【ネイP】解剖台で夢を見た/04.聴診器の語るもの ネイルは殆ど、家へ帰らなくなっていた。職員がみな帰るのを待ってから仮眠室へ下りるので、それから帰宅となるとどうしても遅くなる。
元々、仮眠室へ寝泊まりすることはそう珍しくなかった。同じフロアに、簡易的なシャワールームもある。食事は水で事足りる。コインランドリーは研究所の道向かいだ。
――家へ帰ったところで、仮眠室の様子が気になって眠れず、警備員が驚くような早朝に出勤することになる。
自らが切り刻んだ研究対象への執着なのか、単純な個への執着なのかは、判然としなかった。それでも、寝袋を持ち込んで寝泊まりするようになるのは、ネイルにとって自然な選択だった。
その日ネイルは、どこか浮き足立っていた。
石室の標本に関する嘘の報告書は問題なく受理され、更に詳しく検査を進めるようにとの文言を添えた、検査項目のリストだけが戻ってきた。それも、時間がかかることを誰もが理解できる検査項目ばかりで、当分の時間は稼げそうに思われる。
これにほっとしたのも勿論だが、一番は自分のロッカーへ入れた紙袋……。一日中、そのことが気になり、仮眠室を訪ねるのが待ち遠しくて仕方なかった。
夜が更け、ネイルは水を注いだコップと、紙袋を手に仮眠室へ下りる。
ピッコロはベッドから脚を下ろして座り、ネイルが持ち込んだ本を読んでいた。壁に凭れなくても、安定した姿勢を保てている。
「今日は詩集か」
「知らない言葉が少しある……絵はどれも良い」
「それは絵ではなくて、写真だよ。目で見たままを紙に残す技術だ。まずは水を飲んで……清拭が済んだら、体温を確認させてくれ。それから、心音も」
ネイルがベッドの端へ腰掛けると、ピッコロも一度本を閉じる。
水を受け取って飲んだあとは、ネイルの手に一切逆らわない。丈の合っていない術後着の前を開けさせると、新芽色のはずの膚は、仮眠室の暗さのせいで松葉の色に沈んで見えた。心音、呼吸音……聴診器から伝わる全てが、標本からは感じられなかったものだ。
「……よし、生きてるな」
「生きてるよ」
笑いを含んだ声で答えて、ピッコロは聴診器をじっと見下ろした。
「おれの知ってる医者は、こういうものは使っていなかった」
「そりゃあ、これが出来たのはせいぜい二百年前……昔のこと、少しでも思い出したのか?」
「……よく会う医者が、いた気がする。薬草の匂いも、覚えている」
「私が見たところ、健康そのものだが……助手でもしていたのかな」
ネイルは話しながら、外した聴診器をピッコロの耳にかけてやる。ピッコロは俯き、自らの胸に聴診器をあてて目を閉じる。何百年も沈黙していた心音に耳をすます様子を、ネイルは見るともなしに見ていた。
ふとピッコロが、顔を上げた。目が合ったかと思えば、伸ばされた腕がネイルの服の裾を摘まむ。
「なんだ?」
「……前を開けて」
ネイルは一瞬だけ躊躇うが、ピッコロの面差しには悪意も誘いもなく、好奇心だけが滲んでいた。躊躇うことこそ、不純だろう。白衣を羽織ったまま、自らシャツのボタンに手をかける。一つ、二つ……じっと注がれる視線を、必要以上に意識してしまう。それを振り払って、三つまでボタンを外した。胸元の肌が空気に晒されて、なんとも心許ない。
「どうぞ、お医者さん」
努めて平らかにネイルが言うと、聴診器がゆっくりと胸にあてられる。金属の冷たさに身構えたが、ピッコロの体温に既にあたためられており、思ったほどではなかった。
目を伏せ、ひたすら聴診器に集中している、四本の長い指。持ち慣れない聴診器を、辿々しく動かす手付き。しばらくの間、生真面目に診察の真似事をしていたピッコロだったが、やがて初めて見つけた秘密を耳打ちするかのように囁いた。
「……生きてるな、ネイルも」
「……生きてるよ」
言われた通りに返せば、かすかに笑う気配がする。狭い地下の仮眠室に、不思議なほど穏やかな時間が流れていた。
聴診器を受け取り、ネイルは持ち込んだ紙袋を引き寄せる。中身を取り出し、ピッコロへ差し出した。
「気に入るかどうか、分からないが」
「気に入る?」
ピッコロが訝しげに広げたそれは、仕立て屋の札のついた、真新しい服だった。ピッコロは困惑した様子で、広げた服と、ネイルとを見比べている。
「寸法は、標本だったお前を調べる時に測ったから合うはずだ……測ったその日に仕立て屋へ頼んで、昨日の夕方、やっと出来たと連絡があって」
「もらっておいて何だが……死体のための服を、仕立てたのか?」
「……おかしな話だが、どうしても死んでいると思えなくて……目が覚めた時に、まともな服の一枚もなければ悲しむだろうと」
ピッコロは改めて、服を確かめる。簡素なシルエットの服だったが、生地と仕立てが上等で、術後着よりもずっと着心地がよさそうだ。きちんと丈も合っている。裾と袖口に、刺繍が入っていた。
「この刺繍……」
「そのために時間がかかった。石室でお前が見つかった時、着ていた服の刺繍の写真を仕立て屋に見せたんだ。あの服自体は、不用意にお前を運び出したせいで、崩れてしまったそうだが」
「そうか……ありがとう。何だか懐かしい模様だ。石室に入れられる前に、よく着ていた服だったのかもしれない」
感慨深そうに呟き、ピッコロの指先が静かに刺繍を辿る。黒瑪瑙の爪に、乏しい照明が宿り、厳かに輝いていた。
ネイルは照明を常夜灯だけにし、寝袋に潜り込む。窓のない地下の仮眠室は閉塞感に満ちているはずだったが、すぐそばで身じろぐ衣擦れの音が、ずいぶん心を落ち着かせてくれた。
「……ネイル」
既に眠ったかと思っていたピッコロに呼ばれ、ネイルは目線だけをベッドへ向ける。
「上がって来ないのか?」
壁側に寄ったピッコロが、ベッドの片側を手のひらで軽く打った。
「……その仮眠ベッドは一人用だ、二人も横になれない」
「嫌ってことか?」
「……狭いってことだ」
「狭くて、嫌ってことか?」
「お前が、嫌だろう。病み上がりみたいなものだぞ」
「……ネイルがいない方が嫌だ」
拗ねたような響きで、小さく呟かれる。ほんの数秒間、二人の間に沈黙が落ちた。迷った末に、ネイルはゆっくりと立ち上がり、ピッコロが空けたベッドの片側を見下ろす。空きスペースは、0.8人分と言ったところだろうか……やはり、二人並ぶのは無理がある。
逡巡していると、仰臥してこちらを見つめていたピッコロが、ごそごそと寝返りを打って壁の方を向いた。諦めたのか、場所を空けたのか、それとも目も合わせないほど拗ねたのか、判断できない。とはいえ空いたスペースが広くなり、これならネイルも横寝であれば、無理なく眠れそうだ。
無言でベッドへ横たわると、背中と背中、脚と脚がところどころで触れ合う。妙に熱く、一度触れると意識してしまい、離せない。
常夜灯のわずかな光が、書き物机に積まれた本を照らしている。鉱物図鑑、天文図鑑、海と波の詩集、古都の写真集、身体の記憶、花を散らす人、新雪の足跡……。
「おやすみ、ネイル」
ネイルは答えない。声を出すと、体温が逃れていってしまうような気がした。その代わりに、片手を後ろに伸ばして、手探りでピッコロの手を掴む。解剖台で腕の動きを確かめた時とは違い、しっかりと握り返す力を感じた。