自分でもおかしいという自覚はある。
「キャプテン?」
隣の副操縦士の視線に我に返る。
「あ……失礼。そうだな、その場合は少し高めの高度をリクエストして——」
急いで頭をフライトに戻す。
その見慣れた姿が横を通っていく前に感じたのは、いうなれば一種の気配のようなものだった。
パイロットとして勘が鋭い自信はある。だが、運行中のそれとは違うものだった。
通っていった横顔は、その予感通り南風だった。南風は、斜め前のパソコンの前に立った。やってきたキャプテンと確認を始めるその後ろ姿を、見るともなく視界のすみに捉えてしまう。キャプテンが頷く。どうやら、いつも通り有能にこなしているらしい。教官でもないのに、どこか誇らしく感じてしまう自分に驚く。
だが、ブリーフィング中に他のことを考えてしまうなど、機長として、いやパイロットとしてあるまじきことだ。同時に複数のことに注意を向ける訓練は、こんな時のためではない。雑念を頭からふるい落とし、副操縦士と自分のフライトにすべての注意を向けた。
「じゃあそろそろ行こうか」「はい」
鞄を手に取り、ほんの一瞬、まだ打ち合わせ中の南風をちらりと見る。
安全な運行を——心の中でそっとその後ろ姿に手を振った。
なぜ、目ざとく見つけてしまうのだろう。
出張らしきスーツの客で混雑しているターミナルの通路。それなのに、まるで吸い寄せられたかのように、遥か先からやってくる南風に気づいてしまうなんて。なまじ視力がいいだけに、南風の表情まで捉えてしまう。一緒に歩いている話し好きなキャプテンに一生懸命話を合わせているらしい。聞こえなかったのか、南風がぐっとキャプテンの口元に顔を寄せる。
なぜか急に胸がどきりとして、そのことが自分を焦らせる。二人は次第に近づいてくる。
何を構えているんだ。いつものようにさりげなく笑いかけてすれ違うだけじゃないか。
距離は随分縮まっていたが、南風はこちらには気づいていない。
いつも目ざとく自分を見つけてくるのに。まさか、と考えがよぎる。——ひょっとして気づかないふりをしているのだろうか。自分がこんなふうに彼を見ていることに、気づかれているのだろうか。思わず目を伏せる。もしそうなら、釈明などできない。
その時ちょうど一緒に歩いていた副操縦士が声をかけてきたのでそちらを見た。特にどうでもいい雑談だったが、まるで重要な会話のようにそちらに注意を向ける。
二機の距離はもう、腕を翼のように広げれば指先が触れるほどの間隔しかない。
間を誰かが通っていき、次の瞬間にはもう二人は掠ることもなくすれ違っていた。
自分はなんて臆病で姑息なんだろう。俯いたまま、通り過ぎていったその後悔から離れようと床を蹴る足先を見つめた。
こんなことではいけない。機長として、フライトシャツに身を包んでいるときは、その責任を自覚して、浮ついたことなどしていてはいけないのだ。更衣室で私服に着替えながら考える。
ロッカーの扉を閉め、溜息をつきながら額を扉に預ける。静かな部屋に、ゴンと音が響く。
「どうかされましたか?」ぬっとロッカーの列の端から顔をのぞかせたのは、よく知らない若いパイロットだ。
「大丈夫、なんでもない」ぎこちなく笑う。
一瞬、思ってしまった——南風かと。だが、南風だったらなんなんだ。
南風が現れたら、暖かい太陽の光が窓から差し込んだ時のような気持ちになっていただろう。
だがそれでいいのか。どの副操縦士とも平等に接しないといけないだろう?
手で軽く頬を叩き、鞄を肩にかけた。
人生とは皮肉なものだ。飛び回っている者同士、数か月も見かけないことも多いのに、こんな時に限って、なぜか南風がいる場所に行きあってしまう。
地上勤務の日、長引いた会議を終えてやっと昼食にしようと食堂に入ると、耳が聞きなれた声を拾った。昼休みを終えて戻る社員も多くざわついているのに、だ。離れたテーブルで南風が他の若手社員たちと談笑している。
「これ新商品だってさ。一個、食べてみろって」
「えー、いまお腹いっぱいだし。いらない」
南風が菓子らしき箱を振って見せている。だが相手は興味がないらしい。
「クッキー一個じゃん。ほんとに美味しいぜ」と南風が言っても、「へえ、そう」とペットボトルを傾けるだけだ。
「そろそろ戻らないと」彼の声に南風も腕時計を見る。テーブルから立ち上がりながら南風がつかんだ菓子の箱を、鷹のような目でじっと見つめている自分がいた。
今度買ってみようか。そう思いながら見つめていた菓子のパッケージはやけに頭にこびりついていたらしい。
「お、風信」
その日コンビニの棚を前に考え込んでいると、ポンと肩を叩かれた。研修の頃に仲良くなった同僚だ。
「どうかしたのか?」「え?」
「いやあ、お前が菓子の棚をそんなふうに凝視してるときは、なんか悩んでる時だろ」
「別に凝視なんて……」
「そのイケメンな顔でそんなに見つめたらチョコバーが溶けるからやめろよ。で、何悩んでるんだ?」
お前には関係ないだろ、と軽く小突く。まさか、ある後輩のことがやけに気になってしまって云々なんて相談出来るわけがない。なんとなく手に取っていたチョコレートバーを戻す。その時隣の棚の菓子が目に止まった。
このクッキーの箱は、この間の——。気が付くと、すっとその商品を手に取っていた。
調べものをしようと資料室へ行き、自習用のブースが並ぶエリアをのぞく。今日はすいている。席をとろうと少し入ったところで足が止まった。静かな寝息が聞こえる。
ブースの机に突っ伏して寝息を立てている姿。くしゃりと乱れた黒髪。腕に預けた横顔。顔の横に投げ出されているネームホルダーを見なくてもわかるその姿。
気が付くとその寝顔を覗き込んでいた。そっと周りを伺うが誰もいない。
誰もいない? なぜそんなことを気にする?
何もやましいことなんてしない、そうだろう?と頭の中で自分の顎をぐいと掴んで睨みつける。
見つめたその顔には疲れが浮かんでいる。副操縦士にとって毎日は疲労との闘いだ。日々の業務をぬって、勉強をすることは常に山ほどある。見えないところでするその努力は容易ではない。
誰が見ていなくても、自分は見ている——お前がどれだけ頑張っているか見ているから。
そう言いたかった。でも自分になんの権利があってそんな偉そうなことを言えるのだろう。そもそも、南風がそれを望んでいるのかどうかなんてわからないのに。
椅子の背から半分落ちかけているブレザーをそっとその肩にかける。
「頑張っているな」
耳元でそっと囁く。突っ伏した南風の下敷きになっている資料が目に入った。まだ自分たちは飛ばない空港のデータだ。
南風はちゃんと前を見て、これからの未来を見て進んでいる。
そうだ、先輩パイロットとして、機長として仕事中に自分が見せるべきは、その可愛さに呆けている顔ではなく、頼れる背中だ。しっかりしなければと背筋が伸びる。
南風の眉間がぴくりと動いたのを見て、顔をさっと離す。そしてそそくさと部屋を出た。
だいぶ遠くまで行ってから、調べものをしようと思っていたことを思い出した。いったい何をやっているんだと首を振る。まあいい、ジムにでも寄って汗を流して帰ろう。体を動かせばこんな気の迷いは消えるだろう。そうすればまたいつも通り接することができるはずだ。一緒に飛べるように、若い彼に負けないだけの体も維持しなければ。
オフィスのエントランスを出ると、目の前の夕暮れの空を一機の飛行機が一直線に飛んでいった。