室町時代の医療(城と軍贔屓)南蛮医学と当時の日本の医学って外科か内科かってところだけど、じゃあ実際のところ南蛮医学ってどの程度だったの?と思ってメモを出してみたら、南蛮の内科は漢方よりも50歩100歩遅れてるって書かれてるけど、調べ直したら裏付けを見つけられませんでしたので、ここはなんとなく頭に入れておいてください。
ちなみに「漢方」という名前をつけたのは日本です。
後に蘭学が入ってきた時に「蘭からきた医学=蘭方」と区別するために「漢からきた医学=漢方」になったそう。
・ものすごい古い時代から生薬の研究をしてた漢方医学では薬学が発展して、内科的な治療は積極的に出来たけど、外科的なものも内服で済ますし、流石に外科治療を内服のみとなると時間もかかるので…南蛮から来た宣教師の持ち込んだ腫れ物の外科手術は画期的だし、目に見えてすぐに治療が済むからと大人気になりました。
しかしこの場合の腫れ物ってなんなんだろう。
良性腫瘍か悪性か…そういうものかな、こぶとりじいさんのこぶみたいなやつなのかしら。
・医者=僧が基本で、僧はお弟子さんを取って医学を教えていました。(比叡山の薬樹院等)
そこから徐々に、医者が医者を育てる時代に変わっていきます。
・室町時代まだ行われてなかった駆血(現代でわかりやすく言うと、採血の時に血を止める様な、あえて血流を止める処置)も南蛮医学入って来て、徐々にされるようになったと思います。
ただそうそうなかったかと。
※江戸時代になると、駆血を行なっていたらしい記述が出てくる。
・安土桃山時代…あたりには南蛮医師の影響かアルコール消毒(焼酎)とか駆血の概念が少しずつ出て来ています
※南蛮医師から伝えられたのはアラキ酒(椰子を発酵、蒸留した酒で、アルコール度数は20〜40度)、ポルトガル油(オリーブオイル)、マンテイカ(ラード)などがある
※日本にある記録のなかで蒸留酒が作られていたと出てくるのは1546年(天文15年)
南蛮貿易商が薩摩の山川に米によって作られた焼酎があるという記録を残してる。
・それまでは(江戸に入る前は)、例えば戦で仲間に矢が刺さった時、押さえつけたり木に縛ったりして、とりあえず矢を無理やり抜いていました。
そりゃ血も吹き出るだろうし、気も失うから「気付薬」がたくさん作られたんだろうって感じですね。
・南蛮での内科的な治療で代表的だったのが漢方にもある瀉血と、漢方にはない浣腸。
浣腸は「怪しげな治療」って描かれてるから当時としては何それ??って感じだったんだろうか。
西洋人は肉食だから、便秘が多くて行われていたそう。今じゃ日本でもよく知られてる所の話じゃない。
瀉血は「悪い血を体外に出す」という概念で、鍼灸やった事ある人は知ってるかもしれませんが、吸い玉を使って血を皮膚に集めて、それに針を刺して血を抜いてました。
・包帯の概念が今と違い、直接布に薬を塗って貼り付けるのが主流でした。(塗布ってここから来てるのでは?と思う私でした)
・軟膏に使われるごま油の製造方法は分かっていない。資料が残っていない為、この時代どのように油が作られていたかは謎。
・城ではお抱えの侍医団がいたり、有名な医者を招いたりして治療してもらいます。まだ室町時代は宗教と医学が分離し始めた頃なので、祈祷に頼る事もあったと思います。もちろん時代が下がっても祈祷に頼ることはありました。
・戦の最中は金創医として働く医者もいましたが、医者の数は多くないため、応急処置は自分達で行なっていました。その家(大名等)によって流派が違ったり、特有の処方や処置、治療法があり、その中には全く効果のないものや、なんでそれを使おうと思ったんだ?というものもありました。(馬糞等)
・戦の最中は薬も確保していましたが(小荷駄隊が運んでいたのかな?)、もちろん不足するので、薬草の知識が必要でした。
・腕のいい医者の治療を受けられたのは権力者(大名や大商人)で、他は自分達で治療していました。民間療法がどんどん増えていきます。特に女陰に対するものも多くあり、これは「穢れに穢れをぶつける」事が目的だと思われます。
火傷治療にはこの女陰に関する民間療法が数多くあります。女性は毎月血を流すので穢れの対象でしたが、火の神はこの穢れを嫌うため…呪術的な意味合いがあったと言われています。
各地方に女陰に関する民間治療が存在しています。
この女陰と火に関する迷信は、東京大空襲の頃まで存在しています。(火を払うために女性の赤い腰巻きを振り回す等)
悪いものに悪いものをぶつける、という意味では、馬糞汁を塗る、飲ませるも理にかなっていたのかも。
・忍術学園の薬箪笥は異常なほど薬が多い。
なかなかあそこまで揃えるのは難しいんじゃないかと。医者ですら商人から珍しい薬が入ったら買ったりしていましたが、いい薬は高いので試しにちょっと買う感じ。
・アニメで伊作が自腹で「珍しい薬」と言って買い付けていたのは「枸杞子」という枸杞の実の漢方薬で、杞菊地黄丸に使われています。お粥とか杏仁豆腐の上に乗ってる赤い実です。目の症状、眩暈、腎の不調に用いますが、「それ、いるか?」という感じ。ただ彼がそうやって沢山薬を買うからこそあそこの医務室は潤っているのかも知れない。
他にも留三郎が大怪我して包帯まみれになった(色んな人の心をくすぐったあの姿)
原因となった薬、「サルココシカケ」は霊芝で、「マンネンダケ」と言います。(サルノコシカケ科マンネンダケ)
アニメでは「健胃だから〜」と説明がありましたが、一応鎮痛剤としても使えます。血圧、鎮痛、鎮咳(抗ヒスタミン)等…
この時代ではまだその扱いだったのかも知れない。
効能が多いきのこなので他は割愛。
味はすごく苦くて渋いです。良薬口に苦し。
土井先生飲んだ方がいい。
・田代三喜という人物が中国に渡り、李東垣、朱丹渓が主導していた医学(李朱医学)を12年間学んだ後、帰国。
曲直瀬道三はそれを継いで、後に京都で啓迪院という医療を学ぶ為の学校を設立しています。
ここから、先ほどの「医者が医者を育てる時代」がやってきます。
医者が医者を育てるという仕組みを確立したのは大きな功績でした。
宗教と医療の分離にもつながりました。
・その後、李朱医学と南蛮医学を統合しようと医者も切支丹になったりしましたが、秀吉の追放令などもあり、棄教せざるを得なくなった医者もいました。
※秀吉は側近の医者、施薬院全宗を使って施薬院(民間人の為の期間限定無料の医療機関)を設立していたので、海外の人間に無料で治療されたら自分の有り難みがなくなる事も気にしていたのかも。(知らんけど)