なにやら一際大きな揺れではたと目を覚ました。乗っているバスの車内アナウンスが、目的の停留所の一つ前に到着したことを告げている。
いいタイミングで起きたなと、しょぼついた目を擦り悪い姿勢と固いシートで凝り固められた首や背中を伸ばしほぐして人心地ついてからようやっと、なんだか全身に妙な疲労感があることに気がついた。肉体疲労もあるが、何より長いことしていた緊張からたった今解放されたような。そんな経験はもちろんないが、銀行強盗の現場に居合わせて、あわやというところで救助されたらこんな心地なんじゃないかと思うような感覚だった。不意に湧いた空想が、突入してきた警官に付き添われ宥められながら店外へ脱出する場面まで進んだところでふと思い出した。現実の僕の隣にも、同じように寄り添い守ってくれた人がいた気がする。それもつい先程まで。思わず見つめたバスの隣席にはもちろん誰もいないけど。
「…雄司くん?」
一人でに唇からまろび出た名前が鼓膜に届くと同時に、堰を切ったように記憶が溢れ出す。画面に浮かぶドリームグランプリのロゴ、蠢く魚人の怪物、互いの腹を探り合う冷えた視線の応酬。
不可解で理不尽で悪趣味な状況の中で、善性を失わず屈託なく笑っていた彼。
手繰り寄せた記憶の中でゲームマスターは最後に、”一般人の君たちは現実世界に帰してあげる“と言っていた。ヒーローとしてゲームに参加していた彼はどうなっただろうか。慌ててスマホを取り出して、ブックマークしていたドリームグランプリの配信サイトを開こうとするが、どれだけ目を凝らして探してもブックマーク欄にそんなサイトは登録されておらず、ならばと様々なワードで検索をかけるがもちろん一件もヒットはなかった。
……なにか、なにか手掛かりはないだろうか。
咄嗟に見回したバスの車内で見つけた見知った顔に、僕の視線は釘付けになった。車内後方の二人掛け席に座り、涼やかな面持ちで窓の外を眺める古柳くんと、その更に後ろでイヤホンをつけ手元のスマホに視線を落とすおそらく紫音くん。今車内に存在するのは、そこに僕と運転手を含めた四人だけ。他に手掛かりが望めない以上、彼らはドリームグランプリ、ひいては雄司くんに繋がる足掛かりたり得る唯一の存在だ。でも二人は、まるきり挙動不審な僕とは裏腹になんでもない様子で至って普通にバスに揺られている。声をかけるべきかやめておくべきかと逡巡していると、車内アナウンスがまもなくショッピングモール最寄りのバス停に着くことを教えてくれて、行くならいましかない!と覚悟を決めて立ち上がった直後左折で生じた遠心力でたたらを踏んで、また一つ思い出した。バスの横転で痛め、犬の中世画にトドメをさされて包帯でぐるぐる巻きになっていたはずの左足を見る。ぐらついた体を支えようと踏ん張ったそこは包帯どころか痛みや怪我の痕跡すらなく健康そのものだ。
「ふは、あはは」
思わず笑い声をこぼした口をパッと押さえて、スーツケースを引っ掴み素晴らしいタイミングで開いた乗降口から逃げるように飛び降りた。そう、そうだよな。なんだって、一瞬でもあれを実際の出来事だと思ったのだろう。あんなことが現実に起こるわけがないんだ。平凡で退屈な日々を送る僕の脳味噌が、情報整理がてら目についた人だの過去の知人だのをこねくり回して、隙間時間にちょっとしたスリルをプレゼントしてくれただけにすぎないのだろう。つまるところ、全てただの夢だったのだと、僕は結論づけた。
「あっぶない、知らない人に意味わからん声かけしちゃうとこだったよ…あーこわこわ」
危うくやらかすところだったとんでもない失態にじわじわと募る羞恥心を振り払うように独り言を呟いて、バス停を後にする。
昨日夜勤明けに調子に乗って、買い物行ったり部屋の掃除なんかするんじゃなかった、寝不足だからあんな夢を見るんだなどと誰に聞かせるわけでもない言い訳をぶつくさと呟きながら目的地へ向かう僕は知る由もない。車窓から街を眺めていたはずの灰色の瞳が、転がるようにバスを降りる僕の背中を見つめ小さく笑みをこぼしていたことなど。
「はーっ、ついた!ただいま!」
ぱちんと廊下の電気をつけながら、無人の室内に最早習慣となった帰宅の挨拶を響かせる。一人暮らしを始めてすぐのころ、母に口酸っぱく防犯のためにただいまは必ず言うよう言われていたうちは、たかだか挨拶で防犯なんてとあまり重きをおいていなかったのだが、いざ習慣になってみるとしない方が不自然な感じがしてしまい、夜遅く帰って大きな声を出すのが憚られるようなときでも小声でただいまを言ってしまうのはまるで本末転倒だと思う。
外から持ち帰ったスーツケースは一旦土間に放置して、きゅうきゅう鳴き声をあげる腹の虫をなだめつつ、テイクアウトしてきた夕食の入ったビニール袋だけを手にキッチンへと向かう。中身を電子レンジに突っ込んで起動してから今度は風呂場へ。さっと湯船を洗って湯張りボタンを押し、洗面所で念入りに手を洗ってから温まった夕食と共に食卓についた。この一連の動作はすっかりと、自炊なんてする時間も気力もつもりもない僕の帰宅後ルーティンになっている。ちなみに皿洗いも極力したくないので弁当や惣菜はトレイのまま食べるし飲み物は大体ペットボトルか缶で済ませている。健康に悪いと思われそうだし実際気の知れた看護師にぽろっと話したら思い切り非難されたのだが、僕の選ぶ店はPFCバランスが計算され明記されているトレーニー御用達の店がほとんどで、栄養学にも調理にも疎い素人の自炊なんぞよりもよほど健康にいいと考えていた。もちろん、普段自分の家庭の食卓を担い、虚弱な僕の健康を本気で心配している彼女らに、口が裂けてもそんなことは言わないが。
いただきますと手を合わせ、弁当の蓋を開けた。日替わりで1種類しか置かないこの店の方針と僕の無頓着な性分が合わさって、この店の弁当を買った時はいつも蓋を取ってから中身を知ることとなる。今日は秋らしく、きのこと玄米の炊き込みご飯とさつまいものレモン煮、ブロッコリーと胸肉のハニーマスタード和え、そしてメインは丸々としたししゃもが2匹。これで約550Kcalの夕食である。
「ご馳走様でした」
淡々と食事をすませておざなりに手を合わせ、空になった容器をゴミ箱に突っ込んで急ぎ足で向かうのは先ほど用意したお風呂。わざわざ大きめの浴槽がある部屋を選んだだけあって、在宅時における入浴時間の割合は大きい。まあ、単に長い髪の手入れに時間を食っているせいでもあるのだが、それを差し引いても長風呂だとは思う。子供の頃はよくてシャワー、多くの日を清拭のみで過ごしてきた僕にとって、好きなときに好きなだけ湯船を使える入浴は、病気と闘い抜いた末健康と共に掴み取った“自由”の味だった。
洗い場で体と髪を洗ってトリートメントをしっかりと馴染ませ、くるくると髪をまとめてとぷんと浴槽に浸かると熱めの湯がじんじんと肌を嬲って、感嘆とも呻きともつかない濁った声が漏れた。膝を抱えて座り込みしばらく身じろぎもせずに過ごし、やがて湯のかからない額や首筋に汗が浮き始め体がすっかり湯温に馴染んだ頃、僕は無意識のうちに左足首をさすっていたことに気づいた。衣服が取り払われて露わになったそこは、歩き疲れて少し浮腫み靴下の跡がうっすら残ってはいるものの、やはり怪我の痕跡など微塵もない。夢の中で、衆人環視の的となりつつ真っ赤に腫れ上がった足にもたもたと包帯を巻いていたことを思い出す。僕はこれまで生きてきて実際に捻挫や骨折などはした覚えはないが、実際のそれがあれほど痛いのならもっと応急処置を身につけた方がいいかもしれないな、なんてひっそりと決意した。
足の件につられていつしか思考の迷宮へ入り込んでいた僕は、普段より随分長い入浴時間ののちに、逆上せる寸前の体を引きずるようにして風呂をあがった。ゆでダコよろしく真っ赤になってなかなか汗のひかない体に無理くり下着だけをつけ、肩に乾いたバスタオルを引っ掛けて向かったのは玄関。普段は何がなんでも真っ先に髪を乾かすが、火照ったまま熱風を浴びる気にはどうしてもなれなくて、ひとまず先ほど放置したスーツケースの片付けに着手しようと思い立ったというわけだ。ウェットシートでキャスターを拭いて部屋へ運び込んでから、中の荷物を取り出して所定の位置へしまっていく。三脚とカメラはクロゼットとその中の防湿庫へ。SDカードは取り出してケースへ収めたあとPCデスクに置いておく。スマホはベッド脇の充電器に繋ぎ、救急セットやヘアケア用品、財布といった常に持ち歩くものは通勤に使っている鞄へ移しておいた。あとはキャンディをパントリーにしまって終了、というところで、キャンディの袋にくっついていたらしき何かがひらりと床に落ちてキッチンへ向かう足を止めた。そこにあったのはどこにでも売られているような、一枚の台紙に集められた大小様々なステッカー。子供と関わることが多い僕がよく持ち歩いているようなそれは、普段ならば特に気に留めることもなく鞄かファイルに突っ込んでおしまいだろう。今、それができないのは、恐らくこの台紙の中では一番大きかったであろうステッカー一枚分のスペースが、ぽっかり空いていたから。昨日、夜勤明けに寄った文具店で購入し、キャンディと共にスーツケースに入れられて、今の今まで忘れていたそれを、いつどこで使ったのか。心当たりは、一つしかない。
…ごぷりと、喉の奥で嫌な音がする。
咄嗟に口を押さえたけれど間に合うはずもなく、口元に置かれた手指の隙間から吐瀉物が溢れて、トイレに向かいかけていた足を汚していた。昨日夜勤明けハイで子供達に流行中の歌なんか歌いながらワイパーをかけた床にぼたぼたと吐瀉物の軌跡を残しながらどうにかトイレに駆け込んで、かろうじて口内に留められたものを便器へとぶちまけた。
たかだか、百円かそこらのステッカーのうちの、たった一枚が欠けていただけ。不良品だったか、僕が使ったのを忘れているだけと考える方がよほど自然なのに、どうしてか、たったそれだけで僕は“理解”してしまったようだ。
『ドリームグランプリは、実際の出来事だった』
と。どろどろの手で口元を拭って荒い呼吸を落ち着けようと深呼吸を繰り返していると、吐瀉物の中に混じる夕食で食べた柳葉魚のぎょろりとした目玉と目があって、僕はもう一度、胃袋をひっくり返すように嘔吐した。中を見たくなくて、叩きつけるように蓋を閉めて水洗ボタンを乱打する。
「ちが、ちがう…。僕のせいじゃない、僕は、そんなつもりじゃ…!」
さっきまでの火照りが嘘のように冷え切った手足がガタガタと震えている。下肢に全く力が入らず床に座り込みバスタオルをきつく体に巻きつけて、濁流のように迸る、『所詮夢だから』と押し込めていた記憶から心を守ろうと躍起になっていた。
画面の向こうで魚人に首を落とされた人。密室で一人喉を掻き切られた人。
いつのものかも分からない白骨死体。
残酷なものもいろいろ見たが、何より僕の精神を掻き乱すのは、最後人狼糾弾の場にいなかった、彼女たち。ヒーローたちは知らないが、一般人として参加させられたメンバーは全員同じバスの乗客だったはずだ。目が覚めた後バスの乗客は僕を除いて古柳くんと紫音くんの二人だけ。もちろんバスだから、先に降りただけと言ってしまえばそれまでなのだけど、あれが現実だと分かった今どうしてもそんな楽観的な考えは持てなかった。僕が、門を開いて。門をくぐった人は帰ってきて。じゃあ門をくぐれなかった人は…?
「ごめん、ごめ、なさい…僕、誰も、置いてくつ、つもりじゃなかった!」
自分の導き出した答えが正しいものか、ただ確かめたかっただけだった。門が開いたら、みんなを呼びに行こうと思っていた。
猶予がたったの三十秒だったなんて知る由もなかった。…みんなで、生きて帰りたかった。それはどれも嘘偽りない事実だけど、自責を捩じ伏せるのは極めて難しかった。いっそ、他の誰かが責めてくれたらいいのに。そうしたら僕は僕の弁護人として僕に非がないと言える根拠をひとつひとつ筋道立てて説明し、無事無罪を勝ち取ってみせただろう。しかし相手が自分ともなるとそうもいかないので、結局僕は謝罪と自己保身の言葉をぐちゃぐちゃと繰り返すことしかできないのだった。
物言わぬ便器に向かってしばらくの間懺悔と錯乱の一人芝居を見せつけたあと、床にこぼした吐瀉物が乾き始めたあたりでようやく幾分か自分を取り戻して、長い長いため息をつく。
「はあーぁ…やめだ、やめ。こんなことしてなんになる?」
ともすれば再び脳内を埋め尽くそうとする内罰的な思考を振り払おうと、大袈裟によいしょと声をあげて立ち上がる。こびりついて落としにくくなった吐瀉物を残らず拭き取ってから再び浴室へ舞い戻り、今度はシャワーでざっと体を洗って最低限髪を乾かしてからPCデスクの前に腰掛けた。嘆くのは、今できることをやり尽くしてからにしようと心に決めて、検索エンジンに思いつく限りのキーワードを打ち込んでいった。
いつのまにか眠っていたらしくPCデスクで朝を迎えたその日から僕は余暇という余暇、体力気力の全てを注ぎ込んで、ドリームグランプリとその参加者たちの足跡を追おうとしていた。ニュースサイトのサブスクはみっつ契約したし、過去の新聞や眉唾物の雑誌も閲覧できる大きめの図書館にも通った。ワークアウトのお供は、音楽配信サービスからラジオのニュース番組に変わった。それを半月ほど続けて得られたのは、雄司くんが少年時代からバレー界で注目を集める選手で、高校生に上がる頃には将来大手実業団入りが確実視されていたことと、数年前からぱったりとネット上に名前が上がらなくなったことくらい。あとの参加者や主催者、ドリームグランプリそのものについては、虚しくなるほどなんの収穫もなかった。ここらが潮時だと、すっぱり諦めて何もかも忘れるべきだと、頭では分かっているつもりなのに、何故だか僕は今、昔の小説家よろしく書き損じた紙屑の玉を足元にいくつも散らばして、白紙の便箋の前で頭を抱えウンウン唸っている。
調査が完全に行き詰まった僕は、最後の頼みの綱として僕と雄司くんの唯一の接点、僕が研修医としてしばらく勤めた病院に問い合わせをかけ、口先八丁でカルテを閲覧させてもらいこっそり彼の住所を控えたのだ。もちろんしばらく前の情報で今はもう別の場所に住んでいるのかもしれないし、そもそもカルテの個人情報を私的に使うのは歴とした犯罪行為だろう。やめておくべき理由は他にもいろいろ浮かぶのに、それでも知りたい気持ちが止められず手紙を書くことを決めたのだが、なんだか何を書いてもやっすいナンパをしているように感じてしまいなかなかどうして難航しているわけだった。
「元気にしてた?」「僕のこと覚えてる?」「最近何してる?」どれも手紙の書き出しとしては普遍的なもののはずなのになんだか妙に胡散臭さを感じてしまったのは、きっと僕の“悪癖”のせいだろう。いつだったか事の済んだベッドの上、隣に横たわるもう顔も思い出せない誰かに、『その生き方はきっといつか後悔するよ』と言われたことがあった気がする。その時はけらけら笑ってあまり耳を貸さなかったのだが、今まさに予言は現実となったわけだ。何気ない一文に下心を嗅ぎ取ってしまうほど穢れる前におイタからは手を引いておくべきだったと後悔しながら、ああでもないこうでもないと思い悩んだ末に随分な時間をかけてどうにか一通の手紙を認めた。
『雄司くんへ
もし差出人の名前とドリームグランプリという言葉に心当たりがなければ、この手紙は破棄してほしい。僕はドリームグランプリという不可解な出来事に巻き込まれて生還してからというもの、一連の出来事が現実なのか虚構のものなのかの確証が持てずに少々ナーバスになってしまってね。君の安否もとても気にかかっているし、君さえ良ければ会って話が出来たら嬉しい。応じてくれるなら、下記の連絡先のどれかに連絡をもらえるかな。もちろん気が進まなければ断ってくれていいし、なんなら無視してくれたって構わない。君からアクションがなかったら、それをもってドリームグランプリは僕の迷妄だったと判断するから心配しないで。本格的に寒くなってきたから体に気をつけてね。
二階翔』
それからSMSのIDとメールアドレス、電話番号を書き添えて封筒にいれ、きっと見覚えのあるだろう大振りなウサギのステッカーで封をした。
他の痕跡は一切合切拭い去っていったくせに、どうしてこれだけ残していったのだろう。どうせなら全部持っていってくれれば、僕も素知らぬ顔で日常へと戻っていけたのに。さりとて繋がってしまったか細い糸を自ら手放す意地もないまま、ポストの底に封筒の落ちる微かな音を背に、僕は束の間の日常へと戻って行くのだった。