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    イヴァティル 学パロ

    眠前葬 自分の眠りが深いらしいと気付いたのは他愛もない雑談のなかで夢の話を尋ねられたときだった。
     そういえばほとんど夢を見たことがない。眠っている時間は意識が塗りつぶされた黒い塊にすぎない。
     代わりではないけれど、眠る前にきまって思い浮かべる光景がある。
     布団に潜り込み、リモコンで部屋の電気を消すと、棺の戸を閉めたような気分になる。
     ティルとの思い出が、些細な会話まですべて花になって埋め尽す棺のなか。思い出が放つ芳香で肺を満たし、囁き声から怒鳴り声、歌声まで覚えている全てを鼓膜に注ぎ込んで、ティルへの感情すべてが詰まった卵を抱きしめる。
     想像にすぎないというのに、棺の外ではいつも雨が降っている。ぬかるんだ土を踏んで、靴を汚してまで近づいてくる者はいないし、誰にも知られたくないこのこころの鼓動が、雨音に紛れてくれるから、安心できる唯一の場所と時間だった。
     止まない雨はない。明けない夜はない。そんな言葉を毅然と否定しながら、雨音の内側でしか脈動を続けられないものを、夜露に濡れた棺の内側で抱きしめて眠る。
     今日新しくできたティルとの思い出を足して、孵化しないぎりぎりまで卵を温めるうちに、いつのまにか眠りに落ちて、気が付いたときには朝が来ている。

     パーカーのポケットに入れたそれは、使い捨てのカイロのようになまぬるい熱を発して、意識の主導権を握ってしまう。咄嗟にやってしまったことだけど、熟考してもきっと同じことをしたと断言できる。
     朝の部活動がすでに始まったあと、だけど帰宅部としては一番早い時間に登校するのが俺の習慣だった。
     朝の校舎は意外にもうるさい。野球部か陸上部がランニングをするかけ声が遠くに響き、校舎のあちこちに金管楽器の音がこだましている。廊下を進めば、別棟から合唱部の歌声が聞こえてくる。
     いつもと変わらない音の海を掻き分けて昇降口に足を踏み入れ——る前に、足音を殺してそっと壁に身を隠した。
     同じクラスの女子生徒が、手紙を片手に下駄箱の前に佇んでいた。
     いまどき下駄箱に手紙なんてと思ったけど、自分だってその方法で月に一度は手紙を受け取っている。
     もしかして俺宛てかな、なんて体温の下がる思いで様子を伺っていると、彼女はティルの下駄箱に手紙を入れ、お参りでもするように手を合わせて項垂れたあと、小走りで去っていった。
     たしか、吹奏楽部の子だったと思う。目立つタイプではなくとても大人しくて、勉学にも委員会活動にもまじめな子だ。きっと個人練習を隠れ蓑に抜けてきたのだろう。たった数分のサボりですら、彼女は多大に神経をすり減らしたはずだ。よく知っているわけではないから、邪推でしかないけれど。
     恋という感情は恐ろしいと他人事のように思いながら、壁から背を離し、靴を履き替えた。
     一応周囲を確認してから、ティルの下駄箱から手紙を抜き取ってポケットにしまうと、教室に向かった。
     教室にはやはり、まだ誰も来ていなかった。いくつかの机の上にはカバンが雑に置かれている。荷物だけここにおいて部活動に行くらしい。いつも通りの光景だった。
     席の位置はティルの隣かティルよりうしろだったらどこでもいいのだけれど、今日ばかりは窓側の席であることに感謝した。廊下から盗み見られる心配が少なくて済む。
     ポケットから手紙を取り出した。封筒には名前が書かれていない。ティルがうっかり落として他の人に見られてしまう可能性もあるから妥当な判断だ、なんて勝手に評価を下す。
     花の形が浮き出た、シーリングスタンプを模したシールをゆっくりと剥がす。一度開けたらもう二度と元には戻らないのに、まだティルの元へ戻す可能性を考えているかのように、愚かしいくらい丁寧な手つきで封を解いた。
     まっすぐ綺麗に折り目のつけられた便箋を開くと、予想通りの言葉が並んでいる。
     そっと封筒に戻したところでクラスメイトが入ってきてしまい、柄にもなく慌ててパーカーのポケットに入れてしまった。それから続々と、まるで見計らったかのように教室にクラスメイトが入ってきて、手紙を鞄に移すタイミングを失ってしまう。
     やがて朝の部活動を終えた者たちも姿を見せはじめた。例の彼女は同じ部活の友人と会話しながらいたって自然に席についたけれど、ひとりになると、緊張した面持ちでティルの様子をうかがっている。
     俺のせいで——あるいはおかげで、いつも通りの朝を過ごすことになったティルは、ヘッドホンで音楽を聴きながら紙パックのジュースを啜っている。
     いつも通り、を演出するのに腐心するのは俺の方だった。身じろぐたび、立ち上がるたび、ポケットから手紙が零れ落ちないかと気が気じゃなかった。
     授業を受けていても。昼食を摂っていても。腹の上にのしかかる手紙の重さと、あの子がティルを振り返る視線が気になってしまう。自業自得だ。
     教師の話はまるで耳に入ってこなかったけれど、週末に少し広い範囲まで予習していたことがこんなところで功を奏した。体育の授業がなかったのも幸いだ。終業が待ち遠しくて、一秒ごとに時計の針を睨んでいた。
     ようやく今日最後の授業の終わりを告げるチャイムが鳴って、教室内は糸が切れたように空気が緩む。誰よりも深く、安堵のため息をついた。
     上っ面だけ綺麗に取り繕う生き方をしてきて、こんなに良かったと思ったこともない。少しでも俺に不調が見えたらミジが心配してくれるから、彼女がなんのメッセージも寄越してこないのは成功だったとみていいんだろう。
     走って家に帰り、腹の上に鎮座するこれをびりびりに引き裂いてごみ箱に捨ててしまいたい。だけど、ティルの両肩を後ろから掴むか、腕を取るようにして「一緒に帰ろ」と笑わなければ不自然に思われるかもしれない。ティルになにか勘づかれるのだけは避けたい。
     気は重かったけれど、結局今日もいつもと同じように彼の腕を掴んだ。
     一緒に帰っている、と思いたいのは俺だけで、ティルの隣で俺が一方的に喋っているだけなんだけど。いつも通りにとらわれすぎて、蓋をしていたはずの現実と向き合うことになり、喉の奥に広がった苦味を唾と一緒に飲み干す。
     ティルはいつも、返事にかかわらずまず「とりあえず離せ」とか「いちいち触んな」眉と肩を怒らせるのに、今日は「おー」と心ここにあらずと言った様子で歩き出し、俺の手を振り払わなかった。
     せっかくティルのすぐ隣を歩いているというのに、話しかけるための言葉が疑念に消費されてしまう。
     もしかしてなにか変な素振りでも見せただろうか。それとも彼女が様子の変わらないティルに焦れて直接告白したとか?
     思い浮かんだことすべてを尋ねてしまえればいいのに、そのどれひとつとしてままならない。早まったことをして、バレてはいけない。手紙を隠し持っていることも、ティルへの感情も。
     毎夜眠りに落ちる前のひととき、暴走してしまわないように、だけど新しい思い出を足して大切に温めてきた気持ち。たとえ殻のなかでとっくに腐って目も当てられない姿になっていたとしても、俺のなかで一番、そして唯一大切なものだ。これ以外に、俺にはなにもない。
    「おい」
    「えっ、」
     ティルに腕を引っ張られ、身体が傾いた。服越しにティルの指が俺の腕に沈み込む感覚を焼き付けることだけに意識が向く。
    「ティル、」
    「もうちょい、こっち」
     苛立ったように、俺の腕を掴む手に力がこもる。バランスを崩したふりしてティルの両肩に触れた。抱き着くこともできたのに、いざそのときになると反射的に踏みとどまって、身を引いてしまう。もし抱き着いて胸が触れたりなんてしたら、言葉なんてなくても心音ですべてティルに伝わってしまうかもしれない。
     ティルの鼻先が頬をかすめる。僅かに吸い込んだ湿った肌のにおいが鼻腔に沈殿して、それだけで眩暈すら起こしそうだった。
    「濡れるぞ」
     いままでで一番近い距離に、ティルの顔がある。くちびるまであと少し。ちゃんとケアしないからささくれている唇の皮を、噛みちぎってしまいたい。
    「イヴァン?」
     名前を呼ばれてようやく、頭や肩に散る雨粒に気付いた。
    「ここじゃ濡れちゃうから、もうちょっと詰めるね」
    おどけたように笑ってみせて、今度は抱き着くふりをする。俺が腕の中に囲い込む前に、ちゃんと押しやってくれることを確信しているからできることだ。
    「オイ、そっち空いてるだろ」
    「……はーい」
     咄嗟に抱き着いてしまった、という形なら、ティルはきっと許して受け止めてくれるから。
    「夜になるまで止まないらしいな」
     ティルは携帯を取り出すと、ため息をついた。
     俺は鞄のなかにはいつも折り畳み傘を入れている。ティルだって多分、それは知っている。
     普段の態度やライブ中のパフォーマンスから粗暴なイメージを持たれているけれど、他人のものを強奪することも、暴力を振るうこともない。どちらかといえば、そんなことができるのは俺の方だ。養護施設にいたときのことだから、誰も知らないだろうけど。
    「俺の家に、来る?」
    「…………」
     まだ頑なに半袖を貫くティルのシャツから覗く腕を掴んだ。手のひらに、はっきりと鳥肌の感触が伝わってくる。
     このまま狭い軒下でふたり、とりとめもない会話をして過ごすのも素敵だなと思ったけど、ティルが風邪でも引いて病欠なんてされたら、会える日が減ってしまう。
    「今日親帰ってこないから、ふたりきりだよ」
     ティルはたぶん、盛大に呆れた顔をして、濡れてでも帰ると言って、俺の手を振り払うだろう。そうなったらせめて折り畳み傘だけは押しつけよう。
     そんなシミュレーションをしていた俺に返ってきたのは、意外な返事だった。
    「……いいか?」
     一瞬だけ。雨がすべてを遮断したように、世界中から音が消えた。
     心臓から溢れ出したいつもよりあたたかい血液が顔に集まって、自然と笑みを形作ってくれる。
    「もちろん」
     ティルの腕を掴んでいた指を手首に滑らせると、誘導するように走り出した。緩くしか握っていないから、雨で滑って解けそうになる。だけど俺が強く掴んでいなくても、ティルが振りほどかないことがうれしくて、曖昧な力加減で握り続けた。
     ティルはもう片方の腕で、胸元にぎゅうっと押し付けた鞄を大事そうに抱きしめている。ミジからもらったなにかを濡らしたくないんだなと察するけれど、そんなことどうでもよかった。
    「あはは!」
     雨粒を避けるようにして道を急ぐのが楽しい。
     本当はもっと大きな声で、魔王みたいに笑い声を上げたい。すべての勇者を殺して世界を征服した気分ってこんな感じなのかな。
     無理矢理手を出そうとか、そういうことじゃなくて。
     ただ、普段なら濡れてでも帰ったであろうところを、俺と一緒に過ごす選択肢をえらんでくれたことが嬉しい。
     哄笑も、嘲笑も、失笑も、冷笑もなにもかも。ティルといるとまるで感情そのものになったみたいに、剥き出しの笑みが浮かんでくる。

    「服、置いておくから」
    「あー、悪ィ」
    「下着も置いといたよ」
    「それはいらねーよ!」
     くすくすと自分の笑い声が脱衣所に響く。心の底から溢れ出す笑いが、身体の内側に響く感覚が心地いい。
     雨が降り出したばかりだったこともあって、肩と頭が濡れる程度で家に着くことができた。手のひらのしたで、鳥肌がさっきよりはっきりと感じられたから、とりあえず浴室に押し込んだ。ティルも寒いのか、あまり抵抗してこなかった。
     荷物を二階にある俺の部屋に運んで、乾燥が済むまでのあいだティルに着てもらう服に頭を悩ませた。
     散々迷った末に、眠るときに着ていたトレーナーとスウェットを置いておくことにした。今朝、洗濯に出し忘れてよかった。
     擦りガラスはほの明るいライトとティルの肌色をぼやけて透かすのみで、もどかしい。いっそここを開け放って濡れた身体を掻き抱いてしまいたいと舌の裏に唾液が滲む。
    「出てぇんだけど」
    「……もう洗い終わったの」
    「そこまでしなくていいだろ」
     あぁなんで今日体育の授業がなかったんだろう。数時間前と真逆のことを考えて、眉を顰めた。
    「…………」
    「……いや、ちょっとスッキリしてぇから借りるわ。お前のシャンプーどれ」
    「黒いやつ」
    「顔は、」
    「いつも石鹸で洗ってる」
    「ん」
     このままずっと壁にもたれていたい。ドア越しに響くシャワーの音と薄明りのなかでうずくまっていたい。
     かごに入れられたティルのシャツに鼻を埋めて、深く吸いこむ。洗剤のにおいを掻き分けて、さっき感じた濡れた肌のにおいを探りあててから、名残惜しいけれど、立ち上がった。
    「ドライヤー」
    「あ⁉」
    「ドライヤー、棚の二段目に入ってるから!」
    「あぁ! ありがとう」
     二階に上がると、今度は自分の着替えを用意しながら、部屋を見渡した。
     こまめに整頓しているから、慌てて片付ける必要はないし、隠さなきゃいけない物もない。
     それから五分と経たず、ティルが俺の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。玄関からそのまま浴室に連れて行ったから部屋の位置がわからないのは当然だった。
     二階だよ、と叫ぶと階段を昇ってくる音がしたので、ドアを開けて出迎える。
     わあ、と素っ頓狂な声を上げそうになったのを堪えて、にっこりと笑ってみせる。
    「おかえり」
     そう言って腕を広げてみるけれど、ティルは「げぇ」と言って眉を歪めただけだった。体重をあずけてくれることを待ち望む胸に応えてくれることはないけれど、ありがと、とそれだけは目を見て伝えてくれる。一度だけ会ったことのあるティルの母親が、どれだけティルのことを愛して育てたかが伝わってくる、ティルのだいすきなところのひとつだ。
     俺がほぼ毎日着用しているせいで少しだけ袖が伸びたトレーナーは、やっぱりティルには大きくて、ズボンに至っては捲り上げた裾からくるぶしが覗いている。髪は湿っていて、頬は火照りの沈まないまま。ティルにバレないよう、手に持っていた着替えで腰回りを隠した。
    「荷物はそこに置いといたよ。好きにしてくれていいから」
    「おー」
    「ベッドで待っててくれてもいいよ」
    「はあ⁉」
     またこうして、茶化すだけの脆弱なコミュニケーションを繰り返す。海に落としたひとかけらの氷のように一瞬で溶けてしまう、ティルの記憶にも心にも堆積しない言葉ばかりを吐いている。
    「まあ座るにしても寝るにしても、好きにしていいよ」
    「……おう」
     ティルは釈然としない様子で唇を突き出していて、ああそれを啄めたらいいのにと、気持ちが身体を支配してしまう前に、部屋を後にする。
     脱衣所のドアを開けると、湿気と熱気がぶわりと溢れ出してきた。さっきまでティルが使っていた名残だと思うと唇が緩む。
     服を脱いで洗濯機に入れると、ティルの服を手に取った。もう一度顔を埋めて、ティルの身体を想像しながら手のひらで生地を撫でる。いつもはこの下にティルの肌があって、血が通っていて、筋肉があって、骨が伸びていて。
    「…………」
     やっぱりさっき軒下で抱きしめておけばよかったかなと胸を掠める後悔を振り切るように、洗濯機のなかに服を手放し、スイッチを押した。
     浴室のドアを開けると、一層湿った空気に身体を包み込まれる。
     勢いよくコックを捻り、いつもより強い水圧でシャワーを流す。一秒でも早く戻ってティルと一緒にいたいけれど、変な気を起こさないために下半身に手を伸ばした。噛み殺しきれなかった声も床を打つ水の音に紛れて、すべてが排水溝に流れてゆく。
     髪を乾かしてから、キッチンでふたりぶんのココアを淹れた。ミルクを温めている間に、戸棚を開けて、ポテトチップスの袋を盆に乗せる。
     戸を開けなくても見える場所に置かれているのは、クッキー缶と、キャンディの入った瓶。そして紅茶の茶葉が入った缶。いずれも外見に違わず値の張るものばかり。
     市販品のスナック菓子は、戸棚のなかに置かれている。義両親はどちらも口にしないし、俺も進んで食べることはない。俺がクラスメイトを家に呼んだとき用にと、義母が買い置きしてくれている。
     他人を家に招くなんてこれまでしたことがないし、この先もティル以外でそんなことするつもりもない。ミジがスアと一緒に来たいということがあったら、まあ応えるとは思う。
     そんな食べられる機会のない菓子とはいえ、記憶にある限り切らされたことはない。義両親とは互いに打ち解け合った認識なんてないはずだけど、俺も彼らの気遣いを無下にしたくはない程度の恩は感じている。食べたくはないけど嫌いでもないから、定期的に消費している。
     去年までは、ミジが笑顔でつまんでくれるから、学校へ持っていってみんなで食べていた。最近は「ニキビができてへこむから」とスアに睨まれたので、帰りが早かった日に自分で食べている。
    「お……」
     おまたせ、そう言いたかったのに、床と向き合うティルの真剣な表情を見て、言葉を飲み込んだ。ラグの引いてある場所に座ればいいのに、フローリングの上に座って、広げた楽譜を睨みつけている。
     鉛筆は耳の後ろに掛けられ、時折指先がはらはらともがく。
     こうなるともう、誰の声もティルには届かない。
     盆をローテーブルの上に乗せると、ココアを一口飲んで、ベッドにもたれてティルの背中を眺めた。
     さっきまではティルの肢体をゆるやかに覆う服の雰囲気にはしゃいでいたけれど、いまはもっとぴったりとした服にすればよかったと後悔している。Tシャツに浮き出るティルの背骨を見るのがすきなのに。
     綺麗に片付けてるのも、つまらなかったかな。分かりやすいところに性的な媒体のひとつでも置いて、ティルを動揺させたら面白かったかも。よく考えなくても、ココアとポテトチップスの組み合わせは奇異だったかもしれない。
     その場その場で最善策を選んでいるつもりなのに、結果はいつだって『不正解』だ。
     ひんやりとした部屋に身震いして、暖房を入れた。小さく電子音がなったけれど、ティルは身じろぎひとつしない。
     ティルの視界に入らない、斜め後ろに腰を下ろす。ほのかにシャンプーのにおいと、寝巻きにしみついた自分のにおいが香ってくる。
     俺は、ティルが自分のにおいにティルが包まれていると思うだけで身体の芯に火がついたように興奮するのに、ティルは楽譜に夢中で、彼のすべての感覚器官は作曲中の歌の世界のなかだけで機能している。
     どうしようかな。
     ティルが俺の部屋に来るなんてこと、そうそうない。
     ちょっとくらい喧嘩になったとしても、どうせいつものことだし。
     湿る頬に手のひらをぴったりとつけて触れてみたい。うなじにキスしたい。耳にゆるく歯を立ててみたい。俺の服がこんなに余るくらい細い腰を両手で掴んであられもない姿にしてやりたい。
    でもこのまま放っておいて、いつになくしおらしいティルに優しい時間と場所を与えてやった方が、ティルのなかでの印象が良くなって、この先に期待できるんだろうか。
     あぁ、もう。どの選択肢も間違いに見える。
     どうせ間違うなら、思い切り触れてしまいたい。
     筋トレとか、教科書の予習とか。そういう、規定された未来に向かって研鑽を積むことは容易いのに。
     ティルのことだけは、『いつか』を願って種を蒔くなんてこと、到底できない。芽が出るまで待っていられない。だって明日死ぬかもしれないのに。
     じゃあ、ずっと殻に押し込めているそれもさっさと伝えてしまえよと、自分に似た声が囁く。濡れた指が首に絡みついてきたように呼吸が浅くなる。
     分かってる。途方もない矛盾だってことは。
     ティルの右肩に耳が擦れるまで近づいた。唇のあいだから、言葉ではなく舌を差し出してしまいたい。ぎゅっと奥歯を嚙みしめて、舌の忍び出す隙間を潰す。
     灰色の髪から雫が落ちて、楽譜の上に落ちた。タオルを被ったままのティルの髪は艶やかに濡れていて、ドライヤーをかけ忘れたのが伺える。そもそも、いつも使っていないのかも。
     視線を落とすと、楽譜の端に花の絵が描いてあることに気付いた。ミジがよくつけている髪留めの絵だ。
    「寒くない?」
     耳介に息を吹きかけるように、囁いた。自分でも驚くほど線の細い声が出た。
    「うわっ⁉」
     ティルは大袈裟なくらいに肩を跳ねさせて、俺を振り返る。
    「いっ、つから……⁉」
    「いまさっき」
     嘘。
    「ココアとお菓子。持ってきたよ」
    「あぁ、ありがとう……」
     カップを手渡すと、ティルは両手で受け取った。寒がりなことを、格好良くないからという理由で隠したがるくせに、些細な仕草に滲み出ていることに気付いていないところが可愛い。
     カップにぺったりと添わされた指先と、ゆっくりと上下する喉仏を目で堪能してから、菓子の袋を開ける。
    「それで、どうしたの」
    「なにが」
     皿代わりに袋を広げてテーブルに置くと、ティルは早速手を伸ばして、一枚摘まむ。
    「いつもなら濡れてでも帰ったでしょ」
     菓子を咥えながら、ティルは目を見開いた。バレてないと思っていたらしい。
     教えてあげたい。思ったこと全て顔や態度に出てることじゃなくて、お前が想ってるよりずっとずっと、俺はお前のこと見てるよって。
    「わざわざ俺の家に寄って」
     俺なんか、と言いかけたのを必死に堪えた。発語が淀んでいなかったと信じたい。
     一緒にいたかった、とか、本当はお前の気持ちに気付いているから答えてあげようとわざわざシャワーまで浴びてやったんだ、とか。都合のいい妄想が頭の中を駆け巡る。
     絶対にそんなこと言うわけないと分かっているのに。ティルが目を逸らして頬を掻いたから、続く言葉も分かってしまうのに。
    「ミジが」
     ほら、やっぱり。
     ティルがいつも通りを失うきっかけは、いつだってそれだ。呆れた顔を見せてしまうけれど、俺がいつも通りを見失う理由だって、ティルしかない。
     ティルは床に広げた紙をそっと撫でた。
    「最近落ち込んでるみたいだから、励ましたくて」
     羨ましい。
     素直にそう言えるティルも、ティルにそう言ってもらえるミジも。自分の曲でミジが励まされると思えるほどの、自身の才能への確信も。
     俺には何もない。
     まだ雨は降り続いていて、電気をつけた部屋の中ですらどこか薄暗い気がするのに、まるですぐそばで太陽が咲いたかのように目を細めてしまう。
    「なんかしっくりこなくて、まだ出来てねーんだ。でもいいとこまでは来てるから、濡らしたくなくて」
     たしかに三日くらい前、ミジは例の花の髪留めが壊れたと言って肩を落としていた。ティルと違って、ミジは俺には直接嘆いてくれた。でも今日、スアが新しい髪留めを見繕う約束をしていたから、たぶん今頃、笑っているはずだ。
     もう誰に向けたものかも分からない嘲笑が零れる。
     特に食べたいわけでもないスナック菓子を摘まんでかみ砕いた。「そうなんだ、頑張れ」くらい言ったほうが自然だったかなと思うけれど、十秒も間を置いてから言うにはちょっと味気ない言葉だ。唾液を吸わせてふやかしたそれを飲み込み、途切れてしまった会話の次の糸口を探していると、見計らったように、洗濯機が鳴ってくれた。
    「とってくる」
    「俺も、」
    「いいよティルは」
     食い気味に答えてしまったことにハッとして、正しい笑顔を作る。
    「曲、作ってて」
    「…………」
    「ミジが元気になってくれたほうが俺も嬉しいし」
    これは嘘じゃない、本当に。でも今ちゃんと笑えてるかどうかはあやしい。
    「……ん、さんきゅ」
     ミジのこと頼むよ、なんて余計な言葉が出かかったのを飲み込んだ。
     ティルと比べて、俺の方がミジに懐かれている自覚があって、それをぶつけてみたいとは常々思っているけれど、その刃を突き立てるのは今じゃない気がした。もっと、もっとどうしようもなくなったときに、致命的な傷になるときまで隠し持っておきたい。
    「そうだ」
     キャビネットの奥にしまっていたギターケースを取り出す。
     サンタクロースへの手紙を毎年白紙で出して義両親を困らせていた俺が、初めて欲したものだった。
     高校に入ってすぐ——ティルを好きになってすぐの頃、共通言語が欲しくて、ギターを買うことを思い立った。これまでもらってきたお年玉や進学祝いに手をつけずにきた。通帳に初めて出金の記録が印字された瞬間だった。
     ギターと初心者用の楽譜をそろえてからは、それはもう夢中で練習した。
     ティルと話せることが増えると思って。ティルから俺に話しかけてくれるようになるかと思って。音楽を介してなら、ティルとこころで触れ合えるようになるんじゃないかと期待して。
     少しすれば、ある程度の楽譜は弾けるようになった。だけどそこまできて気付いたのは、この楽譜通りの演奏をティルに聞かせて何になるのかということだった。
     楽譜に書かれた音符と記号通りに指を動かせるようになって達成感はあるけれど、これからどうしたらいいのか分からない。音楽の道に進みたいとは思わない。作曲なんてできそうにない。そんなことがしたいわけじゃない。
     演奏することになんの意味も見出せなくて、ギターも楽譜も、キャビネットの奥にしまい込んだ。
     自分の作った曲や、楽譜の指示を外れても耳障りの良いアレンジで楽しそうにギターを弾くティルの横顔を見るたび、ギターが弾けるようになったことを言い出さなくて良かったと本気で安堵していた。
    「これ、使っていいよ」
    「え」
     半ば押し付けるように手渡すと、ティルはまっすぐに俺を見上げて、ありがとう、といつもよりはっきりと口にした。
    「つか、お前も弾くなら早く教えろよ」
    「いや、俺は……」
     首の後ろを掻いて、曖昧にしか笑えなくて。きまりが悪いから軽く手を振って部屋のドアを閉めた。「行ってきますのキスは?」なんて、茶化したかったのに、ココアに溶け残った砂糖がはりついているように、喉の内側がざらざらとして上手く言葉がでてこない。
     階段を降りてティルから遠ざかるたび、足先から体温が零れ落ちてゆく。
     湿気を逃すため、戸を開け放っていた脱衣所に石鹸の香りの残骸が転がっているのが、今は虚しい。
     共通言語って。すでに同じ言葉を遣っているのに。言葉にできないから、音なら、ティルが最も心を溶かしている音楽なら、通じ合えるかもしれないと思ったけど、俺は音の中に心を溶け込ませることなんてできない。ギターでも歌でも、楽譜通りに、発音通りに音を鳴らすことしかできない。
     どれだけ運良く裕福な両親に拾われて金をかけてもらおうとも、成績をあげようとも、少なくとも学校のなかでは誰よりも長くティルの隣にいようとも、これ以上の自己評価を与えられない。これが正当な評価だと疑う余地もない。
     ギターの音が聞こえてくる。チューニングを始めたようだった。
     静まり返った洗濯機の前で立ちすくんでいる場合じゃないなと、無理矢理深く息を吐き出した。
     洗濯機の蓋を開けると、白が散乱していた。
     まるで現実の光景じゃないみたいで、何度か瞬きをしてみるけれど、視界がぼやけているわけじゃなさそうだった。
     白いなにかが服に絡まっている。糸より太くて、綿より細い。
     ズボンのポケットに入れているティッシュは脱ぐ前に出したし、ティルの服も一通り触ったから問題ないはずだ。
    「……あ」
     ボタンが外れたのかと思って服の隙間からつまみ出したそれは、シールだった。シーリングスタンプを模したシール。大切な気持ちを押し込めた手紙に、そっと封をしていたもの。
     乾いた笑い声が、洗濯槽にこぼれおちた。
     もしこれが、ティルがミジに書いている楽譜だったらよかったのにと一瞬でも思ってしまった自分を肯定したくて。できなくて。
     こんなんじゃティルに愛されるわけもない。ミジは俺みたいに人を恨んだりしない。妬んだりしない。きっと。
     じゃあもしこれが、俺がティルに向けて書いた手紙だったら。それがこんな風に、ぐちゃぐちゃに掻き回されたら。
     ティルの奏でるギターの音が聞こえてくる。
     まだ完成していない曲なのに、聴き慣れた曲のように耳に馴染む。
     俺は記号による完璧な指示があってようやく音を鳴らすことができるのに、ティルはいままさに音を並べながら、新しい世界を拓いている。
     ティルはきっと楽器を粗末にするような人は嫌いだろうから、その一心で弾くことのないギターを手入れしてきてよかった。今日この音色を聴くために、虚しい気持ちで弦を拭いてきてよかった。
    「っあ、」
     洗濯機に頭を突っ込むようにして、声を殺して、泣いた。泣いているつもりなのに、涙は出てこない。そのことが余計に悲しかった。
     透明な叫び声すら、ティルと扉を隔てないと上げられない。一番聞いてほしいのに。聞いて、俺が望む形で応えてほしいのに。
     だけど、やっぱり。欲しいものが返ってこないことが分かっていて、伝えることなんてできない。拒絶されたときに負う傷は、身に余る。抱えるまでもなく、死に至る。
     だから、殻の外に出したくない。
     腐り落ちても、乾涸びてもいいから。ずっと自分の内側でめでていたい。
     たぶん最初は「好きだよ」とか愛みたいな単語で表現できたんだと思う。だけど想いを抱きしめる夜の数を重ねるたび、怒りや冷たい感情が垂らされて、攪拌されて、もうすっかりぐちゃぐちゃになってしまった。この手紙以上に。いざ殻を割ったときに溢れ出すものをどんな言葉で表せばいいのか、俺には分からない。
     大切に愛しているつもりなのに、いつも歪んで育ってしまう。小学校のときに育てていたアサガオは水のあげすぎで根が腐ってしまい、花が咲く前に枯れてしまった。それを見抜いてか、義両親は俺に植物も生き物も与えなかった。
     他の命を与えられたところで、義務として育てることはできても、情を移すことはできない。俺の感情はすべてティルに注ぎ切ってしまって、もう他に注げる残りがない。
     穏やかで、少しだけさみしい歌が響いている。ティルがこんな曲を作るのをはじめて聞いた。
     俺の心がティルにあって、ティルによって新しい感情を覚えるように。ティルの心はミジにあって、ミジによって新しい曲が作れるようになるんだろう。
     俺が落ち込んでいても、ティルが曲を作ることはない。友達として、ジュースを奢ってくれたり、ストレス発散にカラオケとかゲームセンターには連れ出してくれるだろうけど、ティルのこころそのものである音楽は、俺に明け渡されることはない。
     隣にいられる時間を壊したくないくせに、友達のままじゃ満足できなくて。でももう言葉という方法で伝えられるものではなくなってしまって。それでも、どんな形になっていようと、俺のすべてであることに変わりはなくて。
     過呼吸みたいな呼吸を繰り返してから、出てもいない涙を拭うように顔を手で覆った。五秒息を止めてすべてをなかったことにして、髪を掻き上げた。
     手のひらに包み込んだシールを握りつぶし、リビングのごみ箱に捨て去った。既に捨ててあるごみを被せて見えないように、奥深くに沈める。
     ごみ箱を持って洗面所に戻ると、手を洗ってから、服に絡みついた紙の残骸をひとつひとつ取り除いていく。
     もう読めない無惨な残骸。届かなかった気持ちの成れの果て。俺も、俺の気持ちもいっそこんな風に、誰かが殺してくれたらと思う瞬間がある。でももし殺されるとしたら、その前に、どんな方法でもいいからティルに伝える——ぶつけるんだろう。これまでのすべてを。
     それがティルにどんな傷を負わせるとしても、なんて。
     足音が近づいてくる。服を持って上がるだけにしては遅いから、心配してくれたんだろう。俺なんかのことを。
     涙が出なくてよかった。目が充血していない分、考える言い訳が少なくて済む。
    「なにしてんだ」
    「間違ってポケットに手紙を入れっぱなしにしちゃって」
    「はあ⁉ なにやってんだよ……」
    「まあ、どうせまだ雨もやみそうにないし。回し直しても三十分くらいで終わるから」
    「…………」
    「すぐ帰らなきゃいけないなら、その服貸すよ」
     ティルは呆れたようにため息をつくと、向かいにしゃがみ込んだ。服を手に取って、残骸を摘まみ始める。
     なんだかんだ俺のことを無下にできない彼が示す、美しい友情とやらを、苦々しく喜ぶ顔を見られなくてよかった。
    「俺もやる」
    「いいの?」
    「……なんで、ンなこと言うんだよ」
    「曲、作りたいかと思って」
    「やっぱ行き詰っててどうにも進まねえ」
    「そう」
    「ってか、さすがに悪いだろ。服もシャワーも借りてるし」
    「俺はいいのに」
    「あとでちょっと聞いてほしいんだけど」
    「いいよ」
    「で、手紙ってなんだよ」
    「ラブレター」
     ウインクをしてみせると、ティルは一瞥してから視線を手元に戻し、律儀に舌打ちをしてくれた。
    「またかよ……」
     ティルは残骸になった、本当は自分宛だったラブレターを、憎々しげな目で睨みながら服から剥がしては、ごみ箱に捨ててゆく。
     俺宛てのものだと勘違いしていることは訂正しなかった。丁寧な言葉と丁寧な折り目と、繊細な空押しが施された特別な便箋と封筒だったことも、言わないまま。
     捨てられたシーリングスタンプの上に、残骸が積もっていく。
     ざまあみろなんて見下げる気持ちも、優越感も、湧いてはこない。正直もうこんなものどうでもよくなっていて、手元を見つめるために伏せられたティルの睫毛や、俺が貸したトレーナーから覗く頸椎を眺めるのに必死だった。
    「返事はしろよ」
    「返事?」
    「その、ラ、ラブレターだって言っただろ」
    「……うん」
    「……お前さあいくらモテるからってもうちょっと大事に」
    「悪いと思ってるよ」
    「本当か?」
    「本当」
     嘘。
    「一回は読んだのか」
    「うん」
    「……そうか」
     やがてティルは、おそらく無意識に、囁くような声で歌いはじめた。さっきちらっと見えた楽譜とたぶん同じメロディだ。
     熱気が逃げて冷え始めたそう広くはない脱衣所が、世界で一番小さなライブハウスに変わる。観客は俺一人。ティルのかすかな歌声も、息継ぎの音も、すべてが俺だけのものになったみたいで目の奥に熱が滲んだ。いまさら。
     ふたりで残骸を取り除き終えると、洗濯機を回し直した。
     部屋に戻るとティルはさっそくギターを手に取る。また床に座ろうとするから、俺が先にベッドに座って、ぽんぽんと叩いて隣を示した。よほど早く弾きたいようで、抵抗という単語を忘れたように従ってくれる。
    「思ったことなんでも言ってくれ」
    「わかった」
     袖が擦れるくらい距離を詰めても、ティルは何も言わなかった。
     作りかけの歌の、演奏が始まる。
     俺がはじいても単なる音しか鳴らせなかったギターが、歌うように音を紡いでいる。ティルの演奏に何度だって感動するくせに、同時に自分の無力さを思い知らされて、心臓の芯がすこしだけ冷える。
     俺のギターを使って、俺の服に身を包んだティルが奏でる音が、俺の部屋に響いて。
     だけどそれは俺ではない相手に向けた愛の歌で。
     ミジはこんな歌で慰めてもらえるんだなと思うと、頭を掻き毟りたくなる。
     だけどそれを実行するには、身体がだるくて、腕を上げるのも億劫で。涙は出なかったけど、泣きつかれるってこんな感じなのかな。
    「歌えるか、これ」
    「え……」
    「楽譜読めんだろ」
    「まあ、うん」
     手渡された楽譜の束を受け取る。芯の濃い鉛筆で書かれているから、指で擦ったら消えてしまうかもしれない。触れ方が分からなくて、困る。楽譜の端に描かれた花やミジの笑顔に指が触れないように、だけど落とさないよう力加減を調整する。
     視界の端で、メッセージ通知によって携帯が点灯した。
    「ギターは聞いたことねぇからわかんねーけど、」
     ミジからだ。『イヴァン、見て!』の文字列が見える。添付された写真を開かずとも、スアとのツーショットなのは明白だった。新しい髪留めを買ったのだろう。明日学校で見せてくれればそれでいいのに、わざわざ俺にまでメッセージを送ってくるなんて、よっぽど楽しい時間を過ごしたんだろうな。
    「お前の歌声いいんだから、もったいねえ」
    「え……」
     声とともに、こころまで唇から零れ落ちてしまいそうだった。
     あたためられてしまう。どうしようもなく。
     いまにも飛び出してしまいそうな気持ちと心臓を、なんとか押さえ込む。
     ティルは、いつだって俺の望む言葉はくれないけれど、期待していなかった言葉をくれる。だからこんなにも好きになった。
    「いくぞ」
     ティルの合図に合わせて、歌い始める。
     楽譜は読めるしそれなりに音感はあるとはいえ、正しい音程かどうかは自信がない。未完成のメロディを不確かな音程で歌って、そんなものがティルの助けになるなんて思えなかったけど、こんな距離で俺の声を聞いてくれることが嬉しくて。
     雨音も俺の心臓の音も、ギターの音が掻き消してくれる、だからきっとばれないだろうと、側頭部をティルの肩に預けてもたれかかった。ギターを弾いている途中だから、突っぱねるより演奏の継続を優先するだろうという打算もあった。
     目を閉じて、いつかこの歌声と音色が俺に向くことを想像してみた。
     俺の棺の上に腰掛けたティルが、俺に感じてきた全ての友情や、からかってきたことへの怒りや、そんななにもかもを詰め込んだ歌をうたってくれることを。
     視神経がどろりと溶けたように、目の裏側が熱くなる。
     いまこのあいだだけは、自分の歌声が世界一美しいと錯覚できた。

    「これ」
    翌々日の朝、いつも通りの時間に登校して、始業まで本を読んでいると、ティルが照れた様子で頬を掻きながら、紙袋を突き出してきた。
    「借りた服、洗ってあるから。あと母さんが張り切って菓子詰めてて……」
     あのあと、制服はちゃんと乾いたから貸した服はそのまま返してくれていい、というかティルの肌に直接触れたそれを寄越してほしかったんだけど、ティルは洗って返すと言ってきかなかった。ティルの家の洗剤で洗われた服を着るのも悪くないかと一晩自分に言い聞かせてそれでもやっぱりちょっと不服だったけれど、いざ目の前にしてみるとそう悪くないかもしれない。あー今日この服着て寝るんだ。眠れるかな。
     受け取って中を覗き込むと、服の他に、丁寧に包装された箱が入っていた。ティルのお母さんは律儀な人だから、駅ビルの地下でなにか買ってくれたのだろう。
    「わっほんとだ。ありがとう。お礼、伝えておいてくれる?」
    「あぁ。いやこっちこそ、その、シャワーとか服とか、他にもいろいろ、助かった。……ありがとな」
     誰かこの会話を聞いて誤解してくれないかなと思うけれど、みんな各々の会話に花を咲かせていて、こちらを一瞥する人はいない。
    「それとこれは俺から、礼になるかはわかんねーけど」
     ティルは指先で、紙袋の隙間に差し込まれたクリアファイルを叩いた。引っ張り出してみると、それは手書きの楽譜だった。
     並んでいる音符をなんとなく目で追ってみると、あの日作っていたのと同じ曲のようだった。幾分か丁寧に書き直されていて、点在するらくがきも変わっている。
    「ミジに贈るんじゃなかったの」
    「なんかしっくりこなかったから、別の歌作ってる。ってかもう元気そうだし……」
     ティルがちらりと視線を移した先。ミジの髪には、星とハートのピンがきらめいている。スアはシンプルなピンをつけている。互いに選びあったのだと、昨日改めてミジは俺に話してくれた。
    「この曲は、お前の方が、なんつーか……あってる気がして。だから、やる」
    「……え」
    「とりあえず弾き語りできるように練習しとけ」
    「えっ」
    「まだ音が足りねー気がするから、聞いて調整する」
    「ええ⁉」
    「完成してねーモン歌わせんのは気が引けるけど」
    「えっと、」
    「完成するまで付き合え」
    「えー……?」
     音楽については妥協を許さない彼が、未完成のものを俺にぶつけてくれる。それは完成した姿だけを見せ続けてくれることよりずっと、特別なことに思えた。
    「だからまた遊びに行ってもいいか。俺ンちでもいいけど……」
     椅子が倒れるのも構わず立ち上がり、ティルの両手をぎゅっと掴む。
     いいの、と尋ねたいのをぐっと堪えた。余計な言葉を挟んで、折角の機会を失いたくない。
    「いつでも来て。今日は? 明日も来ていいから、土日でも」
    「おいわかった、わかったから……」
     周囲の視線を絡めとっていることに気付いて、ティルが慌てて手を振り払う。
     先生が教室に入ってきて、皆ばたばたと席に戻っていく。ティルも軽く手を振って席についた。
     起立、礼、着席と日直の声に従って動き、内容のない教員の話を聞き流しながら、膝の上にこっそりと楽譜を取り出す。
     一枚一枚捲っていると、ミジの髪留めに似た花が書かれているのを見つけた。髪留めと違って造花ではなく、生花のようだった。次のページには俺のギター、最後のページには俺の横顔みたいならくがきが描かれている。
     ティルから見た俺が詰まっているのかと思うと、頬と唇が溶け出すのを止められるわけもない。今日はもう、平常なんて取り繕えない。まるで足が溶けたようにふわふわと覚束ない心地で、授業についていくのが精一杯だろう。
    『今日いいか』
     ティルからメッセージが届いた。
     廊下側の席を伺う。例のクラスメイトは、ついにティルへの視線に諦念を滲ませ始めた。そして時折、泣きそうに目尻を歪める。
     そんな視線を後ろの席から見届けつつ、ティルに返信する。
     この歌が完成するまでの思い出は、棺のなかでどんな風に咲くだろう。ずっと完成しなければいいのにとさえ思う。
     墓標に俺の名前なんていらないから、この五線譜を刻んでほしい。ティルから見た俺が楽譜として残るなら、それが俺の名前でいい。
     朝の光も蛍光灯も眩しい教室の中で、目を閉じた。
     棺の中から歌を歌うから、漏れ出る声を辿っていつかティルが蓋を開けてくれることを、そう願う。あたらしく生まれた願いのあたたかさを身体に馴染ませるように呼吸を繰り返していると、せっかく完璧な優等生をやってきたというのに、うっかり眠ってしまいそうだった。


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