【飯P空P】りんごの庭と鳴けぬ鳥/03ひたき 「あいつ、ずっとここにいればいいよな……」
畑仕事の最中、唐突にお父さんが言った。春が目前に迫り、踏みしめる土もずいぶん湿ってやわらかい。野菜の植え付けはほとんど終わりかけて、あとは片手に持った分だけだ。
「そうですね。ずっと旅してるのも、大変だろうし。故郷の人は、見つかってほしいけど……」
お父さんがピッコロさんを連れてきた秋の日から、もう四ヶ月以上経つ。ピッコロさんは何度も出発しようとしたが、そのたび僕は、冬の旅はよくないから春まで待つよう懇々と説得したり、旅先の話をもっと聞きたいと引き留めたりした。お父さんはもっと強引で、荷物や履き物を隠して空惚けたり、単純に腕にしがみついて出発させないようにしていた。
どちらのやり方も、決して褒められたものではなかっただろう。ただ、冬の旅が危険なのは嘘ではないし、だからこそもう暫く留まってほしいという気持は、多分お父さんも同じはずだ。
ピッコロさんは初め戸惑っていたが、困惑しながらも素直に踏み留まってくれるようになっていた。そうしてとうとう昨夜、春まで休ませてほしいとまで言ってくれたのだ。旅に疲れていたのは、間違いないのだろう。
引き留める口実としていたが、実際ピッコロさんの話は興味深くて、寝る前に部屋を訪ねては、旅の話を聞かせてもらうのが僕の楽しみだった。砂漠の盗賊、小さな島に住む武術の達人、天高い塔と猫のような仙人、心が清らかであれば乗ることのできる雲……本当に、色んな所を旅してきているのだ。
「……お父さんは、旅に行かなくなったよね」
「そうかァ? 冬だったからじゃないか?」
「前は冬でもふらっと出て行ってたよ」
農具についた土を振り落としながら、そうだったかな、とお父さんは嘯く。
僕には分かっていた。ピッコロさんがいるから、そして、僕がピッコロさんに懸想していることが分かるから、旅になんて行っていられないのだ。その間にピッコロさんも旅立ってしまったら……そうでなくとも、僕が決定的な行動に出て、ピッコロさんがそれを受け入れたら……僕らは口には出さずとも、親子でじりじりと睨み合っていた。
畑の向こう側から、ピッコロさんが歩いてくる。食べないのだから必要はないと言っているのに、畝に葉物を植え付けるのを手伝ってくれていたのだ。僕はお父さんに向けた追及の言葉を引っ込めて、ピッコロさんが抱えていた、空になった籠を受け取った。
「畝、いっぱいになりましたか?」
ピッコロさんが頷く。手が泥に汚れており、泥の間に見える若草色が余計に引き立っていた。
「よしっ、じゃあ今日はここまでにして帰ろう。悟飯もピッコロも疲れただろ? 風呂沸かすから、ゆっくり入れよ」
荷物を抱えたお父さんが、ピッコロさんの手を引いて歩き出した。まただ。こういうとき僕はいつも、出遅れてしまう。
「悟飯、どうした? 行こう」
お父さんに引きずられながら、振り返ったピッコロさんが優しく僕を呼ぶ。それだけのことで、出遅れた悔しさが忽ち雲散してしまう。これだから、勝負事に向いていないのだ。べっこう色に暮れかけた晩冬の畑に、僕は二人の後を追った。
冬枯れの庭も、ピッコロさんには興味深いようだった。
畑仕事のない日、縁に腰かけて長い時間を過ごしているので、僕は心配になりその肩へ羽織をかける。
「今日は何を見てるんです?」
「見ているのではなくて、聞いている」
熱い湯呑みを差し出しながら隣に腰かけ、耳をすましてみる。風に吹き寄せられた木葉の、乾いた音の向こうに、カツカツと石を打ち付けるような音がする。
「火打ち石みたいな音……なんですか?」
「小鳥の……ひたきの鳴き声だ」
「ああ! 火焚きって意味の名前だったのか。でもあんまり、綺麗な声って感じじゃないですね」
僕の無遠慮な感想に、ピッコロさんは短く声を立てて笑った。同じ小鳥なら、うぐいすとか、めじろの囀りの方がずっと綺麗だ。
「綺麗かどうかじゃない。旅暮らしをしていると、他の生き物の気配を感じるだけで心強くなったりする」
「……じゃあ、旅暮らしは心細いってこと?」
途端、ピッコロさんは言葉に詰まった。すぐに否と返ってこないのが、意外でもあった。
「そうなのかも、しれないな……」
独り言のように、ピッコロさんは呟いた。考えたこともなかったという風情だ。盛んに湯気の立つ湯呑みに落とされた目線に、僕は胸がいっぱいになる。長い年月を旅する間、もうそんなことを考えすらしなくなったのだろう。湯呑みを包む両手の、しなやかな細い指に、黒瑪瑙の爪が光っていた。
ひたきの声は、一度耳につくと特に注意を払わなくてもよく聞こえる。姿は分からないが、この枯れた庭のどこかにいるはずだ。石と石とを打ち付けるような、味気ない鳴き声。これが、一人旅をするピッコロさんの、心を救うこともあったのだ。たったこれだけの、美しくも何ともない鳴き声が……。
「……もう旅に出ないで、ずっとここにいたらいいのに」
思わず、言葉が出た。何も植わっていない花壇には、どこからか種が落ちたのか、芥子のような黄色い野草がささやかに咲いている。まだまだ寒いが、春が近付いていた。
「僕、ピッコロさんのこと好きです。ずっとここにいて……僕と恋仲になってほしい」
座ったまま向き直ると、ピッコロさんは目を瞠った。思いもよらなかったようで、動揺が色濃く見える。
「また同郷の誰かを探しに旅に出るなら、それなら、僕も一緒に行かせて欲しい。ピッコロさんと、離れたくないんです。心細くなんか、させません」
北風に冷えた縁に手をつき、身を乗り出して迫る。ピッコロさんは後退ることもなく、ただしげしげと僕を見つめた。枯れ草のざわめきと、ひたきの硬質の鳴き声が、視線を遮るもののない庭に響いている。
暫くの沈黙の後、やがてピッコロさんは僕の肩を押し留め、困ったように微笑んだ。
「悟飯、お前の気持はありがたいが……勿体無いことを考えるんじゃない」
「勿体無いって……?」
「お前ほど優秀で、先のある者が、こんな何も持っていない……足元も確かでないおれなぞに、うつつを抜かすことはない。お前の幸せは、もっと別なところにあるはずだ」
ピッコロさんは手を伸ばし、僕の頭を優しく撫でてくれる。まるで子供を宥める調子だ。年少者の一時の戯れ言と、本気にされていないのかも、しれない。
「それってつまり、僕とは恋仲にはなれないってこと?」
「……ああ」
ピッコロさんは珍しく目を逸らして、静かに頷いた。
実に呆気なく、断られてしまった。
僕は何ひとつ言葉にできず、冬陽にやわらかく照らされたピッコロさんのひとみを、目が合わないままにじっと見ていた。
その翌月の、真夜中だった。布団から飛び出てしまった足が冷えて、僕は目を覚ました。
魘される声が聞こえた気がして、手燭を灯して廊下に出る。注意深く耳をすませば、向かいのピッコロさんの部屋から聞こえるのは、啜り泣くようなかすかな声だ。
失った家族と故郷、長い旅路の、辛い夢を見ているのかもしれない。
扉を開けかけて、ふと手が止まった。
かすかに、話し声のようなものが聞こえる。
これは……これは、魘されている声ではない……考えたくないことだが……。
僕はとって返して、自室の隣にあるお父さんの部屋の前に立った。
肩が震える。
信じられないほど鼓動が早まり、息が苦しい。
目を閉じて静かに扉を開け、深呼吸してからそろそろと瞼を開く。
誰も、いなかった。
空の布団には、抜け出たあとだけがあった。