あれ(316)から逃げたら、ラーメン辻田になりました シンヨコテ的万有引力によるのかはともかく、シンヨコから出られないナギリは迷いに迷ってラーメン博物館に足を踏み入れていた。いや、カンタロウから隠れようとしてたまたま入ったのが裏口で、たまたま休憩していた吸血鬼ラーメンヘッドにバイト募集の同胞と間違われて即採用されて接客しているところである。ヘルパシができない今、貴重な収入源だろう。だが、今となってはそれもよく分からない。
急病で休んだスタッフの代理ということで、短期間だけだがラーメン屋で働くことになった。最初は食べ終わった丼鉢の片付けと皿洗いばかりだったが、すぐにオーダーを通せるように覚えさせられたせいでホールの仕事もこなせてしまっている。クソッ! どうしてこうなった!
空になったお冷のピッチャーを素早く交換し、7対3で入れたビールジョッキを客に提供しながらひとりごちた。
「すいませーん」
「はい! ご注文はお決まりですか?」
「ニンニクラーメン硬めコッテリ細麺一辛一つください」
「ニンニクラーメンの麺硬めスープコッテリで細麺の辛さは一辛でしょうか。少々お待ちください」
「ニンニク硬めコッテリ細麺一辛でーす」
「はいよ!」
ラーメンヘッド店長が異性のいい声で返事をし、サッとラーメンを湯に通した。次のオーダーのために丼鉢をセットし、麺が茹で上がったものから順番にトッピングを乗せて客へと提供する。
「辻田さーん、休憩入っていいよ〜」
午後10時、ようやく休憩することができた。と言っても、ラーメンを食べてからぼーっとしているだけだ。皮肉なことに、吸血鬼のスタッフの代理としてニンニクマシマシラーメンを食べさせられ、血液パックも飲まされている。体力がみるみる回復するが、ニンニクでゴリゴリ削られてもいる。俺は一体何をしているんだ?
逃げて行き着いた先がラーメン博物館という施設で、シンヨコを出るどころかシンヨコの施設内からも出ない日々を送っている。昨日も見つからなかった。今日も見つかっていない。そんな風に日々を繰り返し、明日だった今日も見つからずに日を跨いだ。昨日も見つからなかったと俺はホッとしながら、吸血鬼の客のピークを迎える前に店へと戻った。
代理期間を終えた俺は今度こそとんずらするかと思ったが、店長に引き止められて本店で修行することになった。とんでもない展開についていけなくなったが、なんでも味見のできる吸血鬼は貴重だそうだ。俺にはよく分からない特技を見込まれ、ラーメン屋で更に働くことになった。ちょっと嬉しいと思った俺はチョロいのか? クソッ……。
修行と言ってもこれまでと同じように接客し、時々厨房に入って料理の作り方を教わった。炒飯を炒めればパラパラになり、ラーメンをきっちり茹でて適度な硬さで提供する。更に包丁を扱うとどの食材も綺麗に切れたため、店長に手先の器用さを買われて仕込みを任されるようになった。店が準備中の間に出勤することも増え、気づけば師弟関係のようになっていたようだ。妙に馴れ馴れしい。
まるで、空っぽになった器にスープを注がれたようで、具材を載せるごとに修行の日々を積み重ねるようで、俺は毎日満腹になって眠りにつくのだ。ラーメンなんて食べないし興味もない俺だったが、湯気の立ったどんぶりを見るだけで口の中に唾液が溜まるようになった。その時、初めて美味しそうだと思った。後でニンニンでダメージを受けるのに。
店長には俺の他にももちろん弟子を抱えており、みんな独立して店を構えるようになった。俺もいつかは独り立ちするのだろうか。初めはこのままでもいいだろうと思っていたが、生き生きとラーメンを作る店長を見ていると立ち止まってはいられないと思うようになった。もうすでに人気なのに商品開発を繰り返し、定期的に新商品を販売したりスープの味の改良をしている。どれだけ失敗しても、諦めないどころか改善点を見つけて改良する日々だ。気の遠くなるような試行錯誤を繰り返す姿に、俺は心から店長のことをすごいと思った。失敗しても果敢に挑むというのを初めて知った。失敗を糧にできるということも。何より、諦めなければ道が開けるということをラーメンを通して知るなんて思いもしなかった。あの時、アイツの言った言葉が蘇る。
「辻田、お前は真面目で仕事もきちんとこなして立派だ。だが、このまま働いてもお前のためになるとは思えん。一つ店を任せるからやってみろ。困った時はもちろん助けてやる」
店長の力強い言葉に、俺は何も答えられなかった。ラーメン屋で働いていても、心は薄氷の上を歩くように均衡を保ってギリギリで生きてきた。逃げるだけの俺を偶然勘違いして雇ってくれた店長に今更ながら感謝しているが、これでいいのか分からない。答えを見出せないまま切磋琢磨することで、問題と向き合わないようにしていた。ここでの日々が充実するほど、俺の心は擦り切れていったのを店長は見抜いていたのではないかと思うほど絶妙なタイミングでの異動宣言だ。
店長に甘えて背中を押された俺は、こうして、一人で切り盛りできるカウンターのみの店舗を任されることになった。チョロさの臨界点はとっくに超えている。そんなものあるのか知らんが。
店を任せるにあたって事務的な仕事も教えられることになった。辻田の偽名で出来上がる書類の多いこと。考えただけで頭が痛くなるが、俺はきっちり覚えた。
そうして、とうとう店長となり、店を任されることになった。偶然なのかは聞けなかったが、店名が『ラーメン辻田』だ。一人で店を回せた時、俺が独り立ちできるようにと店長が名前を付けたらしい。むず痒いような嬉しいような。今日から、俺がこの店の店長だ。
店舗兼住宅となるため、引越しをした辻田ことナギリは少ない手荷物をすぐに片付けて店の準備を始めた。スープを仕込み、食材も用意してカウンターに調味料やティッシュを配置する。掃除も抜かりなしだ。
全ての準備を終えた辻田は店に出て、暖簾を掛けようとした。
「……もしかして、辻田さんでありますか?」
振り返ると、忘れたくても忘れられなかった男、ケイ・カンタロウが辻田をじっと見ていた。
俺が戸惑いや困惑なんて生優しい感情でなく怖気すら感じていると、カンタロウは嬉しそうに抱きついてきた。
「本官、辻田さんに会えて嬉しいであります!」
心から喜びを爆発させたようなクソデカボイスに、俺の鼓膜が死んだ。だが、ヤツはそれきり無言で俺に抱きついたまま、嗚咽を堪える声しか聞こえなくなった。
コイツを含めて何もかもから逃げた俺は、心をナイフで滅多刺しされたかのように痛くて、とても恐ろしかったのに。コイツの描いたナギリのように巨大な化物か何かのような得体の知れない恐怖を覚えたのに。俺に抱きついて泣くカンタロウはとても小さかった。ああっ、おれが、俺こそがコイツを傷つけたのだと分かってしまった。
ナギリは気づけば暖簾を手放して、カンタロウの背中に手を回していた。カラカラになった喉から絞り出すような声しか出せない。
「……っ、すまなかった、カンタロウ」
ナギリは初めて心からカンタロウに謝った。