いい肉の日「すみませんでした……」
クリップボードにペンを走らせながら、風信は隣で項垂れる南風にちらりと目をやった。しんと静まり返った操縦席。たまに遠くの滑走路のエンジン音が聞こえてくる。
「別に謝る必要はない」
「でも……弱気になってしまって」
初めて着陸を任される時は、誰しも緊張するものだ。
天気の変わりやすい地の空港で、雨と若干の横風という理想的とは言えない状況。着陸体勢に入ったところで、大丈夫かと聞かれた南風は操縦桿を握りながら思わず首を振ってしまった。
「途中で投げ出すなんて、パイロット失格だ」
「誰でも初めは怖いものだ。無茶をするよりよっぽどいい」
だが、南風の首は垂れたままだ。
「俺の初めての時なんて──」風信が胸ポケットにペンをしまう。「車輪が出なかった」
「えっ」ようやく南風が顔を上げる。「だ、大丈夫だったんですか?」
「いや、パニックになった」
「風信機長がパニックに⁈ 想像できません」
「ああ、悪態をつきまくって──」
「ああ、なるほど──」
そこは納得するのかと風信が笑う。
「どうしたんですか、それで」南風が急いで言う。
「ん? 機長がなんとか色々試して出したよ」
なんとか落ち着きは取り戻した副操縦士を信じて経験を積ませるべきか否か、あの時の機長はどんな気持ちだったんだろう、としばし風信は思いを巡らす。結局あの日、着陸の操縦桿を握ったのは風信ではなかった。
沈黙を誤解した南風の首がまた下を向く。風信は横目でそれを見て髪に手をやった。
自信を失わせてしまっただろか。天候が怪しくなった時点で、最初から自分が操縦桿を取るべきだったか。いつも判断を迷い、そして決断した後もウジウジと考え込んでしまう癖はなかなか治らない。
風信は立ち上がりブレザーを取って肩にかけると、座ったままの南風の頭をクシャッと撫でた。
「落ち込むな。また次がある」
「……はい」
だが南風が立ちあがろうとしないのを見て風信は言った。
「戻りは明後日だな。明日の夜、美味しい肉でも食いに行くか?」
その言葉に、南風はくるっと振り向いた。
「は、はいっ!」
さっきまでの落ち込みようがウソのような顔の輝きに風信は思わず苦笑した。
「早いな。待たせたか?」
「いえ!」
次の日の夕方、待ち合わせの場所に現れた風信に南風は勢いよく首を振った。
「楽しみだったので。あ、今日は朝から何も食べてません」
「えっ……!」
キラキラとした目で見上げる南風に思わず風信は絶句した。思わず眉間を揉む。
「お前な……。ここからちょっと歩くが大丈夫か?」
「はい!」
苦笑いしながら一つため息をついて風信が歩き出し、南風も追いかける。
南陽航空の本拠地から遥か北のこの街は寒い。その上、冷たい風が容赦なく吹きつける。南風の隣を歩く風信の茶色のロングコートは見るからに上質で触り心地が良さそうで、触ってみたい気持ちを南風はぐっと堪えた。
「さ、寒い、で、すね」
飛行機に乗った時はまだシャツ一枚でよかったから、つい薄いコートで来てしまったのだ。
その途端、カタカタと歯を鳴らす南風の目の前に、すっと赤いものが現れた。
「つけなさい」
「えっ」南風は驚きながら受け取った。見間違いでなければ、それはさっきまで風信の首に巻かれていたマフラーだ。
「いいから。パイロットは体が資本だ。風邪をひかれたら困る」
「で、でも、機長は」
「俺はこれくらいなら慣れてる」
ありがとうございますとモゴモゴ言いながら、南風はそっとそれを首に巻いた。ふわっと微かに機長の匂いがして、さっきまで風に切られるようだった頬が熱く感じた南風は俯いた。隣を歩く靴が見える。あらためて、二人きりで食事に向かっていることを実感して南風の心が踊る。
「なんか……」
南風が言うと、ん?と風信が横を見る。
「デートみたいですね、機長!」
「は……⁉︎」思わず風信が大きな声を出すと、浮かれて出た言葉に南風自身も顔を赤らめた。
「す、すみません、機長、つい……!」
風信は咳払いすると言った。
「と、とりあえず、街中で機長と呼ぶのはやめろ」
南風が機長と言うたびにすれ違う人の視線を感じていた風信が言う。
「えっと、じゃあなんて呼べば」
「別に名前でいい」
南風がごくりと唾を飲み込む。
「風信…さん…?」
南風の低い声で呼ばれ、なぜか目の前にさっきの「デート」という言葉が過った風信の頬がほんのりと赤くなる。この部下と自分は声がよく似ているとよく言われるが、自分はこんなに良い声はしていないだろ、と思いながら風信はうなじに手を当てる。
そんな風信の様子をちらりと伺った南風は、心の中で微笑んだ。隙のない機長も、たまになんだか可愛い時がある……絶対に口には出来ないその不敬な気持ちを、南風はそっと心にしまい込んだ。
しばらく歩いたところで、風信が足を止めた。
「ここだ」
店先の看板に描かれた動物を南風は見つめた。
「……羊?」
「そうだ。いいか南風、肉というのは牛ばかりではない」
そう言いながら風信が店のドアを開けた。
店内に一歩足を踏み入れると、外とは別世界のような暖かな空気が二人を迎え入れた。
テーブルに向かい合って座る。
「ラムは苦手か?」風信が尋ねる。
「い、いえ、食べれますが、その…匂いが」
その顔を見て風信はにやりと笑った。
「まあ見てろ。この本場のを食べたら驚くぞ」
「このあたりの北の地域ではよく食べるらしいですよね。やっぱり味が違うんですか」
南風の言葉に答えるように、ほどなく赤い生肉が山盛りになった皿が運ばれてきた。南風が思わず目を輝かせる。テーブルの真ん中に置かれた鉄板に店員が肉を並べると、賑やかな音が弾け、油が飛び跳ねる。その様子に南風の腹がぐぅぅぅと盛大に声を上げた。
風信が笑いながら肉をひっくり返す。
「腹ペコだろうがもう少し待て」
ぐっと腹を抱えて待ちながら、南風はくんくんと匂いを嗅いだ。何か気づいたように眉根が寄る。だが南風が口を開く前に、風信はさっと肉を皿に入れ南風に渡した。南風は急いで受け取り、そしてぱくりと口に入れた。
もぐもぐと咀嚼する南風を風信が見つめる。
南風はごくりと飲み込むと目を丸くした。
「これ、ほんとにラムですか?」
「ああ」
「全然臭みがない……!」
南風の言葉に風信も嬉しそうに笑いながら、自分の皿にも肉をとった。
「だろう? 俺も最初驚いた。今の時代、飛行機で数時間で輸送できるのに、こんなに違うものなのかってな」
「すごいですね」
「ここの店は特に旨いんだ」風信が笑う。「この辺が本拠地の明光航空あるだろ? あそこの裴機長に教えてもらったんだが──」
「裴機長とお知り合いなんですか?」南風が目を丸くする。
「まあ、研修とかで顔を合わせるからな。お前も知ってるのか?」
「ええまぁ噂はいろいろ……」
空港ある街に裴機長の恋人あり。そんなふうに囁かれているのは風信も知っている。
「パイロットとしては有能なんだがな」と風信が苦笑いする。
「そうかもしれませんが……。知ってます? この間誰かが言ってたんですが、なんか雑誌のモデルもやったりしてるらしいですよ」
「モデル?」
「はい。航空雑誌のパイロットの一週間特集、みたいなやつ」
なんだそういう事か、と風信がふっと笑う。
「そういうのなのなら、俺も若い頃にやったことがあるぞ」
そう言った風信は、その瞬間後悔した。
「そ、それはどの雑誌の何年の何号ですか⁈」
目を輝かせてぐぐぐっと前に乗り出した南風に、思わず風信は身を引いた。
「さ、さあ、覚えてないが……」
「会社の資料室で探してみます!!」
うう、と風信は思わず小さくうめいた。
「見つけても他の奴に見せて回るなよ……」
「はい!」
やけに元気の良い返事に風信は疑わしげな視線を投げた。
店内の暖房と鉄板の熱で、二人の顔はほんのり上気している。風信はくるくるとシャツの袖を捲り上げ、箸で鉄板の肉と野菜を軽く揺すった。
南風はじっとその腕を見つめた。いつも横で操縦桿を握る逞しい腕。その信頼感と安心感にどれだけ助けられているだろう。それに比べて自分はどんなに頼りないことか、と南風は自分の腕をちらりと見て言った。
「俺は、機ちょ……風信さんみたいなパイロットになれるんでしょうか」
風信は一瞬手を止めたが、すぐにまた続けた。
「いや」
風信のその言葉に南風の眉が下がる。
「俺なんかよりもっといいパイロットになれる」
いとも簡単に答える風信に、南風が訝しげな視線を返す。
「でも俺は、いつも大事なとこで弱気になるんです」
「思い切りも必要だが、臆病さも同じくらい必要だ」言いながら風信は肉の端を持ち上げて焼き加減を確認し、また戻した。
「少なくともお前は、自分が何百人もの命を背負って飛んでるってことを忘れたりはしない──決して。そういう奴は立派なパイロットになる」
南風の視界が霞む。「なんか煙が……」急いで目をごしごし擦る南風に気づかないかのように、風信は手振りで皿をだすように促した。南風が急いで皿を出すと風信が手早く載せていく。
「このラムのソーセージも絶品だぞ」
「あ、ありがとうございます」肉を受け取ったところで、南風がすっと皿を引いた。
「あっ」風信の箸からネギが鉄板に落ちた。
「どうした、ネギ、嫌いなのか?」
「う……はい、野菜はあんまり」
おいおいと風信は苦笑しながら首を振る。
「このネギは食べないと後悔するぞ」
そう言って風信は焼き目のついた太いネギをもう一度箸で摘んだ。「ほら、口を開けろ」
南風の口の前にずいっとネギが突き出される。その目が、ネギと、笑みを浮かべる風信の顔を忙しく往復したあと、南風はそっと口を開けた。
ぽんと放り込まれたネギを観念したように咀嚼していた南風の顔が、みるみるうちに緩む。
「旨いだろ」風信がにやっと笑うと南風は無言で頷いた。「ここのネギはメロンより甘いんだ」
風信も鉄板から肉とネギをとり、ふーふーと吹きながら口に運ぶ。
「はぁ、こんなに美味しい肉初めてです」
なんとも幸せそうな顔で口を動かす南風を風信は見つめた。有能な若い副操縦士が子犬のように可愛く見えて、風信は自分が何か不埒なことを考えているのではないかと急いで自分の心を諌めようとした。
だが、滑走路を走り出した飛行機のように、その気持ちは、もはや止めることなどできないのだ。
この若者は、これからたくさんの初めてを味わうのだろう。願わくば、その時そこに自分も居合わせられたら──そう思うにとどめ、風信は目の前の姿を真似るように、肉を口に放り込んだ。