そわそわと幾度となく確認した携帯電話の画面は沈黙している。小さく息を吐き、のろのろと帰り支度を始めた扶揺は、後ろから声をかけられて振り返った。
「ああ、扶揺、まだいたか」
疲れた顔でやってきたのは少し年上の副操縦士だ。
「今到着ですか? 遅かったですね。慕情機長とのフライトでしたよね」
「ああ」
彼の顔の疲労感が濃くなる。
「なんか南陽航空の飛行機が滑走路から出る時にミスったとかで着陸が渋滞して、上でぐるぐる待機だよ」大きくため息をつく。
「おかげで慕情機長のご機嫌は最悪。待たされると機嫌悪くなるけど、今日は過去に類を見ないほど苛ついてた」
へぇ、と適当な返事を返す扶揺に彼が言う。
「で、そんな慕情機長からお呼び出しだぞ、扶揺」
彼の気の毒そうな表情には隠しきれない好奇心が見え隠れしている。
「会議室1Aで待っているようにお前に伝えろとさ。お前、何をやらかしたんだ?」
さぁと肩をすくめた扶揺の全く動揺していない様子はいささか拍子抜けだったらしい。口の端を上げて言い足す。
「そういうわけで、今の機長は成長しきった積乱雲並みだぜ。お前も運が悪いな」絶対に突っ込んでいってはいけない──回避一択。
「何したか知らんが、こってり絞られるぞ」
もはや彼の顔は面白がる様子を隠していない。優秀な扶揺に対するやっかみが若手の中にない訳ではないことくらい扶揺も知っている。
扶揺は少し考え、そして小さく肩をすくめた。
「こってり、ですか……まぁ確かに。たっぷり絞られるかもしれませんね」
「お前、そんな他人事みたいに──」
怪訝な顔をする彼を残して扶揺はカバンを持って部屋を出た。
廊下を歩いていく扶揺の足取りは軽かった──鬼のような機嫌の機長に呼び出されているとは思えないほどに。その顔には抑えきれない笑みすら浮かんでいる。
慕情機長が覚えていてくれたとは。
それは少し前のことだった。
「中南米料理、ですか?」
「ああ」
その日突然慕情機長の口から出た言葉に扶揺は瞬きした。
「なかなか旨いらしい」
「意外ですね。機長はオシャレなフランス料理とかのほうがお好きかと」
「私もたまには変わったものも食べたいからな。だが肉やら結構こってりとしてて量が多そうだから、底なしに食べる若い奴と一緒に行ったほうが心置きなく色々頼める。来るか?」
そう聞かれて迷う余地など1ミクロンもない。
「はい!」
扶揺の返事を待つ間でもないとばかりに慕情機長はスケジュールを確認している。二人のスケジュールが合う日としてあがったのが今日の夜だったのだ。
だがそれ以降、慕情機長からは特に連絡もなかった。その日に行くと取り決めたとも言えない会話を思い出し、扶揺は半ば諦めていたのだった。
だがどうやら慕情機長はそのつもりだったらしい。
なかなか着陸出来ない状況に苛立っていたのは、扶揺との約束──といっていいのかわからないが──があったからだろうか、などと思うと思わず口が緩む。まあ、原因が南陽航空だったこともあるだろうが。
待ち合わせを他人に言付けるあたりの素っ気なさも慕情機長らしい。もし扶揺が帰ってしまっていても、しょうがないと肩をすくめるだけなのだろう。だが、そんなドライさが扶揺にはまた堪らないのだ。慕情機長が運に任せようとするなら、しっかりとそれを掴みにいく準備はある。
無人の会議室1Aに入る。ここは一階の駐車場側エントランスに一番近い。真夏の暑さを感じる今日この頃。暑い出入り口で立って待たせない気遣いなのかもしれないと、そんな憶測を巡らす。
駐車場──慕情機長の運転する車に乗って一緒にドライブする情景を思い浮かべた扶揺は、思わず椅子にぐっと背を押し付けた。そうしないと体が浮き上がりそうだった。
慕情機長の車で店まで行って、一緒に食事の皿を囲むのだ。
中南米あたりの料理というとライムとかじゃなかっただろうか。慕情機長の綺麗な指が料理にライムを絞る様子を想像する。たっぷりと絞るのを。
扶揺の妄想はドアが開く音で途切れた。
「扶揺」
部屋に扶揺がいるのを見て、慕情機長の憮然とした顔が一瞬緩んだ。瞬きすれば見落としてしまいそうなほどの一瞬。だが扶揺はしっかりとそれを見逃さなかった。
「待たせたな。いくか」
ぞんざいに上げた機長の手に握られた車のキーをちらりと見て、扶揺はさっと立ち上がった。
「まったく、南陽航空のド阿呆のせいで……」
早速始まった愚痴も、扶揺の耳には心地よいそよ風にしか感じなかった。