ハムチーズ 小学生の頃、店でお菓子を選ぶとき。中学生の時、新しい文房具を買うとき。高校生になって、好きな服を見つけた時も。いつも希望が通るのは、兄か弟だった。
あいつらばっかりずるい!
そう抗議する度に、母の返す言葉は決まっていた。
「お前は次男なんだから、我慢しなさい」
服や物は兄のお下がりで十分。食べ物はおねだりの激しい弟が優先で、好きなおかずに手を伸ばすのは、いつも最後。
家族の食卓でさえ、文次郎の食べたい献立が通った試しがない。最初は理不尽だと思った。どうして順番で自分の価値が決まるのだろう。
やがて兄は上京し、家を離れた。
けれど、今度は末っ子の弟への溺愛ぶりに、文次郎の願いは両親の耳に届かなくなっていった。何を頼んでも聞き入れてもらえない。次第に文次郎は、自分の欲しいものを口にすることを諦めてしまった。
すると、欲しいものを見つけても、すぐに目を逸らす癖がついた。「これ、欲しいな」という気持ちは、心の中で膨らみかけたところで、いつも自分で押し殺す。最初から欲しいと思わなければ、諦める必要も、我慢する必要もない。
気づけば、自分が何を欲しいのか、本当は何を選びたいのか──考えることも、いつしかなくなっていた。
*
冬の陽気が頬を撫でる午後、試験終わりに仙蔵に連れられてきたのは、大学近くの公園に佇むポップなワゴンカーだった。巷で人気のクレープ屋さんらしい。冷たい風に乗って、焼き立ての生地の甘い香りが漂ってくる。仙蔵が差し出したスマートフォンには、まるで宝石箱のように、色とりどりのメニューが並んでいた。
「決まったか?」
仙蔵に尋ねられ、文次郎は言葉に詰まった。
『次男なんだから我慢しなさい』
耳に染み付いた母の言葉が、まるで呪いのように文次郎の心を縛る。幼い頃から、自分の欲しいものは兄か弟に譲るのが当たり前の日常。気づけば、それは呼吸をするように自然なことになっていた。
上京して、大学で仙蔵と出会い、付き合い始めても、その価値観は未だに文次郎の血肉となって離れない。むしろ、大切な恋人だからこそ、より一層その癖は強くなっているようだった。
「いや……」
スマートフォンの画面に映る色とりどりのクレープの写真を見つめる間も、文次郎の目は無意識に仙蔵の表情を追っている。
恋人が何を食べたいのか、どの写真で瞳の色が変わるのか、指が少しでも止まった商品はないか。微細な仕草まで読み取ろうとする。長年染み付いた癖だった。
ふと、画面に並ぶクレープの写真の中に、目を奪われる。
子供の頃、何度か欲しいとねだったが、母には贅沢だと一蹴されたものだ。当時叶わなかった憧れの味。
「これも美味しそうだ。悩むな」
仙蔵が画面をスクロールしながら、別のクレープを指さした。その仕草に、文次郎は反射的に口を開いた。
「じゃあ、仙蔵が食べたいものを二つ頼んで分けっこするのはどうだ」
自分の欲しかったものは、また次の機会でもいいし、なくてもいい。相手の欲しいものを優先する──それが、文次郎にとっての「正しい」選択だと。
そう思っていたら、仙蔵の眉間に皺が寄った。
「違う」
「え」
仙蔵の声に含まれる僅かな苛立ちに、文次郎は戸惑った。仙蔵が迷っていたクレープを頼めばいいとばかり思っていたから。
「お前の食べるものに、私が口出しするのは違うだろう。お前が、今、食べたいと思ったものを選べばいいんだ」
その言葉に、文次郎の心が大きく揺れる。
「……いいのか?」
自分の欲しいものを、誰かに譲ることなく選ぶ。
「いいも何も、当たり前だろう」
これまでの価値観が、仙蔵の言葉によって、まるで春の雪が溶けるように崩れていくのを感じる。
じゃあ、と遠慮がちに文次郎は小さく呟いて、震える指でメニューを指す。
声は、行き交う人々の喧騒に紛れそうなほど小さかった。
*
公園の木々がそよ風に揺れる中、二人は近くのベンチに腰を下ろした。仙蔵はクレープを手に、もう一口目を楽しんでいて、甘い香りが風に乗って漂ってくる。
一方、文次郎は自分のクレープをまだ見つめたままだった。温かい生地から立ち上る湯気が、冬の空気の中で小さな雲のように消えていく。かつて親に頼んでも、「家で作れるでしょう」と諭され、結局手に入れることができなかった憧れが、今、その手の中にある。包装紙の感触が、この瞬間が現実であることを伝えていた。
「早く食べないと冷めるぞ」
仙蔵の声に我に返り、文次郎は恐る恐る一口を味わう。ほこほこと温かい生地が指先を温め、レタスのみずみずしさが口いっぱいに広がる。舌の上で生地がほどける感触を愉しみながら、今度は深くかぶりついた。コクのあるマヨネーズが全体の味わいを引き出し、噛むほどにとろーっと溶けたチーズと、程よい塩気のハムが絶妙なハーモニーを奏でる。
「……うまい」
素直な感想が、自然と口から零れた。小さな声だったはずなのに、その言葉を聞き逃さなかった仙蔵は、満足げな表情を浮かべる。
「よかった。私のも食べてみるか?」
仙蔵の申し出に、文次郎はこくりと頷く。
「ほら」
仙蔵は自分のクレープを差し出した。その仕草には、いつもの優しさが滲んでいる。少し齧らせてもらうと、苺の爽やかな酸味となめらかなカスタードが織りなす甘さに、思わず目を細める。口の中に広がる味わいに心を奪われていたのも、束の間。最後の一口を終えた後、仙蔵の横顔を見つめながら、文次郎は密かな後悔を覚えていた。
(やっぱり、仙蔵が迷っていたもう片方にすれば良かったかなあ)
そうすれば、最初から分けっこを提案できたし、ハムとチーズが入ったクレープなんて、家で作ろうと思えば簡単に作れるはずだし……。
いつもの癖のように、選択を悔やむ思考が、心の中を巡り始める。
「文次郎」
不意に名前を呼ばれ、文次郎は顔を上げた。仙蔵の真摯な眼差しが、彼の迷いを見透かすように注がれている。
「お前は自分が選んだことに、まだ迷っているのか?」
図星を突かれ、逃げるように視線を落とした文次郎の頬が、仙蔵の温かな掌に捉えられる。親指が優しく顎を支え、ゆっくりと顔を上げさせられた。
「私は、お前が食べたいと思ったものを一緒に食べたいんだ」
仙蔵の声は、冬の空気を溶かすように柔らかだった。文次郎は息を飲む。
一緒の時間に、場所で、楽しみたい──。
その想いは、まるで温かな日差しのように、文次郎の心の奥深くまで沁み入っていく。
長年積み重ねてきた「正しさ」が、仙蔵の前で、少しずつ形を変えていくような気がした。
「次は私が選ばなかった方を食べたいから、お前も食べたいの決めておけ」
仙蔵の言葉に、文次郎は小さく頷きながら、まだ温もりの残る指先で、ポケットの中のスマートフォンを握りしめる。
今度は本当に食べたいものを、迷わず選べるだろうか。
その不安と期待が、胸の中でくすぐったい。
仙蔵は柔らかな笑みを浮かべ、そうだ、とふと思い出したように付け加えた。
「今日、初めて間接キスもしたな。記念日にするか」
「ば、……」
バカタレ、と文次郎は顔を真っ赤に染めた。寒気の漂う空気の中、頬だけが熱を帯びている。文次郎は照れ隠しに口元を手で覆う。
その仕草が堪らなく愛おしかったのか、仙蔵は思わず文次郎を引き寄せ、抱きしめた。
すれ違う人々の息が白く凍る午後。文次郎は自分の唇に残る甘い余韻を噛みしめながら、火照る頬が冷めるのを待った。
けれど、心の中の温もりは、まだずっと消えそうになかった。