その本は、書棚の隅にあった。少しかびくさくてほこりまみれで重たいその本にどうして惹かれたのかは、わからない。
(こんな本、ここにあっただろうか)
身体に良いものをひとつも帯びていないような、古びた本。きっと弟が側にいたら、手に取るのを咎めただろう。
それでもどうしても手に取らなくてはいけない気がして、俺は本棚から分厚いその本を引き抜いた。ほこりを手で拭えば、濃紺の中に薔薇色雲よりもっと深く鮮やかな色が散りばめられた表紙が顔を出す。
(…題名がない?)
はて、と表紙や背表紙を見るがそこに題名は書かれていない。変な本だな、と思いながら表紙をじっと見た。俺や主が普段絵を描くときに好む色使いではない。けれども、苛烈ともいえるその色を見ていると、どうしてもこの本を戻す気にはならなくて、結局俺はそれを持って自室へと踵を返した。
今日は、国内の行事の中でいちばん大きな式典の日だから、家には誰もいない。本来であれば俺もここで本を開いている立場ではないのだけれど、昨日からの熱とのどの痛みが引かず、結局朝からひとりで家にいる。主も弟も手伝いの妖精たちもいない家の中はひんやり寂しくて、だからこんな華やかな色の本に惹かれたのかもしれない。
部屋へ戻ると、丁度どん、とくぐもったような大きな音が響いた。
(もう最後の花火か…)
激しくもどこか優しい音を聞きながら、さんざん読み込んだ行程表を頭の中に思い浮かべる。きっと弟と彼の主が夜遅くまで職人たちと作っていた打ち上げ機が活躍しているんだろうと思い、ほおを緩めた。バルコニーに出ればきっと美しい光が見られるのだけれど、俺には書庫から持ち出したその本のほうがひどくまばゆく見えてしまった。弟が丁寧に星を散りばめてくれたベッドに腰掛けて、本を開く。
★★★
無事に式典が終わり、国は少しずつ静けさを取り戻しはじめる。主たちを部屋へ送った僕は、長い廊下を歩いて兄の寝室を目指した。後片付けは任せて欲しいという職人たちの言葉に甘えて早めに帰宅したつもりだったけれど、それでも夜空にいる星のほとんどは眠っていて雲の色は深くなっている。
「ルタ、起きてる…?」
体調はどう、と小さく声を掛けながら、兄の部屋に入る。しんと静かな部屋は人がいるとは思えないくらい空気が動かなくて、あれ、と首を傾げた。体調が良くなって、もしかしてどこかに出かけたんだろうか。国民たちに持たされた両手いっぱいのルタへのお土産を、いったん部屋のコーヒーテーブルに乗せる。それから、ベルベットの布で隠されたベッドを覗いた。
「ルタ?」
いない、と呟いた声は自分でも驚くくらい弱弱しかった。シーツも羽毛布団も緩やかなカーブを描いているのに、ルタはどこにもいない。誰かルタがどこに行ったか知らない?とベッドに飾った星に聞けば、それらは「知らない」と軽やかに笑うだけだった。無責任な、と僕は彼らを睨みつけてルタがいそうな場所を探す。僕たち専用のバスルームやキッチン、クローゼットルーム、バルコニー。玄関にはルタの靴がぜんぶ綺麗に揃っていたから家の中にはいるはずなのに、どこにもその気配がなくて、急に気持ちがざわつく。一瞬最悪な想像をして家の周りを一周するけれど、ルタはそこにもいなかった。そのままじっと空を見上げれば、星たちは今日の式典で疲れたのか眠りこけている。唯一まだ起きていた月にルタのことを聞いたけれど、知らないという返事しか来なかった。
「…ルタ」
名前を呼んでも静寂はそのままで、諦めて僕はまた兄の寝室に向かう。もしかしたら物陰や隙間に隠れていて、僕を驚かせようとしているのかもしれない。小さなころによくかくれんぼをしたときのことを思い出しながら、僕は寝室に戻り、それから嘆息する。どう考えても人の気配がしないそこは静かで、諦め悪くあちこちを見回ったけれど、ルタはいなかった。
「――あれ?」
ふとそれに目をやり、僕は眉を顰める。見たことのない本が、タオルケットに隠れるような形でルタのベッドの上に投げ出されている。夜空を思わせるネイビーカラーに、高い位置からペンキを落としたかのような不規則なマゼンタカラー。式典の最後に打ち上げた花火を一瞬思い出したけれど、どう考えても双子星の国を彩った花火の方が美しくて鮮やかだったと思った。そして何の気のなしにその本を開こうとして、僕は「は?」と声を漏らす。接着剤か何かで固定されているのか、その本はびたっと固く閉ざされていた。多少の力を込めたぐらいでは、到底動かない。
「…なにこれ」
本の形をしたオブジェだろうかと首をかしげる。けれど顔の近くにそれを持ってくると、古い本特有の紙の匂いがした。
迷った末に、主のところへ行くことにした。部屋に送り届けてからまだ1時間も経っていないから、きっと起きている。ルタならこういう時遠慮して主には知らせないのかもしれないけれど、と思いながら僕は長い廊下を駆け出した。
差し出した本を見た主たちはふたりで目を合わせて、それから困ったように「あら」「そっか」と声を漏らした。
「……え、ふたりとも知ってるんですか。この本――えっと、本、でいいんですよね?」
問えばふたりは頷く。
「本だけがあって、ルタくんがいなくなったのよね?」
ララ様の言葉に頷けば、キキ様がもう一度「そっか」と言って、ララ様を気遣うように見た後に言葉を続ける。
「その本はね、クラくん。ちょっと不思議な本なんだ。必要な時に必要な人のもとに現れるんだよ」
「…どういうこと?」
「少しだけルタくんには、お休みが必要っていうこと。たぶん、そう遅くならないうちに戻ってくるよ」
「意味が良く…」
「――少し話が長くなるから、お茶でも淹れましょうか」
そう言うとララ様は小さなキッチンからティーカップをみっつ持ってくる。小さなカップがふたつと、大きめのカップがひとつ。いつもならよっつそろってるはずのティーセットの数が違うことに、僕はちょっとさびしくなる。
「この本は、思いやりに溢れすぎている本なんだ」
キキ様はそう言って、本の表紙をなでる。
「あまりに辛い人やさみしい人がいると、その人を連れて行ってしまうんだ。本の中にね」
「…連れて行って…えっ、じゃあルタは」
「あっ、でもずっとじゃないよ。その人が元気になったら、ちゃんと戻ってくる。ルタくんならきっと、三日も経たずに帰ってくるよ」
「三日もですか?」
思わず僕は声を上げる。だって僕たちはずっとずっと長いこと、離れずに一緒にいたのに。
「信じてあげて」
ララ様はそう言って、優しい香りがするお茶をティーカップにそそぐ。
「…実はあなたたちの前の前の騎士も、それより前の騎士たちも、みんなじゃないけれど、何人かこういった本にお出かけしたときがあったの」
へえ、と僕は相槌を打つ。ルタが嫌がるからキキ様もララ様もほとんど先代やあるいはそれより前の騎士の話はしないけれど、僕は昔の話を聞くのが好きだった。
「そのうちのひとりはとてもやさしい人で、だからこそ私たちより先にいなくなってしまうことが、辛くなってしまったのね」
僕はまじまじと、永遠の存在であるふたりの主を見る。幼いころから僕たちは背がだいぶ伸びたけれど、主たちはずっとずっと変わらない。声も、笑顔も、好きなものも何もかもが。
(ルタもやさしいから、その人と同じ気持ちなのかもしれない)
変わることを好まない兄を思い、変わらない主を見る。こんな幸せな時間が続けばいいと僕もいつだって思うけど、ルタのその思いはもっと強い。きっと、こんな本に惹かれるほどに。僕の前では硬く冷たいだけのかび臭いそれを見ながら、そう思う。
「それで彼も本と出会って、少しだけお休みしたの。本の中で何をしたかは教えてくれなかったけれど、でもその人も他のみんなも元気に帰ってきたから。だからルタくんも大丈夫よ」
「ふうん…」
わかりました、と一応口だけで答えると、キキ様もララ様もくすくす笑う。
「全然納得してない顔ね」
「…え、いや、別に…」
いったん否定してから、「まあ」と肯定する。小さなころからずっとそばにいてくれた主には、ごまかしがきかない。――もっともルタに言わせるとどんな相手にもごまかせていないそうだけれど。
「今夜は私たちと寝る?一人はさみしいでしょう?」
「う…でも…」
そうしようよ、とキキ様に言われて僕はややあってから頷いた。やっぱり隣の部屋に誰もいないのはさみしい。キキ様は楽しそうに、じゃあプラネタリウムマシンを持ってこようよとはしゃいだ。ララ様は、僕を慰めるように言う。
「ルタくんは大丈夫よ。本のなかはきっと、幸せで包まれてるから」
本当かなと僕は、毒々しいとも言えそうな色の本の表紙を見る。ルタが本の中で怖い思いやさみしい思いをしていないといいなと考えながら、お茶を飲み干した。
★★★
夢中になって本を読んでいたら、周りがいつの間にか暗くなっていた。明かりをつけようと本を閉じて顔を上げると、コーヒーテーブルの上にいくつもの袋が乗っているのが見える。
何だろうとそれを覗けば、たくさんのお菓子やてづくりの布小物、小さな雑貨、お花などが入っていた。どれにも今回の式典のロゴマークが入っていて、「るたーる様へ」と幼い字で書かれた手紙やメッセージカードも見える。
(式典のお土産、かな?)
家を出る前に「お土産、たくさん持って帰るね」と笑顔で言っていた弟のことを思い出す。
(声をかけてくれたら良かったのに)
そこまで本の世界に没頭してただろうかと思いながら、「クラ」と弟の名前を呼ぶ。おかえり、と言ってあげたかったし、式典を欠席してしまったことへの謝罪や諸々の感謝など、他にも伝えたいことがたくさんあったから。
けれどそこはしんと静かで。
「クラ…?」
いったんお土産だけを置いてまた出かけたんだろうかと、俺は首を傾げて窓の外を見た。星形に作られたこの家は、俺の部屋からちょうど主の部屋の明かりが見える。
(ふたりは帰ってきてる)
大切な主の帰宅が嬉しくて、俺は子どものように浮足立って部屋を出る。きっとクラも主と一緒にいるんだと思ったらもっと嬉しくなった。ほっとしながら、長い廊下を走らないように気をつけながら歩く。あんなに寂しくひんやりしてた家が温かく感じた。
主が普段使う部屋の扉は開いていた。それすらも嬉しくなって「おかえりなさい。ララ様、キキ様、クラ…」と声を掛けながら入室する。けれどそこにいたのは、ふたりの主だけだった。ふたりは小さな目を丸くしてから、「そっか」「あら」とそれぞれ声を漏らす。それからふたりで「ただいま」と少し困ったような顔で、俺を見た。
「…? あの、クラは?まだ、会場ですか?」
ええとね、とキキ様が言葉を選ぶように言う。
「驚かないでほしいんだけどね、ルタくん。この世界にクラくんはいないんだ」
「…はい?」
驚かないでほしいという主の頼みはあっという間に俺の中を通り抜ける。いたずら好きの主の遊び心かなと一瞬思うけれど、うつむくララ様の顔でそれは違うのだと思う。
「クラはどこにいるんですか」
思った以上に冷たい声が響いて、俺は慌てる。主の前でこんな声は出しちゃいけない。
「すみません、あの…この世界、というのは」
「…お茶でも淹れましょうか」
ララ様がそう言って席を立つ。主にお茶を淹れさせるわけには、と立ち上がった俺をララ様は制してティーカップを並べる。小さなカップがふたつと、大きなカップがひとつ。みっつのカップが並ぶ風景はあまりに悲しくて、俺は唇を噛む。
「ルタくんはたぶん、ここに来る前に本を読んでいたでしょう?」
キキ様に問われて俺はカップから目線を上げる。はい、と答えると「やっぱり」とキキ様は少し息を吐いた。
「あの本はね、思いやりに溢れた本なんだ。でも思いやりの力が強すぎて、寂しさや辛さに囚われた人を守ろうと、こうして本の中に閉じ込めてしまう」
「…本の中…?こうして、というのは…」
でも大丈夫だよ、とキキ様は言う。
「ルタくんが元気になったら戻れるから」
「元気…?」
言葉の意味を計りかねて俺は問い返す。いまだに残る熱や喉の痛みが緩和したら、という話ではないのは想像がつくけれど。
「クラがいないのに…元気になんてなれないです」
うつむきながら言えば、ララ様が小さな手で背中を擦ってくれる。いつの間にか目の前に置かれていたティーカップからは優しい香りがした。
「今夜は私たちと一緒に寝る?」
ひとりじゃさみしいでしょうと言ってくれる主の誘いを丁寧に断り、部屋に戻ることを告げる。主は少し心配そうにこちらを見て、「さみしくなったらいつでも来てね」と言ってくれた。
ひとりの寝室で俺は、やることも思いつかないまま袋からたくさんのお土産を取り出す。星の形をしたジャムクッキーはきっと街のはずれにあるお菓子屋さんのもので、金色の糸で刺繍が施されたコースターは、川沿いのアパルトメントに住む老婦人の手作りだ。
ひと通りお土産を見て手紙やメッセージカードを読めば心はじんわりと温かくなったけれど、それでも芯はまだ信じられないほど冷たい。迷った末に部屋を出て、弟の寝室に足を踏み入れた。出し忘れの洗濯物が作業台の隅に無造作に置かれているのを見れば、強く強くクラに会いたくなる。
(…向こうの世界はおんなじように時間が流れているんだろうか)
仮にそうだとしたら、あちらの世界で俺はどうなっているんだろうと思う。ふつうに暮らしているのか、あるいはいないのか、身体だけが残っているのか。
ふと、どこからか声が聞こえて顔を上げれば、弟の相棒ともいえる工具たちが立ち上がって俺を見ていた。持ち主のいない道具たちは、こちらを少し警戒しているようにも見える。
「…何?」
問えば青い持ち手の何か(俺には工具の正式名称がわからない)がため息をついてみせる。
「持ち主がいないと、俺たちは錆びてしまうんですよね」
「そうそう、クラーク様に存分に使ってもらうのが私たちの幸せですから」
今度は緑色の何かが言い、そうだそうだと小さな工具たちが言う。少し皮肉っぽく物を言う様は弟に酷似していて、俺はもっともっとさみしくなる。続いて口を開いたのは、鋏状の何かの工具だった。まあまあと騒ぐ工具たちをなだめる。
「この世界はルタール様が考える幸せでできてるんですよ。だからゆっくり過ごすといいですよ」
反射的に顔を上げて、信じられないことを言ったその工具を見つめる。クラが大切にしていたものじゃなければ、激昂してはたき落としていたかもしれない。
「クラがいない世界が幸せ…?」
それでも滲み出る強い口調に、けれど彼は怯まなかった。
「ルタール様の考える幸せって何です?」
それは、と俺は名前も知らない工具に答える。奇妙な風景だとは、そのときは微塵も思わなかった。
「クラとキキ様とララ様とずっと一緒に、変わらず過ごすこと」
言葉にすればそのあまりの儚さに肋骨の下に痛みを覚える。けれどそんな俺の様子を見て、くつくつと棒状の何かが笑った。
「ルタール様、それはあまりに強欲で、ひどい矛盾です」
「…矛盾?」
「この国の主はともかく、クラーク様はどんどん変わる。私はクラーク様が小さな頃からずっと一緒にいますが、あのひとは毎日違いますよ。変わらないどころか、いつだって変わりたがってる」
ねぇとそれは周りに同意を求めて、周りも頷く。どんどん新しい機械を発明しているのが証拠でしょう、とそれは言って、また、くつくつと笑う。
「変わり続ける人とずっと一緒にいることと、変わらず過ごすことは両立できない。天秤にかけて、選ぶしかない」
そして、とその工具はくるりと芝居がかったように回りながら言った。
「これが結果です。あなたはクラーク様より、変わらないことを選んだ」
安心してくださいね、と工具は笑う。
「一度印刷された本は何度開いても同じです。つまりあなたは、変わらぬ世界に辿り着いたんです」
★★★
大きな行事のあとは、いつだって仕事に追われる。次々ネットワークを通じて届けられる報告書をひとつずつ見ながら、僕はルタのいないその日を過ごした。去年から導入したデータ整理システムがあって良かったと、心から思う。もともと書類整理はルタの仕事だったから作る予定はなかったのだけれど、去年は大きな行事がたまたま立て続いたので作ってみたのだった。順次データベースに落とし込まれていく報告書の数字を見て、それからこちらも先日構築したシステムによってまとめられたアンケート結果を見る。特にクレームやトラブルはなかったようで、ほっとする。思いやりに溢れたこの国はいつだって平和で、本当にやさしい。
そんなアンケート結果を見ていれば「来年はルタール様も一緒に」と書かれていて、みぞおちのあたりが少し冷たくなる。キキ様とララ様はルタが元気になれば帰ってくると言っていたけれど、本当だろうか。
各所からの報告に目を通していくつかのリモート会議をこなしている間に、おやつの時間がとっくに過ぎてしまっていることに僕は気づく。甘いものが欲しいなと思うと同時にルタがいないことがひどくさみしくなった。ルタのいないおやつの時間が、僕はいちばん嫌いだ。小さな頃は体調を崩したルタがおやつの時間にいないということだけで、べそべそ泣きながらおやつを食べていたことを覚えている。
(あの時は、ルタが体調が悪い中、わざわざ起きてきてくれたっけ…)
柔らかくて愛しい過去を思い出して、そしてふと、ルタがいないということは結界が強化できないことだと気づく。街の巡回は警備のものに任せて、慌ててララ城の祈りの間へと足を運んだ。
ルタほどの魔力はない僕には、国を覆うような結界を生み出すことは正直できない。けれど、既にあるものの強化ぐらいはできるはずだ。美しいステンドグラスの前で「どうかルタが戻ってくるまで国を守れますよう」と僕は祈る。本当はルタが戻ってきますようになんて子どもっぽく祈りたかったけれど。
1時間ほど結界に魔力を注ぎ込むと、じんわりと汗をかいた身体がだるさを訴えてきて、僕は辟易する。改めて自覚する自分の無力さに、ため息が漏れた。
(もっと強くならなきゃ)
昔よりは魔力も体力も上がっているはずだけれど、それでも兄に比べると自分のそれはひどくちっぽけだ。このままじゃまた、兄の足を引っ張ってしまう。
そう思って祈りの間を出ようとしたとき、その本は現れた。
「は?」
手に取ったそれはあまりに薄い。ほんの数ページぐらいしかない絵本のようだった。硬い表紙には夜空の色に鮮やかな水色の煌めきが描かれている。このタイミングでなければ、この本がルタの寝室で見た本と何か関係があるものなのかもしれないと、いくら僕でも気づいたと思う。けれど朝からずっと働いていて結界を強化したあとの心身はそこまでの思考を手助けしてくれなかった。要は疲れていてまともに判断できなかったという、騎士としてはあまりに恥ずべきことだ。けれど言い訳ができるなら、その本はそれほどまでの存在感ときらびやかさを放っていたということでもある。
ステンドグラスのように美しいその表紙を僕はなでてから、ゆっくり開く。インクの匂いがした気がした。
ふと気づけば僕はお城の屋上にいた。おかしいなと周りを見渡して、そしてそれに気づく。夜空に、ルタがいる。
「ルタ!」
三日月に腰掛けるようにして座っていたルタは僕を見て笑って、それから少し泣きそうな顔になった。
「どうしようクラ…俺、大きくなっちゃったみたい」
そう言いながらぐうっと伸ばされた手は本当に本当に大きい。人さし指が僕の身体ぐらいもあった。
「すごい…」
僕はルタに会えて嬉しくて、ルタにたくさん触れられることが嬉しくて、思わず差し出された手に飛び乗る。柔らかくてあたたかいルタの親指にしがみつけば、ルタはくすぐったそうに笑った。
ルタが帰ってきた、と思って嬉しくなっているとふと隣に大好きな主がいることにも気づく。
「キキ様ララ様!」
小さなふたつの身体を抱きしめると、ルタの手もやんわりと僕らを包んでくれる。
あぁ幸せだなと思って僕は、
「…は?」
不意に意識が引き戻される。目の前には心配そうにこちらを見ているふたりの主の姿。良かった、と胸を撫で下ろしたのはララ様だった。
「クラくんまで本の世界に行っちゃったからどうなるかと思ったわ」
「…本の世界?」
「ほら、だから大丈夫って言ったでしょ」
ねっ、とキキ様がララ様に笑いかける。
「クラくんの本、信じられないくらい薄かったしすぐ帰ってくると思ったんだぁ」
無邪気に笑う主に僕は「どういうことですか?」と問う。
「つまりはクラくんも本の世界に一瞬だけど行ってたってこと」
「…僕が?」
そんなはずは、と言いかけてあの本を思い出す。鮮やかな水色が散りばめられた、板チョコみたいに薄い本を。そして、昨夜からの疲れや怠さがすっかりなくなっていることに気付く。なるほどこれか元気になることなのかと、改めて思った。ほんの少し夢を見ていたぐらいの感覚なのに。
それにしても、と僕と同じ色の髪色をした主はいたずらっぽくこちらを見る。
「本の世界から戻って来るのがこんなに早いのクラくんがはじめてだよ」
ふふふともうひとりの主も笑みを零した。
「クラくんの幸せってすごいのねえ。あんなに僅かだなんて」
「…え、それ褒めてます?」
褒めてる褒めてるとふたりの主は交互に頭を撫でてくれる。本当かなあと思いながら大切な主を片手ずつに収めて祈りの間を出た。
それにしても幸せな世界だったなと、本の中と同じように主を抱きしめる。だったらルタも大丈夫だ。きっと帰ってきたら、僕以上に満ち足りてる。そう思えば、ルタのいないこの家の中でも寂しさが減る気がした。
★★★
ぱかりと目を開ければそこは星がまたたくベッドだった。あぁ夢だったんだなとほっとして、弟の部屋へ足早に向かう。まだ外の彩度が低い時間に部屋を訪問するのはいくら双子と言えど無礼かもしれなかったけれど、きっとあの優しい弟なら許してくれる。
けれどどうしてか、弟の部屋は暗くて空っぽだった。それはどこを探さなくてもわかる。明らかにぬくもりがどこにもないのだ。作業台のうえで無防備に眠る工具たちを起こさないよう、部屋の奥の弟のベッドに向かう。
くら、と小さく呼びかけて天蓋を割るけれど、想像通りそこにクラはいなかった。
(やっぱりここはまだ、本の中)
手先が器用な弟が整えたであろうベッドは布団の端まで綺麗にまっすぐで、人の気配がまるでしない。俺のベッドと違い飾りの少ないそこにいると、他人に対して素っ気ない態度をとるクラが思い出されて、ひどく懐かしくて恋しくなる。
(こんなに会いたいのに)
変わらない世界と弟だったら、確実に俺は後者を取るのだと思っていた。けれどここには弟はいない。
そっとベッドに乗って、窓の外を見る。まだ光が乏しい世界はそれでもいつも通り美しく――、
「あれ?」
俺はまじまじと窓の外の風景を見る。何かがおかしい。自室からの風景とは角度が違うからだろうかと思ったが、それでも違和感がある。
(そうだ、あの本屋は改装中だったはずなのに
元の姿のまま…。あっちにあったはずの学校もなくなってる…?公園も…)
少しずつ元の世界とは異なる風景を見ていると、リン、と小さなベルの音がして、ベッドの枕元に置かれていた目覚まし時計がこちらを見る。
「え…」
「何か用?」
まるで弟が他人にするようなぞんざいな言い方をする目覚まし時計は、こちらをねめつけるように見た。俺は何も話しかけていないし時計の方も見ていなかったのに、と思いつつ、それでもその口調が懐かしくて俺はそれと向き合う。
「…俺の知っている外の景色と、少し違う気がしたんだ」
俺の言葉に目覚まし時計は、はん、と小生意気な声を出す。
「そりゃそうでしょ。アンタが望んだ世界なんだから」
「望んでなんかいない」
昨日も工具たちに似たようなことを言われたなと思いながら、否定する。どうだか、と目覚まし時計は枕元から降りてこちらへやってくる。
「そんなに弟が大事なわけ?」
「もちろん」
間髪をいれずに答えれば、目覚まし時計は少し斜に構えながら笑った。
「だったらどうして元の世界で満足しなかったの?強欲さは罪だよ」
完全に外に光が満ちる時刻になれば、城内は賑やかになる。どうやらこの世界でも、昨日は行事が滞りなく終わったようだった。報告書整理をしようと会議室へ行けば、複数の妖精が何かの機械の前で談笑している。
「あぁルタール様、体調はもう宜しいんですか」
「うん…あの、報告書をまとめようかと思ってきたんだけど」
「でしたら大丈夫です。クラーク様がオート…あ、いえ、自動で報告書をまとめてデータベース化するシステムを、構築してくださっているので」
「…?」
「アンケートも含めて午前中のうちにはまとまると思いますので、そうしたら印刷してお持ちしますね」
にこやかに言われて、俺は言葉に詰まる。報告書やアンケートのまとめ作業は、たいていいつも2日がかりだった。字が汚くて読めないだの計算が違ってるだのとみんなであれこれ言いながら、それでも行事の余韻に浸りながら行っていたのに。
(クラはいないのに、こういう仕組みだけは存在するんだ)
急に物悲しさと憤りが同時に溢れてきそうになって、俺は慌てて手のひらに爪を立てる。不安げな顔の妖精に仕事のお礼を言って、別の部屋へ向かう。
そこでは、昨日の写真の整理が行われているようだった。声を掛ければ体調を問われ、昨日欠席したことを謝る。
「ルタール様もご覧になりますか」
そう言って示された写真はすべて印刷されていて、俺はほっとする。あの無機質な画面にうつるものは、どこか現実味が薄い。手に取れるというだけで、安心できた。
けれど昨日撮られたという写真には、ひどく違和感があった。
「……」
子どもが、どこにも写っていない。広場のヨーヨー釣りやくじなんかは子どもに人気のはずなのに、大人の姿しか写っていない。さらに、主を写したものもあったが、弟の姿はどこにもなかった。
「ルタール様?」
問われて俺は無理矢理笑顔を作る。聞いたところで答えは同じだ。この世界に、変化のあるものはいませんよ。
★★★
僕は苛々しながら朝日に照らされている例の本を睨みつける。キキ様は3日もあればルタは帰ってくると言っていたのに。
「もう10日かぁ…」
ダイニングテーブルの上で憎らしいほど堂々と鎮座する本を見ながら、僕は主たちと顔を突き合わせていた。
「こんなに長いのは、はじめてかもしれないわ」
ララ様がそう言って、キキ様が「長くても1週間ぐらいだったよね?」と聞く。
「結局僕たちは、待つしかできないんですか?」
僕の問いにふたりの主は顔を見合わせて、「わからない」と答えた。ルタが幸せに過ごしているならと思ってずっと待っていたけれど、何かあったのではないかと心配だし、そして何よりさみしい。ルタの幸せを壊すことは怖いけど、でもやっぱり会いたいと僕は思った。
「…この本、無理矢理開けたらだめですか」
「えっ?」
僕は固く閉ざされた本を様々な角度から睨むように見る。
「糸綴じになってるからうまく背表紙を剥がせば開けられる気がする…」
表紙は硬いけれど別に金属を使っているわけではないから、どうにでもなる。魔法の力で開かなくなっているのであれば魔力除去の呪文でもかければ、いけるのだろうか。ただ問題は、それで中にいるルタに何か悪い影響が出ないかというところだった。もしも失敗してルタの心身が傷つくことになったら。
「…無理かな」
ノックするようにコンコンと表紙を叩けば、本が少しだけ震える気がする。
「それは…どうかなぁ…」
うーん、とキキ様が頭を抱える。そんなことやった人誰もいなかったから、と。
「いいんじゃないかしら」と言ったのはララ様で、僕らはびっくりして彼女を見つめる。いつもは慎重なララ様がこんなにあっさりとリスクのあることを受け入れるとは、思っていなかった。
「本当に?」
「この本は思いやりに溢れた本だから、きっとあなたたちにとってひどいことにはならないわ。ルタくんを、迎えに行ってあげて」
ララ様の言葉に僕はこくこく頷く。ルタに会える。それが何より嬉しかった。
少しでも魔力が満ちているところがいいかなと思い、ララ城の祈りの間で僕は工具箱を広げた。目の前ではララ様が、祈るように手を組んでじっと本を見つめている。キキ様は僕の隣で、彼専用の工具箱を広げていた。
ルタがいなくなってからしばらく触っていなかった馴染みのある工具を手に取れば、確かな温もりと重みを感じる。よろしく、と心の中で工具に話しかければ、任せろと言う風に彼らはきらめいてみせた。
念の為にと早めに結界強化をしたおかげて身体は少し疲れていたけれど、それでも目の前に本を置けば気持ちが弾む。どうやってこれをこじ開けようかという好奇心と、大事な兄に会えるという、幸福感と。
美しい光とルタが残した柔らかい魔力で満ちた空間で、本と向かい合う。本の中で幸せに過ごしているルタには申し訳ないけれど、それでもどうしても会いたかった。
★★★
こちらに来てから10日が過ぎた。クラの部屋から拝借した目覚まし時計は朝の日差しの中で、ふん、と不満げな声をあげた。
「毎朝毎朝、そんな憂鬱な顔で起きなくたっていいのに」
「…俺は早く帰りたいんだよ」
相変わらず辛辣なそれにいちいち柔らかさを取り繕うのも面倒に感じて、寝起きの不機嫌さをそのままに答える。帰ればいいのに、と目覚まし時計はつまらなそうに言った。
「帰る方法が分からないんだ」
「ふぅん」
そういうものか、と目覚まし時計は少し思案する。
「だったらまだアンタは、帰るタイミングではないのかもしれないね」
「タイミングがあるの?」
「あるでしょ。ただ、この不変の国にそれが訪れるかは分からないけれど」
その言葉に、俺は益々憂鬱な気持ちになる。俺が欲しかったのは変わらない世界ではなくて、幸せが壊されず続くことだけだったのに。そんなことを言えばなんてごうつくばりだと言われるんだろうなと思いながら、渋々身支度をはじめる。
髪を束ねている時にふと、部屋の空気が揺れた気がした。
(地震、かな?)
目覚まし時計を見たけれど、彼は退屈そうに窓から不変の街を見ているだけだった。
不変の世界だと言っても大きな変化がないだけで、時は流れる。とっくに行事の後始末は終わり、今度は来月に差し迫った予算会議の準備に追われる。各所から出された予算案に目を通しながら俺は、ため息をついた。しんとした空間で吐き出された音が物悲しい。クラが横にいたら「どうしたの」とか「お茶でも飲む?」なんて声をかけてくれるのに。
ひとりには広すぎる執務室でもう一度ため息をついて、無意味に窓の外を見る。そして、その光を認めた。
美しい薔薇色雲の隙間から見える、眩しいほどの光の欠片。今まで何ひとつ変わらなかった空に、それはあった。
名前を呼びながら主の部屋へ行けば、ふたりは心得ているというように頷く。
「あの、あれ…」
すごいねえと笑ったのはキキ様だった。
「あんなふうに迎えに来た人、いなかったねえ」
「迎え…?」
「行ってらっしゃいルタくん。ちょっとの間だったけど一緒にいられて嬉しかったよ」
「あっちの私たちにもよろしくね」
ふふふとふたりの主は優しく笑う。この世界に来て、主の前でずっと暗い顔をしていただけだったことに、俺は今さら気づく。どこにいてもどんな時でも優しい主は、紛れもなく不変の象徴だったのに。
またね、とキキ様が言えば、もう来ない方がきっといいのよとララ様が言う。俺は深く頭を下げてから、少しでもあの光に近づこうと城の屋上を目指す。途中あの目覚まし時計を思い浮かべたけれど、それより大切なものがきっと空の上にあると思った。
駆け上がるように城の屋上に立っても、当たり前に光はまだ遠かった。どうしていいかわからず、俺は子どものように手を伸ばす。
届くはずもないとわかっていてもどうしても触れたくて。
ややあって、その光が柔らかく揺れはじめる。
じっと注視していれば、それは少しずつ大きくなって、こちらに近づいていることが分かった。その正体が間違いなく彼らだと確信した俺はもっと、と子どものように手を伸ばした。
「ルタくん!」
目の前に飛び込んできたのは、青空のような髪の小さな小さな主だった。ほっぺをぎゅむっと押し当てられる。
キキ様の後ろにはほっとしたようなどこか泣き出しそうな顔をした弟と、あちらの世界と同じようににっこり笑うララ様がいた。
「…俺」
何の意味もなく呟けば3人がそれぞれ「おかえり」と声をかけてくれる。ぎゅうと抱きつくキキ様に手を添えながらふたりの方へ向かえば、クラがこちらに手を伸ばしかけて、それから慌ててその手を引っ込めた。
「僕、その…手が汚れてるから」
服が汚れちゃう、という弟の指は黒かったけれど、そんなものは洗濯をしたらいいだけのことだった。それよりも黒の隙間からのぞく赤いものの方が気になった。
「…怪我してる?」
「作業中に少しだけ。でも大丈夫」
そう、と俺は小さく言う。騎士として生きている以上、多少の怪我には慣れているつもりだけれど、半身の赤い色にはどうしても過敏に反応してしまう。
「それより、ルタは元気になった?向こうは楽しかった?」
うつむく俺にクラはぎこちない笑顔で言い、俺は思わず「え?」と問い返す。そう言えばあちらの世界に初めて行ったときに、元気になったら帰れると言われた気がする。元気どころかずっと塞いだ気持ちでいたのだけれど、少なくとも熱も下がって喉の不調も落ち着いている。そういうことなんだろうか。どう答えようかと思っていると、クラはこちらを伺うように言葉を紡ぐ。
「…本当はルタのためには、向こうにもっといたほうが良かったのかもしれないんだけど」
「え?」
「でも僕がどうしてもルタに会いたくて、無理矢理呼び戻しちゃった。ごめんね」
「そんなこと」
手を後ろで組んで目をそらす弟に「戻ってこられてすごくうれしいよ」と伝える。本心だったけれど、クラは俺が気を使っていると思ったのだろう。「本当に?」と聞く。クラがあちらにはいなかったことを伝えたら、彼はどう反応するんだろうと思う。
少しだけ微妙な沈黙が、俺たちの間に生まれる。10日ぶりに見た弟は少し痩せたようにも見えるし、大人びたようにも見える。前髪が少し伸びているからかもしれない。
「さぁ、そろそろお片付けしましょう」
お互いに探り合うような空気を出す俺たちの間に明るさをくれたのは、ララ様だった。
「ふたりとも手を洗って、工具箱もお片付けして。キキはクラくんの手当てもしてあげて」
それが終わったらおやつにしましょう、とララ様が言えば、クラはほっとした顔をする。それからキキ様と顔を見合わせて「やった」と笑い合った。10日ぶりの風景はあまりに美しくて暖かくて、後で絵に残そう、と俺は思う。そんなことすら幸せで、戻ってきたんだと実感する。
ふたりが工具箱を持って部屋を出ていくと、ララ様はにこっと笑ってこちらを見た。
「戻ってきてくれて、良かったわ」
「…すみませんでした」
いいえ、とララ様は言って、それから少しだけ笑う。
「あちらは、あまり居心地が良くなかったのかしら」
いたずらっぽく笑う主に、苦笑しながら「そんな感じです」と俺は答える。ララ様には、嘘も強がりも絶対に口に出せない。もう幼い頃からの癖のようなものだ。どんな世界だったか聞かれたらどうしようとふと思ったけれど、ララ様は特にそれ以上言及しなかった。かわりに、クラのことを話す。
「とても頑張ってたのよ。お仕事も全部ひとりでして、外交もいつも以上に丁寧にしてたわ。結界も見ての通りよ」
そうですか、と俺は手に血をにじませていた弟を思う。弟はこの10日で変わったんだな、とごく自然に納得してそしてほんの少し嬉しくなった。
「ルタくんがもし元気なら、ご褒美にホットケーキを焼いてあげたらいいわ」
「そうします」
俺の言葉にララ様は頷いて、それから少しだけ泣きそうな顔をした。
「戻ってきてくれて、本当に良かった」
さっきと似た言葉は、今度は少し湿り気を帯びている。
「ララ様」
「おかえりなさい、ルタールステラ」
そう言って俺に手を差し出した主は、あちらの世界にいた主とは、なぜだか少し違う存在に見えた。