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    にょ水族館

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    にょ水族館

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     ヤシャ君が退所した。
     普段から彼は度々少年院から姿を消すことがあった。理由は体調不良や外での特別活動など様々……だったが、僕はヤシャ君の不在の理由がそうではないことをこの檻の中でただ一人だけ知っていた。
     廊下を歩いていたある日、彼が潜入捜査というものに度々同行していることを盗み聞いたのだ。詳しいことは何も分からない、ただひとつ言えるのは、潜入捜査である以上それは隠さなければいけない事実だということだ。
     だから僕は彼が、僕の命よりも大切なヤシャ君が外へ出る度に、胸が張り裂けるくらいの不安な気持ちを押し込めて、かわりにただ無事でいられるようにと祈っていたのだった。
     そんな彼が少年院を出たきり帰ってこなくなったのはもう半年も前のことだ。これまでこれほどの期間帰って来ないことは無かった。
     それに、いつも彼と一緒にいなくなるはずの担当教官……ツキ先生はヤシャ君のことをしつこく質問した僕にあっさりと彼が退所したことを告げ、何気ない顔でそこに立っている。

    「……ありえない」
     考えるより先に、口が開いていた。
    「そんなの、ありえません。僕より罪の重いヤシャ君が……先に退所するなんて」
     先生は面食らうように目を丸くするが、すぐに口を開く。
    「そういうのは状況や入所中の態度によっても変わってくるものなんだよ」
    「でも……」
    「あまり他の子のことは話しちゃいけない決まりになってるから、これ以上は言えない」
     反論を遮る先生の言葉に肩を落とし、僕は項垂れるように地面を見つめる。
    「ヤシャ君とよく話してたし気になる気持ちもわかるけどさ、必要以上に踏み込まないっていうのも君たちを守るための大切なルールだから」
    「……わかりました」
     諭すように肩を優しく叩かれる。
     僕はざらついた地面の凹凸を追うように見つめながら、ふと、ヤシャ君はもうこの世界にいないのだと思った。
     潜入捜査、とやらがどれほど危険なものなのか僕は知らない。捜査を終え檻の中に帰ってくる彼はいつも、何も無かったかのように飄々として心配の言葉を投げかける僕を気だるそうに見つめるばかりだったから。

     昼食の時間になった。僕は食堂までの道のりをぼうっとしながら歩く。
     柔らかい靴底が地面に擦れる足音が響いて、そういえば彼も底の厚いスニーカーを履いていたと思い出した。
     平均より十数センチも低い身長を誰よりも気にしていた彼。先生に何とか頼み込んで誕生日に厚底の靴を買ってもらったのだと得意げに話していた。
     それから前より少しだけ背丈の高くなった彼の背中を、僕はいつも目で追いかけていた。
     僕より早いスピードで歩く彼に追いつくため駆け足になると、彼は振り返ってこちらを怪訝そうに見つめた。
     たまにそのまま僕の近くに寄って、今日のメニューはなにかとか、この後の授業で必要なものはなにかだとか、適当な話を振ってくれた。
     それが、そのまま踊りだしちゃいそうなくらい嬉しい反面、僕のせいで彼の気持ちを奪っているような気がしてなんだか落ち着かなかった。
     足音が立たないよう、底の硬い靴から上靴に変えたのはそれからだ。

     いつもの席について、何列か前の、彼のいるはずだった席を眺める。一匹狼という言葉がぴったりの彼の日常は誰よりも静かで落ち着いていて、触れればひんやりしている。
     料理が運ばれてくれば、普段は丸まっている背中をぴんと伸ばして号令を待っていた。
     カレーの匂いが立ち上る。彼の一番好きなメニューだ。いただきますの声は誰よりも小さいけど、料理に手をつけるスピードは誰よりも早い。あっという間に平らげると、気分の良さそうに小さく鼻歌を歌いながら食堂を出ていく。そんな彼の後ろ姿を僕はただ見つめて、微笑む。
     一口口に運ぶ。……辛い。いつもよりずっと。
     昼休み、僕は彼の彼らしさを奪わないよう、相変わらず物陰からひっそり眺めている。
     ひとりで球を蹴っていたり、たまに誰かに誘われてチーム戦をしていたり、ただただ座って光を浴びていたり。どんな瞬間も彼らしさに溢れている。
     物陰にいる僕に気づいて彼が近づいてくると、僕は偶然を装ってふいっと目線を逸らした。
    「なにしてんの」
    「んー、することが無いからぼんやりしてたよ」
    「ふーん」
     優しい彼は気づいていない振りをして気の抜けた返事をする。ベンチへ座り直すとその場で立ちすくむ僕にもう一度目線をやり隣を軽く叩く。
     昼休みが終わるまで天気のこととか最近読んだ本のこととか他愛ない話をして、話題が尽きたらまた空へ目線を戻す。いつもは落ち着かないはずの空白の時間が、彼と一緒にいれば何よりも心地よかった。
    「ねえ」
     僕は雲を指さす。
    「あれ、カレーの形に似てない?」
    「どこがだよ。てかカレーの形ってなんだよ」
     彼は強い口調で一蹴するが、視線をやれば小さく口角が上がっている。覗く八重歯が可愛くて、その顔を見たいがためにいつも適当な冗談を投げかけてしまう。

     更生プログラムが終わり、消灯の時間になる。静まり返った部屋の中で、僕は今日の彼をぽつぽつと思い出す。
     しかし、半年前からは過去の彼を思い出す時間になってしまった。
     日に当たってやわらかく光る桜色の髪色を思い出す。透き通った宝石のような瞳を思い出す。俊敏に動く華奢で引き締まった体を思い出す。食事を口いっぱいに頬張り丸くなった頬を思い出す。他の子と掴み合いの喧嘩になって悔しそうに涙を流す表情を思い出す。
     だけどなにより、思い切り口を開け豪快に笑う彼を思い出すといつも心がきゅっとなった。
     最後の捜査はどうだったかな?辛かった?苦しかった?嘘をつくのが苦手な君は、どれほどの重大な秘密をその細い肩に背負っていたの?
     君に聞きたいことがまだまだたくさんある。
     鼻の奥がつんとして誤魔化すように目を閉じる。
     恵まれない境遇で育ち、大人たちの都合に巻き込まれ、それでも最後まで自分を見失わないで抗い続けた君。何よりも愛する君。
     脳裏にその姿を思い描いて、震える手をただ静かに合わせた。
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