、件のコガネシティの喫茶店でご馳走になっている。数量限定だというプリンアラモードは、果物とホイップクリームで豪華に飾り付けられて美味しいが、数を絞るほどの味かは微妙だと思った。
「……今日は腕時計してくれてるんだ」
「いつもしてる」
「へえ」
「便利だから!」
マツバが花が綻ぶような笑顔をうかべるものだから、目を逸らす。
スプーンで掬ったプリンを突き出す。一人じめするものじゃない豪華さだ。
「食べ切れない。少し手伝え」
それに食らいつくマツバの顔も、やっぱり見ることは出来ないが。
穏やかに過ごす二人の時間を、ハヤトの腕時計がかちかちと刻んでいる。