開演を待つオペラハウスはざわざわと落ち着きがない。これから始まる夢物語への期待に満ちたまなざしが、閉ざされた幕へ注がれている。現実と夢の狭間のこの時間を、観客は思い思いに過ごしていた。
男はその様子を上階の桟敷席から見ている。開演まで今しばらく。この喧騒を子守歌に仮眠でも取ろうかと座席に深く腰掛けたその時だった。
「ちょいと失礼するぜ」
その声と共に、ひょいと桟敷に顔を覗かせる人物。桟敷の主はちらと視線だけを返した。
「ここは私が予約した座席のはずだが」
「そんなつれないこと言うなって」
闖入者は我が物顔で向かい側に腰を下ろす。我が物顔――それもそのはず、この劇場のオーナーは彼なのだ。
職務中の姿ではなく、座席の値段に見合ったスーツ姿だというのに何故、私が居ることがわかったのか。愚問である。彼の所有する劇場の座席を正規の手段で入手したならば、その情報は彼に筒抜けだ。顧客のプライバシーなど知ったことではないのである。そして彼には素顔が割れている。それを承知の上で、今日のこの座席を予約したのだ。
バスティオンは文句の一つやふたつ言ってやりたい気持ちをため息に乗せて、桟敷の中で居住まいを正す。
「それで、何の用だ」
「別に何でもねぇよ。お気に入りの女優の舞台だって言うんで気にかけていたら、帳簿に親友の名前を見かけて挨拶しにきただけさ」
煙に巻くようなヴェルストラの答えは半分は真実だろう。
彼は一大工業企業の最高経営責任者を務める傍ら、趣味でこのような文化施設を所有している。のんびりとオペラや管弦楽を鑑賞する暇などないはずだが、意外にも芸術に精通している。何でも、女性を振り向かせるためには教養も必要だからだというのだが、単純に好きなのだろう。舞台へ向ける澄んだまなざしは、一階席の観客と違わない。
「おーい、そこの。ああ、君だ。この席にシャンパンを」
ヴェルストラは桟敷から通路へ顔を出し、スタッフを呼びつける。ほどなくしてシャンパンが運ばれてきた。
「Prosit」
グラスを合わせ、今日という日に乾杯する。その音頭を合図にしたかのように舞台の幕が上がった。
物語は舞踏会から始まる。華やかな空間に馴染めない男は、しばらくの後、妻の美しさを語り始める。その妻役が、ヴェルストラのお気に入りの女優だろう。
その名を冠した彼の最新作が思い起こされる。アレがグレートネイチャー総合大学で起こした騒動にはバスティオンも頭を痛めた。
「悪いが、もうひと悶着起きそうだ」
バスティオンの心を読んだかのように、ヴェルストラは呟いた。その視線は舞台に注がれており、傍から見ればただ舞台の感想だったかもしれない。
「その断りを入れるために今日はわざわざ?」
「そうかもな」
世間を騒がせることに、いちいち詫びなど入れる男ではない。乾いた笑いは、それが真意ではない証拠だ。
この男は法を犯そうとも、世界の安寧を脅かすことはしない。でなければ、規律を順守する立場である自分が友であり続けることは不可能だ。バスティオンはそう思い直し、しばらくは静観することにした。
身近な人物がもう一人、同じ宿命に巻き込まれようとしていることを、彼はまだ知らない。