見て見ぬふりで遠回り 合宿の良いところは朝起きてから夜寝るまでずっとバレー漬けでいられること。普段はどうしても授業があり、日々の生活がある。進路のことも避けて通れない。でも合宿に参加している間だけはバレーのことだけでいられる。
最後の春高。そこには因縁の相手。ゴミ捨て場の決戦を誰でもない自分たちの代で。もちろん目指すは頂であるけども。でもキツイ練習の狭間、ふと忍び寄る弱気をなにクソと振り払えるのは叶えたい試合があるからだ。
10月。最後の合宿。多少涼しくなり始めたとはいえ、一日中汗だくで動き回った身体は休息を求めているはずなのに、黒尾はふと夜中に目を覚ました。神経が高ぶっているのかもしれない。
明日もたっぷり練習が待ってる。寝なくては。そう思い目を閉じるが、眠気はどうやら黒尾を置いていってしまったようだ。枕元に置いた携帯電話をみると、まだ3時。起床時間までまだ時間がある。仕方ない、こういうときは一度起きてしまおう。トイレにいって、温かい飲み物でも飲んだらどうにかなるだろう。
周りでスヤスヤと眠るチームメイトを起こさないように布団から這い出、扉をそっと開けて外へ出た。
窓の外を見ると満月というには少し欠けた月が煌々と輝いている。街明かりも流石に消えたこんな時間だと、月明りだけでも結構明かるいものだ。
一番近い自販機はどこだったか。食堂に行ってしまうほうが早いか。途中にトイレもあったはずだ。夜の校舎はどこも共通して不気味なものだが、不思議と高揚感が黒尾を包んだ。こんな時間に他校の校舎を歩くなんてなかなか非現実的で楽しい。
鼻歌まじりで食堂のある階まで降りると何故か明るい。光源のほうへ視線をやるとどうやら自分の目的地である食堂に明かりが灯っているようだ。消し忘れか?
ドアの外から覗き込むと、誰かがこちらに背を向けて座っている。黒いジャージには『烏野高校排球部』の文字。
「澤村?」
呼びかけるというよりは、思わず心の声が漏れたような声量だったが夜の校舎はよく響く。黒尾の声に振り返った澤村の手元には単語帳。
「お勉強ですか。さすがに寝たほうがいいんじゃないでしょーか」
「黒尾こそ、こんな時間にどうしたんだ?」
「ボクはいい子なのでちゃんと寝てましたヨ」
カフェインは摂取しないほうがいいだろうと、ホットカルピスのボタンに手を伸ばす。ガタンという音とともに小さめのペットボトルが落ちてくる。
「ちょっと目が覚めたから夜のお散歩でもと思いまして」
「奇遇だな。俺も同じだ」
そのまま澤村の横に腰掛ける。
澤村の傍にはホットレモン。勉強道具も単語帳だけで、確かにずっと起きてたわけでもなさそうだ。
「澤村は進学組だっけ」
「ああ。黒尾もだよな」
「そ。推薦にするかどうしようかで悩んでる」
「あー、それは確かに悩むとこだよな」
この合宿に参加している者の中には、スポーツ推薦で大学にいくもの、受験をするもの、専門学校へ進むもの、就職するもの、色々だ。全国大会を目指すバレー部の高校三年生。今は同じラベリングをされているが、もう半年もすればみんなバラバラの進路を進む。バレーは高校までというものも少なくないだろう。
黒尾自身は大学でもバレーを続けるつもりだが、プロを目指したいかと言われると違う気がする。いずれにしても多かれ少なかれ、いつかはバレーを離れるときがくる。そのときにこの目の前の男とはどういう繋がりが残るのだろうか。
そんなことが頭をよぎり、胸がギュッとなる。
「……澤村は?大学、地元?」
「あー……」
なぜ出会ってまだ片手に足りるほどの男の進路が気になるのか。おおよそ予測はしているが深く追求しないほうがいいといと本能が告げる。それでも澤村の志望校を知りたい欲には抗えなかった。
澤村はちょっと言い淀み、手元の単語帳をペラペラとめくった。いつもコートの上で胸を張りまっすぐ前を見ている瞳が今は少し俯き、うなじから首筋、背骨へと曲線を描いている。
妙に庇護欲をそそるのは、控えめに灯された照明に生み出された陰影や、時間帯に配慮された控えめな声色のせいだ。そう自分に言い聞かせながらも、少し丸まった背中に手を添わせ、きっと人より高いだろう体温を感じたいと思いながら、澤村の答えを待つ。
「実はさ、東京の大学が本命なんだよな」
就職は地元でするつもりだが、一度くらい東京で見聞を広げたいと思っていること。
下に弟妹たちも控えているため、大学は国公立を考えていること。
ポツリポツリと零れる澤村の言葉に辛うじて相槌を打つものの、黒尾の内面では天使の祝福のラッパが鳴り響いていた。澤村のいう国公立大は黒尾の家からもそれほど遠くなく、ぶっちゃけ黒尾も狙っていた。
それに澤村のことだ、こうして話してくれるということは合格圏内なのだろうし、これはワンチャン同じ大学に通えるのでは?それにバレーだって
「まあバレーは高校までだけど」
冷や水を頭からぶっかけられたかと思った。
喉の奥がリアルにひゅんと鳴る。
「……バレー、辞めるのか?」
「俺の身長で大学でバレーは難しいしな。リベロ転向はなんか違うし。それに」
「それに?」
「もう遊びのバレーなんてできないだろ」
強いサーブを打つ相手に対峙して、こっちへ打ってこいと願う緊張感。
高いブロックを打ちぬいて、相手のコートにスパイクを打ち込む爽快感。
自分のためにトスが上がる誇らしさ。
ヒリヒリとした空気の中、ネットの向こうには因縁の相手。
そんな試合を経験してしまったら、もう楽しいだけのバレーボールはできない。黒尾が大学までバレーをやろうと考えたように、澤村もバレーは高校までと決めたのだろう。そしてバレー人生最後のチームに最高の栄光を。
さっきまで、手の中で単語帳をいじっていた『受験生澤村大地』だったのに。バレーのこととなると喰えない烏野大将『烏野高校排球部部長澤村大地』となる。
どっちも手に入れたい。どうしたら手に入る?
「ゴミ捨て場の決戦、絶対にやろうぜ」
二兎を追う者は一兎をも得ず。まずはこの喰えない烏との因縁に決着を。
「澤村の最後の相手は俺だ」
負けたほうは次はない。音駒が勝って次にいく。空を飛び回る烏に牙をたて、地面に引きずり下ろすのだ。澤村を手に入れるのはそのあとである。烏は自分の縄張りに自分から飛んでくるのだから。
黒尾の宣戦布告に、好戦的な烏の大将はちょっと目を見張るとにやりと笑い、拳を黒尾の胸に押し当てた。
「こっちこそ。食い散らかしてやる」
下から覗き込まれたその丸い瞳に自分が映っていることにゾクゾクゾクと高揚する。
その衝動のまま、黒尾は自分の胸に当てられた拳をその上から包み込み、口元へと引き寄せた。
何をされるのかと訝しげに眉を顰める澤村の顔を崩したくて、そのままがぶりと指へとかぶりつく。
「いっっって!」
大き目の声が澤村の口から飛び出してきたところで、そのまま手の平でふさぐ。ギロリと睨まれるがそんなの気にしない。
「サームラさんのほうが美味しそうですヨ」
自分ではニコニコと笑ったつもりだったが、そう取ってもらえないの百も承知だ。
そして黒尾は失念していた。澤村はやられっぱなしのキャラではないということを。
手の平に温かい息を感じたと思ったら、次の瞬間硬いエナメル質が牙をむいた。
「うえ?!」
瞬間手を離すと、澤村は悔しそうに舌打ちをすると袖口で口元をぐっと拭った。どうやら口をふさがれた状態で無理やり嚙みつこうとしたらしい。
「うわあ、サームラさんワイルド」
「先に噛みついてきた奴が何を言う」
「だって食べたかったから」
本音を少し含んで黒尾が返すと、澤村は少し呆れたように息をついた。ホットレモンと単語帳を手に持つと、そのままさっさと席を立つ。
「ほら、もう行くぞ。明日もたっぷり試合だ」
「はーい」
二人で並んで廊下にでると、まだ月が輝いていた。
少し前を澤村が歩く。その後ろを黒尾が半歩ほど遅れて歩くと、月に照らされてできた二人の影の手が時々重なった。
ずっとそのままだったらいいのに。
澤村の揺れる影に合わせて黒尾は自分の手の位置を調整しながら歩く。楽しくなって澤村の影を撫でたり握ったりしていると、先をいく澤村の足が止まった。
どうしたのかと顔を上げると、澤村が黒尾の手を掴むとそのままぐいぐいとまた歩き出した。
「影で満足なのかよ」
ぼそりと呟く声が聞こえた。
「え」
「教室までな」
あ、そんなに早く歩かないでほしい、教室に着いてしまう。
教室についても、もしかしたら二人の未来は春高後も続くのかもしれないと思ったら、眠れる気がしなかった。
黒尾はズンズンと進む澤村の手を少し引っ張ると、「なあ」と呼びかけた。
「教室まででいいからさ、ちょっとだけ遠回りして帰ろうぜ」
澤村からの返答はなかったが、少し歩みがゆっくりになり、一番近い教室への階段はそのまま通り過ぎた。
朝になったら二人はまた因縁の相手に戻る。でもその先には何かが繋がっているかもしれない。