【飯P】残響 開け放った窓から、春のあたたかい風が吹き込んでいた。おれは椅子の背にかかったままだった悟飯のジャケットを取り上げ、皺を伸ばしてハンガーに吊るした。
振り返ると、部屋の中は午前とは見違えるほど片付いていた。床に落ちていた悟飯の服や鞄、机に積まれた本はすべて片付けたし、水に浸かったままだった洗い物も、取り込んだままになっていた洗濯物も、すべてあるべき場所に戻っている。
「だいぶ片付きましたね」
いつの間にか隣に立っていた悟飯が、申し訳なさそうに言った。おれはそこに悟飯が立っていることに少し驚いて、けれどすぐに気を取り直し、片付いた部屋をもう一度見渡した。
「すみません、散らかしたままで」
「何を今更」
子どもの頃の悟飯は、母親の教育の甲斐あってか、驚くほど几帳面だった。それがいつからか、父親譲りのだらしなさが顔をのぞかせ始め、気が付くとおれは、掃除や片付けがすっかり得意になってしまった。
あの、小さく生真面目で、神経質ですらあった子どもの悟飯が嘘のようだ。しかしあの子どもが(やや行き過ぎの気もするが)おおらかな性質になったのは、本人にとっても好ましい変化であったと思う。
「何ですか、ジロジロ見て」
「いや、お前も年をとったな」
悟飯は面食らったような顔をして、ここ一年で急に老け込んじゃって、と頭を掻いた。
「でも、ピッコロさんはあんまり変わりませんね?」
どうやら容姿のことだと思ったらしい。照れ隠しのように殊更胡乱な声を出して、首を傾げた。
「初めて会った時と、殆ど同じみたい」
「お前たちとは寿命がちがうからな」
「そっか……」
悟飯は一転して神妙な顔をして、俯いてしまう。
仕方のないことなのだ。
種族がちがう。生活に必要なものも、身体の成り立ちも、精神の構造も、勿論、寿命も、何もかもちがう。そんなことは、ずっと前から分かっていたことだ。
何やら考え込んでいる悟飯を励ますつもりで、おれは努めて明るい声を出した。
「さあ、床を拭いてしまうんだ。手伝う気がないならソファにでも座っていろ」
悟飯は素直に頷き、壁際に置かれたソファに座った。おれは膝をついて、床を拭きはじめる。
「このソファもずいぶん古くなっちゃいましたね」
肘掛を軽く叩きながら、悟飯が言う。革張りのソファは、いつだったか悟飯が衝動買いしてきたものだ。確かにはじめの頃より、煤けたような色合いになっている気がする。
「家具屋さんでこれに座ったら、どうしても欲しくなっちゃったんですよね」
「そう言っていたな」
「でも買って帰ってみたら、二人で座るにはちょっと狭くって」
悟飯はくすくすと笑う。おれがこのソファに座っていると、必ずと言っていいほど悟飯も座りたがった。無理やり身体を割り込ませて来るものだから、夏場など暑苦しくて仕方がなかった。
窓の外から、鳥のさえずる声がした。庭の花だろうか、かすかに甘い匂いも流れ込んで来る。
空は白っぽく晴れていて、真綿のような雲がところどころに浮かんでいた。
静かで、鳥の声以外には草葉が擦れ合う音くらいしか聞こえない。
何かを片付けるには、このうえない日和だ。こんなに清々しい天気は、久し振りのような気がした。
床を拭き終わると、悟飯はソファに座ったまま手招きした。
「座ったら?」
「ああ」
ソファの傍まで歩み寄ると、悟飯は立ち上がっておれに席をすすめる。
「お前は座らないのか」
「僕はもう、良いんです」
「そうか」
「そうです」
促されるまま、おれはソファに腰掛けた。悟飯が「どうしても欲しくなった」ソファは、古くはなっても素晴らしい座り心地だ。陽光にすっかりあたためられた背中に、ひんやりとした革は心地よかった。
座ってしまうと、おれは突然疲れを覚えて、ソファに体重を預けた。
窓の外に、沈丁花の白い花が見えた。さっきの甘い匂いの正体は、きっとあれだろう。もう満開になっているとは、少しも知らなかった。
「少し眠ると良いですよ」
ソファの前に立ったまま、悟飯が言う。確かにおれは、ひどく眠くなってきていた。
「最近あまり寝てないでしょう。知ってるんですからね」
諌めるような口調で悟飯は言い、それから少しはにかんだ。
「おやすみなさい、ピッコロさん」
あたたかい風、鳥の声、花の匂い。悟飯の声は、どこか遠くから響いてくるように、ぼやけている。
「ああ、おやすみ、悟飯」
答えながら、もう殆ど目を開けていられなくなる。ぬるい水の中に沈んでいくような、抗いがたい眠気だ。悟飯の姿が見えなくなる。身体が鉛のように重い。
思いついて、悟飯の手に触れようとしたが、もはや腕を上げることすら億劫だった。
「おやすみなさい、ピッコロさん。愛してます」
意識が溶けきってしまう寸前、悟飯が微笑んだ気配がした。
肌寒さに目を覚ますと、すっかり夕方になっていた。
少しだけのつもりが、思いのほか深く眠ってしまったらしい。
悪夢のない眠りは、久し振りだった。
おれはソファから立ち上がる気になれず、辺りを見回した。部屋は薄暗く、妙にがらんとしている。窓の外の空は、寝ぼけたような淡い橙に暮れていた。沈丁花は際立って白く、あまく、この世のものではないようだ。
悟飯の姿はなかった。
当たり前だ。
もういくら待っても、悟飯が帰ってくることはないし、このソファに座っていても、二度と、悟飯が無理やり割り込んできて暑い思いをすることはないのだ。
それは俄には信じられないことで、おれの精神にもたらされた空虚は名状しがたいものだった。けれど、仕方のないことなのだ。いつか悟飯を喪い、そのあとの長い時間を一人で暮らさなければならないことは、初めから分かっていた。
おれは意識して、ソファに深く身を沈める。
何十年もの日々の、何百何千もの場面が、静かに浮かんでは消えてゆく。そのどれもがおぼろげだったが、不思議と、満ち足りた気分だった。
もっとよく思い出そうと、おれは再び目を閉じる。
(愛してます、ピッコロさん)
悟飯の声の、穏やかな響きだけが、はっきりと耳の底に残っていた。