夜の静けさの中、よく手入れされたアンティークの鏡台の前に腰をかける。
銀の髪が瀑布のように肩から流れ落ち、月の光を受けて淡くきらめいている。指先に櫛を取り、ひと筋ひと筋を丁寧に梳いていく。
味を感じる事ができない。
お気に入りだった店のケーキを口に運んでも、味がしない。柔らかなスポンジやなめらかなクリームはまるで粘土を噛んでいるようだった。口の中でどろりと重たく、土のような無機質な感触が広がる。クリームはべっとりと舌に絡みつき、苺の果肉はただの湿った塊にすぎない。噛んでも、飲み込んでも、味はどこにもない。
眠る事ができない。
いくら目を瞑っても、意識が遠のく気配はない。寝返りをうってはため息をつき、再び目を閉じる。そんな眠りの真似事を随分繰り返してきた。
ヒトの営みは、気づけばほとんど手からこぼれ落ちてしまった。
けれど髪だけは、なお伸び続ける。
「……まだ、私は、人間でいられている」
小さく呟いた声は、鏡の向こうの自分へ宛てた祈りのようにも感じられた。
絡まった毛先をほどき、艶を取り戻すように手櫛で撫でる。指の腹に感じるわずかなざらつきさえも、確かな「生」を教えてくれる。
もしかしたら、それはただの自己暗示なのかもしれない。
けれどこの長い髪を失えば、自分はもう完全に「人」ではなくなる気がして、私は櫛を握る手に力をこめる。
鏡に映る顔は、少し疲れているようにも、必死に笑みを保とうとしているようにも見えた。
それでも私は櫛を動かし続ける。人間である証を、最後まで手放さぬように。