自分でもおかしいという自覚はある。
たまに、不意に感じとってしまうのだ——風信機長の気配を。
その日もそうだった。フライト前、ブリーフィングに向かうために廊下を歩いていると、不意に感じた。数分前に風信機長が通った気配を。
部屋に入った途端に見つけた。テーブルの前に立ってコンピューターの画面を前に副操縦士とフライトの確認をしている後ろ姿を。あの長い脚とがっしりした肩と腕、少し明るい色の髪、南風にとっては見間違うことのない後ろ姿。
向こうもブリーフィングの真っ最中だ。声はかけず横を通り過ぎ、そして斜め前の席のコンピューターのスイッチを入れる。いつも通り、気象状況やルートの確認をする。時折後ろから漏れ聞こえる風信機長の声に気を取られないようにしながら。同乗するキャプテンが現れ、一緒に今日のフライトの確認が始まった。
いつもより、少し背筋が伸びる。
風信機長が自分を見ているはずはないとわかっている。向こうも自分のフライトに集中しているはずだ。だが自分も集中しながらも、背中で、後ろにいる存在を意識してしまう。調べた状況を報告しフライトプランの話をする時、いつもより自信を持ってハキハキと説明している自分がいる。
確認が終わり、さあ行こうかと振り向いた時には、もう後ろの席に風信機長の姿はなかった。
だが、いかなる時も南風のレーダーが敏感に反応するわけではない。
「そういえばキミ、知ってる? あそこの空港は実は——」
その日は、話し好きのキャプテンに相づちを打ちながら、長い空港のターミナルを歩いていた。聞き流しているとすぐにバレるので、人込みでざわつく中で必死に耳を傾けていた南風は、ほんの数メートル先から歩いてくる風信機長に突然気づいた。向こうも別のパイロットと話している。すれ違う時に、南風は軽く会釈した。隣のキャプテンも気づき、向こうに軽く手を上げる。
だが、風信機長たちは気づかなかったのか、そのまま通り過ぎていった。
キャプテンは何事もなかったかのように、また話を続けた。だがその言葉は、枯れ葉を舞いあげる秋風のように南風の胸を吹き抜けていった。
別に気づかないことくらいあるだろ——そう自分に言い聞かせながら歩く。だが、引いているフライトバッグが急に重くなったような気がした。
馬鹿バカしいとわかっている。そんなふうに些細なことで心を掻き乱されるなんて。
それに、そんな心の乱れが操縦に繋がったりしたら冗談では済まされないことも。
「今日はフラップ操作がちょっと遅かったな。お前にしては珍しい」
その日同乗したキャプテンにフライト後にそう言われた時、背中に氷水を流されたような気がした。顔が引きつった南風を見て、向こうのほうが慌てて「いや、あれくらいなら別に問題じゃない。気にするな」とフォローする。フライト中は集中していたつもりだったのに。もう絶対こんなことはないようにしなければ、と奥歯を噛みしめた。
だが皮肉なもので、意識しないようにしようと思うほど、風信機長の姿を見つけてしまうのだ。
空港のコンビニに昼食を買いに来た南風は、店の手前五メートルほどのところで立ち止まった。コンビニといっても棚が一列ある程度の小さな店舗だ。風信機長が菓子の棚の前で商品を見つめている。南風は、さりげなく斜め向かいの店の柱の影から様子を伺った。
風信機長はじっと立ち止まったまま、ずいぶん悩んでいる。一つの商品を手に取ると、じっと裏を見る。体に気を遣う機長らしく、カロリーか原材料でも見ているのだろうか。
と、そのとき、店にやってきた男性が風信機長の肩をぽんと叩いた。南風は良く知らないが同僚だろうか。仲の良い感じで何やら談笑している。風信機長は彼を軽く小突き、話しながらさっき見ていた商品を棚に戻した。そして別の商品を手にとるとレジの方へ行った。
一緒に店を出ていく二人を見送った南風は、コンビニへ向かった。風信機長が買っていった菓子を手に取る。これは南風も少し前に買って気に入った新商品のクッキーだ。同期の仲間にも美味しさを力説したのに、残念ながら「へえ、そう」と流されただけだった。
風信機長なら同意してくれるだろうか。いや同意してくれなくたっていい。同じものを選んだというだけで、なにやら顔が緩む。それを持ってレジへ向かおうとしたところで、ふと立ち止まった。風信機長が買おうとしてやめたほう——それはチョコレートバーだった。気が付くと、そちらにも手を伸ばしていた。
一度は風信機長の手に取られたにも関わらず、選んでもらえなかったチョコレートバー。
棚の並びの一個違いで惜しくも風信機長に買ってもらえなかったクッキー。
両手に持った菓子にそんな感傷の情を抱いてしまうなんて、どうかしている。
オフィスに戻りながら、昼食を買うのを忘れていたことに気づいた。冷静になれと自分に言い聞かせる。なんなんだろう、自分を狂わせているこの得体の知れないモノは。
今までだって、ずっと風信機長のことは好きだった。でも最近の自分は、抗い難いほどにその存在を意識してしまっている。
心の中で、どうしようもなく機長を求めている自分がいる。
駄々っ子のように、風信機長に自分を見てほしい、ただ自分を見ていてほしい、と。
だが、見てもらうなら、頑張っているところを見てもらわなければ。そのためには、一層自分を磨いて、一生懸命頑張るしかない。
決意をこめた足取りでオフィスに戻る。午後は資料室で勉強でもしよう。勉強をしていれば、こんな訳の分からない気の迷いなど忘れてしまえるだろう。幸いにもまだまだ勉強することは山ほどあるのだ。