重力下メルヘンロマンス!「危ない!」
ここが地上であることを忘れていたわけではなかった。しかしこの後のスケジュールにばかり意識が向かっていて、無意識レベルでの注意力が散漫だったのは否定できない。部屋を出ると同時に無重力下のように床を軽く蹴ってから、「しまった」と悟った。ぐらっと重心が傾いて、見つめていたタブレットごと床に顔面衝突…… するかと思ったが、衝撃は襲ってこなかった。
「大丈夫ですか! 頭は打ってませんか!?」
「は、はい……」
先ほど廊下に響いた叫び声――― そうだ、彼と一緒に部屋を出たのだ。
「よかった……! 貴方に何かあったら―――」
隣の男が突然間抜けにつんのめって、さぞ仰天したことだろう。前方不注意と叱られると思いきや、こちらを覗き込む表情は大事に至らなかった安堵に満ちていた。
(覗き込んで?)
今の状況、そしてコンマ数秒の間に起こった一連の出来事を、目まぐるしく脳が整理する。
前のめりになっていく自分の腕を、咄嗟に彼が掴む。
軸足を踏ん張って男二人の体重を支え、もう片方の足で膝をつき、腕を強く引いて……ぐっと腰を抱き寄せてくれた。こうして自分は今、どこも痛めることなくパートナーである彼の腕の中にいる。
(腕と肩が、痺れている……)
その筋肉がしなった後の痛みすら、激しく高鳴りだす胸の鼓動にかき消されていく。軍支給の石鹸の香りとその奥にある彼の匂いが近しく鼻腔を掠めた。ただでえ常から凛々しい佇まいが、吊り橋効果の影響で倍増され、さらに何十倍も頼もしく見えてくる。
―――まさに、今の一連の動きは、恋人の窮地に駆けつける古き童話のプリンスの如し。
「あの……アルバート。そろそろ自分で立ってもらえますか?」
生憎、ここは白亜の城でも花が咲き乱れる魔法の泉でもなく、強襲揚陸艦の中だが……そんなこと関係ない。恋人と二人きりになれば、いつだってそこがロマンスの舞台というものでは? むしろ二人の縁を強固にした艦の中なら、舞台としてお誂え向きだろう。たとえ効率重視の無機質な通路であっても。
「……―――――」
「いや、キス待ち顔してないで。」
しかし、そんな甘い空気は自分にのみ流れていたらしい。うっとりと目を瞑って首に腕を回してきた技術大尉に対し、ノイマンはすっかりいつもの仕事モードに切り替わっていた。
「無粋ですね、アーノルド。こんなの、恋人を抱きしめてキスする流れでしょう?」
「何言ってんですか、昼間から……」
「だって今の貴方、本当に頼もしくてスマートでした!あんな風にとっさに反応出来るなんて、流石は僕と違って正規の軍人ですね。惚れ直してしまいます。というか進行形で惚れ直してます」
「はいはい。光栄ですよ、ハインライン大尉。次から気をつけて下さいね」
「すみませんでした。ながら作業での移動は改めます。あとまだ二人きりなのでアルバートと呼んで下さい」
呆れた様子のノイマンだったが、床に放り出されたタブレット画面の時刻を見て青ざめる。二人はこれからミーティングに向かう所だったのだ。
「ほら、行きますよ!大尉が二人そろって遅刻してたら示しがつきません」
無理やり起こされそうな気配を感じ、「キスがまだですよ!」と迫真の表情で追いすがる。
ノイマンの生真面目さと切り替えの早さは美点であり、好ましさの一つだが、まだときめきが抜けきらない自分とっては物足りない。素っ気無さすぎる。首に回した腕をぐっと強めると、紺色の詰め襟の奥から、ぐえ、と蛙が潰れたような声が漏れた。
「嫌だっ、行かないで!僕の王子様!」
「いや、あんたも行くんですって!ほら、お仕事ですよ、でっかいお姫様!って、脚でホールドするな!」
ミレニアムにおいて指折りに優秀な男二人の、珍妙なやりとりを目撃するものがいなかったのは、ある意味組織として幸いだったのかもしれない ―――そのかわり、今にも床に縺れ込みそうな行く行かないの応酬を止める者もなく。
結果、大人げない漫才は健気に部屋から転がり出てきた球体ロボの「ハロハロ!ミーティング!五分マエ!」というアラームが響くまで続いた。