スパイAUホテル編徐々に近づいてきている。送り合う合図が、「見られている」から「追手あり」に、「追手あり」から「接近注意」に変わるまでそう時間はかからなかった。さすがに接触は避けなければと考えたのは恐らく二人同時だろう。咄嗟に目に飛び込んできたのは、真白い建物。
───お前に触れたい、と”恋人”の風信から声をかけられ慕情はすぐに返事ができなかったのか視線を彷徨わせている。頬に手が添えられているので触れる、の意味はもっと深いところへということであろう。そんな”恋人”の慕情の反応を予測済みだったのか特に答えを聞くこともせず風信は彼の手を引くと路地裏へ足を進める。ここを抜けた先にあるのはホテル街。戸惑いを隠せず慕情が風信の名を呼ぶが、彼の足は止まらなかった。二人の背中がある建物の中に消えたのを見届けると後ろに潜んでいた影は距離を置いた。
「報告、対象者は南4番第38ブロックの………───」
部屋の扉が閉まるや否や、風信の腕が慕情を強引に引き寄せ、その唇を塞ぐ。反射的に身をよじろうとしたところを押さえ込まれ、眉を顰める。
…この建物に入ったのは追跡を振り切るためだ。二人が恋仲ではないという確証が得られない限り騒ぎを避けたい”向こう側”の監視者たちがここに押し入ってくることはまずない。自分たちが出てくるのを待つにしても必要以上に建物の周辺に留まれば人目につくためある程度の時間までが限界となる。一般人の行き来する建物というのは籠城作戦をとるには持ってこいの場所なのだ。
加えて部屋の中に閉じこもってしまえば嫌々やっているこの”恋人のふり”をやめても敵方にバレることはない。……はずなのだが。
「んぐ…っ…ふぉんし……」
どういうつもりか尾行者を巻き終えたはずの風信が慕情に芝居を続けることを強要してきている。先程から息苦しい。
どうした、ここならもうお前の嫌いな”ふり”はしなくてもいいはずじゃないのかと言おうとしても、深く口づけられたままでは声はすべて口の中に消えていくばかりで音にならない。
元々恋人のふりをすることなって強く難色を示したのは風信の方で、仕事だと割り切ると”らしく”触れ合うことに躊躇こそしなくなったが、いまだに濃い接触は出来るなら避けようとしているのを慕情は知っている。
そんな男が今日に限っては”恋人”を手離さず吐息の一つも逃してやらぬとばかりに唇に貪りついてくる。
これはさすがに何かあるのだと理解した慕情は周囲に探りを入れようと試みるものの、顔は顎を掴まれ固定されているし、絡めとられた舌は痺れてどうにも気が散る。
…察しろというなら少しはこちらが動きやすいように配慮しろ!…そう頭の中で毒づいた瞬間、上顎をざらりと舌が撫でていき思わず肩が跳ねた。
それを見計らったかのように風信はようやく唇を離したのだが。
「ッはあ……けほっ…風信」
「…暴れるなよ」
「おいっなにを…うわ!」
一息ついたかと思えば今度は体を抱えあげられた。忙しなさすぎる。風信の向かう先はバスルームのようだ。
──…ああなんだそういうことか。ここにきてようやくこの状況にピンとくるものがあった慕情は手足の力を抜き大人しく運ばれてやることにした。
強めに出されたシャワーの湯が叩きつけられ音が響く。”いつもの”風信が何かを呟いた。しかし水音にかき消されて聞き取れない。片眉を上げてみせると表情から察したのか耳元に顔が寄せられる。
「分かってると思うがこのホテル、”あちら側”に手を貸しているな。焦って誘導された。悪い。」
慕情が鳩尾に一発入れると風信は小さな呻き声を上げた。キスに気を取られて状況把握が遅れたことへの反省はあるが、それはそれ。今はこれで済ませてやる。
部屋に隠しカメラが設置されている…と慕情より先に入室してすぐそのことに気が付いた風信は、彼が素の状態でしゃべりだしてしまう前に口を塞いだ。まだ”恋人”の時間は終わっていないのだと理解させると、今度はカメラの死角となり音声に誤魔化しの効くバスルームへと避難をする。
…こう言い並べてみればすべての問題に柔軟に対応をしているようだが、残念ながらさきほど風信が言ったようにここは”あちら側”が金を握らせた狩りの場だ。手を抜かない連中のことなのでここら辺一帯のホテルすべてが同じ条件のはず。ホテル街に向かった時点で慕情たちは失敗している。
「どうするんだ。カメラが動いているなら適当にだらだら過ごすというわけにもいかなくなったぞ。」
すでに尾行していた者たちから建物内の者たちへ二人がいることは連絡が来ているだろう。おそらくは風信が慕情を誘った、というおまけ情報付きで。
「………音声だけでもそれらしい状況だと”向こう”に認識させないと外での行動と辻褄が合わない。慕情、このままここで声だけで抱かれてる演技はできないのか?「よほど頭が煮詰まってると見えるな。よくやるよ、売れっ子スパイってのは。」……芝居だろうが何だろうが男と寝なくて済むならその方がいいに決まっているだろう…!お前一人の演技で完結するなら俺が無理してでも勃たせる必要はないわけだし、そっちの尻も無傷なまま終わるぞ。」
「おい外では合わせてやったが、──なんで当然のように私が受ける前提になってるんだ」
「は?」
「寝るときどっちがどちら側の担当かという芝居設定はまだしていないだろう!」
「………普通、無駄に綺麗な顔してるお前が下なんじゃないのか?」
「そんな見た目裁定あってたまるか。」
「俺は男に体を差し出す趣味はないぞ。」
「奇遇だな。こちらも全く同じことを言おうとしていた。」
「ああもう面倒だな。一度俺が上という風に装ったんだからそういうことにしておけばいいだろう!………」
小声でごちゃごちゃと言い合っているが、二人ともわざわざ入ったホテルから出ていくとしたらどんな行動が自然に見えるのか頭を回転させている。急用で呼び出された風を装うのはアリバイ工作をしておく必要があるので今回はパス、偶然を装ってカメラを壊すのは難易度が高すぎる。
「…そういえばさっき”お前”はここに入るのをためらっていたよな。」
ふとなにか思いついたらしい風信が慕情の顔を覗きこむ。
その目に浮かぶのは、わずかな確信と、ある種の企み。
「なら………」
続かない