もふもふと恋には抗えない「俺、犬になっちゃった」
「イヌ……?」
夜の帳が下りた頃に、戸を叩いた青年が言った。いつもの制服にローブを被り――見目からするとただ布を引っ掛けたという方が正しい――その布の下で、何かがぴこぴこ揺れている。視線を少し下にずらせば、最早隠してもいない尻尾が目に留まった。
「耳と尻尾も生えたんだよね」
「何が……いや、いい。公子殿のことだ、どこかの秘境で暴れたのだろう」
「あは、正解。先生なら解決策を知ってるかなってさ」
ひとまず室内に入るよう促すと、お邪魔しまーすと間延びした声の合間にぽふぽふと音がした。それがどこかおかしくも愛おしく、笑ってしまわないように一呼吸おいて、そのような効果のある秘境は存じていない、と言った。
「だが、その程度ならおそらく術で耳も尾も消滅するはずだ」
「え、ほんと?頼んでもいいかな」
感情を代弁するかのように犬耳が立つ。うん、やはり愛らしい。彼を目にしてから同じことしか繰り返していないが、恋は盲目というやつだ。恋は魔神をも馬鹿にしてしまう。
「少し尻尾を見ても?」
「いーよ。でもあんまり触らないでくれる?なんか変な感じするんだよね」
「……、善処する」
ご丁寧にタルタリヤが後ろを向き、可愛らしい尻尾がふりっと揺れた。思わず伸ばしかけた手を止める。彼が触れるなと言うのなら、それを守らねば――いやしかし、「善処」とは約束や契約ではない。さらに言えば彼がこんなにも愛らしいのが悪い。よって、目の前のもふもふに屈するのも仕方の無いことなのではないか?
揺れるジンジャーの毛並みが己を誘惑する。耳がぺたりと座っているのを見て、鍾離はえも言われぬ気持ちになった。犬が耳を寝かせる時は喜びを感じたり安心している時だと聞いたことがある――この気持ちこそが旅人の言っていた「尊い」なのかもしれない。
結局数多の誘惑に負け、鍾離はそうっと尾に触れた。今の鍾離は凡人だし、磐岩のように強固な精神力なんてもう捨ててしまったので、これも仕方のないことだ。
「わあーッ!?ちょっと!」
背中がしびびと震えて、柔く暖かい尾が鍾離の手をぽふんと叩く。柔らかくてふわふわのそれにいのちの温もりを感じ、鍾離は震えた。些か可愛すぎるのではないか。長年人々を魅了してきた犬猫の魅力を、鍾離はたった今理解したのだった。
「……すごく……かわいらしいな」
「それ今聞いてない!ああ、先生に相談するべきじゃなかった」
ふよふよと嬉しそうに揺れる尻尾を見れば、棘のある言葉は照れ隠しだと一目で分かる。とうとう笑い声をもらせば、今度海鮮スープ作ってやるなんて不穏な言葉が聞こえたので、鍾離は慌てて彼のご機嫌取りをするのだ。