【飯P空P】りんごの庭と鳴けぬ鳥/04.雨乞鳥 秋のその日、町娘から無法者たちを引き剥がしたのは、ほんの偶然だった。すぐに立ち去ろうとしたのに、思いがけぬところから腕を掴まれ心底驚いた。腕が伸びてくるのに気付かず、躱すことが出来ないなど、これまで一度もなかったのだから。
「強いなァ、ずいぶん修業したろ? すげぇ奴だ、手合わせしてみてぇ! その格好、旅してんのか? 名前は? どこに泊まってる?」
男は奇妙なほど明るく、燥いだ様子で捲し立て、おれはつい怯んだ。
「ピッコロ……宿は、満室で断られてまだ……」
「なぁんだ、じゃあうち来るといい! 息子とも手合わせしてやってくれよ」
男は腕を掴んだまま、返事も聞かず歩き出す。この町へ入るまで野宿が続いていたから、泊まるところが見つかるのはありがたかったが、その強引な態度は気に入らなかった。
「おい、こっちは名乗ったのに、お前は名乗らないのか?」
「あ、そうだな。いつも悟飯にも怒られるんだよなァ……悟空だ、よろしくな」
はじめに感じた通り、悟空は底抜けに明るく、強引で、こちらの返答も躊躇も踏み抜いてくるような男だった。反して息子の悟飯は穏やかで礼儀正しく、何よりも、優しかった。
いい家だった。市のはずれにあって静かで、家の裏の畑も、晴れた日に立ち上る畳のにおいも、古びて黒ずんだ木材も、すべて好ましい。悟空は無神経でもあったが、人を惹き付ける力を持っていた。悟飯は突然の居候を慕ってくれて、手合わせをせがんだり、毎晩のように部屋へ話しに来たりした。
ほんの二、三日のつもりが、引き留められるままずるずると滞在が延び、既に四ヶ月になる。秋の内に出発できず、とうとう年も越してしまった。春まで留まらせてもらうよう頼み、畑仕事などを手伝う生活は、新鮮だった。
真冬の夜は、本当に冷える。野宿を繰り返した旅を思えば、壁のある場所で布団に眠るなど贅沢すぎる話だったが、寝床に入った瞬間の冷たさにはいつも辟易した。
荒れ狂った北風が、窓を揺らしていた。どうやら雨も降り始めたらしい。
夕方、季節外れの雨乞鳥が鳴いていたのを思い出す。前世の罪で水を与えられず渇きに苦しみ、雨乞いをする鳥だと、集落で幼馴染みが話していた。その話が本当なら、夕方鳴いていたあの鳥の罪は、きっと許されたのだろう。壁から天井から、激しい雨風の音が暗い部屋に満ちて来る。
荒天の夜は、集落を嵐が襲った時のことを考えてしまう。一人で帰り着いた時に見た、破壊し尽くされた住居、折れて土砂に埋まった樹木に、抉り取られて形の変わっていた川岸……どれほど恐ろしかったことだろう。
あそこではみなが優しく、互いを大切にしていた。旅に出るまでの十数年間、誰からも愛情を注いでもらった。それなのに自分だけ災禍を逃れ、生き延びてしまったという負い目が澱となって、いつも胸の底にあった。
どうにも、眠れそうにない。行灯を灯そうとして、燐寸の箱が空になっていることに気付く。台所にあったと思うが……手燭も灯せないため、台所まで辿り着いたとしても探せないだろう。
少し迷って、真向かいの悟飯の部屋ではなく、その隣の悟空の部屋の扉を叩いた。
ややあって、欠伸を隠しもせず、悟空が扉を開ける。消さずに眠ってしまっていたのか、行灯が点いていた。
「遅くにすまない……燐寸を分けてくれないか」
「燐寸? どうして」
……どうして?
確かに、眠れないなら、眠らず暗い部屋に横たわっていれば良いだけじゃないか。起きて何かしようというわけでもない、わざわざ誰かに燐寸をもらいにまで来る必要はない。嵐に襲われた同族たちは、望もうが望むまいが、真っ暗な土の下なのに、また自分だけ灯火を得ようというのか……。
返答に詰まっていると、寝惚けていた悟空の目が冴えていくのが分かった。
「なんだ、震えてるぞ。暗いのが嫌なのか?」
「いや……なんでもない、部屋へ戻る。起こして悪かった」
自分でも不自然だと分かったが、上手い誤魔化しが出てこなかった。明かりを得ることが故郷への裏切りのような気分になり、もはや暗闇の中にいることだけが誠意であるかのような思い込みに、支配されていた。
「いいんだ、暗くて。悪かった、許してくれ」
「……気にしてねェよ、誰も、何も」
はっとして顔を上げると、先程まで寝乱れていたとは思えない悟空と目が合う。黒いひとみだとばかり思っていたが、闇を潜り抜けて、翠玉の光が見えた。
「お前を大切に思う奴は皆、はじめから全て許してる……俺もそうだ」
「……なんの、話だ……」
燐寸を借りに起こしたことだけではないような、そんな気がしてならなかった。集落のことは話したが、罪悪感のことまでは、話していないのに。
「なんの話でもいい。大切な奴が幸せなら、それ以上のことは無ぇ」
ひどく冷静な声音に、何も訊き返すことができない。雨風の音が暗い廊下にも降ってきて、流れの激しい川底のようだった。
「そういう晩に一人でいるのは駄目だ。ここで寝ろ、暗いのが嫌なら、行灯も消す必要はない」
答える前に、初めて会った時と同じように強引に腕を引かれる。ただあの時より、いくらか優しい手付きだった。
狭い布団に向き合う形で押し込められて、子供をあやすように背中を撫でられた。他者の体温とは、こんなに心地良いものだったのだろうか。何年も重苦しく胸を塞いでいた澱が、あたためられて少し軽くなる。
「ピッコロ、ここに住めよ。悟飯も喜ぶ」
「……」
「もう旅は十分だろう、ここにいろ」
額に唇が落ちてくる。驚いたが、振り払おうとも思わなかった。ただ、返事はできなかった。
あれほど眠れなかったのが嘘のように、たちまちの内に穏やかな眠りに落ちた。
いつしか、慰めのようだった共寝は単純な眠りだけではなくなっていた。
あの集落には、恋愛というものはなかったから、この感情が本当にそう呼ばれるものか自信はない。少なくとも人肌は安らぎを与えてくれたし、強引な悟空に身を任せるのは、自分の足で彷徨い続けるしかなかった数年間よりよほど心地よかった。
悟飯と様々な話をし、手合わせをし、正反対の親子と共に食卓を囲み、あたたかい臥所で眠る……旅疲れの生活で、こんなにも安らいで過ごしたのはいったい何年振りだろう。
だからこそ悟飯が、この家を出て研究者のもとで書生として励むと決めた時、ただの居候でありながらどれほど悲しかったか分からない。
けれど、どうして強く引き止められるだろうか? あの若者の真摯な思い遣りを撥ね付け、よりによってその父親と関係しているというのに……。
季節は、既に夏になっていた。
種苗店の軒先は買い物客で溢れ、少し居心地が悪かった。
「あとは……山東菜だな。ちっと遅くなっちまったから、すぐ植えねぇと」
「野菜のことは、知識も確かなんだな」
「食うためのことなら覚えるさ!」
悟空は、来月には悟飯が出て行ってしまうことをどう考えているのだろう。ひたきの鳴き声を聞きながら交わした話が、悟飯が家を出る原因の一端かもしれないと思うのは、考え過ぎだろうか……。
店の隅にある、りんごの苗木にふと目が留まった。まだ細い苗木だが、小さな青い実がひとつ生っている。横目に見ていると、悟空はすぐおれの目線に気付く。
「りんご? でもお前、食わねェだろ」
「ああ……」
家へ来て最初の晩、悟飯がりんごを持ってきてくれたことが思い出された。家族だと思ってほしいと……家族どころか、故郷すら失った身には、あまりにも甘やかな心遣いだった。
あれから十ヶ月が経ち、その悟飯はもう、側にいなくなる。
「……花が好きか? どうせ庭は空いてんだ、植えてみるか」
「いいのか」
「お前があの狭ッ苦しい家に飽いて、また旅に出ちまわねぇように、りんごくらい植えてやらぁ」
家族だからな、と続けた悟空は、悟飯と正反対のようでありながらやはり親子なのだと、強く感じさせた。