clap back 重厚な木製のカウンター越しに、バーテンダーがシェイカーを振る音が響いている。暖色の仄暗い照明で薄っすら照らされた店内には片手で数え切れる程度の客しかいなくて、颯太が言っていた『一見さんお断りの穴場』という言葉の意味をひしひしと理解した。
静流に連れ出される以外では外で酒を飲む機会なんてないし、行ったとしてももっと騒がしいクラブか居酒屋ばかりだ。慣れないバーの空気に自分のズボンを片手で握りしめる。
「ここ良い店だよね〜!ウィズダムのお客さんに紹介してもらっただけあるな〜」
良い店…と言われても比較対象が出てこない。苦し紛れに手元の酒を煽る。長ったらしい名前でよく聞き取れなかったが、シャンパンとコーヒーを混ぜたものらしい。味は確かに悪くないが、颯太が言ってる『良い店』の意味とは違うだろう。
レコードプレーヤーから流れるいかにも品のいいジャズと、颯太の溌剌とした声が妙にアンバランスで、アルコールと合間って脳の中心が掻き回されたような感覚に陥る。
周りにいる客はまぁ、そういう仲の男女なのだろう、小さい声量で密かな会話を楽しんでいる空気で、その姿が目につくたびに余計に居心地が悪くなった。
「…そういえばちょっと前、戒くんが店に来た時にさ、店で僕の出したカクテル飲んでくれたことあったでしょ?」
微かに笑いを含んだ声で蒸し返され、過ぎた失態に顔が熱くなる。その話はもう良いだろと言いたいところだったが、気にしてると思われるのもかえって癪だから喉奥に押し込んだ。
何より、あの時出された酒のことを思い出して鳩尾がむかつき始める。いや、無意識だったのは分かってんだが。
「あの時のお酒どうだった?ちゃんと感想聞いてなかったからさ」
「あ〜…」
何を言われるのかと思ったが、ありきたりな質問で拍子抜けする。あの時ランスに吹き込まれた妙な知識でダメージを負った自分が情けなく思えて、微かに腹が立った。
「…まー悪くなかったな」
「も〜…美味しかったなら美味しかったってちゃんと言ってよ…」
はぐらかされた颯太が口を尖らせる。こういう所は本当あの頃から変わってない。思わず鼻で笑うと、颯太の頬がぷくっと膨らんだ。
そうこうしている内に颯太が握るグラスが空になっていることに気づいて、ふと思い立った案に思わず自嘲する。流石に意地が悪いかもしれないが、そっちにその気が無かったのならこっちの意図が悟られることもないだろう。
バーテンダーにバイオレットフィズを頼んで、出されたものを颯太に渡す。泡が反射する紫色の液体を見て、颯太が目を見開いた。
「あれ?これって…」
「一杯だけ奢ってやる」
颯太は俺の顔と酒を交互に見て、少し間を開けて微笑む。青緑の大きな瞳が柔く細まる度、ひとりでに早鐘を打つ心臓にももう慣れつつあった。
お互いのグラスが空になったのを見計らって店を出る。人の往来のなくなった道が街灯に照らされて、普段より心なしか澄んだ空気が酔って火照った頬を冷やした。
少しだけ歩いたところで、颯太が独り言のように言う。
「戒くん僕ね」
「あ?」
「もう二度と忘れないよ、戒くんのこと」
思わず足が止まる。顔をあげると、颯太と目が合った。表情はいつも通りだったが、その視線に射抜かれたことで不思議と身動きが取れなくなる。
何より、あの行動の意図が悟られていたことに言葉を失った。バツが悪くてすぐに視線を逸らす。
「そうかよ」
「うん」
「…………」
次の言葉が出てこない。何か返すかさっさと歩き出すかしなければと思っていたところで、颯太が俺の腕ごと抱き締めてきた。微かな香水と洗剤の匂いに混じって、確かに颯太の体温が香って、また心臓が煩く喚き出す。
俺が颯太の首元に軽く顔を埋めると、颯太の腕に力が籠った。
「あの時は深い意味はなかったけど、戒くんのこと思い出した後にやっちゃったかもって思ったんだ」
「…あっそ」
「怒ってる?」
「別に」
実際キレてはない。あの時俺にバイオレットフィズを出したことに意味がなかったのも分かってる。
ただ異様に虚しい気分になったのも事実で、さっきのアレは正直颯太への当てつけだった。コイツが忘れたくて忘れたわけじゃないことも、分かってるはずなのに。
それでも、コイツの人生から俺が消えるのは、きっともう二度と耐えられない。こんな事とても口じゃ言えねーが。
「……二度と忘れないなら、それでいい」
「へへ、僕の記憶力がズバ抜けてるの知ってるでしょ?」
「約束だからな」
コイツが事あるごとに持ち出してくる単語を投げつけてやると、腹立たしいほどの笑顔で小指を絡めてきた。