ほうらく昨夜は確か学校が終わってから直ぐに帰路に着いたはずだった。が、見慣れた自室はいつになっても目に入らず、眼前に広がるのは見るからに高そうな天蓋付きベッドの柔らかそうな布であった。目が覚めたらそこは知らない天井だった、だなんて本当にあるんだなと呑気にも考える。
「……ここ、どこだ。」
やけに心地の良い眠りから覚めた俺はとりあえず状況を飲み込むために周りを見渡すことにした。先程まで寝ていた頗る寝心地の良いベッドにだだっ広い部屋、煌びやかな家具、どこからか漂う薔薇の香り……全くもって状況把握が終わりそうにない。
いっそもう一度寝てしまうか?と心地よい眠気に誘われ白いシーツに埋もれようとすると、柔らかいテノールが耳に届く。
「お前…起きたと思えばまた眠るつもりか?ムサシ。」
どこか呆れたような声色で、だが慈しむように目の前の男はそう言い放つ。
有り体に言えば美しい男であった。その美しい男はケイゴというらしい。俺様のことを忘れたつもりか?だとかお前はムサシだろうがだとか言っているが、俺はこの男のことを全く知らないしムサシ?という名前でもない。
一体何が起こっているのかは分からないが、その日から俺とケイゴの奇妙な生活は始まった。
広大な敷地を持つケイゴの家はどこまで行っても部屋、部屋、部屋だった。一度出られないか出口を探してみたのだが、開けど開けど新しい部屋に出るだけで辟易してしまった。いつの間にか後ろを着いてきていたケイゴには「これがかくれんぼってやつか?」なんて言われてしまう。俺の必死の抵抗もお遊びになるくらいだ。行動するよりはケイゴと行動してチャンスを探る方が懸命だ。そう思ってダラダラと生活を続けてしまって1ヶ月、遂にチャンスが訪れ始めていた。
「なあムサシ、久しぶりにテニスしないか?」
そう言って連れ出されたのはやはり敷地内であるが、俺にとっては久しく見ていなかった青空の下であった。
「まずは一戦、さあ行くぜムサシ!」
そこから始まったケイゴのテニスは、正に芸術と言っていいほどの美しさであった。サーブにレシーブ、ボレーにスマッシュ。磨かれた美技を惜しげなく披露するケイゴの表情はいつになく活き活きとしており、本来のケイゴの無邪気さを垣間見たような気持ちになった。
正直言ってケイゴの実力は俺より遥かに上回っていた。だが俺だってテニスプレイヤーである。意地と根性で食らいつき何とかワンゲームを取る。ワンゲームを取られたというのにより一層楽しそうな顔を見せたケイゴは、飛ぶように踊るようにテニスを続けた。
結局俺は負けたのだが、悔しさを感じているのと同時に楽しさも感じていた。
「やはりお前とのテニスは楽しい、もう一試合だ!」
幼い子どものように笑い試合を強請るケイゴの姿は俺が今目の前の男に拉致監禁されている事実を眩ませる。でも、まあ、あと一試合くらいなら。
俺は存外流されやすいのかもしれない、自分の知らない性格を見つけた一日であった。
そんな日々が優に一ヶ月を超えた頃、呑気だった俺でも流石に危機感を覚え始めた。
一ヶ月も家を空け部活にも顔を出さなかったら俺が今まで過ごしていた生活が崩れ去って消えてしまう、そういった焦燥感が俺の中で膨れ上がっていた。
一ヶ月も逃げない姿勢を見せていたんだ、もう油断しているはず。そうだ、次テニスのために外に出られたら、絶対に逃げよう。
穴だらけの作戦でもやらないよりかはマシだと思い立ち、杜撰な実行の計画を立てる。次のテニスの日に逃げる。シンプルだからこそ実行しやすいだろうと己を鼓舞する。
翌日、そのチャンスは来た。
「今日は少し天気が崩れやすいようだが……まあ、すぐに屋敷に入れる距離なら平気だろう。」
「……」
不自然、だろうか。だが計画を実行しようと思い立った瞬間からボロを出さないよう、上手く話すことが出来なくなっていた。
一ヶ月同じ場所でテニスをしていれば逃げ道の目処は立っていた。兎に角道路に出てしまえばこちらのものだ。
あとはケイゴの気が逸れるような何かさえ、あれば。
「なんだ?今日は随分と静かじゃねーの。腹でも壊したか?」
「……や、なんでもない。」
「どこか痛てーんだったら早いとこ言えよ。なんでもねえって言うなら始めるけどよ。」
「おう、始めよう。」
脱出を。
「……ん、雨か?」
ポツリと一雫の雨がケイゴの頬を辿り、それにつられてケイゴが空を注視した瞬間、俺は走り出した。
丁寧に整えられた芝を走り生い茂る薔薇の向こうへと逃げるために。
走ろう、日常に帰るために。走ろう、俺が俺であるために!俺は、俺はムサシなんかじゃない!!
走りながらふと気付く。ケイゴは逃げ出した俺を捕まえるために何かしらの対応をするだろうと思っていたが、何やら妙に静かである。
様子を確認するため後ろに居るケイゴを見やる。
見なければ、良かったのかもしれない。
後ろにいたケイゴは屋敷の者を呼ぶわけでも警備の者に捕まえさせようとするわけでもなく、ただ、こちらに手を伸ばしていた。迷子になった子どものように、いつもは勝気に吊り上がる眉を下げ、不安そうな表情をその美しい顏に称えて。
それを見てしまった瞬間、何故か俺の足は動くのを辞めてしまった。一世一代の逃走劇、最大のチャンスであったのに。それをドブに捨てるかのようにケイゴのことを迎えに行ってしまった。
脳の冷静な所がやめておけ、このまま逃げろと警鐘を鳴らし続けている。
その警告を無視するまま伸ばされたケイゴの手を握る。
ケイゴは少し驚いた顔をした後、心の底から嬉しそうに微笑んだ。
「なーに急に走り出してんだお前は」
「ごめん、雨降ってきたから、その、ちょっと木陰に隠れようと思ってさ。」
「……雨が降ってきたらすぐに屋敷に戻れるような距離って言ったはずだが……やっぱりお前聞いてなかったのか、アーン?」
「ごめんって、ほら本降りになる前に屋根の下に戻ろう。」
「まあ良い。テニスならまた明日も出来るしな。」
「……ああ、明日も、できるよな」
「当たり前だ。俺様はお前とのテニスを気に入っているんだぜ?光栄に思えよ!」
「はいはい、ありがとうございます」
「んだそのおざなりな返事は」
まるで友達のような会話をしてケイゴと屋敷に戻っていく。訳の分からない非日常に自ら戻っていくだなんて本当に気が狂ったのかと我ながら思うけど、それでも、あの時のケイゴを放っておくことが出来なかった。
あと少しだけなら、居てもいいんじゃないか。
そう自分に言い聞かせ俺は今日もケイゴの自室に閉じ込められていった。
「…………本当に、似ている。底抜けに優しく、少し流されやすく、そして俺に対して嘘が付けねえ、ムサシに。
今度のやつこそは俺の武蔵になってくれると良いんだがな……」
主人公くん
テニススクールに通っている中学3年生。転勤族の親を持つと部活にも入れないらしい。各地を転々としながらもずっとテニスをしているよ。テニスが大好きな普通の男の子。
ケイゴくんのことはなんだかほっとけなくなっちゃってるよ。あの子みたいだね。
ケイゴくん
大切な人がいなくなっちゃったみたい。それからどこかおかしくてムサシくんをずっと探しているよ。
ムサシくんって、一体誰のことなんだろうね?
テニスが大好きでちょっと変わってるけど仲間思いな男の子、だったんだけどな。