異世界転生(略)③ 森の小屋の扉は半開きのまま、辺りはしんと静まり返っている。空気が異様に冷たい。
家の中は荒らされていた。倒れた椅子。砕けた薬瓶。血痕。氷の粒。薬草は床に散乱し、ハンジの大切にしていた調合器具まで無残に壊されていた。
どこを探しても、ハンジの姿はない。
リヴァイは手にした眼鏡の破片を、無意識に握り込む。手のひらにガラスが食い込む痛みさえ感じない。
額から汗がにじむ。怒りとも焦燥ともつかない熱が胸にこみ上げる中、モブリットの静かな声が意識を引き戻した。
「憲兵ですね」
彼は冷静に足跡を観察し、それが軍用靴であることを見抜いた。
「リヴァイさん。あなたはハンジさんと約束しているはずです。『追いかけるな』と」
モブリットは覚悟の決まった表情で立っていた。
「私はハンジさんのもとに向かいますが、あなたはこのまま大人しく引き下がってもいいんですよ」
特攻の準備を整えながら、挑発的に言う。彼のこういう人並外れた度胸が、ハンジの付き添いとして相応しかったのだと思い出した。
「俺がこのまま、指咥えて見てるわけねえだろ」
モブリットは力強く頷いた。
「森に出入りする正規の手順は簡単ではありません。先遣隊が設置した装置でワープしたはずです。転移装置を探しましょう」
目を細めて周囲に目を凝らす。
家の外、木漏れ日の中に、一箇所だけ異様に影が濃い部分があった。不自然なまでの漆黒。風がないのに、わずかに揺れているようにも見える。
目くばせを交わすと、二人は音も立てずに身構える。
影が動いた。
ぐにゃりと形を歪ませ、そこから人の輪郭が這い出すように浮かび上がった。
リヴァイが剣を抜いた瞬間、閃光が走る。魔法攻撃だ。
「遅ぇよ」
リヴァイの剣は、閃光の軌道を読み切って弾いた。
魔力の流れを逆流させるようにして、術者の元へ跳ね返す。爆ぜた光が襲撃者の手元で炸裂し、悲鳴が上がった。
さらにもう一人が詠唱に入ろうとした瞬間、リヴァイはその口元を狙って鞘の端で打ち据えた。顎を砕かれた男が崩れ落ちる。
残る者たちも動く前に制され、全員が瞬く間に地に伏した。
モブリットが魔法の縄で彼らを拘束する。制服の胸元には、銀色の徽章が光っていた。予想通り、憲兵のマークだ。彼らが出てきた影の周辺を探ると、転移装置の残骸があった。
その痕跡を辿って、二人は森を出た。
*
時は七年前にさかのぼる。
「ハンジ・ゾエ。潔く罪を認めれば寛大な処分にしてやる」
厳重な拘束具をつけられたハンジは、きっちり制服を着た男二人に両脇を固められ、一段高いところにいる裁判官に向き合う。傍聴席には大勢の澄ました貴族たち。その中には彼女の両親もいた。娘が被告人としてあがったこの舞台を、能面のような顔で見ている。
「私は……何もしていない」
ハンジは、弱った声で繰り返す。信念を曲げたくないと、強い意思をもって罪を否定し続けている。しかし、何ヶ月も牢屋の中で人間でないような扱いを受け、揺らいでいた。
何のために罪を否定しているのか、分からない。分からないが、彼女は嘘をつくことだけはしたくなかった。ハンジがハンジであるための矜持は、もう守る意味もわからなくなってしまったが、一種の強迫観念のようにまとわりつく。
裁判とは名ばかりだ。ここでの審判の結果は決まっている。
「被告人ハンジ・ゾエを、爵位剥奪、王都追放及び罰金の刑に処す」
ハンジは由緒正しい貴族のもとに生まれ、幼い頃より次期国王陛下である第一王子との婚約が決まっていた。
王子とは王宮の庭で遊ぶことが多かったが、十二歳で王立学校に入るとそれぞれの交友関係を築き、一緒にいることは少なくなった。それでも、たまに会っては話をしていた。
十五歳、上級学年に上がると、貴族しかいないこの学校に平民出身の女性が編入してきた。名をサンドラという。
彼女は"天才"と呼び声高く、成績も筆記・実技共に優秀だった。
ハンジの成績はというと、興味のある科目はトップであったが、それ以外は平均以下だったりといったムラが目立つ。それゆえ、いずれの科目においても好成績を残すサンドラに感心し、気安く話しかけた。
サンドラは性格も穏やかで、変人と言われるハンジのことも厭わずにいてくれた。
サンドラは転入当初、庶民であることから貴族たちに見下され悪口を言われたり、苦労していたようだ。ハンジ自身も貴族の性質に馴染みにくい性格であることから彼女に同情し、できる範囲で手助けしていた。
そのうちサンドラは持ち前の才能と心優しさで生徒たちの心を懐柔し、すぐに誰もが一目置くような存在になっていった。
王子もサンドラに興味を持ったようで、ハンジは二人を友人として引き合わせた。すると、何か通じ合うものがあったのか、二人の距離は急速に縮まっていった。
そしてあるとき、ハンジは王子とサンドラが互いに惹かれあっているのではないかと直感する。
ハンジは幼い頃から王子と政略結婚することを運命として受け入れ、来る日に向け夫として意識していたため、少々の虚しさや寂しさを抱いた。
表面上は夫婦になっても、他人の気持ちまでは変えることはできない。
もっとも、サンドラは天才とはいえ平民だ。彼女が王子と結ばれることは叶わないと思われた。
せめて、自由のきく学生の期間だけは使命から解放してあげようと、ハンジはさりげなく彼らから距離をとった。
十七歳のとき、事件が起こる。
サンドラが何者かに攫われたのだ。
彼女は幸いすぐに倉庫内で発見され、無事だった。不在に気づき一番に捜索を始めたハンジも、胸をなでおろした。
しかし、この誘拐事件の黒幕としてハンジの名前があがったことで、状況が一変する。
サンドラは以前から退学を強要する脅迫状に悩まされており、当初は貴族の令嬢方の暴走による犯行であると考えられた。
そして同日に、あっさりと実行犯の男が捕まると、彼らは「ハンジに命じられて犯行を行った」と証言した。ハンジはもちろんそんなことをするわけもなく、実行犯に見覚えもなく、寝耳に水だった。
冤罪はすぐに晴れると思っていた。だが、犯行指示書などの「証拠」が発見され、彼女は勾留に至った。そして、ハンジの実の両親までもが彼女の犯行を証言したのである。
被害者であるサンドラは、「ハンジはそんなことをしない!」と信じて声を上げていた。しかし抗弁叶わず、運命の判決日を迎えた。
何が何だかわからないまま、ハンジは孤独になった。
たしかに親との仲はよくなかったが、家の品位を貶めてまで娘を追放するとは、つゆほども思わなかった。
後から聞いた話ではあるが、ハンジの追放後にゾエ家は王家から報酬を得ており、長男が大臣の地位を得たのだという。早い話が、ハンジ・ゾエを将来の妃の座に置きたくない勢力や王政からの圧力がかかったということだろう。
「ハンジ・ゾエ。お前を王都から追放する。行先は決まっているから心配しなくていい。その貧相なカラダでもいいって奴はごまんといるさ。よかったなぁ。たっぷり稼いで、罪を償えよ」
男たちはハンジの身体を嘗め回すように見て、鼻で笑った。
一人がおもむろに腰に下げたサーベルを取り出したかと思うと、ハンジの顔を数度にわたって切りつけた。
「あ゙あ゙あっ!!」
辺りに真っ赤な鮮血が飛び散り、焼けるような鋭い痛みがハンジを襲う。彼女は倒れることさえ許されなかった。
男たちは緊張感のない笑い声を漏らしながら、ハンジの腕を引いて立ち上がらせる。顔も体も血で染まり、傷口は皮下脂肪さえも露呈している。特に眼球は深く傷ついていた。
「これで女とは見れないな。練習だ。男に取り入る術を教えてやろうか。ほら、ほら!」
脚で胸部を踏まれ、肺を押しつぶすように力を入れられる。息ができない。
そこからは、何をされたのかよく思い出せない。
ハンジは地に伏せたまま、ひゅうひゅうと細い息をして意識を繋ぐことが精一杯で、腕を動かすことすらできなかった。
上から、冷徹な声が降ってくる。
「ああ……かわいそうなことになっているな」
やってきたのは、婚約者である王子だった。
彼は子供の頃から賢く、優しかった。果たすべき使命を理解し、そこに向かって努力する彼を尊敬していた。
動かない腕を、それでも一生懸命伸ばす。彼の方へ。仮にでも、愛を誓おうとした相手へ。
「なんだ。助けてもらえるとでも思ったか?」
伸ばした手を、止めた。
切り付けられてから、何も見えない。彼の声からは、ハンジへの軽蔑が滲んでいた。王子は、ハンジがサンドラを陥れたのだとすっかり信じ込んでいる。
幼馴染だったのに。サンドラよりも長い付き合いがあったのに。勘違いしていたみたいだ。彼なら正しい事実を見てくれるって。
「わかっているとは思うが……婚約は破棄だ」
彼はそれだけ言い残すと、足音が遠ざかって行った。何の未練もないように、迷いなく。
挫けまいと、強くあろうとしていた心が、折れた瞬間だった。
ハンジは、冷たい足の床に頬をつけ微睡む。
誰にも必要とされない。誰一人私を信じない。世界でたった一人の心地で、惨めで、いっそ死んでしまいたかった。
明日の朝には、商品として売られる。心を閉ざし、運命を受け入れようとした、その時だった。
「ハンジさん。行きますよ」
目は見えなくとも、すぐにわかった。希望の光が灯った瞬間でもある。
捕まったハンジのもとに辿り着いた男。それがモブリットである。ゾエ家に仕えていた従者の息子であり、幼いハンジの遊び相手の一人でもあった。
彼はハンジの潔白を信じ、どうにか居場所を突き止めて駆けつけてくれた。それも、ハンジと関わるために自分の身分を捨ててきた。ゾエ家で従者をしていれば、よほど安泰だっただろうに。
そう言うと、彼は「ハンジさんがいないと意味がないですから」と、なんてことないように言った。
モブリットは、回復魔法の達人であった。幼い頃から鍛錬を怠らず、よく怪我をするハンジを治してくれていた。
彼の卓越した技術により、深かった顔面の傷も、暴行された身体の傷もすっかり治ってしまった。しかし、目の機能は二度と戻らなかった。治癒魔法をかけるには時間が経ちすぎていたみたいだ。
そのことが判明して、モブリットは、気配だけでわかるほど沈んでいた。
ハンジはモブリットのその健気な姿を思い浮かべ、微笑んだ。
それから、二人は人間の寄りつかない魔物だらけの禁断の森に小さな家を建てた。ハンジは加工品を手がけ、モブリットは商品を街へ売りに行くことで生計を立てる。逃亡生活の始まりだ。
こうして、禁断の森に仮初の安息を編み上げた。細く脆い糸で、それでも懸命に。
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憲兵たちが森の隠れ家の周辺へと踏み込んだことを、ハンジは探知していた。彼らは何らかの理由でモブリットたちを尾行し、その先で偶然、ハンジという指名手配犯を見つけたのだ。
抵抗する気もない。丸腰で、その時をじっと待ち構えた。
十数名の憲兵がドアを突破し、一斉に杖を向け構える。ハンジは両手を上げ、無抵抗の意思を示した。しかし、先頭に立つ憲兵の一人はなおも攻撃を仕掛けようとする。
杖の先端に、燃えるような赤い魔素が集まり始めるのを捉えた。炎属性の攻撃が始まる。この家は木造で、周囲もすべて可燃物。森林火災にさえつながりかねない。生態系も、何もかもくずれる。
「やめろ!」
炎よりも、ハンジの方が早かった。瞬時に放った氷の魔法で辺り一面が氷結される。
「撃て!!」
これを攻撃とみなし、背後に控えた憲兵たちが一斉に電雷の術を放つ。稲妻が走り、雷鳴が轟いた。砕け散った氷と共にハンジの体は高く吹っ飛び、家具を薙ぎ倒して動かなくなった。
気がつくと、顔に布を被せられ、体もしっかりと椅子に固定されていた。ここは監獄の中だろうか。石造りの重厚な反響音を肌で感じる。
気分は落ち着いている。最初からわかっていたのだから。いつまでも逃げ切れるわけがないと。
少しの間だけでも、穏やかな生活を送れた。この身がどうなっても未練はない。尾行されていたリヴァイたちのことが少し気がかりではあるが……。
扉が開かれ、誰かが部屋に入ってきた。足音は三つ。
その内の一つはハンジの目の前まで歩を進めると、黙って頭に被せられた袋を取り払う。肌に触れたのは、ひんやりして冷たい手だった。ゆったりとした優雅な所作で、荒っぽい憲兵とは違うとわかる。
「…………。」
目隠しがなくとも、私は何も見ることができない。じっと、人がいるであろう方向に顔を向けるだけだ。
「……久しぶり、ハンジ」
少しの沈黙の後、鈴の鳴るような声で名を呼ばれた。
「サンドラ……?」
すぐに声の主に思い当たる。七年前、最後までハンジの潔白を主張し続けた旧友だ。先日、先代の王が崩御し、彼女が夫と共に即位したばかり。戴冠式の様子を新聞で読んだ。本来なら、妃の座にはハンジがいるはずだった。
「あなた、目……本当に見えていないのね」
心の底から憐れむように言われ、少し不快感を覚えた。
「サンドラ。何しにきたの」
「ずっと……謝りたかったの」
「過ぎたことはいい。要件はそれじゃないだろ」
ハンジが促すも、サンドラはそのまま話し続ける。
「七年前、あなたを陥れたのは私。未来の妃の座が欲しかった、どうしても」
サンドラの告白に、ハンジは眉ひとつ動かさない。
「気づいてたのよね。気づいた上で、あなたは私が自作自演の犯人だとは一言も言わなかった」
七年前、サンドラは被害者の立場でありながらハンジを擁護した。その姿は周りからどう見えただろう。友情を信じる純粋で心優しい女性だ。この国を率いるのに相応しい人格者だと賞賛された。
ハンジが彼女のことを告発しなかった理由は、確たる証拠がなかったからだ。あの状況で被害者が黒幕だなんて言えば、自分の立場をより悪くすると分かっていた。そして、友人であるサンドラを信じたい気持ちも少なからずあった。
その気持ちは、過去の告白を受けた今、微塵もなくなる。残念でならない。
「ここまで大事にする気はなかったのよ。これは本当。あなたが婚約を破棄される程度で済むと考えていたのに、思ったより王子が大騒ぎしてしまって……。彼はあなたが嫌いで、私を好きだったみたい」
そんなの知ってる。
王子は、嫌いな相手にも表面的には優しくすることができるし、そんな相手との政略結婚さえ使命として呑める。規律に忠実で、真面目で、どこまでも公を重んじる。この国の王に相応しい人だった。
そんな彼が、常識から外れた行為を繰り返す私を嫌悪していることなんて、子供の頃から気づいていた。
「本当にごめんなさい」
彼女は静かに頭を下げた。
「そんなのどうだっていい。それで。次は何がしたいの。何をしに来たの!?」
とっくに折り合いはつけたはずなのに、自分の声は激しく震えていた。冷や汗も止まらない。
七年だ。学生時代に何もかも失ってから、まる七年間。苦しんだ日々が多すぎた。彼女に憎しみを持とうにも、虚無感が付き纏った。どうしたって過去が変わるわけではないのだから。
モブリットがいてくれなければ、どうなっていたか分からない。
「落ち着いて、ハンジ。私もあなたを蹴落とした罪悪感に苛まれ続けていた。助けたいのよ!」
「だったらこの拘束を解いてもらえる? 痛いんだよ! 捕まえられる時、肋を折られちゃったんだよ!」
「ごめんなさい、できないの。あなたが私の提案を飲むまでは!」
サンドラは、控えていた憲兵から資料を奪うようにして受け取る。
「これに触れて! 解読の魔法をかけておいたから、目の見えないあなたでも読める!」
強引に頬に紙を押し付けられる。すると、頭の中にイメージが飛び込んできた。
それは、古い契約の話だ。
この世界の原始は、魔族が多く暮らしていた。その後、人族が殖え始め、魔族の生息域を圧迫していく。お互い相容れない性質だった人族と魔族は、戦争を始めた。双方に甚大な被害をもたらし、人族の勝利に終わった。人類は、魔族の生息域を侵しながら繁栄し続けた。
そして二千年前――魔族に、強大な力を持つ者が生まれる。それが、人類が魔王と呼ぶ存在だ。それは魔王軍を結成し、人類への反撃を始めた。
魔王の快進撃は止まらなかった。人類の領土は焼き尽くされ、至る所で大虐殺が起こった。
現在の王族の祖先は、それらに対して停戦交渉を試みた。魔王もそれに応じ、長かった戦争は終結した。
そこで交わされた契約の内容はこうだ。
1.互いの現在の領土を脅かさないこと。
2.それぞれの領土を王として代々治め、戦争に発展しないよう努めること。
3.百年に一度、王族の男子を生贄として一人魔王に捧げること。そのために、王族の血を絶やさないこと。
魔王は、契約を継続するため、定期的に彼ら一族――王族の魂を食らうことを求めた。そうすれば、魔王の支配する魔族系統にも契約の拘束力が生じ、強制的に履行が行われる。
ただし、人類側が侵攻を開始したり、生贄の儀式を怠ったりすれば、契約は弛み再び戦争が起こる。魔王がいる限り、負けるのは人類側だ。
それからずっと、契約は律儀に履行されて来た。しかし、時代が過ぎるにつれて、人類側は生贄の条項を解釈し直した。王の直系から生贄を出すことを厭い、王の傍系などから"贄の家系"をいくつも確保した。そこから生まれた多胎児であったり、障害を持っていたり、望まれない赤子が捧げられることとなった。
やがて生贄の儀式の本来の意味を知る者がいなくなり、世代を経て"贄の家系"の王族の血が薄まっていく。すると、当初の不戦契約がどんどん弛み出したのだ。
その血が限界まで薄まった時、魔族は再び人類への侵攻を始め、大戦が起こる。これが、百年前の出来事だ。
当時の人類側の王は、魔族との戦争を治めるべく資料を集めていた。そこで発見したのが、前述の古い契約の原本だ。人類みなの命のかかった状況だ。可能性のあることはなんでもやってみる、と言って彼は自ら魔王の贄となった。すると、魔王軍の侵攻はピタリと止んだ。契約はまだ機能していることが判明した。
贄となった父を悲しんだ次の王は、勇者軍を結成し、魔王の討伐を開始した。契約を読み込むと、勇者のようなこの世界の外部の存在は想定されていない。これらの進軍は"人類側の"侵攻とはみなされない、との仮説の通り、魔王軍は動かなかった。
毎年、異世界転生の勇者たちを魔王討伐へと駆り立てるも、今まで帰ってきた者は一人もいない。魔王は未だ健在だ。
勇者の中でも、弱い者は勇者パーティの足を引っ張り、魔王までたどり着く前の早い段階で瓦解していた。そこで、いつからか弱者の"間引き"が行われるようになった。
こうして百年が経つ。
先代王は50代の若さでこの世を去った。今、王族の男子は、彼の一人息子である現在の王ただ一人。これがサンドラの夫だ。
「これが王政の隠されていた事情よ。理解できた?」
「待ってくれ……なぜこれを、私に」
サンドラは、ハンジが情報を受け取ったのを確認し、話し始める。
「市場で、伝説級の魔獣素材が次々に出回っているという情報があって、調べさせていた。そうすると、間引きされたはずの異世界転生者が生きていることがわかったのよ。彼は相当な実力があるみたいね。そして、調査の過程で偶然、ハンジ、あなたを見つけた。随分彼と仲が良さそうね」
ハンジは、彼女の考えに思い至った。
「リヴァイに魔王討伐をさせるための人質として、私を……?」
「……ええ、そうよ。彼なら、魔王を倒せるかもしれないでしょう……?」
サンドラは、淡々と肯定した。
「今までの勇者たちはみんな……負けてしまっているんだろう。そして、我々は魔王領に入れないのだから、その詳しい状況もわからない。リヴァイが勝てるとは限らない」
ハンジの言葉には耳を傾けず、サンドラは続けた。
「私がハンジにしたことは……本当に、心から、申し訳ないと思ってる」
「サンドラ。もういい。リヴァイは来ないよ。約束したから。私が捕まったら、探さず逃げるようにって」
「来るわよ。いや、来てもらう。あなたの指を切り落として送りつけて、脅すの」
「あぁ、そう! やってみればいいさ。そして勢い余って私を殺せよ。そしたら、君こそが罪人だ」
サンドラは突然、声を荒げた。
「そんなの、知ってるわよ!! 今更だわ!! 私は最初っから、それこそ生まれた時から、いくつもの罪を犯してる!」
彼女が見せる激情に、部屋の中が静まり返る。
「生まれたことが、私の最初の罪。
家がとても貧しくて、私に食べ物を分けたせいで、姉は死んだ。ただの風邪薬すら買えず、弟も死んだ。
毎日のように盗みも詐欺も働いた! 私は才能があったから、決して捕まりはしなかった」
彼女から語られる身の上は、言葉少なながら、ひどく悲しかった。
「そんな中で、王都の貴族が通う学校にスカウトされたのはラッキーだった……。
王子と懇意になって、富と名声を得て良い暮らしをして……。そればかり考えて生きた。
そして、王子の婚約者だったあなたを蹴落とした。王子が『サンドラ』を好いてくれたと分かった時、嬉しかった。やっと、報われるんだって」
彼女は『サンドラ』のことを別人のように語った。
ずっと、演技をしてきたのだ。心優しく嫋やかな女の子の『サンドラ』として。自分を騙すくらい、完璧に。ただ、いい暮らしをするために。
「でも私、演技をするうち本当に、夫を愛していたみたい……。
彼に死んでほしくない! まだ若いのに、生贄になるなんて嫌。私はなんとしてでも、魔王を倒してもらわなきゃならないの!」
サンドラの悲痛な叫びに、ハンジも言い返す。
「はぁ!? ふざけるなよ!! わ、私だって……私だって……!
リヴァイを、愛してるんだよ……! 死んでほしくないよ……」
折れた肋が軋む。苦しい。痛みが増してきた。リヴァイには、約束通り逃げてほしいと願った。
……王を犠牲にしてでも?
これは、誰かが終わらせなければならない。誰の役目だ。
リヴァイは勇者だ。魔王を倒すために召喚された。召喚されなければ、ハンジと出会うこともなかった。
王は、贄の契約を結んでいる。彼に罪はない。ただ王族の血筋であるというだけで贄になる。百年を繋がなければ、人類にとっての地獄が始まる。
どうする。どうすればいい? 私の役目は、なんだ。
「サンドラ」
突然、第三者の声が割って入った。
「あ…………!」
サンドラが、ハンジの目の前でへたり込むのがわかる。
そこにいるのは、王だ。
「彼女の拘束を解いてやれ」
王は、てきぱきと指示を出すと、ハンジを拘束から解き放ち、回復魔法をかけた。すっと痛みが引いていく。そして、魔素感知の眼鏡まで渡してくれた。ようやく周りの景色がわかるようになる。
ここは、地下牢の中だ。ある程度の広さがある。入り口付近に立つのは、サンドラに付き添って来たのであろう憲兵二人と、王に付き添って来た近衛兵が三人。ハンジの目の前に座り込んで王の方を呆然と見上げるサンドラ。その視線の先に、王。
王は膝をつき、頭を地面に擦り付けるようにして下げた。
「ハンジ、今まですまなかった」
近衛兵たちはギョッとして、止めにかかる。
「王、やめてください! 罪人に……」
「罪人じゃない。彼女は、被害者だ。そうだろう」
サンドラは、耐えていた涙が決壊し、嗚咽の声を殺そうと口に手を当てた。自分のしたことがすべて、夫にばれていると悟ったのだ。
「森でハンジを見つけ出したそこの新兵が、過去のサンドラ誘拐事件についての資料を持ってきた。そこには、違和感だらけの調書と、証拠の捏造があった」
新兵――マルロとヒッチは、敬礼を崩さない。
「当時の私は若く……恋に熱を上げ、冷静な判断ができなかったようだ。君が受けた仕打ちを思うと、謝っても謝りきれない」
その言葉に、ハンジの目からも一筋の涙がこぼれ落ちる。見られたくなくて、必死に拭った。
「私は、私の使命を果たすつもりだ。生贄になれというなら、その通りにする」
彼は、そういう人間だ。使命に忠実で、真面目な……。
サンドラは、とうとう大声をあげて泣き出す。
王は、それには構わず、悲痛な表情でハンジに説明を続けた。
「ただ――その前に。私が生贄となっても、契約の条項のうちの一部は守られないことになる。それでは生贄となる意味がない……」
条項は三つある。
1.互いの現在の領土を脅かさないこと。
2.それぞれの領土を代々治め、戦争に発展しないよう努めること。
3.百年に一度、王族の男子を生贄として一人魔王に捧げること。そのために、王族の血を絶やさないこと。
王族の血を絶やさないこと――現在、王に子はない。
王は一人息子である。元々、先代王が生贄となる予定だったのが不慮の事故で亡くなったため、その役目が急遽引き継がれた形だ。まだ若く、王となったばかりの彼は、契約の概要も勇者の存在意義も知ったばかりだった。
そして、サンドラは結婚直前の検査で不妊体質であることが判明した。後継ができないことについて、王は父の姉や妹の子どもたちがいるため問題ないと考えていた。
しかし、実際は不戦の契約で「男系の血」こそが求められている。自分がすぐに側室を迎えるしか、繋ぐ方法がないことが分かった。
「無実の罪は――たとえ今から名誉を回復させたとしても、一生付きまとうことになる。払拭するのは簡単ではないだろう」
王は、真剣な目でハンジを見つめる。
「ハンジ。私の側室となり、子を産んでほしい。そうすれば、すぐに無実は民衆に知れ渡る。
異世界転生者の彼や、従者のモブリットを雇ってもいい。罪滅ぼしになるかはわからないが、一生の安泰を約束する。
私との子を一人、できれば二人……。契約の期限が来る前に……頼む。
原因を作っておいて厚かましい願いなのはわかっている。だが、これは元々は我々二人に課せられた使命だ。そうは思わないか」
そうだ。元は、彼と婚姻するのは自分だった。
結局、紆余曲折を経て、同じ道に戻ってきた。使命から逃れることはできない。
「――わかった」
王は、その返事を聞くと、ハンジの身体を優しく抱擁した。サンドラは、顔を伏せたまま、泣き続けた。