別離/夢・
夜中。降谷から呼び出された風見は、とある廃ビルに赴いていた。中に入り、真っ暗の中誰もいないことを確認する。懐中電灯を使い屋上まで階段を上り、扉を開けると、ポツンとひとつの影が見えた。その影から、鼻歌が流れてくる。90年代に放送されたドラマの主題歌で、今も歌い継がれている名曲だ。
その影の主は風見が現れたことに気づく様子もなく、気持ちよさそうに歌っている。その影にひっそり近づき、
「……降谷さん」
サビが終わるタイミングで風見が声をかけると、ピタリと歌声が止む。影の主──降谷は風見の方に振り返ると、頭を掻き、照れくさそうに笑った。
「恥ずかしいところを見られたな」
「珍しいですね」
普段ならこんなヘマはしないだろう降谷だ。風見が眉を顰めると、降谷は肩を竦んだ。曰く、歌いたい気分だったらしい。そういうときもあるだろう。
「すまない、報告だったな」
「はい。例のグループですね?」
「ああ。それで調べてほしいことがあるんだが」
降谷は懐から何かを取りだし、風見に見せつけるように突きつけた。暗くて、降谷が突き出したものが何なのか見えず、懐中電灯をつける。
それは一枚の写真だった。行き交う街の中、ある人物にピントを合わせている。強烈なオーラを纏っていて、瞳の中には殺気が篭っているみたいで、ゾワッと身の毛がよだつのを感じた。
初めて見る顔だ。刈り上げた髪型に相応しい精悍な顔立ち。降谷が今潜入している組織の誰かには違いないが、特定すべき理由があるのだろうか。
「この人は赤井秀一だ」
「は、赤井捜査官、なんですか? 外見がまるで違いますが……」
突きつけられた写真を受け取ってジッと確認するが、やはり赤井秀一とは思えない風貌だった。赤井の特徴的な瞳がそこにはなかった。
「変装してるんだろう。とにかく、こいつは絶対赤井秀一だ」
「はぁ。この人が赤井捜査官だという証拠がほしいということですか?」
「ああ。同じ組織に潜入しているのに、組織内でこいつとなかなか会えないんだ。どうせなら協力した方がいいじゃないか」
「そうは言いましても……」
風見は困惑した。機密情報ではあるが、お互い理解があるだろう。
「……別れだんだ」
「わ、別れたんですか?」
なんてことだ。
二人が交際しているのは知っていた。前に潜入した黒の組織で出会った二人は、見事その組織を壊滅することに成功したのだが、その際に付き合い始めたと聞いた。付き合い始めたころはそれはもう、ずっと赤井がかわいい、かっこいい、などと惚気けてくるのだから面倒くさかったのだが、みんな降谷の幸せを願っていたのだから嬉しくもあったのだ。しばらく経つと落ち着いたけれど、順調に付き合っているのだとばかり思っていた。それが、なぜ。
風見の言わんとすることを察した降谷はため息をついた。
「俺たちは仕事を選ばざるをえなかったんだ」
「赤井捜査官とは潜入するために別れたということですか」
「ああ。黒の組織の後処理が終わってちょっとしたころかな。赤井秀一が死んだんだ」
「し、死んだ……?」
「ああ。赤井秀一はこの世にいない。戸籍上ではな」
「ああ……」
それは厳しいな、と風見は遠くを見た。ああ。星が見える。空が輝いている。空気が綺麗だ。廃ビルなのに。
降谷は多くを話さなかったが、赤井は他の潜入先でアクシデントに見舞われてしまったらしい。黒の組織は結局最後まで赤井は死んだと思ってくれていたようで、壊滅した後無事赤井秀一を生き返らせていたわけだが、今度はそうはいかなかったようだ。さっき見せられた写真の人が赤井秀一だと言うのなら、赤井秀一は今、赤井秀一ではない顔と名前を持ってFBIの捜査官として務めている、ということだ。
降谷は日本を守る役目があり、それと同じように赤井もその役目があった。潜入するとなればプライベートでの付き合いはほぼなくなるだろう。
そんなことより、組織を壊滅してから後処理を終えるまでの間しか付き合っていなかったのか……? いつからいつだ…? 二年ほどか……? 後処理が終えたのは昨年の話だ。一年も経っている。
風見は降谷のことを恐ろしく思った。赤井が死んだことを誰にも悟られず仕事をしてきたという事実が発覚したのだ。
「あの、別れた死んだって報告、なんで今なんですか?」
「赤井と会うためだよ。今なら、確実に会えると思ったから報告した」
「ヒィ」
未練タラタラだ……! 降谷はあっけらかんとしているが、逆に怖い。畏怖。畏怖の念を抱いてしまう。
「赤井、あいつ、幸せなひとときを過ごせた、ありがとう、俺のことは忘れてくれ、なんてメールを最後に寄越しやがった」
「アァ……。向こうのお仕事のこともありますし、言ってることは分からないでもないですが……。それくらい大切な思い出ができたということで……」
降谷は露骨に嫌そうな顔をした。
「……その楽しかった、幸せだった、輝かしい思い出を胸に生きてくなんて、嫌だ。これからもずっと、生涯一緒にいるつもりだったのに……歳とったきみを見てみたいって赤井も言ったくせに! ああ、そうだよ俺は歳とっても童顔だろうな! あいつも童顔だろ! かわいいじじいになるだろうな!」
どうにかして未来を見に行けないかなーなんて。惚気けているときと変わらないテンションで言うものだから、風見は顔を顰めた。
合点がいった。だから降谷は。
「……それで歌ってたんですか?」
「あー」
「ずっと赤井捜査官のことばかり意識してましたよね、殺意も向けてましたし」
「言うな。恥ずかしい」
「……今の心情にふさわしい歌ですね」
「言うな。恥ずかしい」
ムッとしている降谷が弟みたいで、兄になった心地で風見はサビを読んだ。歌詞がいい。沁みる。降谷が歌うのも分かる。
「……良い歌だな」
「……名曲ですね」
「……赤井と見たんだ。音楽番組。テレビをつけていたら、その歌が流れてきて。赤井が良い歌だなって」
「日本の音楽も嗜まれたんですか」
「ああ。それなりに知ってたよ。あのときのあいつ、かわいかった。元カノのこと思い出したのかな。慈悲深いよな」
「慈悲……」
「あのときは突然消えるとは思ってなくて……赤井なら、寿命を迎えるまで生きるんだと思ってたから……いやあいつは寿命を迎えるまで生きるよ、ベビースモーカーだけど、あいつなら大丈夫だ。間違いない。死なない男だからな。別人として生きているとしても、俺は定年を迎えるまで待って、迎えに行くつもりでいたんだよ。だから、別れたって報告してなかったんだ」
とんだ執着だ。赤井のことになると、降谷は暴走するとこれまでの経験から熟知していたつもりだが、まだまだのようだった。降谷は至って真剣なだけだが、こちらとしては迷惑である。
「……それで潜入先で赤井捜査官を見かけたと」
「ああ。嬉しい誤算だ。あのグループの拠点がアメリカにあると分かったときにもしかして、とは思ったけどね」
「確かに例のグループはアメリカから来たって聞きました。……赤井捜査官の邪魔はしてないですよね?」
「してない! 盗撮しただけで我慢した! 褒めろ!」
風見の手にある写真を指さして目を輝かせていたので。
「偉いですね」
棒読みで褒めてやった。盗撮、ねえ。風見は受け取った写真を再び確認した。刈り上げた髪型が似合う端整な顔立ちだが、赤井の特徴的なものがまるでない。瞳の色はカラコンで誤魔化せるとしても、人はこんなに別人に化けられるものなのか。
「降谷さん。どうしてこの方が赤井捜査官だと分かったんですか?」
「……歌」
「歌?」
「うん」
「さっき歌ってた歌、ですか」
「うん。先日取引があって、その見張り役としてそいつが来たんだ。待ってる間赤井のことを考えてたらつい、口ずさんじゃって」
「大丈夫ですか。隙ありまくりじゃないですか」
「大丈夫。今日で3回目だがもうやらない。大丈夫だ。……そう、それで、歌ってたらそいつから視線を感じたんだ。そいつを見たら、目が、ハートだったんだ」
「目が、ハート」
「あれは赤井だ。あんなふうに俺を見る人は赤井しかいない!」
「目が、ハート」
「ああ、愛のこもったハートだった。外見は違うが、あの表情(かお)は赤井だった。かわいかった! どれだけ執着してきたと思ってるんだナメんなよコノヤロウ! 見縊んなよ!」
「なめてないですし、見縊ってもいないですよ。理解るにも限度ってものがあるでしょう。引いてますよ」
「……あのかわいい表情(かお)は赤井しかいない」
「わかりましたから」
「俺を見て、失恋でもしたのか?ってあいつ言ったんだ。その心配するような表情(かお)も、付き合ってたときによく見たんだ。そーだよ! お前だよお前にフラれたんだよ! 心配してくれてるんだから、赤井はやっぱ慈悲深いよな」
「慈悲……」
「そういうことだから。その写真の人を調べてほしいんだ」
「……了解しました。降谷さん、仮にですよ。仮に、この写真の方が赤井捜査官ではなかったらどうしますか」
「違ったらまた探せばいい。定年まで時間あるし。今日はこの辺で。遅い時間にすまなかった、ありがとう」
言いたいことを言えて満足したのか、降谷はよろしく頼むと言って颯爽に去っていった。
執着しているにも程がある。ことに赤井においては諦めの悪さを遺憾無く発揮している。こちらが迷惑を被ることがなければ良いのだが。風見は写真を手に、ため息をつくのだった。
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