白い吐息 猛吹雪の真っ白な世界を、クロムとシエルは歩いていた。
吹き荒ぶ風に身を縮め、両腕で体を抱えながら前進する。クロムが風をもろに受けて先を進み、少し後方をシエルが目をきつく瞑ったままついていった。耳に突き刺さる風音は冷気そのものであり、零下の空気が聴覚からも迫ってくるような錯覚に陥る。彼等は終わりの見えぬ道を不安と恐怖を胸に歩く。可能ならば今すぐ休みたい、しかし立ち止まった瞬間命が尽きる気がして、二人とも己の足を叱咤するようにして進み続けた。
「寒い……」
ガチガチと歯を鳴らしながら、シエルが風にかき消されそうな小さな声で呟く。彼の体は雪にまみれていたが、吹き荒れる嵐では払う余裕すらなかった。クロムもまた、シエルほどではないが寒さに体力を削られている。この日は30度を超える真夏日であったが、彼等が居る場所は現実とは正反対の有様だった。
「何故こんなことに……」
クロムは寒風に片目を瞑り、険しい顔で思い返す。
現在の惨状はほんの二十分前に始まった、他愛ないイベントがきっかけであった。
最高気温が35度と予報されたこの日、ペンドラゴンの三人はゾナモスハウスを訪れていた。
謎解きとベイを掛け合わせたアトラクション施設は連日大盛況で、この日も数日後に控える新企画に向けて準備が進められていた。施設の管理人・猫山ゾナモスはペンドラゴンを招き、イベントPR用のコラボ動画を撮影しようとする。チームメイトである難波ゆにの協力を得、ゾナモスは企画を盛り上げようと意気込んでいた。
「よろしくお願いするゾナ!」
「シグルさんもほら、マルチ様みたいにスマイルスマイル~♪」
ゾナモスとゆにが満面の笑みをたたえ、ペンドラゴンの面々に笑いかける。ちなみに前者は自分の首を持った落ち武者の姿で、後者は三角巾をつけた死に装束だった。どちらも日本の亡霊を模した格好で、今回のイベントが純和風であることを姿形で示していた。一見すると不気味だが、どちらにも愛嬌があり微笑ましい。そんな二人にシエルが快活な笑顔で応えた。
「こちらこそよろしくお願いするッス!」
元気な反応にホストの二人はうんうんと頷く。ペンドラゴン最年少の彼は明るく真面目で、二人はこのとき初対面だが好印象を抱いた。
「それにしても珍しいわね~」
ゆにが明るい笑顔のまま率直な感想を口にする。Xタワーの頂点に立つチームは圧倒的な力で他者を叩き潰す存在である。そんな彼等がこのような“軽い”イベントに乗るとは思っていなかった。そもそもクロムもシグルも気軽に話しかけづらい雰囲気があり、遊びとは真逆の立ち位置に居る。にもかかわらず彼等は自らアトラクションに挑もうとしている。彼等のこれまでのスタンスを考えれば真夏の降雪の如き珍事だった。
「ペンドラゴンがこういう仕事を受けるなんて」
「クロムの心境が変わったから」
ゆにのストレートな疑問にシグルが無表情のまま淡々と答える。コラボ企画だろうが何だろうが彼女はいつも通りだ。率直に言えば絡みづらい、だがマイペースなゆには気にしない。
「へえ~」
感心したような声を漏らす。それ以上は何も言わず二人の会話はそこで終わった。
クロムは女性二人を見つめ、穏やかな笑みを浮かべている。その隣にはシエルが居て、少年もまた楽しげな表情をしていた。クロムはちらりとシエルに視線を向け“面白そうだな”と呟く。シエルの“はい!”という元気な返事が青年の耳に心地よく響いた。
クロムがこのコラボ企画を受けたのは、シエルを思ってのことだった。
かつての彼なら“くだらん”と一蹴していたに違いない。しかしシエルと誠実に付き合うようになってからクロムは少しずつ変わった。少年が喜びそうな仕事に進んで関わろうとするようになったのだ。ゾナモスハウスの話は以前シエルから聞いていた――随分前の話だが、ペルソナが最難関の謎を解き明かした、と。
“謎を解いた記念に、バードさんの像が作られたそうッス!”
SNSから情報を得たシエルは、当時のバードが顔から火が出るほど恥ずかしがった事実を知らない。ともあれシエルの影響もあり、クロムはかつてなら退けていたイベントに参加することになった。
数日後に新企画として披露されるアトラクションは、施設内が純和風に改装されている。夏の暑い盛りに気分だけでも涼しくなろうと、ゾナモスはお化け屋敷を造り上げた。クロムはその新装施設の、人目を引く入口を前に思わず唸る。墓地の風景と幽霊や妖怪が、万人受けするポップな絵柄で描かれていた。
如何にもと言ったお化け屋敷でどのような謎が仕掛けられているのか見物である。解けるだろうか。それなりの緊張はあるが、まずは楽しもうとクロムは思った。
「どこまで行けるかわからないが、頑張ろうな」
「はい!」
クロムが口角を上げるのと同様シエルもまた胸を躍らせている。シグルは相変わらず無表情だが、悪くないと思っているようにクロムには見えた。
「それではコラボ企画、スタートゾナ!」
三人は新アトラクションに足を踏み入れた。
暗い道を少し進むと、その先に典型的な墓地の景色が広がっている。暗闇の中に純和風の、黒灰色の墓石と古びた卒塔婆が数多並んでいた。空調を効かせているのか肌寒く、シエルは無意識のうちに体を両腕で抱きしめる。音響にも力を入れているのか、ひゅー、どろどろ、と、恐怖を掻き立てる効果音が聞こえてきた。
人魂を模しているのだろう、青白い光が墓石のそばで浮かんだり消えたりしていた。
「な、中々、雰囲気あるッスね……」
シエルはかすれた声で言い、自身の恐怖をわかりやすく伝える。クロムも恐怖こそ抱かないものの、アトラクションの出来の良さに内心舌を巻いた。子供ならば現時点で泣き出しそうだ。事実シエルの顔は恐ろしさのあまり引きつっていた。
「この先に謎が提示されてるって」
おののくシエルとは対照的に冷静なシグルが、立て札に書かれた案内板を読む。
「私、謎解き得意じゃないんだけど。クロムはどうなの」
「最善を尽くすとしか言えんな」
エンターテインメントに関心がない彼は実際のところクリアできる自信はない。ただ出来る限り頑張ろうと気負っていた。シエルが楽しみにしていたし、恋人にいいところを見せたいという下心もあったりする。そもそも万人向けのアトラクションだ、何とかなるだろう。
「よし、行くぞ」
意気込みを胸にチームメイトを促す。直後、お化け提灯がぬっ、と、コミカルながらもインパクトのある見た目で出現した。
「うわあああ!?」
シエルが驚きのあまり絶叫する。反射的にクロムの腕にしがみつき、涙目になりながら動揺が露わの声を出した。
「お、お化け、お化けが出たッス!」
「落ち着けシエル」
彼等の前にある“お化け”はよく出来た小道具だ。何と言うことはない、ただの子供騙し――もっとも雰囲気がありすぎて大の大人でも怯む迫力があった。クロムの冷静な指摘にシエルが体の強張りを弛緩させる。あまりの急に思わず叫ぶも、よくよく考えればアトラクションの一部に過ぎなかった。
「びっくりしたッス……。はっ!」
ほっと胸を撫で下ろし、数秒置いて我に返る。少年はクロムの腕にしがみついたままだった。己の振る舞いに気づきシエルがさっと青ざめる。
「すみません!」
「気にするな」
慌ててクロムから離れるシエルにクロムは余裕ある笑みで返した。
クロムは満更ではない。
(悪くないな)
予期せぬ幸運に見舞われ心の中でグッと拳を固くする。そんなクロムにシグルは表情を変えぬまままとう空気を冷ややかなそれに変えた。
(クロムって……案外単純)
「先に行ってる」
心なしか白けた表情で呟き、彼女は二人を置いて奥に進む。二人はまずいと急いで後を追うも、来場者を驚かせる仕掛けが次々と彼等の前に現れた。のっぺらぼうに井戸から這い出る女の幽霊、百鬼夜行などもあった。シグルと二人の間を小鬼やろくろ首、牛頭馬頭(ごずめず)など数多の妖怪が列を成して通っていく。妖怪のパレードは4Xシステムの映像なのだが、非常に精巧に作られていて本物の百鬼夜行と思えてしまうほどだった。
「すごくリアルッス……」
群れ成す妖怪に男二人が圧倒される。呆然と眺めるうちにシグルと彼等の距離はどんどん広がり、クロムは我に返って端正な顔に焦燥感を滲ませた。
「シグル、待ってくれ」
妖怪の群に行く手を阻まれるクロムがシグルの遠ざかる背中に呼び掛ける。彼女は気づかず先に進んでしまう。
「シグル、」
“お化け屋敷を楽しんでいるかなゾナ?”
声はアナウンスに被せられ無情にも掻き消えた。
ゾナモスの上機嫌なアナウンスが流れ、クロムはわかりやすく苛立ちを見せる。場内にはアトラクションの管理人たる男の声が、憎らしいほど明るく響き渡った。何事かとクロムが眉を吊り上げる。彼が仰ぎ見た天井にはスピーカーが設置され、男の能天気な声がまたも聞こえてきた。
“お楽しみはこれからゾナ~”
ゾナモスとゆには管理人室で待機していて、ペンドラゴンの面々の心境をまるで知らず機嫌を良くしている。本来ならばゾナモスもまたホストとして来場者を怖がらせる役どころだが、このときはペンドラゴンにスポットを当てたPR動画の撮影のため、彼は奥に控えていた。ゆには自分の出番は既に終わっているが面白いので死に装束のままその場に居る。管理人室には複数のモニターがあり、園内の様子や客の反応をつぶさに観察出来るのだった。
もうすぐシグルが最初の謎に到達する中、クロムとシエルが大分後ろでもたついている。ゾナモスは二人に更なるサプライズを仕掛けようと瞳を輝かせた。
“このお化け屋敷には沢山のトラップがあるゾナ。隠し扉に秘密の抜け道、落とし穴なんかもあるゾナ”
“落とし穴は絶対零度エリアに通じてるの!”
スピーカーからゆにの声が流れてきた。クロムが苛々を募らせシエルが戸惑いに眉尻を下げる中、彼女は管理人室で声を弾ませた。
「身の心も瞬間冷却ってカンジ! 暑い夏にはとびっきりのイベントでしょ?」
「クロム選手とシエル選手がちょうどいい位置に居るゾナ。二人を絶対零度エリアにご招待ゾナ!」
ゾナモスが意気揚々と口にした直後、クロムとシエルの足場がパカッと割れる。二人は突然なくなった足元に驚愕し、目を見開いたまま真っ逆さまに落ちていった。
「絶対零度エリアで涼んでほしいゾナ。気分はどうゾナ! ……ゾナ?」
ゾナモスハウスには各所に監視カメラが設置してあり、ゾナモスは壁に掛けられたモニターでそれぞれの場所を確認出来る。しかし絶対零度エリアを映し出すモニターは漆黒を広げたまま、何の映像も表示しなかった。音声もまた正常に働かず無音のまま、クロムとシエルの様子はまったくわからない。予期せぬ事態にゾナモスとゆにがぽかんと目口をまるくした。
「どうしたゾナ?」
「何も映らないわね~?」
事態の呑み込めぬ二人の許に猫女・スフィーが現れる。彼女は澄ました顔でとんでもないことを言った。
「通信障害でスフィ」
お化け屋敷のホストは徐々に青ざめ、数秒後パニックに陥った。
「それってヤバくない!?」
「まずいゾナー!!」
斯くして物語は冒頭へと至る。猛吹雪の真っ白な世界を、クロムとシエルは寒さに耐えながら歩いていた。
強風に身を縮こませ、今以上に体力を奪われぬようにしながら前進する。二人は気を抜けば倒れてしまいそうだったが、凍死への危機感が彼等を無理にでも先へと進ませた。
「寒い……」
歯の根も噛み合わない極寒の中、シエルが消え入りそうな声を零す。彼の体は真っ白な雪を被っていたが、絶えず吹きつける雪に払うゆとりなどなかった。クロムもまた顔をしかめ氷点下の気温を耐え忍ぶ。屋外はじっとしているだけで汗が滲む真夏日であったが、彼等は暑さとは真逆の寒々しい場所に身を置いていた。
「何故こんなことに……」
クロムがこのままではと死を意識する中、シエルが疲労困憊のあまり膝をつく。一度止まってしまったら二度と立ち上がれない雰囲気を醸し、
「もう駄目ッス……」
シエルは息も絶え絶えに、今にも目を閉じてしまいそうな顔で言った。
「クロムさん……先行ってください……、」
「シエル寝るな! 寝たら死ぬぞ!」
疲れ切った子供に青年が叫ぶ。クロムは滅多なことでは怒らないが、命の危機とあって流石に声を荒げた。少年に呼び掛け、弱々しく頷く彼にわずかばかり安堵する。が、クロムの視線はすぐさま険しいそれに変わり、先の見えぬ道を睨むように注がれた。
「あとどれくらい進めばいいんだ」
答はなく、二人は生き延びるために歩き続けるしかない。疲れた体に鞭打って、彼等は困難な歩行を再開した。忍耐の精神が実を結び、やがて吹雪の向こうに洞窟が見えた。助かった、とクロムが表情を緩める。虚ろな表情で続く子供に青年は柔らかな声で言った。
「もうひと頑張りだ、シエル」
「はい……!」
少年が健気に頷く。二人は雪原を踏みしめて数分後、雪風をしのげる場所に辿り着いた。
洞窟の中はしん、と静まり返り吹き荒む寒風が遮断されている。吹きさらしより遥かに寒さが緩んだ場所に、クロムとシエルは安堵で胸を撫で下ろした。
「助かった……」「助かったッス……」
二人同時に岩壁に背中を預け、ずるずると力なくしゃがみ込む。ほうっと一息つけば吐息が白くふわりと広がり、二人はようやっと気持ちを落ち着かせた。青年は冷静に状況を把握する。予期せぬトラブルに巻き込まれ雪原を彷徨う羽目になった。ここもゾナモスハウスの一部であるから二人に降りかかった災難はいずれ判明するだろう。どれくらいで救助が来るだろうか。
「早く気づいてもらえるといいんだがな」
身震いしながらクロムがぼやく。寒さのあまり再び睡魔に襲われたのだろう、シエルは瞳をぼんやりとさせ、芯の抜けた声で呟いた。
「もし、誰も気づかなかったら……」
体調不良が悪い方向に思考を導くのか、シエルは最悪の事態を予想する。雷を宿す瞳に不安の色が滲み、彼はいつになく弱々しかった。
「大丈夫だ」
子供の恐れを打ち消すよう、クロムは強い声で断言する。
「きっと気づいてくれる。助けは来る。信じて待とう」
翠の瞳は気力をたたえ、少年の目に力強く映る。彼が敬愛を寄せる青年は、苦難に直面すれど決して揺らがなかった。青年が確信をもって口にするなら絶対に信じられる――シエルは胸に熱を灯す。青年の瞳に感化され、彼もまた深く頷いた。
「はい」
微笑んで答え、ぶるりと体を震わせる。吹雪を免れたとは言え洞窟内も気温が低い。両腕で体を抱きしめるシエルにクロムが顔色を変えた。
「しっかりしろ」
上着を着せようと脱ぐ動作を見せるもシエルは緩く首を振る。
「平気ッス。クロムさんだって寒いのに、オレだけ甘えるわけにはいかないッス」
「しかし……」
愁眉の表情で食い下がり、クロムは目を見開いてシエルの顔を覗き込む。少年の姿は実につらそうであり、睡魔に抗う彼は気を抜けばすぐにでも瞼を落としてしまいそうだった。いけない、ここで寝たら死んでしまう。恐怖を覚えて見つめる中、シエルは寒さが体に堪えるのか、“はあ”と大きく息を吐いた。
少年の息が白く煙る。真っ白な吐息が如何にも極寒の様相を呈し――クロムは痛ましさにたまらなくなってシエルを抱きしめた。
「クロムさ、」
「じっとしてろ」
少年の体に腕を回し、寒さから身を守るように包み込む。シエルは服越しに青年の存在を強く意識し、胸をときめかせた。第三者から見れば青年は少年の命を守るため己に出来る限りの手段を講じているに過ぎない。しかしシエルにとって愛しい人に抱擁される状況に否が応でも体温が上がるのだった。
クロムもまたシエルを助けるためと行動するも、一方で自身の熱が上昇するのを自覚する。今は緊急事態であり色めいた想像をしている場合ではない、彼は己を叱咤しひたすらシエルの保護に努めた。だが悲しいかな、二人は恋人同士でありどちらもつい不純な思考を頭に巡らせてしまう。落ち着け、余計な事を考えるな、とクロムとシエル二人が同時に同じ葛藤を胸に渦巻かせた。
シエルは自身の動揺を理性で抑えつけ、青年への感謝のみで胸を満たそうとする。自分を案じ抱きしめてくれる人――シエルは青年の心に打たれ柔らかな微笑をおもてに乗せた。情念を封じ青年の優しさだけを受け止めんとする。彼は穏やかに目を閉じ安心しきった声で言う。
「クロムさん……温かいッス」
落ち着いた様子を見せるシエルにクロムは安堵で顔をほころばせる。彼もまた欲を胸に芽生えさせたが、純粋無垢な――とクロムには映る――少年にひとまず下心を抑圧した。
「そうか……よかった」
「もう少し」
クロムの腕の中で‟は……っ”と息をつく。彼の隠した心がふと顔を覗かせたのか、シエルは頬を紅潮させていた。
彼は年齢の割に精神的に成熟し、己を律する意志が強い。しかし青年への恋慕は押し込めようとしても知らずのうちに表出した。彼は赤らんだ顔で、双眸に熱を込めてクロムを見つめる。白い吐息がもう一度、扇情的に彼の口から零れた。
「もう少し強く抱きしめてほしいッス」
「……!」
クロムは熱っぽい視線を注がれ思わず唾を呑む。変な意味ではない、彼は寒くてそう言っているだけだ、と、青年は心の中で欲望を振り払わんとした。だが熱は昂り、否が応でもそちら方面の想像が働いてしまう。落ち着けと己に言い聞かせ、理性を総動員させ欲望を頭から叩き出そうとする。今は助けが来るのを待つのみだ、と。
(よせ、馬鹿なことを考えるんじゃない)
早鐘を打つ鼓動と警鐘を鳴らす頭脳により、彼の精神は大いに乱れる。冷静にと己を抑えんとする、だが、
「クロムさん……」
シエルが上気した顔で甘い声で呼びかける。そそる顔と声にクロムの胸が揺らいだ。
(くっ……)
抗いがたい欲求にクロムもまた顔を赤らめ、シエルに熱い眼差しを注ぐ。心音の音がどくどくと、大きく聞こえると錯覚する中、二人は見つめ合った。そのとき、
「クロム! シエル!」
シグルが珍しく焦った声で呼びながら飛び込んでくる。長い髪を揺らし現れた彼女に、二人は目をむいて硬直した。
「「!!」」
全身を強張らせ、二人はそろってシグルを凝視する。彼等の顔は誰が見ても明らかな、羞恥の感情を貼りつけていた。
「二人とも無事? ……って」
「シグルさん!?」
驚愕し素っ頓狂な声を上げるシエルと、驚きのあまり声もないクロム。真っ赤になった二人にシグルは声を潜め、いつも通りの冷静沈着な表情に顔面を戻した。
「ち、違うんだシグル。変な意味じゃなくて、」
「わかってる。氷点下だもの、仕方ない」
シグルは単に平常心を取り戻しただけだが、下心がなくはないクロムには彼女が白けたように見える。弁解しようにも彼はシエルを抱きしめていて、たとえ言葉で否定しようとも行動が一致しなかった。動揺する彼の腕の中でシエルが恥ずかしさのあまり石のようになっている。彼の固まりぶりはまるで時間を停止したかのよう、滑稽でありつつも気の毒だった。
「二人とも無事ゾナ!?」
雪道を踏み鳴らし、ゾナモスが巨体を揺らし大急ぎで駆けつける。二人は体の硬直を解く間もなく、ゾナモスにまで抱き合う姿を目撃されてしまった。
「ゾ、ゾナモスさんまで……」
羞恥のあまりシエルは目を回し、そのまま気絶する。
「シエルー!!」
クロムの絶叫が洞窟を突き抜け、極寒の空にまで長く響き渡った。
その後二人は救助され、一行はゾナモスハウスの管理人室に至る。室内は空調が効いて涼やかだったが、零下の雪原を彷徨った二人にとっては温室の如く温かかった。
シエルは未だ意識を失ったままであり、ソファに寝かされている。クロムはあっという間に回復し、心配そうに少年を見守っていた。
「危なかったわね~」
二人の姿を眺め、ゆにが同情の滲む顔で口にする。彼女はホストではあるが施設の責任者ではなく、率直に感想を述べるだけで済んだ。とは言えチームメイトの落度によって重大インシデントが発生したのだ。彼女は幾分青ざめていた。
「一歩間違えたら……」
「申し訳なかったゾナ~!」
ゾナモスハウスの責任者は平身低頭で謝罪する。彼は心から謝ったがやらかしは看過出来るものではなく、
「「謝って済むなら苦労しない」」
シグルとクロムが鬼の形相で怒る。二人とも背後に蒼い炎を揺らめかせ、大の大人でも絶叫するほど恐ろしかった。ゾナモスが泣きそうな顔で怯む中、
「ん……」
シエルが瞼を震わせ、ゆっくりと双眸を開いていく。意識を取り戻した彼は二、三度目を瞬かせ、己が雪原から脱した事実を徐々に認識していった。
「シエル!」
クロムは血相を変え、ゾナモスからシエルに向き直る。ソファに横たわる恋人を覗き込み、彼は気遣わしげな面持ちで問うた。
「大丈夫か。オレがわかるか?」
「……」
シエルは呼び掛けられた当初ぼんやりとしていたが、やがて安らぎに満ちた微笑を浮かべる。少年の目には青年越しに壁に掛けられたモニターが映り、彼にここが施設の管理人室であると悟らせた。視線を巡らせればクロムだけでなくシグル、ゾナモス、ゆにの姿がある。生還出来たのだと実感し、彼は瞳に喜びの涙を滲ませた。
「クロムさん。オレ達、助かったんですね」
「ああ」
自分だけでなく愛しい人も無事である。少年は安堵と同時しそっと目を閉じる。その表情にクロムはようやく愁眉を開いた。
「コラボ企画、これじゃお蔵入りかしらね~」
「仕方ないゾナ」
契約に関わるあれこれは後日話し合うとして、ゾナモスは心の底から反省する。
「安全に謎解き出来るよう再発防止に努めるゾナ」
まずは施設の監視カメラを緊急点検、次は絶対零度エリアの寒さをもう少しマイルドにしようと考える。せめて万が一の際風邪を引く程度で済むように。もし今の設定を保持したら最悪の場合死人が出かねなかった。
「必ずそうして」
「二度とこんなことがないようにな」
「肝に銘じるゾナ~」
苦言を呈するシグルとクロムにゾナモスは恐縮しきりである。自分の仕事が無になりそうなゆにはがっくりと肩を落とし溜息をつく。彼女としては仕事が無駄になるよりもフォロワーに姿を見せられないのがつらいところだろう。彼女の落胆ぶりはそれは大仰だった。
彼等の様子をソファに横たわって見回し、シエルはふっと口元を綻ばせる。なんだかんだで全員変わりなくここに居る、その事実が彼には愛おしかった。赤みの差した顔で起き上がる。凍てつく寒さも雪の痛覚に似た冷たさも、今は微塵も感じなかった。
「シエル、無理をするな」
「もう何ともないッス」
たしなめるクロムに明るく答え、シエルはクロムと向き合う。気力は戻り、少年はいつもの元気な彼に戻っていた。
「ひどい目に遭ったけど、オレ、平気ッス。プロモーションの映像も、使えるなら使ってほしいッス。
流石に遭難したところは流せないけど、お化け屋敷、楽しかったッス!」
命の危険に見舞われ遊びを満喫した時間は何分でもない。それでもシエルは新しいアトラクションに没入し、4Xの見事な映像に心を奪われた。もう少し怖さを緩めにしたらきっと子供でも楽しめるだろう。
「お化け屋敷、また遊びに行くッス。次に来るときはもうちょっと手加減してほしいッス……あのお化け提灯、本当にびびりましたから」
彼の言葉にゾナモスは目を輝かせ、ゆにはわかりやすく大喜びする。ゾナゾナゾナ、と特徴的な笑い声が大男の口から発せられた。
「貴重なご意見ありがとうゾナ。遊びに来てくれるのを楽しみに待ってるゾナ!」
「今度は謎解きが出来るといいわね。チームペンドラゴンがどこまでやれるか、すっごく興味あるから!」
にこやかな少年の姿にクロムとシグルが顔を見合わせる。
いちばんひどい目に遭った人間が微笑んでいて、二人ともそれならばと怒りを引っ込める。特にクロムは相当怖い顔であったが、少年の様子にゾナモスへの非難はやめにした。消失した怒りに代わり、彼の心に別の感情が現れる。少年への慈しみが、青年の胸に広がり彼の面持ちを柔和に変化させた。
(シエル……)
クロムが胸を温めるのと同時、シエルもまたクロムに胸を高鳴らせる。彼の脳内には洞窟での、困難を分かち合い共に過ごした時間が蘇っていた。
震える自分を案じ上着を渡そうとし、更には力強く抱きしめた青年の姿を、シエルはつい数秒前のことのように思い出す。青年は優しく、誰よりも頼もしかった。見つめ合ったあの瞬間を思い出しシエルは赤面する。己が思慕を抱いたのと同じく青年もまた熱い感情を胸に灯したのだろうか――そうだったならば嬉しい、と彼は思う。
(クロムさん、カッコよかったッス)
頬を赤らめるシエルはふとクロムの視線を感じる。想いを通じ合わせる関係だからこそ視線に気づいたのだろう、シエルの目にあのときと同じ目のクロムが映った。彼等以外が気づかぬ間に二人は視線を交わらせる。
(シエル)
(クロムさん)
色々あったが素晴らしい時間を過ごせた。
少年は眩い笑みを浮かべ、愛しい青年に無言ながらはっきりと想いを伝えた。