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    Mon_7291

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    Mon_7291

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    私なりのジョジルです。ゲーム本編、ドラマCD含め全編ネタバレです、ご注意ください。2主の名前はリオウです。過去に公開したものを加筆修正しました。

    願い ナナミ、ナナミ……どうか、生きていてくれ。

     ロックアックスの城塞を背に、ジョウイは馬上に身を預けていた。蹄の響きが、荒れた大地を打つたびに彼の意識は遠のきかけ、それでもなお、前を見据える瞳には焦燥の色が濃く滲んでいた。
     脳裏には、あのときのナナミの顔が焼きついて離れない。血の気の引いた唇、震える瞼。それは肉体の痛みに歪んだ顔ではなかった。むしろ、リオウとジョウイ、二人の絆を案じての表情だった。自分を超えて、他者のために泣くその面差しが、かえってジョウイの胸を締めつけた。
     ゴルドーの命令によって放たれた一矢。それは冷酷にも、ナナミの胸を貫いた。命を刈り取るには十分な深さだったが、奇跡のように、大動脈をわずかに逸れていたのかもしれない。希望は、かすかながら残されている。無闇に動かさず、然るべき医術の手に託すことができれば、彼女は死の淵から引き戻されるかもしれない。
     リオウの軍には、腕の立つ医師がいたはずだ。その記憶に縋りながら、ジョウイは退却する軍の先頭に立っていた。だが、鞭を握る指先にはもう、かつての力がなかった。馬を駆る手綱が震え、今にも滑り落ちそうだった。事実、力は抜け落ちていた。
     疼く。黒き刃の紋章が、内側から音もなく軋む。骨の奥を焼くような痛みに、姿勢を保つことすら困難になっていた。
    (こんな時に……!)
     焦燥が胸を灼く刹那、ジョウイの体は突如として傾き、鞍を外れて虚空を舞った。地面が容赦なく彼を受け止める。土埃が舞い、音もなく、彼の身体は動かなくなった。

     撤退の報が、疾風のごとく駆ける男の耳に届いた。

    「納得いかねえッ!」
     怒声をあげたのはシードだった。理不尽な撤退命令に、抑えていた感情がついに限界を超えた。怒りを馬の腹に叩きつけるように鞭を振るい、彼は駆けた。荒地に満ちる火照った空気を裂き、彼は一直線に戦列を突き抜ける。
    「シードさま! お待ちを!」
     従者の声も、疾走の風に掻き消された。その視線の先に、異様な光景が映る。立ち止まった兵たち。主を失ったまま彷徨う馬。何かが起きたことは明白だった。
    「なんだ、これは?」
     駆け寄った瞬間、馬の傍らでうろたえる兵士の声が耳に入った。
    「ジョウイさまが、突然、落馬されました。いま、馬車にお運びしています」
     シードの眉がひくりと動く。次の瞬間、言葉もなく馬を降りると、視線だけで馬車の位置を捉え、その足で地を蹴った。躊躇いも、遠慮もない。重く閉ざされた幌を一息にめくり、彼は車内へと躍り込んだ。
    「ジョウイさま!」
     そこにあったのは、命の灯がいまにも揺らぎそうな若者の姿だった。
     座面に横たえられたジョウイの顔は血の気を失い、蝋のように白かった。これまで幾度となく見てきた彼の疲弊、それとは異なる、根源から蝕まれるような衰弱が、明らかにそこにあった。
    「落馬したと聞いたが、まさか、こんな……!」
     声に応えたのは、付き従う医官だった。
    「お体を拝見した限り、外傷は軽微のようです。しかし意識が戻らず、問診ができません。この場では、正確な診立ては困難です」
     その言葉を聞き終えるや否や、シードは剣を抜くような速さで手を差し出した。
    「おれが水の紋章を使う」
     彼の眼差しには、怒りでも焦りでもない、ただ一点、主の命を繋ぐための、静かな決意が宿っていた。
     シードの手の甲が、淡い蒼光を放った。それに応えるように、水の紋章の力が静かに広がり、癒しの魔法がジョウイの身体を柔らかく包み込んでいく。潤いを与える雨のように、精緻な術式が細胞の隅々へと沁み渡った。しかし――。
     思っていたような変化は、訪れなかった。
     ジョウイの顔色は悪いままで、血の気の戻らない頬は、不吉な静けさを湛えていた。目蓋は閉ざされたままで、眠りというにはあまりに深く、あまりに遠い。
     もう一度、紋章を発動させようとシードが魔力を指先に集めかけたそのとき、馬車が軋む音を立てて動き始めた。隊列が再び進軍を始めたのだ。陣頭に立っているのは、おそらくクルガンだろう。行軍は止まらない、否、止められない。
     シードは掌を静かに引っ込めた。
     これがただの過労であれば、まだ望みはある。だが、肉体の疲労に精神の衰弱が重なれば、紋章の力も万能ではない。生命の表層を癒やせても、魂の奥底に届く手立てはない。
     重々しい沈黙が、馬車の内部に落ちていた。
     シードは対面の座に静かに腰を下ろし、目の前の少年を見つめた。こうして改めて眺めると、ジョウイはあまりにも若かった。頬はこけ、首筋は細く、本来、鎧の下にあるべき力強さがそこにはなかった。痩せた分だけ、年齢相応の未熟さと脆さが輪郭を現していた。
     怒りは、いつのまにか胸の奥で音を立てずに沈殿していた。
     どうしようもない苛立ちが、やるせなさに形を変えていく。
     ジョウイ。知恵と胆力を併せ持つ王として振る舞うその背に、つい忘れてしまうが、彼は元々ただの地方貴族の子息に過ぎなかった。
     誇りも、居場所も、戦の中に置いてきた少年だ。

     シードはふと、かつてジョウイがぽつりと語ったことを思い出す。縁を切られた実家の話。そのときの、どこか寂しげで、それでいて諦めにも似た微笑を浮かべていた横顔。彼は、繊細だ。脆さを、誰よりもよく知っている。そして今、その脆さが、そのまま彼の身体を蝕んでいる。
     そっと手を伸ばして、ジョウイの頬に垂れていた前髪を、一筋指で優しく払いのける。皮膚は冷たく、まるで冬の朝の水のようだった。

    (また――ぼくは、間違えた)

     心の内で声が響いた。言葉にするにはあまりに重く、またあまりに遅すぎる自覚だった。ジョウイは、寝台の上でゆっくりと身を起こした。黒き刃の紋章が生む疼きは、いまは沈静を保っている。まるで嵐の合間の静寂。だがそれは嵐が去ったのではなく、再び牙を剥くまでの猶予にすぎなかった。
    「おにいちゃん、また、具合わるいの?」
     ふいに、小さな声が聞こえた。視線を落とすと、そこには今にも泣きそうな瞳をしたピリカの顔があった。
     ここは皇都ルルノイエ。静まり返った城の一角、ジョウイの私室。床には柔らかな絨毯が敷かれ、厚い帳の向こうに光は乏しい。だが、ピリカの存在だけが、あたたかさを与えていた。
     意識を取り戻したとき、最初に目に映ったのは、医師の顔と、心配そうに身を乗り出すこの少女だった。
    「……もう、大丈夫だよ、ピリカ」
     ジョウイは微笑みながら、穏やかにそう告げた。その笑みにどれほどの力がこもっていたか、自分でもわからない。
    「じゃあ、だっこして」
     ピリカは、遠慮がちに、しかし期待に満ちた声で言った。ジョウイは静かに頷いた。
    「ああ。おいで」
     少女は迷うことなく彼の胸に飛び込んだ。その小さな身体は、少しずつ重みを増している。成長の証。それでも、まだ軽い。まだ、守るべき重さだ。肌触りのよい綺麗な服に身を包んだピリカは、まるで小さな花のようだった。あどけなさと気高さを同時に湛えたその姿が、ジョウイの疲れた胸にひとしずくの安らぎをもたらした。
     戦と策略の渦の中にあっても、この温もりだけは、嘘ではないと信じたかった。
    「ねえ、ジョウイおにいちゃん、ピリカね」
     弾けるような声が室内に響いたその刹那、ジョウイは小さく手を上げて制した。
    「ちょっと待って、ピリカ。誰かが扉を叩いている」
     乾いたノックの音が、空気を切るように続いていた。ジョウイは膝の上からピリカをそっと降ろし、応答すると、重い扉がそっと開いた。
    「失礼します。ジョウイ、大丈夫ですか?」
     声の主は、ジルだった。まだ扉の向こうに立つ彼女の声には、いつになく硬い響きがあった。
    「ジルだね。入ってくれ」
     その言葉に、ジルは静かにドレスを揺らし、自らの足で室内へと歩を進める。
     目を逸らすことなく、まっすぐにジョウイを見つめていた。
     ピリカは、一瞬だけ名残惜しげに振り返ったが、すぐに察したのだろう。医師の手をとって、気配を消すように部屋を後にした。
     ふたたび、静寂が戻る。ジルの視線は、今も変わらず彼を射抜いていた。
    「かわいそうに……」
     ぽつりと、呟くように。
    「あんなに幼いのに。あまりに多くを気づいてしまう子になってしまったのね」
     ジョウイは、何も返さなかった。ピリカの名は、唇まで来て、言葉にはならなかった。沈黙は、ときに防壁になる。だが今の彼には、それすら脆い砂だった。
    「何かあったのかい、ジル?」
    言葉を選びながら、静かに問いかける。
    「きみが寝所まで来るなんて、珍しいね」
     ジルは目を細め、少しだけ息を吐く。
    「あなたが、落馬したと聞きました」
     言葉は冷静だったが、その内に宿る感情は濃い。咎めるでもなく、責めるでもなく、それでも確かな痛みを帯びていた。
    「あなたは、もう“あなたひとり”の存在ではありません」
     その声は柔らかだったが、鋼のように真っ直ぐだった。
    「どうか、自覚してください。あなたが崩れれば、立っていられない者が、いるのです」
     ジルの声は、どこか氷のようだった。だが今のジョウイには、その冷たさがむしろ心地よかった。心のどこかで、自らを罰してほしいと願っていたからだ。
     クルガンもシードも、忠実な臣下であり、あくまで部下である。彼らには諫言する資格こそあれど、裁きを下す権利はない。ジョウイの罪を名指しで指摘し、責め立てることができるのは、ジル、彼女だけだ。
     ジョウイはルカを思い出す。ジルは漆黒の髪と、黒曜石のような瞳を持ち、静かに、冷たく、ジョウイを見据えていた。ふたりきりの部屋には、まるで白と黒の彫像が並び立っているような、沈黙の均衡があった。
    「……叱られたい子どものような顔をしていますね」
     柔らかくも容赦のない言葉が、空気を切った。
    「でも、甘えさせては、くれないんだろう?」
     ジョウイの声は、どこか諦めを含んでいた。だが、それは僅かに救いを乞う響きでもあった。
    「はい。わたしはあなたの、従順な“妻”ですから」
     乾いた皮肉と、僅かな憐憫が、声の裏ににじんだ。
    「ジル、ぼくは」
    「薬湯を淹れます。少しでも、心が落ち着くように。それが、今のわたしにできる、精いっぱいのことです」
     それ以上、何も言わせまいとするように、彼女は言葉を断ち切った。無言で立ち上がり、湯を注ぐ手つきは、からくりのように正確で静かだった。
     茶器が触れ合う音が、ただ部屋に優しく響く。感情を押し殺した手仕事の音は、ときに人の声よりも雄弁だった。
    「あなたは、いつも謝ってばかりですね」
     静かに湯気を立てるカップが、ジョウイの手元へと差し出された。
    「誤りもしているのですか?」
     その問いには、責めるでもなく、ただひとつの観察のような響きがあった。
    「たとえあなたが過ちを犯していたとしても、わたしは、あなたの覚悟を信じています。でなければ、わたしは、ここには、いません」
     語尾だけが、かすかに揺れていた。

     ――わたしは、何のために生き延びているのだろう。兄を殺され、父を殺され、そしていつか、わたし自身も。

     ジルの背に、その思いは残されたままだった。
    「ジル、すまな……いや、ありがとう」
     言い直すことで、ジョウイは自分に言い聞かせた。感謝は、謝罪よりも確かな意志から生まれるものだと。
     寝台に座るジョウイが手にしたカップは、心地よい温もりを宿していた。それは、かつてゲンカク師匠が入れてくれた薬湯の感触を思い起こさせた。懐かしく、そして、胸の奥に小さな痛みを残す記憶。
     ジルの気遣いに、ジョウイは確かな愛情と信頼を感じていた。だが、それでもどこか、届かない。
     リオウ、ナナミ。彼らのそばには、すべてをさらけ出せる安心があった。ここには、それがない。
     今、自分が手にしているのは忠誠と敬意。人としての温もりはあっても、心を預けきるには、あまりに世界が冷たい。だが、弱さは許されない。ジョウイは、常に張り詰めた薄氷の上に立っていた。わずかな感傷が、すべてを崩しかねない場所に。
    「温かいうちに、お飲みください」
     ジルの声は、扉の近くから響いた。背を向けていても、彼女は最後までジョウイを見守っていた。
    「わかった」
     短く返す。言葉以上の何かは、もう交わさない。ジルは静かに振り返り、ドレスの裾を滑らせて扉の向こうへと姿を消した。閉ざされた扉の音が、遅れて静寂に沈む。
     ジョウイは、薬湯を口に運んだ。その微かな苦みが、己の緊張をほどいていくのを感じながら、そばにあった手鏡に向き合い、自らの顔色を確かめる。その顔にはまだ、幼さが残る。だが、すでに戻れないものがあった。
     静かに立ち上がると、ジョウイは何も言わずに、部屋を出た。
     次に進むために。

    「これはジョウイさま。お加減はいかがですか」
     声の主はクルガンだった。傍らには、いつも通り不機嫌そうな顔をしたシードが控えている。ジョウイは、二人の心配を払拭するため、意図的に姿を見せに来たのだった。皇都ルルノイエの回廊は白く、眩しく磨かれていたが、その美しさとは裏腹に、冷気が石の隙間から滲んでいた。ハイランドはどちらかといえば北に位置し、しかも標高が高い。石造りの空間に満ちる静けさは、まるで氷室のようだった。
    「すまない。気を使わせてしまったね」
     ジョウイは柔らかく頭を下げる。
    「謝るこっちゃありませんよ」
     シードは言葉を選ばず、飾らない声で続けた。
    「それより、しっかり体を休めてください。おれたちができることなら、なんでもやります」
     その言葉に、ジョウイはふと微笑んだ。真白な軍服に身を包んだ姿は、まるでこの冷たい回廊に溶け込む雪の彫像のようだった。
    「剣を振るう以外の仕事を嫌うシードに、そこまで言わせるなんてね。どうやら、ぼくは、よほどひどい姿を晒したらしい。大丈夫だよ」
     そこまで言って、少し間を置いた。声は穏やかだが、言葉の奥には凍てついた決意があった。
     ――とりあえずは、大丈夫。
    「醜態、そう呼ぶのなら、確かにそうでしょう」
     クルガンは、澄んだ声音で言った。顔には一片の感情も浮かんでいない。それでも、その視線には揺るぎない敬意が宿っていた。
    「けれど、わたしは理解しています。ジョウイさまは、あの少女の命を救うため、敵を見逃したのだと」
     ジョウイは、わずかに視線を落とした。廊下の白い石床に、三人の影が静かに伸びている。
    「それが事実だとしたら、きみはぼくのもとを去るかい?」
     少しだけ唇の端を持ち上げて、挑むように問う。自嘲の色をわずかに含ませて。
    「いえ」
     クルガンは間髪入れずに答えた。
    「ジョウイさまの詰めの甘さも含めて、我々はあなたを支持しています。心配には及びません。我らの命は、すでにあなたのものです」
     シードが、無言で頷くように息を吐いた。その頬にかかる髪がわずかに揺れる。
    「同盟軍のリオウってのは、ジョウイさまの親友なんだろ」
     やや皮肉を混ぜながらも、声音は柔らかい。
    「おれは、クルガンと刃を交える未来を想像してみたが、正直、ぞっとしなかったぜ。あんたが苦しんでるのも、わかる気がする」
     ジョウイは、目を閉じたまま静かに言葉を紡いだ。
    「いま、彼もまた、ぼくと同じように覚悟を決めている。もう、戦いからは逃げられない。だから、ぼくがしたことは」
    「おっと」シードが手を挙げ、言葉を遮った。「それ以上は言いっこなしだ」
     その瞬間、クルガンの視線が鋭く横を貫いた。冷ややかでありながら、微かな痛みのようなものが込められている。それは、咎めではなく、戒めだった。
     沈黙が訪れる。だが、その静けさは重くはなかった。それぞれが抱える迷いと忠誠が、言葉の代わりに空気に滲んでいた。
    「撤退時に納得がいかないと言って飛び出したのは誰だ」
     低く響く声が石造りの広間に木霊した。重厚な柱に囲まれた空間には、戦の余韻がまだ濃く漂っている。
    「蒸し返すな」
     シードの声が落ちる。しかし、その言葉さえも虚しく響くばかりだった。
    「本当にすまない。シード、クルガン」
     ジョウイは静かに、シードに向かって真摯な眼差しを向けた。その切れ長の鋭い瞳には、深い謝罪の念が宿っていた。燭台の炎が彼の整った横顔を照らし、影が頬骨の下で揺れている。
    「ジョウイさま、皇王たるあなたが簡単に謝っちゃいけませんよ。あなたの選ぶ道がいつも正しいんだって、そう思わせてください。って、何がおかしいんですか」
     シードは困惑したような表情を浮かべた。主君であるジョウイの唇に、かすかな笑みが浮かんでいるのを認めたからだった。それは皮肉でも自嘲でもない、どこか達観したような、透明な微笑だった。
    「もちろん選ぶよ、正しい道を。この真なる紋章の運命が指し示す道を」
     ジョウイの声には、もはや迷いの色はなかった。右手の甲に刻まれた紋章が、薄暗い光の中で鈍い輝きを放っている。
    「ジョウイさま……」
     シードは言葉を継げずにいた。主君の表情には、どこか吹っ切れたような清々しさが宿っていた。話している間に血液の循環がよくなったのだろう、戦の疲労で青ざめていた唇には、いつの間にか朱が薄く差していた。それは目元にも同じように。まるで内なる炎が再び燃え上がったかのように。
    「クルガン、シード。レオンとともに次の準備をしてくれ。ぼくもすぐにいくよ」
    「承知しました」
     クルガンとシードは深々と一礼し、足音を響かせながら廊下を歩いていく。石畳に響く靴音が次第に遠ざかり、やがて静寂の中に消えていった。
     ジョウイは右手首を強く握りしめ、拳を額に押し付けた。真なる紋章の宿る手の甲から伝わる熱が、彼の全身を駆け巡っている。運命の重みが、彼の肩に静かに降りかかっていた。

     ――もう、獣の紋章を抑え込む力がない。

     心の奥底で、ジョウイは静かに呟いた。レオンに無理を言って聞かせてもらった市井の声は、まるで鋭い刃のように彼の胸を貫いていた。民衆の怒りと失望の声が、彼の魂を蝕んでいく。
     ぼくは、黒き刃の紋章をリオウに……。
     ジョウイの目から、一筋の涙が静かに流れ、頬を伝うその雫は、燭台の炎を反射してきらりと光った。

     獣の紋章。ハルモニア神聖国より賜わり、ブライト王家に代々伝わるその忌まわしき紋章を受け継いだジョウイは、儀式を終えた後、精神的に疲れ果てて青ざめていた。石の祭壇に横たわっていた生贄は、確かにジルの人形だった。しかし、それは細部にわたって精巧すぎた。まるで本物の肌の質感、髪の一本一本まで再現された、あまりにも現実的な贋物。
     儀式は士気を上げるためだけの偽りにすぎなかった。だが、その虚構が彼の心に与えた傷は深く、真実よりも痛ましかった。もしここで本物の血を喰らっていたら、ジョウイは獣の紋章の欲望を封じきれなかっただろう。胸の奥で蠢く暗い衝動が、彼の理性を脅かしていた。
     胸が悪く、一度、冷たい石の床についてしまった膝を上げ、ジョウイが城内に足を向けると、レオンからの叱責が容赦なく飛んだ。
    「あれしきのことで心を弱くしてどうなさる。そなたはもう何千何万と命を天秤にかけてきたのです。愚かな感傷に流されるなど下らぬこと」
     レオンの声は氷のように冷たく、反響する廊下に木霊した。その言葉には一片の情もなく、ただ冷徹な現実主義だけが宿っていた。
    「……黙ってくれないか。ジルに会う」
     ジョウイの声は掠れていた。喉の奥から絞り出すような、消え入りそうな声だった。
    「傷口を広げる行為はよしたほうがよろしい」
     レオンの警告は的確だった。だが、ジョウイの心は既に決まっていた。ジョウイが言葉を探しているうちに、廊下の奥から人影がゆらりと伸びてきた。松明の炎が壁に踊る影を作り出し、それは亡霊のようにゆらめいていた。足音もなく近づいてくるその影に、ジョウイの全身が緊張した。
    「ジョウイ」
     その声は、まるで夢の中から響いてくるかのように静かだった。
    「ジル」
     ジョウイの唇から、その名前が溜息のように漏れた。レオンが無言のまま踵を返し、二人を残して廊下の向こうへと消えていく。石造りの回廊に、ただ二人の息づかいだけが残された。
    「"わたし"は上手に死にましたか?」
     ジルの問いかけには、どこか皮肉めいた響きがあった。自分自身の死を演技として語るその声音に、ジョウイは胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えた。
    「とても上手だった。すまない、これでぼくはきみの自由を奪ったことになる。きみはもう、ハイランドで誰にも姿を見せられない」
     ジョウイの声には、深い後悔が滲んでいた。彼女の犠牲の上に成り立つ偽りの儀式が、彼の心を蝕んでいく。
    「また謝るのですね」
     ジルは静かに目を閉じた。長い睫毛が頬に影を落とし、その表情は石像のように静謐だった。
    「かつてあなたがキャロの街で処刑されそうになっていたとき、わたしは特別あなたに感傷を抱きませんでした。あなたもそれでいいんです」
     その言葉は冷たく聞こえたが、ジョウイには彼女なりの優しさが込められていることが分かった。ジョウイは首を横に振る。その仕草には、頑なな拒絶の意思が表れていた。すまないものは、すまないのだ。
    「そんなことより、どうか勝ってください。勝利をハイランドに。もしわたしに対して罪悪感を抱いているのなら、その思いは結果で示してください。それがわたしの望みです」
     ジルの声には、揺るぎない願いが宿っていた。自分の運命を受け入れ、それを意味あるものにしようとする強い意志が。
    「……ああ」
     ジョウイの返事は短かった。しかし、その一言には重い嘘が込められていた。いまや常識的には無理な話だった、ハイランドが勝利を収めることなど。だが、兵の士気のためにも、その不可能を可能な夢にしなければならない。
    「わたしの願いを、わたしという犠牲を、無駄にしないことで、あなた自身を救ってください」
    「ジル、きみは強いな」
     ジョウイの声には、敬意と愛おしさが混じり合っていた。
    「あなたが優しすぎるのです。お部屋までお送りします、さあ」
     ジョウイを引いたジルの手は小さくたおやかで、そして柔らかかった。その温もりは、いつも纏っている平坦で硬質な雰囲気とは裏腹に、人間らしい温かさに満ちていた。松明の炎が二人の影を壁に映し出し、それは寄り添うように揺れていた。

     同盟軍の鬨の声が、石造りの城の深部まで地響きのように届いていた。その雄叫びは、まるで嵐の前触れのように城壁を震わせていた。
     ジョウイによって逃がされたジルは、最後の抱擁の温かさを胸に刻みながら、馬車の揺れに身を任せていた。彼の腕に包まれたあの瞬間の記憶が、車輪の軋みとともに心の奥で反芻される。精神的に幼さが残る少年だと思っていた夫は、上手く嘘がつけないほど優しさと繊細さを持ちすぎた少年だった。
     嫌いだったわけでも、おそれていたわけでもない。彼との記憶を辿れば、時折、宮廷で一緒に踊ったことはいい思い出として心に残っている。音楽に合わせて回転するドレスの裾、彼の手のひらの温もり、そして時おり見せる屈託のない笑顔。そう、思い出。美しい思い出。
     だが、彼はきっと死地に向かうのだろう。親友との約束だと、最後に明かしてくれた。その言葉には、もう後戻りできない覚悟が込められていた。
     私は彼に何を見ていただろう。
     馬車が石畳を走る音に混じって、ジルの心に様々な記憶が蘇る。キャロの街で手に縄をかけられながらも凛とした激しさを持った視線、解毒剤を飲んだ上で自ら毒をあおるような危険な方法をとる自己犠牲、すべてはこのデュナン地方に平穏をもたらすための、たったひとつの願い。
     彼の瞳に宿っていたのは、ただ純粋な理想だった。血塗られた王座に座りながらも、決して濁ることのない透明な意志。それは美しく、そして痛ましいものだった。
    「……涙。わたしは泣いているのね」
     ジルは自分の頬を濡らす雫に気づいて、静かに呟いた。
     ジョウイは別れ際に泣いていた。その透明な涙が、まるで伝染するかのように彼女の心を揺さぶったのだろう。ジルは感情のままにたやすく泣く性質ではない。むしろ、氷のような冷静さを保つことで知られていた。しかし、あの時の彼の涙は、彼女の心の奥底に眠っていた何かを呼び覚ましたのだった。
     ジョウイはジルが幸せに生きられるよう、ハイランドでの最後の日々にはそれだけに苦心していた。王としての重責を背負いながらも、彼女の未来だけは守り抜こうとしていた。
    『きみには本当に悪いことをした。小さいけれど、幸せに暮らしてほしい』
     被害者、というならジルのほうなのに、ジョウイは自分のことのように涙をこぼして。その姿は、まるで自分自身を責め苛む修道者のようだった。
    「ジルおねえちゃん、くるしいの?」
     ピリカが心配そうに顔をのぞき込む。その無邪気な瞳には、大人の複雑な感情など理解できるはずもない。この子は、ジョウイが死を望んでいるのを理解しているだろうか。
    「いいえ、目にごみが入っただけです」
     ジルは努めて平静を装いながら答えた。しかし、その声は微かに震えていた。
     馬車の窓から見える遠い空に、黒い煙が立ち上っている。わたしの願いを飲み込んで、ルルノイエの旗がすべて燃やし尽くされていく。その立ち上る煙が、ここからも遠くに見える。戦火の中で失われていく全てのものが、あの煙となって空に舞い上がっているのだろう。
     ジョウイ、わたしもひとつ約束をしていいのなら、どうか。
     心の奥で、ジルは静かに祈った。

     生きて。

     おわり
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