【飯PネイP】煙るバーカウンターにて/11トワイライト 十月も半ばに差しかかった月曜だった。急に打ち合わせが中止になった僕は、国道沿いの広い歩道を一人歩いていた。午後遅い穏やかな日差しの中、街路樹の金木犀が満開で、辺りは目の覚めるような香りに包まれている。
『Veil』のすぐそば、小さな植物園の前に差し掛かって、デンデの昼の職場がここだったと思い出した。途端、門をくぐる誰かが目に入る。長い手足に、柳葉のような膚……ネイルさんだ。僕へ気付くと、笑って手を振ってくれる。
「お仕事帰りですか? 店に飾る花を受け取りに来たんです。ご一緒しませんか?」
「お邪魔になりませんか」
「まさか。デンデも喜びます」
ネイルさんの言葉の通り、僕らを迎えたデンデはとても喜んでくれた。まずは花壇をひとまわりし、育てている花の説明をしてくれる。どの花もいきいきと咲いており、デンデがどれほど大切に世話をしているか伝わってくる。
「お店は少し暗いから、色が明るくて大きい花の方がいいですよね」
「そうだな、デンデに選んでもらうようになってから店が明るくなったよ。お客様も喜んでくださる」
「本当ですか、嬉しいなぁ!」
デンデの様子に、僕も嬉しくなる。研究の結果が認められた時と、きっと同じような気持なのだろう。
一通り花を選んでから、デンデは僕らを温室へ案内してくれた。温室の外には一本の木が立ち枯れ、うら寂しい風情だったが、中にある植物はどれも生命力に溢れ、ガーデンテーブルの周りを彩っていた。夕方が近付き、少し肌寒さを感じるようになっていたから、温室の暖かさがありがたかった。
「カモミールティーです。僕、花を剪ってきますから、ゆっくりしててください」
デンデが出ていくのを、二人で見送った。温室の出入口の、花なのか葉なのか分からないアンスリウムは、店へ飾ってあるのを何度か見かけた記憶がある。あれもデンデが、ここで剪ったものだったんだろう。
「あのブランデーは、もう飲まれました?」
「いえ、まだ……今調査しているものが一段落したら、記念に開けようかなって」
ネイルさんは暫く目を伏せて、湯気のたつカップを両手で包んだまま、落ち着いた調子で言った。
「会えてよかった。少し、二人で話したかったんです」
「僕とですか……?」
「ピッコロのことで」
率直な物言いと、迷いのない目線に、僕は撲たれたように息を呑んだ。デンデの淹れてくれたカモミールティーには、カモミールの花がひとつ浮かべられている。僕は迷った末に、ずっと気になっていたことを漸く口に出した。
「……僕、ネイルさんに謝らないといけません。ピッコロさんが寝込んだ時、僕を信頼して鍵を託してくれたのに、もう少しであの人に……」
「……なんとなく、分かっていた。君とピッコロの態度がおかしいこと……バーでは、様々な人生が見える。私とて、伊達に店主をしているわけではない、嫌でも分かってしまう」
突然、ネイルさんは沈んだ声色になる。「マスター」ではない、これが素顔なのだ。不思議と、驚きも萎縮もなかった。
「あのとき君に、薬を頼むべきではなかったのかもしれないな」
静かに呟いて、ネイルさんは僕をまっすぐに見た。まなざしに、確かな力があった。横恋慕でありながら口にするのは憚られたが、ネイルさんが本音で話してくれているのならば、僕もそれに応えなくてはならないだろう。
「あの日がなくても、ネイルさん。僕、ピッコロさんのこと、好きになってたはずです。あなたから奪いたいと、思ってます」
「奪いなど、しなくとも……」
ネイルさんは静かにため息をつく。
「ピッコロはもう……以前は私にしか見せなかったような笑顔を、君に見せているよ。でも、私の支えがないと生きられないと思い込んでしまっているんだ。この街へ来た当初は、そうだったかもしれないが……」
「すごく荒れてたって、デンデからも聞きました」
ウィンナーコーヒーを淹れてくれた日、本人はあまり語ってくれなかった。とはいえ、ビルの合間で僕を助けてくれた時の雰囲気……それに、自分を「バーテンダー」と定義することで人と深く関わることを避けているような様子、故郷を失ったことがピッコロさんをどれほど傷つけたのか、なんとなく想像できた。
「見かねて店へ誘ったが、睡眠もまともにとれなくて……毎晩、子供を寝かしつけるように寄り添っていたよ。初めは邪険にするのに、まどろむと縋りついてくるんだ……それを宥めながら眠るから、あの頃は私まで寝不足だった」
ネイルさんは力なく茶化すように言ったが、言葉に確かな愛情が滲んでいた。僕はふと、熱に浮かされたピッコロさんに縋りつかれたことを思い出す。あの時は分からなかったが、ネイルさんへ向けられた「お前がいなければ」という言葉は、それほど切実な言葉だったのだ。
抱きしめたピッコロさんのあの体温、ごく近くに感じた吐息の熱さ、肉感的な身体と、それに反する、幼子のように無防備な心……ネイルさんが、ずっと受け止めていた……。痛々しくもあるが、庇護欲をかき立てずにおかない美しさには、きっと誰しも惹かれるだろう。二人の関係も、その頃に始まったのかもしれない、寄り添い一日を終える、あの部屋のベッドで……。
「だが、今は違う。故郷への未練も整理がついているし……街に馴染んで、君のように親しくできる相手もいる。なのに、もう私がいなくても大丈夫だと、一人で生きる力があると分かっていながら、私はそれを告げられないでいる」
「……それは、どうして?」
ティーカップを無為に傾けながら、ネイルさんは浮かべられた花が揺れ動くのを見ている。
「本当は私の方が、ピッコロを必要としている。あいつを支えることこそが、自分の存在価値だと……さりとて抱えている愛情も、偽りではない。昔と、形が変わってしまっただけだ」
ガーデンテーブルの周りには、放し飼いにされている何種類もの蝶が悠々と飛んでいた。白、黄色、黒、橙、あざやかな海の色、斑模様、網目……暖かさや、色濃い花たちも相まって、夢の中の光景のようだ。
「ピッコロが誰かに贈り物をしたり、親しく話すのを、故郷を出て以来はじめて見たよ。最近では、君の研究に興味を持って、関連する本を読んだりしているようなんだ。良いことだろう? 私とデンデとしか関わらない人生が、真にあいつのためになるはずがない。なのに……」
ネイルさんが顔を上げる。はじめて会った時、ネイルさんとピッコロさんを、似ていると思ったことを思い出した。しかし今は、そうは思わない。
「ピッコロの部屋に、鉢植えがあっただろう?」
「小さい花木ですよね……? 暗くて、何の植物かは分かりませんでしたけど」
「一株だけ持ち出した故郷の花だ。ピッコロがあの花に向ける静かな愛情と、私たちの間にあるものを比べると、時々思うよ。私たちは、お互いにとらわれすぎて、今や不健康な関係になってしまっている……遅かれ早かれ、決断しなくてはならないと」
ネイルさんは、僕を責めるような調子ではなかった。ただただ迷いと、寂しさに満ちていた。いつも冷静で優しいこの人にも、不安定な感情や、必ずしも正しいことだけを選び取れない執着があるのだと、当たり前のことにはじめて思い至った。
「……あの花木は、広い土地に植えれば、もっと大きく育つ……確かに鉢の中は、安全かもしれない。でもその中にだけ、永遠に囲いこんでいたいと願うのは、あまりに過保護なんだろうな」
確かめるように呟き、ネイルさんはハーブティーの湯気を通し僕の目を覗き込んだ。ティーカップの縁をゆっくりとなぞる細い指先に、ピッコロさんと同じ黒蝶貝の爪がつやめいている。いつも微笑に撓んでいる瞳が、今は沈鬱な色を帯びていた。
横切った大きな蝶が、咲き誇る花のひとつにとまる。辺りの音を吸い込むほどに白い花と、珊瑚礁のような青い羽のコントラストが目に眩しかった。
「君がいてくれてよかったよ。私ひとりでは、考えることから逃げ続けて、いずれ揃って破滅していたかもしれない。それでも構わないと、思ってしまっていたんだ。たった今、この瞬間だけ、二人で安らいでいられれば良いと」
……僕に一体、何が言えるだろう。育った村がなくなり、突然知らない街へ移り住んだ二人。夜も眠れぬほど荒んでいたピッコロさんを救い出し、支え続けたネイルさん。確かに今、二人の関係は拗れてしまっているのかもしれない。けれどそこに、敬意を払うべき愛情があるのは、間違いなかった。
暫くの沈黙の後、ネイルさんは息をつくように静かに笑った。
「これからも、店に来てくれ。ピッコロも喜ぶし……それに、私も」
「いいんですか」
もちろん、と言い切って、ネイルさんは僕の手を握った。あたたかく、しっかりと力のある手だった。
僕が頷くと同時に、温室の扉が開く音がした。笑顔のデンデが、花束を二つ抱えて入って来る。
「はい、これがお店の分。こっちは悟飯さんの分です、おうちに飾ってくださいね! ネイルさん、今週末はまたお手伝いに行きますから」
「ああ、頼むよ」
立ち上がったネイルさんは、もうマスターの顔に戻っていた。行きましょうか、と僕に声をかけてくれる。
秋の黄昏は、橙と紫の混じり合う空に水の流れのような薄雲が漂い、掴みどころのない美しさだ。昼が夜へ変わるほんの一瞬、空だけでなく、空気全体が薄紅に染まる。金木犀の香りが立ち込めていたが、家路を急ぐ人々や車たちは、誰も街路樹になど意識が向かないようだった。
「定休日ですが、よければ一杯ご馳走させてください。長話を聞いてもらいましたから、お礼です」
すっかり、僕の知るネイルさんだった。僕らは揃って、店の扉をくぐる。カウンター越しに向き合ったネイルさんの微笑は、苦悩を微塵も感じさせない。惚れ惚れするようなプロフェッショナルだった。
シェイカーが置かれ、ラムが注がれる。アプリコット、カシス、グレープフルーツ……いつものシャツとベストでこそなかったが、シェイカーを振る姿は洗練されており、人の目を惹きつけずにおかない。
「私が悟飯さんにカクテルを作るのは、初めてでは?」
カクテルがグラスへ注がれる。薄紅に染まったラムの底に、砂糖漬けのチェリーが沈んでいる。
「そうかも……じゃあこれは、記念のカクテルですね。なんですか?」
「トワイライト……黄昏です。今の我々に、ふさわしいかもしれませんね」
夕陽のように沈むチェリーは甘く、けれどグレープフルーツはほのかに苦かった。グラスの中に、甘さも苦さも混じり合って、一つのカクテルとなっている。
今の我々にふさわしい……ネイルさんは、どんな思いでそう言ったのだろう。昼と夜の切り替わる瞬間、辺りすべてを染めながら沈んで去っていくものが、ネイルさんの中で何を指しているのか……照明を宿して光るグラスの縁を見ながら、考えずにいられなかった。