遠恋8年目のイチャイチャな日常 仕事帰り。金曜の午後七時。
黒尾は駅から自宅までの道を走っていた。駅から徒歩二十分。家賃と利便性の妥協の結果の物件に住んで三年になる。普段なら夜風を感じながら気持ちよく歩いてるその道を、身長に見合った長い脚で、現役時代のランニング以上の速度で駆ける。
スーツを着たサラリーマン風男性が、住宅街の中をそこそこの速度で駆け抜ける様子にすれ違う人は思わずギョッと視線をやるが、黒尾の口元や目が緩んでいるのを見て取ると、非常事態ではなさそうだとまた目をそらす。そっと見て見ぬふりをしてくれる見知らぬご近所さんに感謝しながら、黒尾は腕時計を確認した。
電車が微妙に遅れたせいで、狙っていたバスに乗ることができなかったことが悔まれた。バスなら五分、走って十分。黒尾は最寄り駅に着く直前に届いたメッセージアプリの文章を思い出す。
『秋刀魚の開きをグリルに入れて点火するまであと五分』
今日は月に一度の逢瀬の日。実際に会うのはほぼ二箇月ぶり。シフト制の仕事で且つ急な呼び出しもある澤村と、基本はカレンダー通り、ただし出張多数の黒尾ではデートの予定がリスケになることもままある。
今回は黒尾が仕事に行ってる間に澤村は合鍵で家に入り、夕飯の準備をしてくれているはずだ。ちなみに前回は黒尾が宮城にいき、それはもう甲斐甲斐しく澤村の世話を焼いた。
昔はそんな黒尾に遠慮がちで申し訳無さそうにしてた澤村も、されっ放しだから気不味いのだと結論付けたようで、澤村の家は黒尾の家、黒尾の家は澤村の家だとわざわざ宣言し、結構好き勝手している。溜まっていた洗濯物ををわざわざ圧縮パックに詰めて持ってきて、黒尾宅で洗濯を回している澤村を見たときに思わず、「同棲っぽい!」と黒尾は身悶えた。そんな黒尾を冷ややかな目で見ながらも、同棲という言葉に感じるところがあったのか、照れ隠しで殴られたことさえ甘い思い出である。
澤村が東京に来る際は、手土産にと実家からあれやこれやの食べ物を持たされてやってくる。酒やおつまみ、甘い物、澤村家で育てた野菜や手作りの惣菜など。ご近所の推定七十五歳のマダムからいただいた煮物のおすそ分けをもってきたときには、流石に驚いた。このご時世地域差もあるとは思うが、ご近所さんから、それも小さなころから住んでいた場所ではなく、一年ほど住んだだけの田舎とも言い難いそこそこの都会でそんなことが起こるものなのか。
それも頻繁にあるようで、最初は漫画ドラマの世界じゃないんだからと訝しんでいたものだが、何度も澤村宅へお邪魔しているうちに下校途中の小学生から挨拶されたり、商店街の店主たちから飲みの誘いをかけられたりするのをみて、本当だったと心底感心したものである。
本人曰く、防犯の意味も込めて警察官であることを明かして挨拶しているうちに、実際に相談を受けたり、警察の担当部署を紹介するようになり、気が付いたらこうなっていたらしい。小学生は地域の防犯教室で知り合ったということだが。
いやいやいやいやいや。全国に何千人といる生活安全課の警察官全員が、そんなことにならないからね?
一度そう反論したことがあるが、警察官を馬鹿にしているのかと怒られた。人から向けられる好意に鈍感なところが、潜在するライバルたちを無意識に排除している要因なので深く追及はしなかったが、なんとも不本意なことである。
今回はどうやら秋刀魚の干物を持ってきてくれたらしい。それはとても有難いし、好物を意識して用意してくれるのにも愛を感じる。だがしかし。秋刀魚の干物は意外に早く焼けてしまうのである。
焼き魚は焼き立てを食べてこそ!
黒尾の信念を知っているはずの澤村が、帰宅時間に合わせてそう送信してくるということはそれは早く帰ってこいということだ。
ちょっと厳しいところもあるけれど優しくて思いやりのある澤村さん。
学生時代も社会人になっても、彼の評価は揺るがない。そんな彼が一部の本当に親しい人にしか見せない横暴さだったり、わがままを装った甘えが愛おしい。今頃黒尾が帰ってくる時間を逆算しながらそわそわしているのかと想像すると、更に口元が緩み、足を大きく踏み込むのだった。
その頃澤村はそわそわなどせず、せっせせっせと夕飯の準備を進めていた。
炊飯器よし、味噌汁よし、秋刀魚の開きも半解凍となっており、焼かれる時を待っている。全盛期に比べたら食べる量も減ったが、それでもこれでは足りないだろう。少なくとも澤村は足りない。料理の追加するために冷蔵庫を開けようとしたとき、横に置いていたスマートフォンのメッセージアプリに通知が来ていたことに気が付いた。
『最後の信号。お願いだからもうちょっと待って!』
黒猫が汗をかきながら懇願するスタンプ付である。最後の信号とはワンブロック先の大きな幹線道路のことだろうか。駅から黒尾宅のちょうど中間地点にある信号を思い浮かべる。あそこからならまだ火を点けるには確かに早いかもしれない。脅すようなメッセージを送信したが、実際に焼くようなことはしない。冷えて硬くなった焼き魚は悲しいし、秋刀魚に失礼である。
東京に持っていく手土産を探しに行った百貨店で出会った見事な秋刀魚の開き。肉厚で、見るからに脂がのっている。きっと生の状態でも美味しかったであろうこの秋刀魚を、こうして開きにしてくれた水産業者さんに感謝である。お陰様で宮城から東京まで秋刀魚を持ってくることができた。
東京でだって秋刀魚は買える。でも自分が食べてきた故郷のものを食べてほしい、自分の血肉になっているもの同じものを黒尾にも食べてほしい。
この気持ちは離れて過ごす恋人への独占欲だと、懺悔のように黒尾に告げたことがある。しかしそれを嬉しいと喜び、じゃあ自分もと東京の有名なラーメン店の持ち帰りセットを買ってくる黒尾を見て自分もまた満更でもないので、きっとそういうことなのだろう。
さあ夕飯の準備の続きだ。水に漬けていた千切りキャベツを笊にあけ水切り。その間にフライパンを火にかけ、今日届くようにしておいた取り寄せの気仙沼ホルモンを冷蔵庫から取り出した。基本的に魚を好み和食党の黒尾だが、これはたっぷりのキャベツと一緒に食べるからか好んで食べてくれる。
フライパンが温まったことを確認し、さあホルモン投入というところで玄関で鍵をガチャガチャとする音がした。時間をみるが、メッセージがきてからまだ数分しか経っていない。まさか泥棒か、合鍵を持った浮気相手かと思いながら、コンロの火を止め、台所から出て玄関をのぞき込むと、そこには肩で息をしながら汗だくの黒尾がいた。どうやら走って帰ってきたらしい。
「おかえり、早かっ」
「ただいま!澤村!秋刀魚!!!」
必死である。微妙に韻も踏んでいる。その勢いと必死の形相に澤村は思わず吹き出した。急いで帰ってきた様を存分に笑われた黒尾は、拗ねたようにムスッとしたまま鞄を玄関に置き靴を脱いでドスドスと部屋に入る。そんな黒尾に愛おしさがこみ上げてきて、堪えきれなかった笑いと涙をぬぐいながら黒尾を迎え入れ、正面から抱きしめた。
背中をパンパンを叩き、そこからぎゅーっと力いっぱい腕に力を籠めて、ブンブンと横にシェイク。うん、汗臭い。
「え、熱烈歓迎?!」
何故か上機嫌な澤村の理由が分からず、呻きながら目を白黒させている黒尾を解放してやり、額に張り付いた前髪をそっと除けてやる。
「秋刀魚は無事だ。これからホルモン焼くから、先に風呂入ってこいよ」
黒尾って猫だけど、犬だよなあ。実家で飼ってる柴犬を思い浮かべながら髪の毛をワシャワシャとかき回し、そのまま背を向け台所へ戻ろうとすると、後ろからバックハグというには過剰体重をかけられた。不意打ちに思わずたたらを踏み、前に倒れこむ。
「おい、重いって」
「大好物の秋刀魚を人質に取られて、こんなに必死に汗だくで帰ってきた恋人をもっと労わってくれてもいいんじゃないでしょうか」
「労わってるだろ、ハグしたし、頭もなでなでしたじゃないか」
「いや、あれはそんな可愛いものじゃないと思いますぅ」
それもそうか。それならば。
澤村は少し考えると、黒尾にのしかかられ腰が直角に曲がっている状態から腕を後ろへ回した。そのまま後ろ手に腕を組み、よっと黒尾の尻を持ち上げると、丁度おんぶの体勢になる。黒尾はうわとか、えっとか、ちょっととか声を上げているが、澤村は鍛え上げた体幹でもってそのまま寝室までズンズンと進む。
この部屋を借りたときに奮発したと言っていたキングサイズのベッド。そこにドサッと落とし、仰向けに転がる黒尾の上に澤村はまたがった。
「……お風呂にする?ご飯にする?それとも」
「お風呂にします!」
大きくはっきりと叫ぶ黒尾。
あれ?
期待した回答ではない元気な返事が返ってきたことに澤村は拍子抜けする。
「お前なあ」
「汗かいてますし、お腹減ってますし」
まあそれには澤村も異論はない。でも労わってほしいと言ったのは黒尾のほうではないか。遠恋の恋人たちの久々の逢瀬ならば、労わるといえばこの王道の展開ではないのか。
ちょっとムッとしたことが伝わったのか、黒尾は澤村を腿に乗せたまま起き上がり、近づいた澤村の頬に音を立ててキスをした。
「それにボク、美味しいものは最後にとっておくタイプなんですよ」
走って帰ってくるほどに好物な秋刀魚よりも、美味しいのは、欲しいのは澤村。
食べ物と並べられたこととか、食事の後の夜のことを匂わされたこととか、自分も黒尾もヤル気満々かよとか。唇ではなく頬へのキスを贈ってくるところも。知ってました?とニヤッと笑った顔にも腹が立つ。
近づいたままの黒尾の鼻に噛り付くと、尻尾を踏まれた猫のような声を出して黒尾はベッドに再び倒れこんだ。
ぎゃーぎゃーと騒ぐ黒猫はそのままに、さっさと黒尾の上から降りる。
「ほら、さっさと風呂いってこい。洗濯はもう回してくれていいぞ」
「はーい」
ちらりと振り返ると、寝転がったままひらひらと手を振る黒尾。実家の弟たちならばそのまま寝てしまうことあるが、意外にきちんをしている黒尾はスーツを着たまま寝落ちるということもないだろう。ましてや澤村が来ているこの状況でそれはありえない。
が、一応声だけはかけておく。
「風呂入って、秋刀魚食べて、その後俺を食べるんだろ」
そこからは早かった。華麗に腹筋だけで起き上がり、ネクタイを外しながら澤村の横を通り過ぎて行った。そのときにちゃっかり澤村の腰をするりと撫でていくのがずるい。夕飯の続きのために台所に戻ろうとすると、洗面所から黒尾がひょいと顔を出した。
「ベッドに行く前に、一緒にお風呂オプションは付けられますか」
だったらシャワーだけでささっと上がってきますが。
律儀にお伺いを立ててくる黒尾の口元に、隠す気のない欲望を感じる。
うーん。と澤村は考える振りをした。
「オプションなしでも準備はできているけど、ありのほうがいいか?」
光線が出てくるかと思うほどに見開かれた黒尾の目が、舐めるように澤村の身体をなぞる。何を想像したか知らないが、そのままうめき声を上げながら
「……オプションありでお願いします」
なるほど、今日はイチャイチャしたいんだな。
「わかった。だったらさっさと入ってこい」
「はい」
若干前かがみになりながら黒尾はそのまま洗面所へと消えていった。洗濯回すのを忘れないでいてくれたらいいんだが。
さてと。フライパンを温めて、ホルモンを焼いて、グリルにも火をつけよう。
このあと風呂に入るなら、日本酒じゃなくて500mlの缶ビールを二人で分けるくらいにしておこうか。野菜が足りないか。母から持たされたきんぴらを足そう。
シャワーを急いで浴びているだろう黒尾を待ちながら、澤村はそわそわと夕飯の準備へと戻っていった。
遠距離恋愛八年目の今、二人は絶好調である。