アイスクリーム「慕情」
自室での執務中、突然背後から聞こえた声に、慕情は筆を止めて溜息をついた。
「風信、なんだ。今忙しいのだが」
「ちょっと聞きたい事があるんだが」
「何だ? 用なら通霊で言えばいいだろう? 通霊では言えないようなことか?」
背を向けたまま慕情が尋ねるが、答えが返って来ない。
仕方なく振り返ると、部屋の入口に、風信が目を泳がせながら立っていた。
「なんだ。さっさと言え。私はお前と違って暇ではない」
いつもならこんな売り言葉でも食いついてくるところだが、今日は違うらしい。
「通霊で言えないような大事か? いったい……」
慕情の表情が怪訝になる。
風信は意を決したように口を開いた。
「ア……アイスクリームというのを知ってるか?!」
「……は?」
風信が大声で放った言葉に、慕情の口から思わず間抜けな声が漏れた。急いで咳払いしてから尋ねる。
「あいすくりーむ? なんだそれは? 新種の妖魔か?」
「いや、俺も良く知らないが、下界の食べ物らしい。どうやら殿下が最近、血雨探花とよく食べているらしくてな」
「そうか。で、別に彼らが何を食べようが知ったことではないが?」
慕情が眉を上げると風信は顎を撫でた。
「いや、それがどうやら、一種の氷菓子らしいのだが、原料が牛の乳だと聞いてな」
それを聞いて慕情も風信が何を考えているのかわかった。
今年は地上を異常な熱波が襲い、二人の管轄の南の地にとっても慣れない暑さが続いている。そのせいか、傷んだ食べ物が原因と思われる体調不良に襲われた信徒たちの祈願がやけに多くなっていた。死者も出ている。調べたところ、牛の乳から作ったものが原因と思われる件がいくつか見られたのだ。
「それで、まさかとは思うが、血雨探花の奴が殿下に何か企んでいるのではないかと……」
「ふん、なるほど。謝憐はアイツに警戒心が足りないからな」
「うむ。それでその……一度、どんなものか確かめてみないか?」
慕情は探るように風信を見つめた。
「で、それは旨いのか?」「わからん」
「殿下のため、か?」「ああ」
しばし無言で探り合うように視線を交わす。
「しょうがない、つきあってやる」慕情はフンと鼻を鳴らした。「準備したら行くから少し待ってろ」
殿下のためならしょうがない―。それが二人にとって体のいい言い訳になっていることに、本人たちは気づいていない。
「暑いな……。どこで手に入れられるか本当にわかるのか?」
下界に照りつける太陽の熱に、風信は手の甲で顎の下の汗を拭きながら尋ねる。
「ああ。もちろん調べた」
出発までのあの短時間で調べたのか、と風信は胸の中で密かに感嘆した。
ほどなくして、街はずれに立つ小さな店が見えた。慕情は迷わず入っていく。
ひんやりと涼しい店の中に踏み込むと、店員が愛想よく笑いかけた。店員の前には銀色のケースが並び、色とりどりの何かが入っている。
「これがアイスクリームか?」風信が覗き込むと慕情も頷く。「ああ。味が色々あるらしい」
ざっと二十はありそうなケースに風信は目を丸くした。だが、慕情は左右に素早く目を走らせると、すぐに店員に向かって桃色のを指さした。
「それは?」
「苺だ。お前はどれにするんだ?」慕情が尋ねる。
同じものを試しても意味がないのではないかと思いながら見回すが、他のものは聞きなれない単語が多く、なにが何やらわからない。
「早くしろ」「う……」
慕情がイライラと腕を組む。見かねた店員が言った。
「迷われるようなら、シンプルなバニラはいかがですか? うちのは絶品ですよ」
「ば……? あー、それで頼む」風信は急いでその提案に乗った。
店員は大きな匙でぐいと掬うと、それを薄茶色の円錐形のものに載せ、二人に渡した。
店を出ると、再び容赦ない日差しが照りつける。少し歩いたところで道端に日陰を見つけ、二人は木の下に腰をおろした。
「これが、あー、アイスク…リームというやつか」
「ふむ」
二人で手首を返しながらそれを見つめる。
「見たところ妖気は感じない」慕情が真面目な顔で言う。「食べてみないとわからないな」
慕情は口を開け、舌先で上の部分をペロリと舐めた。
風信は、思わずその光景を見つめた。
玄真将軍の舌―。
いつも顔を突き合わせて怒鳴り合いをしているはずなのに、それを見たことがあっただろうか。薄い唇から顔をだしたそれは、やけに慎ましく、いつも辛辣な言葉を紡いでいるとは信じられないほど、愛らしく見えた。
慕情が口を開き、さっきよりも大胆に舌を伸ばして、手首を捻りながら側面をゆっくりと舐めとる。しっとりと濡れた赤色の舌は、生き物のように身をくねらせ、桃色のアイスクリームを絡めとって唇の中へ消える。その一部始終を凝視していた風信の喉が思わずごくりと鳴った。
「どうした」慕情が風信を見る。
「その、お前、食べ方がやけに……」
慕情は横目で睨みながら、今度はちろりとのぞかせた舌先で端を小さく舐める。
「なんだ」
「……色っぽいぞ……」
ごくりと飲み下した慕情が目を見開く。
「はあ?! いったいお前はなにを考えているんだ!」
「いや、事実を述べたまでだ!」
「そんなくだらないことを言っている間に、さっさと食え!」
慕情が顎をしゃくる。風信は手元を見て、その表面がドロリと形を失いかけていることに気づき、自分も口元に持っていく。
「男ならもっとガブリと一気に……」
そう言いながら風信は大きく口を開けて齧り付き――
「おい! やめ……」
歯を立てた途端、前歯から脳天を何かが突き抜け、風信はその衝撃に思わず目を剥いて固まった。
「馬鹿……! っておい、お前、霊光が漏れてるっ!」慕情がぎょっとしたように叫ぶ。
しばし固まったのち、風信は喉を上下させ、大きく息を吐いた。
「氷菓子だといっただろう! この考えなしめ」慕情が言う。
風信は口を拭い、ふうと溜息をついた。「……やはり危険な食べ物かもしれ―」
「お前が阿保なだけだ」一刀両断した慕情は、呆れたようにぺろりともう一口味わう。
落ち着いてきた風信は、慕情の真似をして恐る恐る舌で舐めてみる。少しずつ食べれば、ひんやりした感触が心地よい。同時に、味わったことのない甘く濃厚ながらも、柔らかな芳香が口の中に広がる。
「……旨いな」
ちらりと横を伺うが、慕情は無言で食べている。手に持った茶色い部分の上端を、慎ましやかな前歯がパリっと砕く。
その顔に影を作る木漏れ日が揺れ、下を向いた睫毛の影も白い肌で揺れる。やっぱり腹が立つほど綺麗だ―風信はそんなことを考えずにいられなかった。
次はどこから攻めようかと思案するように慕情がくるりと手を回し、口を開け、そこで止まった。
「何をしている」
突然その視線を向けられた風信は、自分が慕情の口元を覗き込むように身を乗り出していることに気づいた。急いで体を戻す。
「何をやっているか知らんが……」言いながら慕情はかぷりともう一口頬張る。その目が風信の手元のほうへ動く。
「早く食べないと……」「ん? なんだ」
「いや、食べないと垂れ……あーあ、垂れた」
膝元に水滴が落ちるような感覚に風信は下を見た。
「わっ」
手元のアイスクリームの端がどろりと大きく溶け、下まで筋を作って流れ落ちている。慌てて舌で舐めとり、何口か続けて頬張る。突然の冷たさにむせながら横を見ると、馬鹿にしきった視線とかち合った。醜態を見せてしまったことと相まって、かっと頬が火照る。
「なんでもっとさっさと言わない!」
「は? なんで私に怒る! 言いがかりにもほどがあるだろう!」
「ふん、お前はいつだってそうだ。誰かがしくじるのを待って嘲笑うのが好きだもんな!」
「お前……!」
突然風信は額に衝撃を感じのけぞった。と同時に、何かひやりとしたものが顔を伝う。
「ははっ、お似合いだぞ。そういえば遥か西方に、そんなふうに額に角が生えた幻獣がいるらしい!」
風信は首を戻しながら額に手をやる。ずるりと落ちてきたそれを手に取って見ると慕情がさっきまで食べていたものだ。牛の角の先っぽのようなそれをぐっと握りつぶす。気が付いた時には、もう片方の手が動いていた。
「……!」
今度は慕情の方が後ろに大きく体勢を崩した。
風信の口からゲラゲラと笑い声が響く。
「ははははは、玄真将軍もその幻獣になれるんじゃないか?」
慕情が顔を怒らせ、自らの額に着地したものを掴んで地面に投げ捨てる。
「この野郎…………!」
玄真将軍としては珍しい罵り言葉が響く。大口を開けて笑い続けていた風信は、慕情の顔を見て、突然笑うのをやめた。
紅く上気した慕情の顔を、トロリとした乳白色のものがゆっくり流れ落ちていく。
「なんだ……!! クソっ、笑いたければ笑うがいいだろう!!」
突然表情を変えた風信に慕情が噛みつく。風信は目の前の光景に、頬と体が火照りだすのを感じ、目を背けた。
「あー、慕情、すまない……。その、悪かった。とりあえず顔を拭け……」
突然の謝罪に、怒りに任せて昇っていた階段の段が突然消えたかのように慕情が固まった。「その……」風信はちらっと慕情を見る。
「いったい何……」顔を拭った手元を慕情が見る。
「ちょっと、煽情的すぎる……」
その言葉に、みるみるうちに慕情の顔が頭から湯気が出そうなほど赤くなった。
「貴様……! この変態将軍!!」
その言葉の威力に思わず身を固くした風信が怒鳴り返そうとした時、突然後ろから呑気な声が聞こえた。
「君たち、食べ物を粗末にするのは感心しないな」
二人はぎょっとして振り向いた。
「殿下!」「謝憐!」
笠の下で柔和な笑みを浮かべた人物が手をあげる。
「にぎやかな声が聞こえたから来てみたらやっぱり君たちか。あ、三郎はいないから心配しないで」
「別に心配なんてしてません!」慕情が目を剥く。
謝憐は道衣の袖をごそごそと探ると、紙に包まれた円錐形のものを二つ取り出した。
「まったく。このアイスクリーム、代わりに食べるかい?」
二人の目が彼の手元と袖を行き来した。
「あなたの袖の中は、氷菓子も保管できるんですか?」風信が言う。
「ああ。そんなに溶けてはいないと思う」と言いながら、謝憐は包みの上の方を少し開けて覗き込んだ。
「あー、なんかちょっと紫色になっているけど。いや、葡萄味だったかな」
差し出されたものを一瞥したのち、風信と慕情は同時に叫んだ。
「いりません!!」
一瞬で消えた二人のあと、残された謝憐は小さく溜息をつき、苦笑いを浮かべながら、舞う砂埃を手で払った。
『慕情』
執務中に入った通霊に、慕情は小さく溜息をついた。「なんだ、風信」
『また、別の場所に新しいやつが現れたらしい』
「今度はいったいどういうやつだ?」
しばし沈黙があったあと、返答が返ってきた。
『ポッピング…トリプルデライト…ウィズチェリー』
いかにも紙を読み上げている口調に慕情は笑いを噛み殺す。
「お前にしてはよく言えたな。で、等級は?」
『絶…品らしい。上にさくらんぼをのせてくれるらしいぞ』
「なるほど?」
しばらく間をとってから、慕情は立ち上がり、袖をひらりと翻した。
「信者たちに危険を及ぼすものでないか、確認してみなければならないな」
『うむ。では下界で待っている』
すぐに返ってきたのは明らかに弾んだ声だった。
南の武神たちは近頃、地上に現れる新種の妖魔奇怪の調査に余念がないらしい―。そんな噂がたっているなど、当の本人たちは夢にも思っていなかった。