蟲の道夏になるとライオスは無性にわくわくしてしまって、それは多分、故郷では夏というものは本当に短かったからだと思うのだった。
シュローの故国に来てから、こんな夏もあるのか、とライオスは思った。
湿気で遠い山並みが青紫に霞み、陽炎が白っぽい砂の畦道に立つ。そんな、田園の風景は、ライオスの異国情緒を掻き立てる。
夜になれば、田園の中にある、二人が貸し受けた離れは田んぼからの風が涼しくて、カエルの大合唱が聞こえた。
カエルを狙って蛇が来る。それを気味悪いと思ったが、シュローは笑って水神の遣いだと言っていた。
寝巻きはユカタという奇妙な着物で、ライオスには、キモノとどう違うのか区別が付かない。
カヤと呼ばれるテントを張って、カという吸血虫から守られて眠るのは不思議な気分だった。
今朝もライオスはユカタをはだけさせながら目を覚まして、ラジオ体操をしているシュローを眺めていた。
ワ国で、ライオスはスケッチをしていた。目に映る全てのものは不思議で珍しくて、ライオスは全てを覚えていたくてスケッチブックを買った。
そこに馴染んでいるシュローは、自分が知るシュローではないみたいにも見えて、何だか遠いみたいで、思わず引き寄せたりもした。
昨日はナツマツリに行った。
露店が並び、ミコシという物が道を通り、人々は楽しそうで、ハナビというものが空に打ち上げられた。ユカタを来た異邦人であるライオスは物珍しげに見られた。
人々の髪は黒く、目も黒曜の黒をしていて、それがライオスには美しく映った。人々は皆、礼儀正しく控えめで、全然違う世界に来てしまったみたいな感覚をライオスは覚えた。
「暑いな、昼は素麺でも食べようか」
と、シュローは庭のトマトを採りながらライオスに話しかける。
「ソーメン?」
ライオスはエンガワに座って尋ねた。
隣では、カを追い払うためのカトリセンコウが焚いてある。
「汁のあるパスタというか…うーん、とりあえず出してやる」
海外暮らしが長いシュローは、久々の帰郷に、それとなく張り切っているように見えた。ライオスに、色々なことを教えたくて仕方がないのだろう。
ワ国に来て一週間、ライオスは色々なところに連れ回された。
シュローの出た学校や、よく勉強していた図書館とか。観光名所ではない場所を見るのが、ライオスも気に入った。ここの人々の暮らしを垣間見れるのが、とても楽しかった。
「きっと俺は、そのソーメンっていうの、気にいると思う…今度は、ファリンも連れてきたいなぁ」
鶏が庭を闊歩している。最初はよく突かれていたが、一回犬の真似をして威嚇してからはそれも無くなった。
シュローはその鶏の卵を取りながら、これも入れよう、錦糸卵にして盛り付ける、と言った。
ライオスには田を流れる水の音が聞こえた。耳に快かった。
低いテーブルの前に胡座をかく。
シュローのように、なかなか正座ができない。
シュローが玄関から上がってきて、長靴の底に付いた泥を落とす音が聞こえる。
しばらくすると、生地の薄いタンクトップのような服を着たシュローが上がってきた。ランニングというそれを着ているシュローは、白い肩が露わになり、首筋にライオスが付けた跡が残っている。ライオスは、慌てて目を逸らした。
「朝はパンとトマトだ。ベーコンもあるぞ」
シュローは採りたてのトマトを卓に置く。
シュロー自身は、朝は食欲がないのか、トマトだけ、塩を振って自分の皿に置いた。
「「いただきます」」
手を合わせて頂く。
不意に周囲の木の建材の温もりを感じて、ライオスは優しい気分になる。
よくできたものだ、とライオスは思う。
こう湿気が多いと、木の、よくしなる性質や水分を含む性質が、建材には持ってこいだ。ワ国の人々の生活の知恵を、ライオスはひしひしと感じていた。
パンにバターを塗り、ベーコンを挟んだ。
ワ国は、近代に於いて急速に異国の文化を吸収したと聞く。こんなものを食べられるのも、その恩恵か。
「あ」
と、シュローが微かな声を上げた。
「どうしたんだ?」
「素麺がない。買いに行かないと」
多分、スーパーと呼ばれるストアに行くのだろう。ここから畦道を歩いて三十分くらいのところにそれがあったな、と、ライオスは思う。
「スケッチブックが足りなくなったから、一緒に行ってもいいか?」
「ぜひに。ちょうど、トイレットペーパーなども買い出したかったから手伝ってくれ」
「わかった、運ぶの手伝うよ」
「暑くなる前に行こう」
ラジオを聞きながら朝食を終え、外に出る。
ライオスはTシャツ、シュローはランニングの上から半袖のYシャツを着ていた。
もう日は高く登っていて、蝉の声が聞こえる。
まだ、草木には露が付いていて、風も涼しかった。
家の門を閉めると、二人は歩き出した。
畦道の横には用水路があり、ちょろちょろと水が流れている。
その、土が剥き出しになった、舗装されていない小川を、小さな魚が泳いでいる。メダカというのだと、ライオスはシュローに教わった。
空は雲一つなく、青くて、そこをギンヤンマがスイスイと飛んでいく。
それを見ながら、ライオスは早速出てきた汗を拭った。
隣を見るとシュローは髪を団子のようにまとめていて、白いハンカチで額を拭いていた。
遠くには蜃気楼が沸いていた。
青い山並みにぼんやりと霧が掛かって、全てが夢の中のように見える。
幻想的な風景に、ライオスは見惚れた。
ワイシャツを着たシュローは涼やかで、その風景の中に溶け込んでいた。
立ち上る土の匂いを嗅ぎながら、この牧歌的な風景を、ずっと忘れずにいようとライオスは思った。
「うわっ」
ライオスの足元をでっかいバッタが跳んでいく。飛び上がったライオスを見て、シュローがクスリと笑った。
「気を付けろよ、ライオス」
「ふ…びっくりしたよ」
水田には青々とした稲が茂っている。
そこを、蛇がゆうゆうと泳いで行った。
「そういえば」
と、ライオスが言う。
「蛇って漢字には、虫偏が付いてるだろう?虫じゃないのにどうしてかな」
「それは」
とシュローが答える。
「気持ち悪いものには虫偏が付くからじゃないか?蛸も蠍もそうだから」
「虫偏はcreepyってことかな 」
「彼らは気持ち悪いけれど神秘的でもあるからな、どうだか」
「虫って、不思議なモノって意味なのかな」
「お前は学者肌だな」
そんなことを言いながらスーパーに着いた二人は、冷房にホッとしながらカートを取った。
「シュローって家ではランニング一枚なのにどうして外出る時はワイシャツ着るんだ?」
「この辺でそんな格好でふらついていたらよく思われないからな」
「そっか…帰り、アイス食べながら帰らないか?」
「…特別だぞ」
シュローはカートに素麺と牛乳とグレープフルーツを入れていく。ライオスは、バラ売りされているカップコーンのソフトクリーム・チーズケーキ味を入れた。
「あ、あと、めんつゆ」
シュローは同じくバラ売りのあずきバーを籠に入れて、それからめんつゆを取りに戻る。
スーパーの中には生魚のコーナーもあって、ライオスは最初来た時は驚いたが、今は見慣れた気分だった。
海洋国家なせいか、ワ国の住人は生魚が好きである。
「シュロー、これ食べたい」
と、戻ってきたシュローにライオスはスイカを示して見せる。
「庭の畑で採れるから。たしか、よく育ったやつがあったな」
「じゃあ、これは買ってもいいか?」
と、生魚が小さくしたご飯に乗ってるものを指差す。スシというらしい。
「夜食べるか?あと欲しいものは?」
「バケツアイス」
「…そんなものはないし、あっても買わせない」
腹を壊したいのか、とシュローはライオスに言ったが、ライオスはこの国の低カロリーな食事に物足りなさを感じていたので、スシのサーモンにアボカドとマヨネーズを載せよう、と考えていて、あまりよく聞いてはいなかった。
次に、生活必需品を買う。
トイレットペーパーに、サランラップ、麦茶のパックなどをシュローがカートに入れていると、ライオスがサイダーのペットボトルを持ってきた。
「小さいのにしておけ。2リットルも飲まないだろう」
「多分、飲むよ」
などと言うから、シュローはそれもカートに入れた。
最後に、スケッチブックと鉛筆を買って、店をでた。
シュローは固いものから順に、丁寧に二つのエコバッグに品物を入れて、軽い方をライオスに持たせる。
ライオスは、バッグからアイスを取り出して、あずきバーの方をシュローに渡した。
外に出ると、少し暑くなっていた。
アイスを食べながらまた、田んぼ道を引き返す。
二人の周りで、蝉が鳴き始めていた。
「セミが鳴くと、なんだか油で熱されてるみたいなみたいな気分になる」
ライオスがポツリと言った。
「そうだな、油が煮えたぎる音に似ている」
と、シュローも同意した。
「今日は何をするんだ?」
色々連れて行ってもらって、ライオスは明日も何かあるのかと思っていた。
「明日は特に決めてない。お前が行きたいところへ行こう」
「じゃあ、一日家にいたいな。鶏をスケッチするよ」
「そうか。」
ライオスは、この風景を丸ごと描きたいと思っていた。
あずきバーを齧って、シュローがぼんやりと遠くを見ている。ふと思って、ライオスは尋ねた。
「髪、切らないのか?暑いだろう」
すると、シュローは恥ずかしそうに目を逸らして、言った。
「お前がこの長さが好きだと言うから、伸ばしてるんだ」
確かに、ライオスはシュローの髪の手触りが好きだった。
長い髪を梳いている夜明け前の時間とかが好きで、そんなことを言った気がした。
家に帰ると、シュローはワイシャツを脱いで盥を出してきた。
「なんだそれ」
「行水と言って、水を浴びるのに使うんだ」
「シャワーじゃないのか」
「汗を流すだけだから」
と、シュローは縁側の側に盥を置き、庭のホースで水を出して、服を脱いで行水を始めた。
「ワ国ってよくわからないな…外にランニングで行くのはダメなのに、庭で真っ裸になるのはいいのか…」
シュローは行水を終えると、使った水を庭の畑に撒いていた。
「お前も入るか?」
「シャワー浴びてくるよ」
ライオスは、外で裸になるのは気が引けて、浴室へ行った。
その途中で扇風機を付ける。
まだ、冷房を入れるほどは暑くはなかった。
田んぼの真ん中にあるこの一軒家は、水田からの風でそれなりに涼しい。
今日は部屋からスケッチをしたいな、とライオスは思って、浴室に入る。
浴槽の片隅にコップに入った歯ブラシが二つ。
それすら愛おしい。
シュローと一緒に生きている事実に、いつも心が潤う。
服を脱いで汗を流し、浴衣に着替えた。
着付けは難しいが、さらりとした手触りのその服を、ライオスは気に入っていた。
翌日を出ると、シュローもまた、家に上がって来ていた。
ランニングに薄いズボンという楽な出立ちで、冷蔵庫の前で麦茶を飲んでいる。
空のコップがもう一つ、台所に置いてある。
「麦茶を飲むか?それとも、炭酸がいいか?」
「麦茶にするよ」
喉が本当にカラカラな時は、甘いものを飲むと却って喉が渇く。
シュローはコップに氷と麦茶を入れて、ライオスに渡してくれた。
「ありがとう」
ライオスは居間に行って、座って麦茶を飲んだ。麦酒は飲んだことがあったが、麦茶はこの国に来て知った。
シュローも二杯目の麦茶を持って来て座って、ラジオを付けた。その髪がまだ濡れていて、何かいい匂いがする。多分、シュローが髪に塗っている椿油だろうとライオスは思った。
ライオスは麦茶を飲みながら、スケッチを始める。
庭の様子を事細かに描く。
刈られた芝生の上を、鶏が二、三羽散歩している。ワ国の鶏は強かった。田んぼの蛙が来て、蛙を狙って蛇が来る。その蛇を、毒があろうと殺して啄んでしまう。コカトリスを思い出すような強靭な嘴に、ライオスも何度か啄まれていた。
ライオスは、絵に色も塗ろう、と思う。シュローから借りた絵の具箱が側にあった。シュローの祖父が晩年使っていたというこの、小さな離れには、祖父が愛したものが沢山あって、シュローはそれが落ち着くのだと言う。
シュローを横目で見ると、籐椅子に腰掛けて、何やら難しそうな本を読んでいた。祖父が遺した文学全集だった。
本棚に、青い布を張った表紙が、金の文字をたたえてずらりと並んでいた。
他にも、キジという鳥の羽とか、鹿の角で作ったパイプとか、手彫りの木の梟とか、色々なものがあった。多分、シュローのお爺さんの収集物なのだろうなとライオスは思う。シュローの祖父は絵も描いていたようで、絵の具も祖父の遺物だった。
多趣味な人だったんだろうな、とライオスは思う。写真も見たが、シュローと少し似た面差しの、少しシュローよりも気の強そうな、きりりとした美青年で、晩年は穏やかで優しそうな顔になっていた。
「シュロー、君の祖父はどんな人だった?」
思わず聞いてしまう。
「うーん…晩年の祖父しか知らないが…少し頑固で、洒落者で、美食家だったな」
読んでいた本を閉じて、シュローが過去に思いを馳せる。
「そうか…俺の祖父母は、早くに亡くなっていて、あまりよく覚えてない。確か、祖母とザリガニパーティをしたのは覚えてる」
「ザリガニパーティ?」
「俺の故郷ではザリガニを食べるんだ。祖母が、俺とファリンに山盛りに茹でてくれた」
「そうか。…俺の祖父母は…親戚内で一番早く生まれた俺を特別に可愛がってくれてな。小学校の進学祝いに、学習机をくれたり、小さい頃はよく連れ回してもらったよ。俺が中学に入る頃、祖母が、高校を卒業する頃に祖父が亡くなったけれどな。トシユキなどは、ほぼ祖父母との思い出がないだろう。かわいそうに」
「…ファリンも思い出ないだろうなぁ…祖父は俺が小さい頃に亡くなっていて、祖母は、確か俺が七歳の時に亡くなったよ。お葬式の時、俺はまだ、みんなが泣いているわけがわからなかった。」
「そうか…祖父は、枯れ葉みたいな匂いがしたなぁ。…あまりなかったけれど、ここに泊まる時は、祖父の布団に潜り込んで寝ていたものだ。祖父は、落語をテープで聴くのが好きで、よく寝ながら聴いていた」
シュローは懐かしそうに語る。
「ラクゴ?」
「ワ国の伝統的な一人芝居だ。…明日見に行くか?」
「もうそろそろ帰り支度をしないと。また次の機会に行きたいな」
「わかったよ。…なぁ、ライオス、俺たちもいずれ老人になるんだなぁ」
「それはそうだよ。いつかは俺たちも歳を取るし、そして、死ぬ…」
「それまで一緒にいてくれるか?」
「…もちろんだ。君こそ、早死にしてくれるな」
「ああ…今度こそ、一緒だ」
ライオスは、そんなことを言っている頃には、スケッチブックを投げ出していた。シュローも、ライオスを見つめていた。
二人の視線が絡み合う。ライオスは、手を伸ばしてシュローの髪に触れた。髪を纏めている紐を解く。
「…いいかな」
「ん…寝室で…あと、冷房付けよう」
シュローが立ち上がり、フスマを開ける。
二人が寝起きしている寝室は、朝でも薄暗かった。
寝室の冷房を付けて、布団を敷いているシュローの後ろ姿を見ながら、ライオスはシュローを抱きしめたくなった。
「…どうしたんだ」
抱きしめられ、シュローは動きを止める。
「君がそばに居てくれて嬉しいんだ」
ライオスは、シュローをそのまま布団に押し倒した。
「ライオス、…俺もだ」
シュローがライオスを抱きしめ返す。そのまましばらく、互いの鼓動を聞いていた。
暫くして、ライオスは、シュローの頬に触れた。
行水したせいか冷たい頬は気持ちがいい。
そのまま、瞳を覗き込んでいた。
すると、シュローはおずおずとライオスに口付けてきた。