Omegaverse【7月新刊サンプル】絶望
「蛍が高校卒業したら番になろうな!」
そう約束していたのに。
見知らぬαの男に身体を暴かれ、肉を食いちぎるような勢いで頸を噛まれ、凹凸の痕が残った。それで満足したのか男は僕を放置してさっさと逃げてしまった。そこから流れる血を手のひらで押さえるも、待っていたのは絶望だけだった。
黒尾さんのものになるはずだったのに。
どうしてこうなってしまった? 僕が油断していたから? 一目でΩだとわかるチョーカーをつけたくないと意地を張っていたから? 予定日より早くヒートが来てしまったから? 薬の量が足りなかった? 僕がΩだから?
いくら考えたところで彼の番になる権利はもうなくなってしまったのだ。
「クソッ、クソッ……消えろよぉ……」
短い爪でガリガリと掻きむしったところでそれは消えやしない。真っ赤な血が爪の間に入り込む。
「きたない……あははっ」
こんな汚い身体じゃ彼に愛してもらえない。愛してもらう資格などない。
「ごめん、なさい、ごめんなさい……」
約束を守れなくてごめんなさい。大好きでした。さようなら。
※※※
蛍と連絡が取れなくなって半年が経った。
番になろう、って約束をしたのに、それは未だに果たされていない。ある日突然俺の前から姿を消したからだ。
それは本当に突然だった。メッセージを送っても返信がないどころか既読さえつかない。アプリから電話を掛けてみても繋がらない。見慣れた携帯番号にも掛けてみたがコール音もなくすぐ留守電に繋がってしまう。その原因を調べてみたら、着信拒否の四文字が並んでいた。どうして。思い当たる節はない。喧嘩だってしていない。考えても考えてもその理由がわからなかった。
蛍と交流があった奴らに片っ端から連絡をしてみても、みんな口を揃えて「あいつが今どこで何をしてるかわからない」と言った。チビちゃんから連絡先を聞いて蛍の幼馴染みである山口くんにも連絡をしてみたが「俺もしばらくツッキーに会ってないんです」とそう一言返ってきただけだった。頼みの綱がぷっつりと切れた。
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幸
仙台の夜は冷える。東京と違って雪が積もっており、気温もゼロを下回るマイナスだ。同じ日本だというのにどうしてこんなにも違うのだろうか。そんな気温の中部屋着のスウェット一枚と蛍が用意してくれた半纏だけでは外の寒さは補えない。煙草を挟んでいる指は少し悴んでいる。
なぜこんなに寒い思いをしてまで外で煙草を吸っているのかと言うと、現役のバレーボール選手である番の蛍に副流煙を吸わせないためだ。蛍は「換気扇の下でもいいですよ」と言ってくれたが、同じ空間にいると完全にその煙は防げないし、においは残るし壁紙も汚れてしまう。せめて電子煙草に変えればまた違うのかもしれないけれど、スマホに腕時計にイヤホン、これ以上充電しなければいけないデバイスを増やしたくないのと、やっぱり紙煙草のほうが美味いからだ。
「う〜さみぃ〜」
一本を吸い終えて部屋に戻る。室内は楽園のような暖かさだ。
「早くこたつに入ってください」
「うん。失礼しまーす」
蛍と向かい合う形でこたつに入る。テーブルの下の隠された密室の中で互いの長い脚が絡み合う。昔に比べてだいぶ逞しくなった蛍の太ももに脚を挟んで暖を取る。なんて贅沢なのだろう。
「ちょっと、冷えるのでやめてください」
「は〜い……」
絡まっていた脚を解かれ、ぐいぐいと押し返される。もう少し絡み合っていたかったが、ここで引かないと「しつこい!」と怒られその後無視されることは目に見えている。経験者は語る。
「黒尾さんもみかん食べますか?」
「いや、煙草のあとのみかんはちょっとな〜……」
「おいしくないんですか?」
「うん。みかんに申し訳なくなるくらい」
「ふーん。じゃあ煙草やめればいいのに」
「そのうちな〜。機会があれば」
過去にも何度かこのやりとりをしているが、未だやめられていない。やめる気がないと言われてしまえばその通りなのだが、俺は俺で禁煙しようと頑張って煙草の代わりに飴玉を舐めてみたり、蛍の乳首を吸ったり舐めたりしてみたけれど、やっぱり何かが違うのだ。結局最終的には煙を求めてしまう。何か大きなきっかけがないとなかなかに難しい。
「……僕のお腹の中に赤ちゃんがいるって言えばやめられますか?」
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決壊
息子を出産して三ヶ月が経った。毎日夜中に泣いてしまう息子に何度も起こされ連続で二時間以上眠れた試しがない。育児が大変なことはこの子を生む前からわかっていたことだし、一筋縄ではいかないこともわかっていた。それでもああしたいこうしたいという理想はあった。しかしそれを嘲笑うかのようになにをしても思い通りにいかず、悉く裏切られるのが現実だった。母乳が出なくて粉ミルクで育てることになったり、ゲップをさせたらそのまま吐いてしまって服がミルクまみれになったり、おむつを替えようと脱がせたタイミングでおしっこをされて顔や服にかかったり、抱っこじゃないと寝てくれなかったり、そっとベッドに置いた瞬間に声を上げて泣かれたり。本やSNSで読んだ「こどもの寝かしつけ方」なんてものは当てにならなかった。なにも上手くいかないけれど、それでも我が子はとってもかわいい。かわいいからこそすべてに耐えられている。だから、もし万が一息子をかわいくないと思ってしまう日がきたら、とそう考えるとこわくてたまらなかった。たまに親や兄が助けてくれることもあるけれど、僕が一緒に子育てをしたいのは番である黒尾だ。仕事があるため東京に住んでいる彼は忙しくてなかなかこっちに来られない。僕が東京に移り住むことも考えたが、僕にも仕事とバレーボールがあって、それを手放すことはできなかった。結局、こどもがもう少し大きくなってバレーを引退したら東京で一緒に暮らそうということになった。
ひとりで育児なんて僕には無理だったのだろうか。そうは思いたくはないけれど、もう限界だった。
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てつくんとけーちゃんとぼく
ぼくにはパパがふたりいる。パパって呼ぶとふたりとも反応してしまうので、「てつくん」と「けーちゃん」って呼んでいる。黒髪で変な髪型をしたかっこいいてつくんと金髪でふわふわの髪型のきれいでかわいいけーちゃん。ぼくはよくけーちゃんに似ていると言われるけれど、まゆげの形とか目の色とか、泥だらけになるまで外で遊ぶところとかバレーボールがだいすきなところとか、すぐにけーちゃんに抱きついてしまうところとかけーちゃんのことがだいすきところとかはてつくんに似てると思う。だからてつくんとはよくけんかをする。どうぞくけんおって言うらしい。むずかしい言葉はまだよくわからない。
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てつろーとけーとおれ
おれには父親がふたりいる。幼かった頃は「てつくん」と「けーちゃん」なんて呼んでいたけれど、今はもう恥ずかしくて無理。
てつろーに似てきたなんてよく言われるけれど、色素の薄い髪色とか目の形とか、甘いものとバレーボールが好きなところとか、頑固なところとか年上が好きなところとか、てつろーに懐いて甘えるところとかはけーに似てると思う。おれの見た目が昔のけーにそっくりらしくて、どうにも甘やかしてしまう、とこの間てつろーが嘆いていた。