【輝きの名を呼ぶ】「ルーメン」
「はい」
くるり。ふわふわと癖のある髪が振り向きざまに風にゆられ、あおられ、くらりと揺れる。
「ドクター?」
自身のコードネームを呼ばれ、しかし続きの言葉がないことに疑問を抱いては首を傾げる。ルーメンはきょとんとした顔のままドクターの顔を覗き込み、しかし彼が何か考え込んでいる様子であることを察し静かに書類の整理へと戻る。
「ルーメン」
「はい、どうされましたか?」
「ルーメン、ルーメン」
ふふ、と微かにほころぶ。ドクターは何度かそうして、その名を慈しむように、口元で転がすように繰り返す。ルーメンは困ったように眉を下げて、ドクターの手に軽く触れる。
「僕はここにいますよ、ドクター。そんなに呼んで、どうかされましたか?」
「ああ、すまない。他意はないんだ。ただ、口にしたくて」
そんなこと言ってくすくす笑う。ドクターは凝り固まった右手を開いて、再びルーメンの手に重ねる。少し休憩しましょうか。ああ、そうしよう。そんな言葉を交わせば両者の手は容易く離れた。カチ、コチ、秒針は静寂を刻む。
「え、ええと、ドクター……この名前は、そんなにも呼びやすいものでしょうか」
「音声学的なことは専門外だが、少なくとも私は好ましく思うよ」
ヴィクトリア風の、龍門風の、リターニア風の発音で何度もその音を口にする。幾度も繰り返され、反芻される。それがなんだかこそばゆくて、彼のオペレーターは視線を彷徨わせた。
迷い子の視線はとある背表紙の前で立ち止まる。なんてことない心理学の本ではあるが、以前ルーメンはその本を読んだことがあった。
背表紙の文字列を目でなぞる。しかし無言で他所を見つめる様子が不機嫌ないし不愉快の現れであると誤認させたのか、ドクターはしんと口を噤む。その様に微かな焦りが見えたような気がして、なんだかおかしく思えてしまった。
尤もドクターは気付いてないらしく、神妙な顔つきで──その顔は防護服によって何も見えないのだが──ともかくそんな様子で口を開く。
「……オペレーターとロドスにおける関係は双方の合意のもと締結された平等な協力関係、即ち雇用関係の枠に留まるものだ」
「ええと、はい」
「故に、私もまた君に対して一介の指揮官以上の権限を持ち合わせないということを前提に聞いて欲しいのだけれど」
ルーメンは丁寧に相槌を打つ。
「………この名前を呼んでいると、君が私の腕の中にいるような気がして嬉しいんだ」
叱られることを怯える幼子のように、あるいは罪を告解する咎人のように言った。
「この名前は、その、君がロドスに所属するが故の呼び名だから……」
もそもそと小さくなる声は彼の顔が段々と俯いていることの証左である。堪えきれずに微かな声を漏らせば、拗ねたような声を上げた。
「わ、笑うことないじゃないか」
「ふふ、すみません。ふふふっ」
「もう……」
首元から熱が込み上げて、ふいと顔を逸らす。……私は今、とても恥ずかしいことを言ったんじゃないか? そんな気がしてくる。いや、実際そうだろう。冷め始めた頭を抱えていれば、足音を飾るように、淡い海の香りが近付いてくる。
「ドクター」
顔を上げれば、温い指先が手指を掬う。秒針の音が響く部屋、爪越しに柔い情愛が告げられた。
「………ルーメン」
目を細め、顔を見上げる。深藍の隙間から除く皮膚は隅から隅まで色付いて、鍋に放り込まれた蛸のようだ。
「………す、すみません………急に、こんなこと………」
許可もなく、やっぱり慣れていなくて……ああ、どちらも違う。そもそもスマートにできないことなんて、とっくに知られている。酷く惨めだ、無意識の衝動に乗ったばかりに、あらゆる羞恥に襲われる。
潤んだ瞳はふらふら揺れて、重心は後ろへ傾いていく。すぐにでも逃げたい心地だ。けれどドクターはフードを下ろし、離れかけた彼の腕を掴んだ。
「ルーメン」
その名を呼ばれる。呼ばれるままに彼を見下ろす。首の後ろに回された手のひらが、ぐ、と自分を引き寄せた。
「次はここにしてくれ。いいかい?」
離れる唇が蠱惑的な音色を紡ぐ。頬に這う指先は細く、冷たい。脳が麻痺して、今自分が立っているかも座っているかも分からないほどだった。
「……ドクター」
絞り出すような声は、存外きちんと音になっていたらしい。ドクターは自身をまっすぐに見つめて、その次の言葉を待っているようだった。
「……今夜、ご予定はありますか?」
頬は溶けそうなほど熱を帯びて、滲む琥珀色の瞳は涙を堪える生娘のよう──けれど、掴まれた腕は意外にも痛みを訴えている。懸命で、一途で、初々しく余裕も無い。それにも関わらず背中に回された腕は案外しっかりと自分を引き寄せている。ただ健気で必死なその姿が、たまらなく愛おしかった。
「私、明日は休暇をとっているんだ」
医務室から口酸っぱく休むよう言われていたのが功を成したね。医療オペレーターの前で述べる冗句にしては少々苦いかもしれないが、まあ、少しくらいは構わないだろう。
「名前を」
「うん?」
「名前を、呼んでください。ドクター。コードネームでは無くて、僕の名前を」
ああ、と言われるままに唇を動かす。紡ぐ音は昼光を意味する語ではなく、ただ一人の恋人の名前。
「甘えるのが上手くなったね、ジョディ。良い子だ」
触れた髪は柔く、水中で触れる糸のよう。服に埋まるままに取り込んだ空気が肺を満たして、口先を繕う余地すら蝕んでしまった。
「ドクター」
とろけるような声は役職を述べ、そしてただ一人にしか聞こえない音でその名を呼んだ。
うん、明日の陽光も美しいだろう。