途中 そろそろ終わりにするべきなのかもしれないな。
会社のオフィスですっかり冷めてしまったコーヒーを一口飲んだとき、僕はふとそんなことを思った。終業時間をとうに過ぎたオフィスには僕以外だれも残っておらず、物思いに耽るには絶好のタイミングだった。ブラインドの隙間から、細くシュテルンビルトの夜景が覗いている。立ち並ぶビルの群れ、特大のビジョンの広告、遠くのハイウェイ。押し寄せる夜に抗うみたいに輝く街。僕が今いるこのオフィスも、そういったものたちの中のほんの一部だ。僕はオフィスの暖房の温度を上げた。
冬がきてからというもの、夕方の時間がうんと短くなった。出動することなく一日を終えて定刻通りに会社を出たとき、外がもうすっかり夜の様相をしていると、それだけで一日を浪費した気分になってしまってなんだかやるせない。
少し前の僕(それはつまり虎徹さんがいた頃の僕ということ)なら、こんなふうになることは一度だってなかった。こんなとき虎徹さんは、決まって僕を夜の街へと連れ出してくれたから。延長戦だと言って笑いながら、冷たい僕の手を引いて。
終わりにするべきというのは、もちろん虎徹さんとの関係についてだ。彼と僕が良きビジネスパートナーであり良き友人であることは語るべくもない事実だけれど、だからといって僕たちが良き恋人同士であるかというと、まったくそういうことはないのだった。
告白は僕からで、初めてキスをしたのも僕から。付き合いはじめてもう一年と少しが経つけれど、恋人らしい触れ合いは数えるほどしかなくて、しかもそのすべてが僕の主導によるものだった。僕が距離を詰めようとするたび、少しだけ困ったような顔をして(けれど何も言わずに)抱きしめてくれる虎徹さんの腕の感触。二人きりの時間が恋人としての空気をまとった途端、決まって彼は無口になった。まるで語るべき言葉をなくしてしまったみたいに。
気がないわけではない、と思う。確かに彼は情け深い性格だけど、情けだけで唇を許すような人では決してないから。僕に触れてこないのもきっと彼なりの理由があるはずで、恋人である僕はそれについて知る権利があるはずだとわかってはいても、僕にはどうしてもそれを問いただすことができなかった。もしかすると、彼の左薬指に光る指輪がそうさせるのかもしれない。理由はどうであれ、彼の消極的な態度は僕を怖気づかせるには十分すぎた。
「お前がしたがってるようなことって、俺たちに必要か?」
僕の目をまっすぐに見つめながら、虎徹さんは確かにそう言った。彼の肩に少しだけもたれた僕の胸をやんわりと押し返して──それでも少しもよどみのない──きっぱりとした声で。むき出しの肌に押し当てられた彼の指輪が冷たくて、僕はそこでようやく彼が妻帯者であることを思いだした。
僕は虎徹さんの問いに「はい」とも「いいえ」とも答えられなかった。ただ黙ってうつむいて、自分の出過ぎたまねを恥じることしかできない僕を、虎徹さんもまた黙って見過ごした。つい一昨日、土曜日の夜のことだった。
「僕じゃ、やっぱりだめですか」
「だめとかいいとか、そういう問題じゃねえよ。何もそんなに急いでしなくてもいいんじゃねえのって話」
「なら、どうして……」
あなたはあの時、僕に好きだなんて言ったんですか?
喉から出かかった言葉が行き場を失くして胸につかえている。不自然に途切れた言葉を虎徹さんは追求してこなかったし、僕もそれ以上なにも言うことはなかった。僕の言いたいことなんて彼にはきっとわかりきっているだろうに。
彼が僕とのセックスを(もしくは、キスやハグですらも)望んでいないことなんて明白で、それなら僕はどうして彼の恋人だなんて名乗れるのだろう、と思う。誰かを一途に愛した証が光る指。その指で僕に触れてほしいだなんて、どうして迫ることができるだろうか。あの夜そっと押し返された胸に手をあててみると、虎徹さんの指が触れたところだけが鈍く痛むような気がした。
こんなふうに踏みこめなくなるだなんて、まるで出会ったばかりの頃に戻ってしまったみたいだ。お互いに自分の主張を通そうとするばかりで衝突の絶えなかったあの頃。隣にいることにまだ理由が必要だったあの頃に。せっかく言葉なんてなくても通じあえる僕たちになれたのに、そんなのってあんまりだ、と思う。
「恋人」というたった二文字を付け加えただけで、僕たちの関係はすっかり変わってしまった。不安定な二人の関係について、今はそれだけが明らかで、覆すことのできない事実だった。僕はのけぞるようにしてオフィスチェアの背もたれに体を預けた。夜のオフィスは蛍光灯がやけに青白く見えて、それが余計に物寂しい雰囲気に拍車をかけている。
だらしなくチェアにもたれたまま、僕は隣のデスクへ視線をうつした。虎徹さんのデスクは相変わらず雑然としていて、何やら書類が積み重なっている。ホワイトボード──僕と虎徹さんの予定を書きこむためのものだ。せっかく社内用SNSを導入したのだから、僕はそれを活用してスケジュール管理をしたいのだが、虎徹さんが頑としてアナログな手法にこだわった──を見ると、ワイルドタイガーの欄に大きく「現場直行、そのまま直帰!」と書いてあった。こういう日は珍しくない。
「明日は会えるかな……」
ホワイトボードによると虎徹さんの明日の予定は空白で、それはつまり、彼が明日オフィスに出勤してくるということを意味している。僕のほうは午前中に一件、雑誌インタビューの仕事が入っているけれど、首尾よくいけば昼前にはオフィスへと戻ってこられるはずだ。この頃は昼食すら一緒にとれない日が続いていたから、明日こそはなんとしても時間を作りたかった。
恋人という関係性が僕たちを僕たちでなくしてしまうのなら、僕がそれを捨てる決心さえすれば、僕たちはまた元の二人に戻れるのだろう。そうとはわかっていても、結局僕はこの関係を自分から終わらせる気なんてまったくないのだ。虎徹さんの恋人でいることを許されているうち、彼をまだ好きでいていいのだと思えるうちは。
だけど、もしも僕たちが恋人の肩書を手放さなければならないのなら? 僕は飲み終えて空になった紙カップをダストボックスに放りこんだ。カップはかこんと軽い音をたてて、ダストボックスの底へと吸いこまれていく。
もしも僕たちが別れるしかないのだとしたら、僕は最後に彼の本当の気持ちが知りたかった。僕たちが恋人でさえなければ言いあえていたはずの本音。彼が僕に触れるのをためらう、その本当の理由を。インスタントコーヒー特有の粉っぽい苦味がやけに喉にまとわりついて、尾を引くような後味だけが残った。
時計を見ると、もう夜の八時を回っていた。僕は慌てて立ち上がる。これ以上ここにいたければ、然るべき届け出をしなくてはいけない。
虎徹さんの家に寄ろうか少し迷って、結局まっすぐうちへ帰った。
冷蔵庫の中はほとんどからっぽだった。かろうじて炭酸水と牛乳と調味料があるばかりで、夕食になりそうなものが何もない。朝食用に買ってあったヨーグルトもちょうど今朝で食べきってしまって、新しいものを買わなければいけなかったのに。買い物をしてくるんだった、と少しだけ後悔する。考えごとのためにやるべきことを忘れるだなんて、まったく僕らしくなかった。
幸い、冷凍庫には冷凍のピザが一枚だけ残っていた。いつだったか、虎徹さんがうちへ飲みにきたときに置いていったものだ。会社からの帰り道、浮かれきった僕たちが食べきるつもりで買いこんで、結局余らせてしまったジェノベーゼ・ピザ。バジルとチーズの香り豊かなそれは、ここ最近の僕たちのお気に入りだった。虎徹さんは「好きなときに食っていいから」と言ってくれていたけれど、一人で食べても味気ない気がして手をつけられずにいたから、ちょうどよかったのかもしれない。
半分にカットしたそれをオーブンレンジに放りこんで、炭酸水と一緒に食べた。解凍時間を間違えたのかチーズがところどころパサパサしていて、虎徹さんと一緒に食べたときほどおいしいとは思えなかった。うんざりした気持ちで歯を磨いて、シャワーを浴び終えた頃にはもう日付が変わる時間だった。体力を消耗するようなことなんてなにひとつないのに、なんだかひどく疲れたような心地だ。体力自慢のヒーローとはいえ、精神的な消耗はどうしても堪える。
寝る前に鉢植えの様子をひとつひとつ見てやって、いくつか枝葉を手入れしているうちにいつの間にか眠っていた。