ヴェルディア族の青年・クインに請われてユグドラシルに訪れたマーリン一行は、遂にその本懐を遂げて流光の樹の浄化に成功した。
当初は汚染を除去する方法を探るべく行動する筈だったが、遺跡山脈から逃れて来た難民との遭遇に始まり、ヴェルディア領内の勢力争いやブラックゴールド商会の暗躍など想定外の事態が重なって、その解決には時間を要した。
結果的に言えば、影で商会と手を組んで永遠の命を欲した賢者イミルは死に、新たな為政者として年若いライカが選ばれるなど世代交代が進んだ形である。聡明な彼女のことだ、これからは勢力に関わらず無用な争いを起こさないよう、手を取り合って森を守るための良き指導者となることだろう。
──さて、マーリンが森の若者たちとユグドラシル中を駆け回っている間、聖石町から共に訪れていた騎士・ヴァレンは難民たちの救助に一役買っていた。怪我の手当て、物資の補給、汚染によって凶暴化したグブリンの対処。戦場慣れしている彼にこそ熟せた重要な役割である。封鎖令が解かれ、聖石町のホーガン将軍からの救援物資や船の手配なども整い、ようやくお役御免と言ったところらしい。
マーリンが全てを終えてヴァレンの居るキャンプへ顔を出すと、彼は少し疲れた笑みで片手を上げてくれた。その姿を見てふっと肩から力が抜けたように感じたのは気のせいではない。記憶のない今のメイジにとって、この騎士は帰るべき場所である聖石町を想起させる──…つまりは安心の象徴であったので。
「お互い大変だったな」
「うん。…無事に過ごせていたかい」
「まぁ、なんとかね。俺も君もこうして生きてる、それで充分さ…あ、少し待っててくれるか」
マーリンの労いに軽く笑って見せると、ヴァレンはそのままキャンプの難民たちへ挨拶に回り始めた。人たらしな所のある彼は極限状態にある難民たちとも上手くコミュニケーションが取れていたらしい。すぐに囲まれて老若男女問わず別れを惜しまれていた、相変わらずのコミュ力オバケぶりである。
「待たせたな、メイジ様。行こうか」
そんなヴァレンが戻るのは自分の居る場所なのだと言うことに、いつの間にか優越感を覚えているのは見当違いな感情なのだろう。それはあくまでホーガンが彼に掛けた命を解くまでの一時的なものだと分かってはいる。
(…まぁ、僕のものには違いないが)
そんなこんなもありつつ、二人と使い魔の二匹でキャンプから埠頭までの道を緩やかに進めば、見送るために待ってくれていたらしいこれまで旅路を共にしたクインやエルロンに別れの挨拶を貰った。彼らに軽く手を振れば、マーリンたちは久方ぶりの小船に辿り着く。
「メイジ様」
「ありがとう」
先に船に乗ったヴァレンが当然のように手を差し出してくれたので、片手を乗せてエスコートを受けた。それを見て目を輝かせているメイメイに気付いてか、少し笑った後に騎士は片膝を付いて彼女にも手を差し出す。
「お手をどうぞ、レディ」
「まっ……マスターに仕える騎士ならこれくらいは当然ですっ」
「ハイハイ、承知しましたよ」
結局ローブを纏った小さなハムスターは船着場との段差を自力で飛び越えるのが厳しかったので、ヴァレンは彼女を優しく抱き上げて船に乗せた(ちなみにロンロンはとうの昔に自分で飛び乗っている)。この騎士は少し気難しいところのある自らの使い魔たちの扱いが上手で有難い。
それぞれが腰を落ち着けたのを確認すると、水夫のフィシェルが出港の合図。もう随分と居たような心地になる大樹の領域から、長閑な辺境の町へ帰る時が来たのだ。
穏やかな気候の中、磯の香りと乾いた風がふわりと髪を揺らす。時折波が出て大きく揺れるが、なだらかな流れに乗った船はのんびりと進んだ。それに目を細めながら、ようやく気の休まってきたマーリンは、隣に掛けるヴァレンと暫くぶりにゆっくり話したいような心境になっている。
思えば共に旅をしたヴェルディアの諸君は優しく聡明な人たちだったけれど、幼馴染同士故に元からの結束が強過ぎて部外者であるメイジは言いようの無い疎外感を味わうことが多かったのだ。問題を解決しようと森に深入りする度に、逆に難解になって行く現実にも頭を抱えて、ここにヴァレンがいてくれたらと思ったのは一度や二度ではなかった。
そして今ようやくそれらから解放されて、隣には再会を待ち侘びた騎士がいる。普段は冷静な心持ちが少しばかり浮くのは誤魔化しようがなく、マーリンは早速と彼に話を振った。
「ヴァレン、コリンさんと森の奥に行った後の話なのだけどね、」
「……うん?」
反応には思いがけず間があって、おやと思う。知らず顔を覗き込んでハッとした。いつの間にやら顔色を悪くしたヴァレンが背中をやや丸め、口元を押さえているのが見えて眉が下がる。
「…そうだった、船が苦手だったね君は」
「…苦手と言うわけではないんだが…ぅ、」
思えばクインの案内で聖石町から船で移動した時、この騎士は船酔いのあまり朝食べたものを戻してしまっていた。前日に酒を飲み過ぎるなどしたわけでも無さそうだったので、単純に船と相性が良くないのだろう。今の様子を見てそれを思い出したマーリンは、いつもならぴしゃりと伸びている筈の背をやんわりと撫でてやった。このことを覚えていたら、酔い止めの煎じ薬を用意しておいたのにと小さな後悔に苛まれつつ。
「気持ち悪いなら吐いてしまうと良い」
「わわ、ヴァレンさん、大丈夫ですか!?」
「また船酔いですか?ヴァレンさんたら、マスターを守る騎士なのに情けないですよっ」
主人の言葉を聞いた使い魔たちがそれぞれに反応を見せた。純粋に心配したロンロンはともかく、少しキツい態度を取るメイメイには窘める言葉を掛けておく。
「メイメイ、こればかりは体質なんだから優しくしてあげなさい」
「マ、マスター…」
彼女は〝マーリンの使い魔〟であることを誇りに思う余り、時折相手を選ばず不遜なことを言うきらいがあった。いつもなら放っておくが、今はそれを振り翳す時ではない。幸い素直な使い魔はパッと姿勢を正してごめんなさいとヴァレンに頭を下げた。それに何とも言えない笑みでいいよ、と頷いた彼は、しかしすぐに眉を寄せて胸元を抑える仕草。これはいよいよかもしれない、そう考えてマーリンは優しく背中を撫で摩りながらもう一度促した。
「ヴァレン、我慢は良くない。僕たちは気にしないから」
「…まだ、平気だよ。……あぁ、でもそれ、」
「うん?」
何か気になることがあるようで、小首を傾げて見せれば辛そうにはしながらもヴァレンが薄く笑む。
「背中、撫でてくれるの…すこし、楽になるな」
そう言ってふっと長い睫毛を伏せるその様を間近に見て、メイジはしばらく固まった。
ヴァレンはなかなか弱味を見せない男だ。彼にとってマーリンは護衛対象、そんな相手に不安を抱かせるような振る舞いをするのは言語道断であるし、単純に素直でない元からの性格故のものもあるのかもしれない。だからこそ今初めて弱ったヴァレンと言うものを目の当たりにしたマーリンは、何とも形容し難い複雑な思いに駆られていた。
辛そうな顔を見て、ぎゅうと胸が絞られるような切なさに似た何かを覚える。早く良くなって欲しいと思うような気持ち、出来るなら代わってあげたいと祈るような気持ち。これは、恐らくだけれど。
「……不思議な気分だ、とても君を守ってあげたい気がする」
マーリンの胸に沸いたのは、親が子に思う心に似た庇護欲と呼んで差し支えないものだった。おかしな話だ、今自分は正にこのヴァレンに守られる存在であると言うのに。
きっとそれを聞いた騎士も同じことを思ったのだろう。伏せていた睫毛を持ち上げてこちらを見たかと思えば、揶揄うような表情を浮かべて唇を釣り上げる。
「…おいおい、騎士を守るメイジがどこにいるんだよ」
「ここ?」
「ハハ、随分近くにおられたもっゔ、」
「ヴァレン、」
いつもの話口に安堵し掛ける間もなく、またヴァレンが口元を押さえて唸った。咄嗟に顔を覗き込んで再び背中を柔く擦ってやると、少々の間の後に大丈夫と手で制される。しかし何やら思うところがあったのか、こちらをちらりと見るアメジストの瞳。思わず見つめ返した時、ふらりと隣の身体が傾いてぎょっとする。
「ヴァレ、」
呼び掛けたその瞬間、ぽすんと軽い音を立てて左の肩口に寄せられる頭。驚く間にも少しだけ体重が掛かり、背に触れたままの手に力を込めると深く息を吐く気配。ふわりと香ったのはこの騎士が好んで纏う香水のそれ。
「今は、……その言葉に甘えるよ。少しだけ休ませてくれ」
「………、」
溜息混ざりの擦れた声は小さかった。すり、と収まりの良い場所を探すようにして動いた頭が止まり、濃い茶髪の先がマーリンの唇に触れてしまいそうな程寄って。
(………なんだ。また胸が絞られるような、)
先程感じたあの感覚が再び蘇る。知らず持ち上がる空いた手が自らの胸を押さえるが、何も変わらない。ヴァレンの知らない一面を見る度湧くこの感覚はなんだろう。長寿のマーリンにとっては子ども同然の年頃の彼相手だから、知らぬ間に親心に近い何かを抱いているのだろうか。しかしこれは、真の意味で自らの子どものような存在である使い魔たちには覚えたことのない感情だ。
(…心当たりはないでもないが…)
思考の末、脳裏によぎったとある感情の名前。名付けてしまえば簡単なのだろうが、どうにもそうするのは癪に感じてしまうメイジである。何故ならば自分がこの騎士からその感情を向けられていないことを知っているからだ。
──人恋しい夜、時折熱を分け合うことのある二人だけれどそこに重苦しい感情はなかった。キスもセックスもするが愛を囁くことはないし、事が終わればピロートークすらなく眠るようなこざっぱりした馴れ合い。都合よく側にいる性欲処理の相手、今の二人の関係性はそれ以上でも以下でもなかった。なんなら長寿故に特定の連れ合いを作らないマーリンにとって、それは一夜の慰めの相手として当然の付き合い方ですらあったのだ。ただ、最近の自分がヴァレンのことを余程気に入っているらしいのは、流石に自覚もあるし無視できなくなってきた。
(……ヴァレンがもっと僕に惚れ込んでくれたら、考えないでもないけど)
そこは残念と言うべきか、今のところ彼にその気配はない。身体の関係を持った後もこの騎士の態度は一つも変わらず、付かず離れずの距離感を保ち続けた。そんな反応を有難く思う反面、今となってはそれを甘んじて受けていたのは悪手だったとも思う。そもそもこうして体調不良でもないと弱みなんて決して見せなかっただろうし。
(まぁでも、今はまだこのままで構わない)
隣にいて、どさくさ紛れに触れることを許され、ある程度の信頼も貰えている。親友とまでは行かずとも、友人の一人くらいには思ってくれているのではなかろうか。であれば、脈の一つや二つあると期待して良いはずだ。
(……悔しいなぁ。どうしてこの僕がこんなに気を揉まなきゃいけないんだ)
いろいろ考える内、ただ夜を共にしたいと思っていただけの相手に振り回されていることに気付いてマーリンは知らずムッとする。しかし此方の様子を気に掛ける余裕などないだろうヴァレンはいつになく静かで、そんな様を目の当たりにすればちっぽけな自尊心はみるみる内に萎んだ。
(…早く向こう岸に着いて、ヴァレンに元気になってもらわないことには話にならない)
言いたいことは胸に仕舞って、稀代のメイジは少し丸まった背中を摩る。それに反応したヴァレンが軽く吐息を溢すのが分かって、また先程の感覚が湧くのを感じて思わず空を仰いだ。雲一つない今日の空は快晴。まるでこの心とは逆で恨めしくなりながら、ゆったりと波に乗るこの船がぴたりと動きを止めるその瞬間を、マーリンはただ待った。