夏の初めの遊戯話譚 「あぁ、そういえば武道、お前確か夏休み明けの九月、学校新聞の担当だったな?」
「え?う、うん」
「お前、もう題材は決まってンの」
「いや、その…、まだ、ですね…」
「だろうな。…じゃあそんなお前に、俺から天啓をやろうか。そうだな、九月は学校の七不思議でも特集したらいい。このクソ暑い時期といい、中坊が書く内容としてもお誂え向きだろ。…ハッ、これ以上ない題材だと思わねェ?」
「う、ン?あの、イザナ、え?…え?」
けたゝましい蝉の声が新聞部の部室にこだましてワンワンと頭を揺さぶっている。
七月の終わり、夏休み前だからか今、新聞部の部室にいるのは部長である高等部のイザナと、平部員である中等部の武道しかいない。それどころか今、この校舎自体にはイザナと武道以外の生徒など存在しないことだろう。
ここ、新聞部の部室がある部室棟は、それなりに年季の入った築年数のある校舎だ。今では利用されていない旧校舎ほど老朽化していないとはいえ、古い校舎ともなれば経年劣化している箇所も多く、そんな建物が果たして学業に快適であるかと訊かれれば答えは否、特に致命的なのが空調設備だった。唯一存在する教室に設置された何台かの壁掛け式の扇風機は、電源を付けたところでただただ熱風をかき混ぜるのみのがらくたでしかない。だからこそ、茹るように暑いこの酷暑の中、過酷な環境と化した部室棟には生徒が寄りつかないのだ。いくら今が放課後で、部活動が活発な時間帯であるといえど、あくまでこの部室棟は備品等の保管といった最低限の用途でしか使われていないのである。武道だって月金で週二日ある部活の活動日でなければこんな校舎に自ら足を向けることはしなかっただろう。まぁ、今日のところは部活をしにきているのではなく、部活動の時間帯を利用して、部長であるイザナに勉強を教わりに来ているので、部活動をしにきているのとはまた訳が違っているのだけれど。定期試験前、もともと勉強の得意ではない武道が烈火の如く怒られるのを承知で、イザナに頼み込んだ結果がこの新聞部での勉強会なのだった。
異国情緒を内包したその風貌に銀糸をしゃなりと揺らし、でこに掛かったその隙間から豊かな睫毛が縁取る紫雲木の瞳孔を覗かせた彼の人は続ける。視線はいつの間に机に広げられた教科書から武道の方向へ、イザナのしなやかな指が武道の手の甲を撫でた。
「とはいえ、ここでは七不思議なんてもん聞いたことがねェし…、マ、適当に学校であった怖い話でも取材したらいいか。お前は新入生でまだマトモに人脈もないだろうから、語り手はこっちで揃えてやろう。七不思議に擬えて、人数は七人。」
「…ぇ、あの、一体、なんの話を…。」
「なんの話って、そりゃあ、お前。九月の学校新聞の話だろ。」
武道を置き去りに、自己完結したイザナがケラケラと笑う。両耳についている短冊形の大振りなピアスがからからと涼しげな音を立てて揺れた。
「なんだァ、武道は怖がりか?」
「そ、そうですけどぉ……」
「へぇ、……くふッ、マジか。…マジかお前! ハハハ、ハハハハハ!」
からり、からから、からん、からん。
震える声で武道が肯定を示せば、先程までケラケラと笑っていたイザナが、今度はゲラゲラと豪快に大きく笑う。その美しい見目に反して、イザナの笑い方は随分と野生的だ。八重歯を剥き出しにして、愉悦に瞳を細く歪ませる。そして、それが随分と様になっているのだから黒川イザナという人間は狡い人であった。
しばらく笑っていたかと思うと、対面に座っていたイザナがパイプ椅子から立ちあがって、唐突に武道の隣の椅子に腰掛ける。
「お前って奴ァ、かァわいい後輩だねェ、ホント」
「あ、ありがとうございます…?」
「ハハ、安心しろよ、オレの忠実な下僕、オマエの幼馴染の鶴蝶も呼ンでやろうな。そしたらほら、心強い」
力強く肩を組まれたものだから、グェ、と思わず武道は呻き声を上げた。乱暴な手付きで頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜられて、そのうちその動作が髪をすく動作に変われば、武道にもこのイザナの行動の意図がわかる。おそらくは武道を甘やかしているのだ。…いや、この場合は、慰めている、という方が正しいか。慰めているつもりならこの話自体なかったことにして欲しいのが本音であるが、何分イザナが恐ろしく口に出すこともできないのでその意が汲まれることはないだろう。
ふと、何度も嗅いだ如何にも質の良い蠱惑的な匂いが熱風に乗って武道に覆い被さってくる。重厚なバニラの匂いのそれは、イザナのよくつけている香水の匂いだ。
だいぶ前この匂いが気になって、どこの香水ですか、と武道は訊いたことがあったが、きっと質問した時点で、おそらく中学生になって思春期真っ盛りに背伸びしたがった武道の考えなど、イザナはお見通しだったに違いない。
「お揃いにしたくたって、お前には似合わねェ匂いだよ。だからさァ、もう、全くもって最高。愚弟が嫌な顔するだけで世界が眩しいね。」
意味はよくわからなかったが、そういいながらイザナは屈託なく笑っていた。全く答えになっていない。とりあえずイザナがマイキーに嫌なことをしている、ということはわかったので、武道はイザナに、お兄ちゃんなんだからマイキーくん虐めちゃだめ!と苦言した。イザナは一瞬で不機嫌になった。
四歳差であるというのに、イザナと武道の身長はあまり変わらない。強いていえば、イザナの方が武道よりも優っているぐらいの身長である。然し乍ら高等部二年のイザナと中等部一年の武道の間にはやっぱり四年ほど人生の差があって、だからこそ細身に見えて武道よりもずっと発達した体格をもったイザナの力に武道は逆らえなかった。片や青年期を迎えた高校生と、片や少年期の真っ只中にある中学生なのだから当然だろう。お互いに夏の熱気を籠らせた肉体が、制服の布越しにぎゅうぎゅうと触れ合っている。初めは肩だけ組んでいたはずの関係が、いつの間に脱力した武道の肉体を抱き抱えていた。オイ、と何回か声がかけられているようだが蝉の声の方が煩くって堪らない。
部室に籠る熱気、蒸し器の中にいるかのような湿度の湿っぽさ、香水に混じった、汗の匂い。蝉の声は今だに止まず、ワンワンと、今度は頭のみにとどまらず、脳みそ自体を揺さぶっている。頬が叩かれている気がするが、気のせいかも知れなかった。ブレてボヤけた視界、お互いに密接してその熱い熱を分け合っている身体のことなんて考えられなくて、今この感覚に覚えがあって、…そうだ。まるで小さい頃、自分は何か体験していなかったか。よく思い出せないけれど、過去に自分が体験した出来事と、これは、何かしらが、何処かがよく、似ている。既視感を覚える。暑くって、心臓がうるさくって、そこで、真っ暗になるのだ。
意識が落ちて、完全に脱力した武道にイザナが吠える。
「テメェ、真っ赤になって初心かと思えば、オレを差し置いて熱中症とランデブーかァ!?」
吠えた直後にイザナはそんな後輩を抱えて一目散に駆け出した。
目指すは中等部の保健室。イザナの選択肢には高等部の保健室もあったが中等部の保健室の方がこの部室棟から最も近い。
そうしてやっと連れて行った中等部の保健室で一人、高等部の生徒が怒られたし、後日、部室棟は使用禁止になるのだがそれも当然のことと言えるだろう。
「……取材のときにャ、場所は高等部の視聴覚室を借りる。あそこは如何せん暑すぎるからな。」
熱中症から回復した武道が薄っぺらい保健室のベッドから身体を起こすと、隣の丸椅子にはイザナが座っていて、水の入ったペットボトルを差し出してくれていた。受け取ろうとして、手を伸ばした次の瞬間、フルスイングで振りかぶったペットボトルに、思いっきり武道は頭を殴られる。バゴン、という音に何事かと驚いた養護教諭がカーテンを開けて飛び込んできて、大丈夫!?、と声を荒げながら、貴方、病人に何をしているの!、とイザナを咎めるも効果はない。突然殴られて放心する武道のベッド脇にペットボトルを置くと、イザナはそう言い残して、説教を始めた養護教諭のことなどお構いなしに中等部の保健室を出て行った。ちゃんと先生の話を聞いてから帰りなさい!、と養護教諭が廊下に向かって吠えるが、イザナの背中はどんどんと遠ざかってついに見えなくなっていく。
日の長い夏の盛り、外が明るくとも、時計だけ見るのであれば世界が夜を迎える一歩手前の時分、武道は一つ、大きなくしゃみをすると先ほどまで寝転んでいたベッドを降りて、そそくさと帰り支度を始める。保健室を出て昇降口に向かえば、きっとイザナはそこで武道を待っていることだろう。なんせ、部活のあった日は必ずイザナと帰って佐野家にお邪魔するのが通例となっている。そしていつも、先に帰宅しているマイキーから玄関先でイザナも諸共にぎゅうと強いハグを受けて出迎えられると、これまたエマが作ってくれた夕飯のご相伴に預かって、それから武道は帰路に着くのだ。
昇降口に向かうとやはり、そこでイザナは武道のことを待っていたようだった。
イザナに無理やり繋がれた手も、通い慣れた通学路もいつも通りのまま、なんとなく、今日は青信号が多いなと考えた帰路は、仄暗く藍白と朱が混じり合った色をしている。
定期試験が終わって無事に試験の結果が返却されようとも夏休みが始まるまでの間、平日の五日間の大半を占めるつまらない授業が免除されるなどといったことはない。少なくとも武道が在学する中等部では夏休みの始まる三日前までは授業があって、クラスの担任教諭が言う、今までの振り返りを行う有り難い授業とやらが遂に終わりを迎えた最終日、帰りのホームルームが終わった途端騒めく教室を後にすれば、放課後の開放感に生徒たちがごった返す廊下の中、見知った顔が自分を探して周りを見渡しているのが見えた。
「カクちゃん!」
その姿に武道が大きく背伸びをしながら、男の名前を呼んで手を振れば、周りの生徒から頭ひとつ分飛び抜けてキョロキョロと周りを見渡していたその男も如何やら、武道の存在に気付いたらしい。ニカッという効果音が聞こえてきそうなまでに太陽の如く眩しい笑顔を此方に向けたかと思うと、タケミチ!と大きな声で武道のことを呼び、これまた同い年とは思えない大きな図体で人の波をかき分けて此方に向かってくる。
「ごめん、カクちゃん。ホームルームが長引いたとはいえ…待たせちゃったでしょ?」
「いやいや俺もさっき教室から出てきたとこなんだ、気にすんなって。…それにしてもすごいな。いくらマンモス校だからって、こんなに廊下が混み合うなんて。」
「いつもだったら部活動で人が分散するけど、もう夏休み目前で部活をお休みにしてるとこが大半だから…。みんな向かう先は昇降口なんじゃないかな。」
「あー………。なるほどなぁ。」
「殆どの運動部のなんかは夏休みに入るとお盆までずうっと練習で休む暇もないらしいよ。だから夏休み前だけは休むつもりなのかも。」
「多分、顧問の都合もあるんだろうな。みんな夏休み前で忙しそうだ。」
そンじゃあ、そろそろ向かうか?
成長期を誰よりも早く迎え、本人曰く日々のトレーニングの賜物だと宣う、同学年の誰もが羨むであろう逞しい肉体を持った男、武道の幼馴染の一人である鶴蝶が武道に問いかける。まだ廊下には人がごった返していたが、軽く一言二言を交わしている間に多少混雑は解消されていたらしい。うん、行こう。まだ沢山の生徒で溢れかえるもなんとか歩けそうな廊下に二人飛び出して、再び人の波に逆らって歩き始める。何人か通り過ぎる人になんだなんだと胡散げな視線を向けられたが、どうせ明後日が終われば夏休みが始まるのだから今日ぐらいは許してほしい。
この後のことは少し憂鬱なのであるけれど、鶴蝶と学校で行動を共にすることが随分と久しぶりに思えて武道は浮かれていた。
「なんか、カクちゃんと学校で一緒にいるの久しぶりかも。」
「まぁ、学校にいる間は大半、オレは授業サボって高等部にばっかりいるからな…」
「だはは、いけないんだぁ」
「そういうバカミチこそ、ここ最近は授業中によくマイキーに連れ出されて学校サボってるって聞いたぞ?ン?」
「へへ、バレちゃった?でも週に一回とか、それぐらい。カクちゃんはイザナとよく一緒にいるんでしょ?イザナと一緒にいる間は、やっぱりカクちゃんもイザナに勉強教えてもらってたりするの?」
「……まぁ、そうだな」
「えっ、何?!その間!!でもカクちゃん、昔っから頭いいし、そんなことはないのか…?なんか、漢字とか歴史に強いよね。いいなぁ、俺暗記苦手。」
しばらく歩き続けていれば自ずと人波を抜けて、さっきまでの窮屈さだとか人の溢れかえる熱気、他人のきつい汗の臭いとは無縁の空間に出迎えられる。ここまでくるともう中等部の生徒は見当たらなくて、先生さえも見当たらない中等部と高等部をつなぐ渡り廊下へ道すがらは、蝉の声だけが聞こえる廊下には他に鶴蝶と武道、二人の話し声と足音しかしなかった。
授業以外に武道が行く先々は、なんだかいつも人がいない。
「高等部ってやっぱり中等部よりも人が多いのかな、高等部の校舎って中等部よりも大きいからなんか、迷っちゃいそう。」
「確かに高等部は中等部よりも広いな。中等部は三階建てだけど、あっちの校舎は五階建てだし、体育館も二つあるくらいだから結構人も多いんじゃないか。でも、結構造り自体はシンプルだしあんまり迷うことはないと思う。校舎も三年前に全面改修されたって話だからかなり綺麗だぞ。」
「え〜〜!それめちゃくちゃいいじゃん!中等部の校舎ってそこまでじゃないけど、結構古めの校舎だからそう聞くと羨ましいね。」
「真面目に授業も受けてないのに?」
「…綺麗になったら真面目に授業受けるかも。」
「ハハハハハ!」
くだらない談笑はいつまでも止まることがなかった。たわいもない会話ににべもなく男子学生が花を咲かせる光景は言葉にしてみるとなんとも華々しくはないのだが、武道からしてみれば普段学校で顔をよく合わせているのはもっぱらイザナと友人の千冬に八戒くらいのものである。久しぶりにする幼馴染との会話はその点からしても新鮮で、きっと鶴蝶も武道と同じに思っているに違いない。景気良く開いた大きな口が弧を描く快活な笑顔がそれを大きく物語っている。
事実、部活の活動日外に武道が帰るとき、鶴蝶が一緒に帰ろうにも武道はマイキーに攫われるように連れて行かれているのだ。学校であまり一緒にいられないのは鶴蝶が中等部を離れている為の自業自得でしかないが、鶴蝶としては呆れるしかない。鶴蝶もやはり、武道と一緒にいる時間に飢えている。
高等部と中等部を繋ぐ渡り廊下を越えて目の前にある階段を登る。なんと無しに数えた階段の段数は十四段。二階に上がってすぐ左に曲がった突き当たりで鶴蝶が足を止めた。
「着いたぞ、タケミチ。ここが高等部の視聴覚室だ。」
鶴蝶が開けた視聴覚室の中を覗いてみるとそこには既に五人の生徒が集まっていて、それぞれが特に談笑をしているわけもなくただ、静かに長机の周りを囲っては着席しているようだった。イザナが手配しただけあって当然のことながら集まっている五人は武道にとって全く知らない人達ばかりである。前髪をお洒落にアシンメトリーで刈り上げた黒髪の男性が何故かこちらをじっと見つめているのが多少気になったものの、その中に見知った顔を見つけて、武道は目を丸くしながらぽつりと一人呟いた。あれ?なんで、ここにイザナが?
「おせェ。」
武道の呟いた一言はどうも当人には届かなかったらしい。呆けた顔をして突っ立ったままの武道の腕を掴み、お前はここ、とイザナが隣の空いた席へと武道を無理矢理座らせる。
武道を挟んで鶴蝶がもう一つの空いた椅子に座るとイザナに問いかけた。
「イザナは今日は参加しないって話じゃなかったのか。」
「そうだったんだがな、予定が変わった。一人急に来れなったもンでそんで俺が直々に出向いてやったンだよ。気になることもできたしな。」
「…気になること?」
「そいつァ最後のお楽しみ。」
イザナァ、誰、ソイツ。
頭の片側をスキンヘッドにして獅子のように見える刺青を施した金髪の男が気怠そうにイザナに話しかける。口元の傷が印象的な男だ。
新聞部のコーハイ。今日の取材役。
イザナはそう言うともう応える気はないとでも言うかのように、あと一人だな、と言って会話を締め括る。
…一人?二人ではなくて?周りを見渡せば奥に一つだけ空いている椅子が見えた。語り手は七人だということは事前にイザナとも話し合って把握している。ともすれば今、この場にいる語り手は五人ではないのか?
武道が驚いた顔で鶴蝶をみる。俺は語り手側だぞ、と鶴蝶がニコリと笑って励ますように武道の肩を叩いた。
ま、後一人ぐらいゆっくり待てばいい。
片手で頬杖をつきながらイザナがそう言って大きく欠伸をした。
それから、七人目を待ってそろそろ三十分が経ったが、いまだに七人目がくる様子はなかった。時計の針はとっくのとうに午後四時ニ十七分を指していて、放課後になってから四十五分弱が経過していたことになるが、ここまで時間が経ったとなれば七人目を期待することはするだけ恐らくもう無駄だろう。何よりももう期待どころか時間が無駄になっている。時は金なりという言葉があるように時間は平等であって、平等ではない。勿論一日はみんな同じ二十四時間であれど、貴重な一日という時間がただでさえつまらない学校で消費されている最中、こんなことでさらに時間を浪費させてしまうのはこの場にいる誰にとっても迷惑な話に違いない。馬鹿な武道でもそれぐらいはわかる。
これ以上他の参加者に、いまだに訪れない七人目を待たせるにも申し訳がないので、誰もが静かにして七人目を待つ最中、意を決した武道が口を開いた。
「…あの、七人目はまだ、来ないんですけど。その、そろそろ始めませんか?」
誰よりも先に反応したのは三つ編みの男だ。手持ち無沙汰に長く垂れた三つ編みをくるくると弄りながら男は武道に話しかける。目尻からこぼれ落ちそうなほど、存分に色香をたらし込んだ垂れ目が印象的な、甘い顔の男だった。くるくると三つ編みを弄ぶ節くれ立った大きな手は真っ白で、太く浮き出た静脈の青が透けている。
「いいの? まだ七人目揃ってないのに始めちゃって」
「そうですけど、これ以上待って皆さんの時間を無駄にするわけにもいきませんし。それにほら、は、話している最中に来る可能性もありますから、そっちの方がいいかなって」
「へぇ、別にいいのに」
ねぇ?りんどー。
俺に振るなよ、兄貴…。
清涼な水色のメッシュが混じる前髪を後ろに撫でつけた大きな丸眼鏡の男が困って呆れたような表情を見せる。どうやらこの二人は兄弟であるらしい。よく見れば顔立ちがそっくりだった。
…まぁ、大将が良いっていうなら良いんじゃねェ?
りんどーと呼ばれたその男がそう口にしてイザナを見遣る。
イザナは勝手にしろと言ってそっぽを向いた。イザナって大将って呼ばれてるんだ、なんか凄いな。下手くそなペン回しの手からペンがポトリと落ちる。
イザナの態度を伺っていた周りも概ね武道の提案に同意しているらしい。イザナのその態度を見て武道に注がれる目線はきっと、おそらくは了承の意なのだろう。少なくともそう受け取った武道は、ペンとメモ帳を取り出すと改めて、机を取り囲んだ六人に対して向き直った。
「そ、それじゃあ、学校であった話の取材をこれから始めようと思います。」
そうしてやっとのこと、今から始まるのだ。
「俺は新聞部に所属している中等部一年Bクラス、花垣武道です。本日は皆さん、よろしくお願いします。」
学校であった怖い話、これから六人の語り手によって紡がれる怪奇譚。大きな机を囲んで向き合う、武道を含めた七人の姿は、新聞部の取材のために集まったかと言うよりかは、まるでこれから百物語を行う肝試しの為に集まったかのように見える。確かに怖い話を持ち寄って話すからには百物語の方がしっくりくるが、ここには怖い話分用意された火を灯す百本の蝋燭もなければ、これから部屋を真っ暗にする予定もない。
それにも関わらずここでは誰もが静かにして息を顰め、最初の語り手が誰になるのかを手持ち無沙汰に待っていた。
「一人ずつ話を聞くので、えぇっと、そうですね。それじゃあまずは初めに_____」
__________誰の話を聞こうか?
一話目 鶴蝶 『鏡の向こうに誰がいた』
お、わかった。タケミチ、俺から始めるんだな?
ここにいるのは顔見知りばっかりだから皆俺のことは知ってると思うが、取材って話だし一応自己紹介をしておこうと思う。あ〜〜〜…でもそうなると名前……まぁ、うん、渾名でもいいか、いいよな?俺の名前は鶴蝶。中等部の一年で、クラスはE。あ、もしかしてクラスまでは言わなくてもよかったか?ははは、困ったな。こう見えて緊張してるみたいだ。ま、許してくれよ。
それで俺がこれからする話なんだが……そうだなぁ……。
…この中に、幼少期に鏡を見て少しでも怖いって思ったことのあるやつ、居たりするか?
あ、別にこんな質問に答える必要はないンだ。むしろ怖いって思ったやつの方が大半だろうし。少なくとも俺はそう思ってる。
俺も幼稚園の頃は鏡を怖がっていた質の人間なんだけどよ、なんで身だしなみを整えるためだけに使う鏡に恐怖を覚えるのかって言ったら俺の場合、時折、その鏡っていうのが俺の目には見えない何者かを映し出すときがあるんじゃないかって、気が気でなかったからなんだよな。幼稚園の頃にたまたまテレビで再放送されてたホラー映画を見ちまって、そのホラー映画が怖ぇのなんの。確か一人暮らしをしている女が主人公の映画だったと思う。その映画の中のシーンの一つに、女が自宅で夜に目を覚まして洗面所に向かうと、鏡に見覚えのない男が写ってるっていうシーンがある。もちろん女は驚いて鏡から目を逸らして後ろを振り返るんだけど、後ろには何もいない、そうして女がなんだ、気のせいかって思ってまた鏡に目を向けると、いないはずの男が女に一歩近付いているのが鏡越しに見えるんだ。女の頬に冷や汗が一筋、つゥーーー…って流れて、そして次の瞬間には見えない何者かによって女は首を絞められて、暗転。たったそれだけのシーン。いやぁ、誰も起きてない夜中にトイレに起きて見る洗面台の鏡とか、あれを見た後は本当に怖かったな。ちょっと恥ずかしいけど自分もさ、鏡を覗いたらいるかもしれない誰かに痛い目に遭わされるかもって思うと顔がまともに上げらんねェの。
実際、鏡って昔から神聖なものとして神話によく出てくる小道具だったりするんだよな。古事記あたりが有名なんだが…、ここは俺も詳しくはないから省略する。
そうなると昔の人もやっぱ鏡に神秘的なものでも感じてたんだろ。神様を祀る御神体に鏡を採用している神社も多いくらいだから、それこそ俺たちには見えないナニカを暴いて、それらを白日の元に晒しあげるって意味で神聖視されてたンかも。なのに、よくホラーの題材にされているのが皮肉で笑いどころだよ。ほら、よく聞くだろ?割れ鏡とか、合わせ鏡。片や邪を払う神聖なものとして扱われて、片や邪を寄せ集める不浄なものとして扱われるんだ。随分と繊細な代物だよな。
そんで鏡の話、な。中等部の体育館の隅っこにさ、両開きの扉があるだろ?そうそう、体育館入り口の隣にあるあのデッカイ扉。六月の始めぐらいにトラテープがバッテンに大きく貼られて、封をされてたとこな。
知ってるか?あの扉、物置のように見えて実は三面鏡になってンだ。なんであんな体育館に三面鏡があるのかは正直なところ俺も詳しくは知らないんだけどさ、ただ、この学校の設立当時、中等部の体育館は入り口の在る面を一面鏡張りにしていたって話らしい。当時は体育の授業に社交ダンスがあったって聞くから、まぁそれ用だろうな。時代が移り変わって社交ダンスの授業がなくなったのをきっかけに、最初は鏡を全部撤廃して壁一面を改修するつもりだったけど、当時それを勿体なく思った校長の提案で体育館の端っこに三面鏡として残したのがあのでっかい扉の正体ってワケだ。
流石に入学した始めは俺もまともに授業に参加してたから、きっかけは…その時の体育の授業だったか?体育の授業ってやる競技にもよるけど、基本はグループを分けて授業するだろ?それで授業が終わる十分ぐらい前に切り上げて、グループごとに交代制で授業後に軽く片付けをする訳だけど、その時はたまたま俺の振り分けられてたグループが授業後の片付け当番で、俺はその日体育が終わるとグループのやつと一緒に使った道具を片付けてた。そうしてしばらく片付けてたらさ、突然体育館の入り口側から野太い叫び声が聞こえてきたんだ。みんなで何事だって悲鳴が聞こえた方向に向かって、そしたら入り口付近の掃除を割り当てていた生徒が、尻もちついて後ずさってンだな。
「なんだ、どうした!」
勿論その場には体育の先公も駆けつけていて、尻もちをついてる生徒にしゃがんで目線を合わせたと思うと肩を掴んで揺らしていた。目が虚で、明らかに正気じゃなかったからな。気を直させるつもりだったんだろう。
「かっ、鏡が、鏡が変なんだよ!ヒッ、ヒイッ、ヒイィ…ッ!」
「鏡?」
「お、俺、この扉がなんなのか気になって、あ、開けたんだ。そ、掃除されていなかったし!どうせだから、ついでにやるかって!そしたら三面鏡だったんだけど、こ、これ、これ!!!!」
そンで、そう。
そいつが震えながら指を指した先にあったのが、オレが話に出してた三面鏡。一見なんの変哲もない大きなだけの鏡なんだよ。長方形の形をした、よく見る姿見の三面鏡だな。結構な大きさで、多分二メートルぐらいはあったんじゃないか?
ただ、その代わりに誰が見たってわかるくらい、一見普通の鏡の前には異様なものが落ちてたンだ。
ふふ、タケミチ。なんだと思う?
…それはな、見るからにぐしゃぐしゃになって絡まった、ゴワゴワの長い髪の毛だった。丁度…タケミチの握り拳分くらいの大きさの塊だったんじゃないか?
「か、髪の毛…?」
先公もそれに生徒がビビってると思ったんだろう。なんたって一番わかりやすくて気付きやすい異変だ。これには先公も驚いて困惑した様子だった。
「た、確かに鏡を開いてこんな髪の毛があったら驚くよな!とりあえず今は一旦ここから離れて…」
「か、髪の毛なんて今はどうだっていいだろ!あ、あれが見えないのかよ!あれ!あれが!」
「っは………?」
あァ、言い忘れてた。尻もちをついてたそいつ、桂場って名前の生徒なんだけどさ。明らかに三面鏡の前に落ちてる髪の毛の方が異様なンに、ずっと血走った目で三面鏡の真正面を指差しながらそう言うのな。てっきりオレも先公とおンなじように髪の毛のことを言ってたんかと思ったんだけど、よくよく見てみると、指を指してる方向が違ってンだ。
それでオレも桂馬に近づいて鏡を覗いてみたンだけど、別になんも。
ただ桂馬と先公、それからオレが映ってるだけ。
「あれ?あれってなんだ、桂馬」
「わっ、わかんねェのかよ!女だよ、女!長い髪の女が体育館のステージに立って俺のことを遠くから見てンだ!お前らだって見えて……、」
桂馬は叫びながらまるで信じられないような目でオレ達のことを見回してきた。
オレ達の反応で全部解っちまったんだろうな。
でもだからと言って何かが変わるわけでもない。だって見えないものは見えないんだから。
桂馬からしてみればまともなのは自分で、まともじゃないのはオレ達の方だったんだろうが…、むしろその場にいるオレ達からしてみれば、可笑しいのは桂馬だけで正気なのは自分達だ。
物事はいつも多数決、普遍性に左右される。
「嘘だろ、おい、クソッ!なんなんだ!なんなんだよ、これッ!!」
桂馬は頭を掻きむしりながら鏡に向かって一際大きい声で吐き捨てたと思うと、何ふり構わず脱兎みたいに体育館から駆け出していったよ。
先公が大きな声で駆け出していった桂馬を呼び止めたけど、マァ、それで言うこと聞く方がおかしいわな。見るからに錯乱してたんだから。
その後改めてその場に残ってた全員で鏡を覗いてみたけど、やっぱり鏡に写った体育館の中には桂馬の言う髪の長い女っていうのはいなかった。ただ俺たちがそこに映って、不思議そうな顔をしている。
たったそれだけだった。
それからだな、桂馬がおかしくなっていったのは。
桂馬って奴は元々自由奔放で明るい生徒だったんだが…、まずはその面影が無くなってきたように思う。
別に、授業中は普通なんだ。先公に指名されるたびに解りません!って元気よく答えて、皆んなにクスクス笑われながら能天気に、自分も笑ってさ。
ただ、それがトイレとか手洗い場に行くともう、兎に角ビクビクして小刻みに震えてンだよ。
…事情を知ってる奴は何が原因でこうなってるかなんて一目瞭然だったろう。
なんせ、桂馬は鏡を見ることを明らかに避けていたンだからな。
鏡から必死に目を逸らして、頑なに洗っている自分の手から目線を逸さない様子なんか見たら、なぁ。
わかるだろ?
十中八九、鏡に桂馬は怯えていた。あんまり桂馬が鏡を避けるモンだから何があったのか桂馬に直接聞いたやつもいたみたいだが…、そこはうまくはぐらかされちまったらしい。
でも、そんなもン、正直、無理でしかねぇんだ。
現にその無理は徐々に桂馬を祟っていった。明るかった頃の桂馬を置き去りに、今度は桂馬の身だしなみであれ気性であれが荒み始めたんだ。
…当たり前だよな。鏡が見れなきゃ身だしなみなんてまともに整えられなくなっちまうし、毎日何気なく、無意識に普段使っていた洗面台の鏡だとか風呂場の鏡を徹底的に今度は避けることに神経を尖らせるんだから精神的に余裕だってそりゃア、なくなっていくだろ。
…桂馬は結局最終的に不登校になったよ。クラスの女子が手鏡一つ出すだけで肩を大きく振るわせるようになってからがピークで、突然授業中に立ち上がったと思ったら、窓に向かって大声で叫ぶんだ。
「鏡以外にどうして映ってんだよ!!」
ってな。
不登校になる前の最後の桂馬の様子は苛烈で、立ち会ってた先公まで、呆気に取られてた。
それからだいぶ経って、一ヶ月くらいか?朝に教室に向かうと、教室の前で緊迫したみたいにクラスメイトが騒ついてンの。
だァれも教室内に入らないで入り口の前で立ち往生してるモンだから、何事かと思って人混み分けてさ、そんで教室を覗いてみたら、不登校になったはずの桂馬が珍しく学校に来てんだから、びっくり。
教室のど真ん中にある自分の席でもない他人の席に座って、あれは多分、教育指導の先公だったか?兎に角、桂馬はその先公と相対して上の空みたいにボーッとしていた。
そんでよく見ると、桂馬の手はハンマーを握って、血塗れにてらてらと赤黒い血が光ってる。手に血がついてるだけで、ハンマーに血は付いてなかったから、別にハンマーで人を殴った訳じゃなさそうだった。
先公は桂馬に対話を試みていたんだろう。相手が凶器を持っているからか、先公は気を使って会話している様子でそれがより一層クラスメイトに緊迫感を与えていたのかもな。
どれくらいか時間が経って、先公が対話を諦めかけようか、って雰囲気になったところで桂馬に動きがあった。桂馬がポツポツと喋り出したんだ。
「俺、あの鏡を壊してやったよ。」
「…壊した?」
「そう、あの体育館の三面鏡を割ってやった。だから安心して、先生。これは鏡の破片でできた切り傷。」
「ど、どうしてまた、そんなことを?」
「そしたらもう、何も見えないから」
「何も見えない?」
「くふふ、ふふ、あは、あははははは!これで俺はあの女から解放される。元の生活に戻って鏡に怯えなくてもいい!今まであの女ったらほんと、うざってーの!鏡の向こう側で俺にさぁ、ここから出たいの、出してよ、って囁いて来てさぁ!そのうち、水面にも出てくる、ガラスにも映って囁いてくる、ケータイの液晶にも出てきて、いい加減うんざりだったんだ!そう、全部全部、あの三面鏡が元凶だった!」
桂馬は笑っていた。碌に眠れていなかったのか目の下には濃い隈が出来てて、そんでただでさえぎらぎらに光る目ん玉がその隈に強調されてか、もっとぎらぎら、まるで鏡の破片かってくらいに人を殺せそうな鋭い目をして楽しそうに笑っていた。
勿論これを受けて桂馬は停学処分になった。確認した担任曰く本当に三面鏡は割れていて、その件も併せての停学だった。停学が明けてさぁあの桂馬が帰ってくるぞってクラス中が騒ぐ中、担任が桂馬が転学する知らせを持ってきたことでこの話は終わりを迎えるんだが…。
やっぱなんか、こう、消化不良なんだよな。この話。
なんか、腑に落ちねぇというかなぁ…。違和感があるって言った方が早いか……。
え?そんなことがあったの、知らなかったって?
………そりゃア、そうだろ。だってタケミチはあン時マイキーに連れ出されて鎌倉に二泊行ってたし。確かあン時、何でかは知ンないけど、ご丁寧にマイキーも俺の机の上にお土産なんか置いて、大丈夫だった?とか訳のわからない書き置きを残してた筈だぞ。
……………ン?…あァ、なるほど。そうか。わかった、わかったよ。なァ、タケミチ。俺、わかったワ、違和感。
そう、そうだ。こっち側に来れないんだったらさ、如何してあの三面鏡に沢山の髪が挟まっていたのかって、そういう話だ。どうしてこっち側に来れないやつが、あいつの耳元で囁けていたのか。
これはそういう話なんだよ、タケミチ。
二、 灰谷竜胆 『保健室の怪人』
お、次は俺か?いいぜ。俺は灰谷竜胆。高等部の一年でクラスはB。あぁ、クラスまでは別に言わなくてもいいんだっけ?
…おいおい、そんなにビクビクするなって。俺の話はそんな大逸れて怖い話ってわけじゃアねェんだ。
それこそ関係があンだとしたら高等部の連中ぐらいなンじゃねぇの?だからマァ、中等部のオマエがそんなに身構える必要なんかねェって。そんなオマエも二年半後には高等部の仲間入りなんだけど。
…さて、もうじき来週からか?夏休みが始まるわけだけど、一学期を終えるまでの間、オマエ、保健室の世話にはなった?
おっ、何々、…へ〜ェ、最近お世話になったンだ?因みに何してお世話になったカンジ?……熱中症?それも、部室棟で?…ウワ、大将、鬼だな鬼、こんないたいけな新入生をあのクッソあっつい部室棟にねェ、そら熱中症にもなるって。
…オレはもう高等部に進級しちまった身だから、今の中等部の保健室がどうなってるのかあんま知らないンだけどよ、少なくとも俺らが利用してる高等部の保健室はそりゃあもうサイコーなんだぜ?センコーが爆乳ボインのでるとこでたグラマラスな美女じゃなかったのは残念だったンだけどさァ、なんてったって高等部じゃあセンコーがほぼほぼ保健室をあけてんだ。つまりはベッドの利用名簿さえ書きゃ、いつでも生徒は授業サボって寝放題、ベットを好きに使えるってワケよ。勿論、寝放題なだけにアッチの意味でもさ。
たま〜にあンだワ、女連れて保健室使おうとしたら鍵が掛かってて、ドアの向こうからそりゃアもうお盛んなお猿さん供の声がアンアンアンアン。そうなると当然、御目当ての保健室は使えなくなる。だからしょうがなく第二の選択肢として屋上でヤる?って女に聞くワケなんだけど、そしたらさァ、思いっきり頬張られて、もう最悪。タダでさえこの学校は空き教室だって少ないんだし、それこそトイレよかマシだと思うんだけど。基本立ち入り禁止だから見つかるリスクだって低いし衛生的じゃん。欠陥があるにしたって高所でちょっと開放的すぎるくらい?なんなら保健室は平気でラブホがわりにできる癖して、屋上は無理とかいう神経の方がめちゃくちゃ意味わかんなくね?マトモぶったところで本当にマトモな奴は保健室でセックスなんかしねェンだわ。保健室は怪我人の応急処置をしたりだとか体調を崩した人間が安静にする場所なんだから、ヤリ部屋なんかじゃアないンだっつーの。
あ〜〜〜〜〜…めちゃくちゃ脱線した。…ちゃんと話しすっからそんな怖い顔すんなって大将!むしろカワイイ後輩の真っ赤な顔が見れるだけ役得だと思うんだけど!?そんで、なんだっけ?あぁ、そう、話の続きね、話の続き。それで俺が話すのがその高等部の保健室の話なンだけど…。
…オレとおんなじクラスにな、柏秀吉ってヤツがいンだよ。これが、とりわけ特徴のない男でさァ、タッパもなけりゃ、体格もねェ、どこにでも居るようなうっすい顔をした奴なんだな。特に分厚いメガネなんかかけて、一見弱そうなナリしてんだわ、これが。そんで、そんな頼りない見た目をした柏クンなんだけどヨ、そいつ、見た目に反して兎に角、気が強ェの。
オマエ、演劇部が月に一度、学校の第一体育館を借りて劇の公演をしているのは知ってるな?…そうそう、演劇部が毎月やってる一〇分間の短編公演。そいつ、その演劇部に所属してるらしくて、いっつもクラスの奴らに公演が近付くとこんな具合に大声で報せるわけ。
“皆さん、いついつの日の放課後、何時何分から第一体育館を借りて、演劇部が今月も一〇分の短編公演を行います。だからなんだと思う人も多いでしょうが、この公演に出演する演劇部の部員というものは皆どの凡人よりも優れた折り紙つきの実力者であるのです。そして当然のように私はその中でも最も優れた演者でありますので、今回もワタクシはその短編公演に出演する訳であります。えぇ、えぇ、皆さん当然観にくるでしょう。なんせこのワタクシが役を演じるのですから、これを見逃すなんて世界の損失と言っても差し支えないこと!このワタクシの演技がお目にかかれることの、なんと幸運か! これを逃すともなればそれは幸運の損失です、いわば、不幸の手紙と同じ。さぁさぁ皆さん、お友達にも教えてあげて!シャイな方もいるでしょうから、そんな貴方はね、下駄箱の中にひっそりと手紙を入れてお友達に教えてあげるべきではないでしょうか、それこそ不幸の手紙みたいにね……。“
な?もうヤな奴だってわかるだろ?先生が今そこに立ってないからって、黒板前の教壇に上がって身振り手振り、大袈裟にジェスチャー。まるで政治家の演説って感じ。選挙活動かなんかで偶に駅で大声で演説するヤツいんじゃん。やけに芝居がかった口調がそれっぽくて本当、正直ウザったかったね。何が幸運だよ。毎回出演できてんならそんな希少なモンでもないだろうに、随分とオヤスイ幸運だこって。
実際、その短編公演に演者として頻繁に参加できてるのはスゲェことだとは思うンだけどな。なんせこの学校の演劇部の人口は約百三十人。その中でたった一〇分の短編、たった十数人の演者の椅子を奪い合ってる。そしてその十数人の席にアイツは毎回座ってんだ。あ〜ぁ、勿体無いヤツだよホント。
柏って男は、マァ、こんな具合にいちいち高飛車で、鼻につくヤなヤツなんだけどさ、ただ、柏のことを中等部から知ってるヤツは皆、口を揃えて言うンだよな。柏は中等部のとき、あんな人間じゃなかった。少なくとも、高等部に進級するまでは大人しかった、優しかった……だとよ。…ハッ、誰が信じるかっての。何があったらそんな男が今やあんな陰気で傲慢な奴になるんだか。少なくともオレは信じらンなかったね。高校デビューにしたって、大分性質の悪りィデビューの仕方だと思った。
さて、何でオレが急に柏の話をしたかと思えば、ご覧の通りオレは、そんなに真面目に授業を受けてる生徒じゃないからさァ、その日もオレは保健室でサボろうと思って保健室に行ったンだワ。いつも通りその日はセンコーは居なくて、四つある保健室のベッドも全部空いてた。保健室のベッドって、仕切りのカーテンがあるだろ?使用中になると締め切られるあれだよ。ベッドをぐるっと一周して、ベッドの片面だけが開くアレ。あれが全部開いてたから、使われてないのは一目瞭然だった。
だからオレはいつも通り利用名簿に名前と利用するベッドの番号を書いて、ありがた〜くベッドを使わせてもらったわけだ。保健室に入って一番奥、窓際んトコ。昼休みが終わった後に顔出して、帰りのHRになるまで寝てるつもりだったンだけど、その日は珍しくオレ、どうも放課後まで寝ちゃってたらしくて。起きてカーテンを開けたらビックリ。サッカー部がサッカーゴール片付けて、トンボで砂ならししてる最中。つまりオレは放課後の中でも、部活も終わる遅い時間に起きちまったワケだ。無駄に浪費した時間をこれ以上浪費するワケにもいかねぇから、足早に保健室を出ようとしたんだけど、早速腰掛けてたベッドから立ちあがろうとしたときだ。隣から突然声が聞こえてきた。
恐らくオレが寝てる間に埋まったベッドが丁度隣のベッドだったんだろう。
聞こえてきた声は柏の声だった。
「こんにちは、心配に思って、不躾ですがまた様子を見にきた次第です。体調はいかがでしょうか?ベッドから起き上がれますか?」
はは、いやぁ、もうこの時点でサブイボ。え、何?誰お前、って感じ。
誰かに話しかけてるような声色だった。
誰に話しかけてるのか知らねぇけどさ、いやに甘ったるい声で、まるで好きな女口説くみたいに紳士的に話しかけてンの。
これだけでもうおおよそオレには見当がついた。おそらく柏には惚れた女がいて、その惚れた女が体調を崩して保健室に足を運んだモンだから、それを見かねた柏が見舞いに来たんだろう。そんでもって、女はきっと保健室の常連だった。じゃなきャ、あんな甘ったりィ声なんてださねぇって。
柏のあンな声とかもちろん聞きたくはないんだけどさ、人が女口説いてる最中に空気を読んでコッソリ保健室を出ていけるほど、オレもイイコじゃないんだよね。オレがコッソリ出ていくのなんて、寝起きの悪い兄貴が起きてきたときくらい。どうせだから、オレはこの童貞クンがこれから如何にどう会話を展開していくのか暫く耳を傾けることにした。つまりは野次馬、面白半分に高みの見物でもしてやろうって算段をしたわけだ。だってこんな面白い機会、逃す方がイカれてるだろ。あの如何にもな童貞クンがどう女を攻略するつもりなのか、オレはほんの少し興味があった。
「あら、今日も来てくれたのね、平気よ、ちょっとここが痛むだけ。まぁ、それでもベッドからは起きあがれないのだけれど…。そうね、心配してくれるのなら、今日もお話ししてくれる?私、貴方の演劇部の様子が聞きたいの。柏くんは当然知っているでしょうけど、私、体が弱くてずっと保健室で過ごしてるから、退屈で退屈で。」
ひどいダミ声だったよ。かろうじて女ってわかる声で、還暦を過ぎたババァみてぇなしわがれた声をしてた。時折音が裏返って、まともに声が出せないのか、時折ヒューヒュー息を漏らして喋ってた。
「えぇ、お話しいたします。とは言ってもマァ、いつも通りですね。貴方に貰っていたアドバイスを頼りに、今日は振りの練習を多めにしていましたよ。ありがたいことに、顧問の先生から次回の公演も演者として出てくれないか、と声をかけられまして。」
「ふふ、そうなの。貴方がまた選ばれたとなると私も嬉しいわ。アドバイスのしがいがある。ちなみに、今回の演目はなんだったかしら。ごめんなさい、私としたことが忘れてしまって。」
「今回の演目、ですか?今回の演目は、____ですね。」
「…____?初めて聞く演目ね」
「今年卒業する脚本担当の三年生が脚本したオリジナルの台本ですよ。凄いですよね。たかが十分、されど十分です。」
「えぇ、なんてことかしら、最近の演劇部は凄いのね、私のときは生徒が脚本を作るだなんて、そんなことしなかった。もっぱら顧問の先生の仕事。…どんな話なの?」
「分類としては恋愛物です。学園モノで、最後には勿論、ハッピーエンド。」
「ふぅん。」
暫く、普通の談笑が続いたと思うぜ。普通の談笑が続いたと思うと、今度は女は柏に向かって演技の要求をする。今日も練習をしましょうね、女が、まるで保育園の先生が園児に聞かせるように言って、柏がそれにはい、と応えてから、演技をしていた。女は演技を見ると、やれここが悪い、だの、やれここはこうしろ、だのいろんな口出しをするんだけど、十何分くらい時間が過ぎたころだったかな。
「そういえば、貴方の代の演劇部って『オペラ座の怪人』の公演はしないのかしら?」
仕掛けたのは女だった。女がその質問をしたその瞬間、保健室の空気が張り詰めたのがわかったな。
…『オペラ座の怪人』はフランス文学におけるロマンス・ミステリー、ゴシック小説のうちの一つだ。ゴシック小説がなんたるかの話もしておきたいとこだけど、今回の話には関係がないから省略しとく。
演劇やミュージカルにおいてはド定番もド定番。老若男女、様々な年齢層に親しまれてるかなり有名な演目だよ。これらに関してはラブロマンスとしてある程度脚色されたものが多いんだけど、名前くらいは聞いたことがあるだろ?
えーっと、花垣だっけ。お前、『オペラ座の怪人』の大まかな内容は知ってるな?中坊のクセしてホラー以外はなんでも嗜む、映画好きの一途でカワイイ後輩だって大将から訊いてるぜ?ハハ、随分とマセてんなァ。
…そ、とある劇団のコーラスガールであるクリスティーヌが“音楽の天使“に劇場の地下で出会い歌の指導を受けるようになってからクリスティーヌの幼馴染であるラウルが不幸になっていく話。意外に勘違いされがちなんだけどアレの主人公ってラウルなんだよなァ。オペラ座の怪人でも、クリスティーヌでもねェの。
……なんで女があの質問をした瞬間、保健室の空気が変わったのか、あの時のオレは知んなかったンだけどさ、後から取り巻きに聞いた話、演劇部に『オペラ座の怪人』の話は禁句なんだとよ。何でもある年から、演劇部で『オペラ座の怪人』を公演すると必ず、“オペラ座の怪人“を演じていた生徒が死ぬようになったんだとか。
…怪人役の生徒が死ぬ場面はいつも決まっていたらしいぜ?
『オペラ座の怪人』にはクリスティーヌを連れ去る為にオペラ座の怪人が鏡の向こうから姿を表すシーンがある。ここの演劇部はクリスティーヌが舞台の左側に移動したあと、舞台の右端からオペラ座の怪人を登壇させることで鏡に現れる怪人を演出していたらしいな。
オペラ座の怪人が登壇すれば当然シーンは移る。舞台の左側に配置されたクリスティーヌは駆け寄って怪人の元へ行き手を伸ばす。右端にいる怪人は駆け寄ってきたクリスティーヌの手をとると、今度は自分が登壇してきた舞台裏へと連れ込む。
死ぬのはそこだ。怪人がクリスティーヌを連れ去ろうと手を伸ばすその瞬間、偶然にも毎回頭上のスポットライトが怪人役の生徒に落ちてくるんだと。
スポットライトをわざわざ撤去して挑んだ年もあったみたいだがな、その時は決まってその瞬間に、怪人役の生徒が心臓麻痺を起こして亡くなったって話。
「…『オペラ座の怪人』は、もう、公演しないと聞いています。」
「そうなの?」
「はい。なんでも、事故が起きやすいとかで。生徒の安全の為に公演をしない、そういう決まりなんだそうですよ。」
柏の女に対する返答はさ、まるで聞き分けのワリィ餓鬼に大人がこんこんと何がいけないのかを言い聞かせてるみてぇな、そんな喋り方だった。さっきまでとは打って変わって硬い声色だっていうのにな。同時に、まるで自分にも言い聞かせているみたいな口ぶりにも聞こえたね。
「そう、残念ね。」
女は残念そうに言ったよ。それから、もう遅いから帰りましょう、先に保険室を出て大丈夫、私、後から行くもの、なんて柏に話しかけて、柏もそれを了承した。足音とドアの音の音が聞こえて、柏が保健室を出ていったのがわかった。
短い逢瀬の終わりだった。
オレは二人が出ていってから保健室を出ようと思ったから、今度はその女が出ていくのを待った。
だけど、どうもおかしい。いくら時間が経ったって、女が出ていく気配が全くない。それどころかまるで保健室にオレしかいないんじゃないかと思うほど何の物音さえしない。静かすぎて物音の聞こえやすい環境の中、シーツの布が擦れる音も、呼吸音もしなかった。聞こえる呼吸音は、オレ一人分だけだった。
オレは、オレの知らないうちに女が保健室を出たことを考えた。
でも足音も、ドアの音も、記憶するかぎりやっぱり出ていった物音は柏の一人分だけなんだよな。そうなると、まだ保険室に間違いなく女は居るはずだった。
気味が悪いと思ったよ。オレは女のことを訝しみながら、これ以上時間を無駄にするわけにもいかなくて、保健室から離れようとベッドから立ち上がった。極力隣のベッドを見ないようにして出口まで向かうつもりだった。
でも好奇心がどうしても勝っちまってな、ついついオレはフッと、横目に隣のベッドを見たンだわ。
そこには、誰もいなかった。
それどころかさっきまでおそらく女が寝ていたであろうベッドには皺一つ見当たらない。そこにあったのは、ベッドメイクされたばかりの清潔なベッドがただ一つだけ。
…なァ、こんなのって、おかしいだろ。会話の初めに柏は間違いなく女に『起き上がれますか?』と発言していた。女がベッドに横たわっていなきゃ出てこない言葉だ。ましてや女も、それに対して『起き上がれない』と回答している。なら、当然、女はベッドに横になっていた筈だ。なのにベッドのシーツに皺一つついていないなんてのは、明らかにおかしい。仮に本当に横になっていたとしてベッドに皺の一つもつけずに寝られる奴がいるか?よっぽど寝相がいいやつでも無理だぜ。
眉を顰めながら周囲を見渡して目についたのは保健室の利用名簿だった。
オレは迷いなく、それを手にとって確認したよ。嫌な予感がした。予感通り、最後に書かれていた名前は数時間前のオレの名前だけ。
オレの後に書かれている名前なんてものはなかった、文字通りの空白だ。
はは、笑えるだろ。薄寒いものがオレの背中に走ったね。さっきまでこの保健室にいたはずの女、この保健室にいねェんだ。いや、違うな。オレには見えていなかっただけで、実際はまだそのベットに横になっていたのかも。
そのあとのことはよく覚えてねぇ。気がついたらオレは家に帰っていて、顔を腫らしながらパンイチで正座してた。多分、寝起きで機嫌の悪い兄貴とバッティングでもしたんだろうな。額をカチ割られて、血がもうダラッダラ。それでも俺が珍しく身体をブルブル震わせるもんだから、それを訝しんだ兄貴がな、俺にブランケット掛けてくれンの。どう考えても先にすべきは手当なンにな。そんでもってブランケットかけたらさ、また自分はふかふかのベッドと同衾するんだワ。このときばっかりはオレ、初めて兄貴のベッドに嫉妬したね。
…オレ、さっき、演劇部にまつわる話で、ある年から『オペラ座の怪人』の公演をすると決まって、怪人役の生徒が死ぬって話をしたろ?
そのある年なんだけどよ、その年も『オペラ座の怪人』の公演をしていたらしいンだな。そして、その年も、鏡にオペラ座の怪人を演じる一人の男子生徒が、クリスティーヌを演じる女子生徒を連れ込もうとした瞬間、その二人に向かって舞台照明のスポットライトが落下してきた。男子生徒は即死で、女子生徒は重症。男子生徒は腹にスポットライトがめり込んで、肉と破裂した内臓がぐっちゃぐちゃにまざりあってたらしい。そんで、女子生徒はスポットライトが直接接触しなかったものの、一緒にスポットライトを固定していた部品が喉、顔、腕を切り裂いて目も当てられない状態だったって話だ。病院に運ばれてなんとか一命を取り留めたらしいけど、それも長くは続かなくて暫くしてから自殺。保健室登校をしてたって話だけど、最後には、せっかく助かっても、こんな怪人のような見目で普通の生活なんて送れるわけないでしょうに、ねぇ、どうして死なせてくれなかったの?、そう遺書に残して死んでいったらしい。
事故が起きるようになったのはその後からだった。
ダミ声なのは、おそらく落下してきた部品によって喉が潰れちまったからだろうな。時折ヒューヒュー苦しそうに空気を漏らしてたのは、喉が引き裂かれていて息を十分に取り込むことができなかった、息を十分に吐き出すことができなかったから。多分、その女子生徒があの女だったんだろ。
そうとくればさァ、話が繋がると思わねェ?
…はは、滑稽だよなァ。
きっと、あの女は例えるならオペラ座の怪人だった。そして彼女に魅了された哀れな男、柏は宛らクリスティーヌってやつだろうよ。
…目的はなんなのか、オレはあの女そのものじゃねェから知らねぇし、ましてや興味もねぇ。
でもこれだけは言える、おそらく高等部に進学した春頃から、保健室で柏はあの女から会う度に演技の指導を受けていたんじゃないか?
柏があんな高慢チキになったのは、単純に演技が上手くなって、自分に自信がついたからだろうよ。
マ、よくある話だわな。
…柏の態度はともかくとして、これってまるで、まさしく『オペラ座の怪人』のクリスティーヌがオペラ座の怪人に歌を教わるシーンにまるきり似てるよな、状況が。場所は地下室じゃなくて保健室だけど、如何にも、お誂え向きというかサ。
…これはオレの推測だけどよ、女は柏以外にも過去に、のこのこ保健室にやってきていた演劇部の男を捕まえては演技指導をしていたんじゃないか?そして演技指導を行なって、男が演者として十分実力がついた頃にこう囁くんだ。
『オペラ座の怪人の公演はしないのかしら?』
……オレの言いたいこと、わかるよなァ?花垣。
つまり、今までの『オペラ座の怪人』の事故っていうのはさァ、そういうことなんだろうよ。
あの女、『そう、残念ね』なんてお淑やかに聞き分けよく言ってたけど、全然、残念だなんて思ってないぜ?
マ、救いがあるとすンならこの一連の話にはラウルがいないことくらいか。
……さァて、オレの話はこれでお終い。オレが卒業するまでに、柏はあの女から逃げ切れるのかねェ。きっと、あの手のタイプは何度も強請ってくるだろうし諦めが悪い。柏もどっちかというと圧しに弱いタイプだろ?
加えて男ってのはどいつもこいつも惚れた奴にはよわァい生き物だからなァ。う〜ん、一体どうなることやら。あ、勿論、オレもそん中の一人ね。惚れたやつにはよンわいの、こう見えて♡あ〜あ、オレとしては逃げ切ってもらえた方が学校生活も穏やかで気楽なんだけど、逃げきれなくてもそれはそれで面白いんだよな〜…。いつか演劇部でオペラ座の怪人をやるって聞いたら喜んでデバガメに行くつもりだし。花垣、お前も来るか?
……ははっ、冗談じゃん。花垣、怖がって大将にしがみついてんのマジでオモロ、お前ってでっけぇコアラなん?
あ〜〜〜…でも、そうだなァ………。
ねェ、獅音セ〜ンパイ♡?
怖がってる花垣見たらァ、なァんかオレも、怖くなってきちゃったんだよね〜?
だからさぁ、今日はセンパイん家、お泊まりしてもい〜い?ほら、だってこんなにカワイイ後輩からのお強請りジャン♡? センパイ、泊めてくれるっしょ?ね?ね?よくねェ?オレ、先輩ん家、久しぶりにお泊まりしたいな〜、って♡
………"は?お前には別に蘭がいンだろ?兄弟一緒に暮らしてんだし“…?
………マァ、ウン、ハイ。そっスね…。ハイ………。
三、 斑目獅音 『見つけられなくて良かった』
ほァ、ア〜〜〜…?ッたく、おいおい、マジかよ。このオレ様が、三人目だとォ〜〜〜ッ??
………そう言われたってなァ、こちとら、まだどう話すべきか全然纏まってねェんだよなァ……。
マ、でも順番が回ってきたからにゃあ、話をしなきゃなんねェンだし、そうとくればしょうがねェ。
え〜っとォ、高等部二年のBクラス、斑目獅音。その小さそ〜な脳みそでオレのこと、よぉく頭に刻んどけよォ?コーハイ。
…オレァ、あんまここにいる連中みたいに頭イイわけじゃねェからサァ、こういうンはうまく話せねェと思うんだけど、文句は受け付けねェかンな?そこら辺はわかってくれや、マジで。
そんで、…花垣、だったっけ?オマエ、頭は良い方なン?それとも俺とお揃いで頭、悪い方だったり?
…ふゥん?あんま、良くはなさそ〜だな?その反応見りゃわかる。イザナに勉強教わってたみたいなことも言ってたし、なんか、お前みるからに馬鹿そうっつーか、ウン。
マ、少なくとも今ここにいるってことは補習は免れたんだろーしそこはお互いにお疲れ様ってことで。
オレの話はなァ、補習室の話。ただこれは怖い話ってよりかは、不思議な話になるのかもな。
オマエもここに入学して実感してる頃だとは思うだろうが、ここァ、中等部と高等部が一緒くたのマンモス校だろォ?だからか知んねーけどさ、人口が多いと、遅刻ばっかするやつとか、生活態度の悪いやつとか、成績の悪いやつとかがやっぱ、暫くしてわんさか出てくるンだよなァ。
ンで、このガッコーって基本、そういう奴は生徒指導室か職員室で説教されて、そんでその後なんかしらの課題出されてそれを補習室でやらせるワケだ。さらに言えば、迎え入れる生徒数をあらかじめ想定してか、このガッコーって生徒指導室と補習室、両方多めに造られてるワケ。
確か…、どっちも第三まで番号が振られてたはずだ。生徒指導室なら、第一指導室、第二指導室、第三指導室。補習室なら第一補習室、第三補習室、第四補習室、って具合にな。少なくともこのガッコーにあんのは、これら全部で三つ。
…お、いいとこに気付くじゃん、コーハイ。そーそー、このガッコーの補習室、第二補習室がねェの。理由は全くもってわかんねェんだけど、一番聞く噂話としちゃあ、設計ミスで狭く空間を造っちまったもんだから、代わりに倉庫として使うことにして教室札をひっぺがしたんじゃないか、ってのをよく聞くな。
…確かオレが中坊の二年だった頃か?そん時の秋頃に初めてオレ、テストで赤点を取っちまったんだけどさぁ、そうなるとトーゼン、補習室に呼び出しくらって補修を受けさせられる羽目になンの。勿論例外はないし、そん時の担任が鬼コエーやつだったから、オレは素直に指示に従うことにした。マジでそん時のオレは馬鹿だったからさァ、義務教育中は成績が悪くたって別に進級ができるってことを知らなかったんだな。だからこの補習には絶対行かないと留年しちまうぞっつー担任の脅しにとにかく焦った。
そんで、聞いて驚けよ?その時指定されたんが、そのありもしない第二補習室だったワケだ!
オレは第二補習室を死に物狂いで探したよ。だって当時のオレは第二補習室が無いだなんて知ンねェンだ。なんならこのガッコーに長くいるあのセンコーがそう言うンだからな。当然にあるモンなんだって考えるのが自然ってヤツだろうよ。
でも、やっぱさァ、無い教室なんか見つかんねェンだわ。そんなありもしない補習室、見つけられるワケがねェの。暫く校舎中を駆け回って、それでも見つけられない教室に頭をぐるぐるさせてさァ、ここで、頭は悪ぃけど頭の賢いこのオレ様は閃いた。
もしかしてオレ、補習室の場所を聞き間違えたんじゃアねェのか?、ってな!
…おい、ンだよその顔はァ。
だァって、こんなに探しても見つからねェンだぜ?だったらオレがあの担任から聞いた場所を聞き間違えて目的地にいつまでも辿り着けない可能性の方が十分にあった。そうだろ?多分、似たような状況だったらオマエだってそう思う筈だぜ?
…なら、どうすればいいか?
簡単だ、職員室に向かえばいい。
職員室には誰かしらいるからな。そこで担任の名前を出してどこに行ったか聞けば、誰かしらは把握していて答えてくれるだろう。オレはそう思って、意気揚々と職員室に向かったワケだ。
そんで?職員室について?扉開けたら?そしたらちょうど、担任が職員室にいて、オレを見て目を丸くしてやがるじゃアねェか。
「スンマセン、今日の補習って何処なんスカ、多分、オレ場所、聞き間違えてて…」
「…第一補習室。先生は後で行く。」
担任はそう言うとそっぽ向いて、何か、紙の束に向き合い始めたよ。だからなんだって話だけど、随分と無責任な担任だよな。
もしかしたら実は担任も補習なんかするのがダリーからさ、ない場所をでっち上げて時間潰しのつもりだったのかも。
だからさァ、多分、職員室の去り際に聞いた、舌打ちとハズレだったか、って言葉。
…この学校、中等部と高等部でどの学年も毎年必ず、突然、理由もなくガッコーを中退する生徒が三人は現れるっていうのがもっぱらの噂なんだけどよ、これもきっと、特に意味はねェンだよな?
エ?それだけですか、って?…そォだけど。いっただろォ?俺ァ、ここにいる連中みたいにうまく話せねぇんだって。これでもなんとか話せた方なンだよ、本当にな。マ、少なくとも気味の悪い話だってのは、これでも伝わったろ。
…だからさァ、テメェは俺みたいに頭、悪くなんかしちゃア駄目だぜ?
喧嘩で強いんなら結構だけど、お前、見るからにヒョロっちぃし。頭がいいことに越したことァねェだろ、多分な。
それに頭さえよくなっちまえば、縁のねェ話なんだ。
なら、悪いことじャあねぇだろ?
俺の話はこれで終わり。ほれ、とっとと次のやつは話してやれよ。話してる間に七人目を待ってるたァいえ、あんま遅くなっても此奴が可哀想だわ。
四、 九井一 『穴』
おーおー、すごいな。なんつーか結構、ここまで見事に全員、王道系の怪談を話してるって感じか?
ふんふん、困った困った。こんなの聞かされちゃア、後の人なんかみーんな、気後れしちまうって。
なァ、お前もそう思うだろ?花垣。
さて、そんじゃア四番目ってことで今回の取材のお相伴に預からせてもらうかね。
オレは中等部三年、Aクラスの九井一。
怖い話をする前に私事で悪りィンだけど、花垣。実はオレ、お前と昔に会ったことがあるんだワ。………覚えてるか?
…まぁ、あんま覚えてねェよな。
あぁ、いや、別に気にしなくていい。だってあン時はお互い今よりずうっとガキだったし、オレもあの頃に比べたらかなり様変わりしてる。覚えてる方が無理があンだろ。もとよりそんなに期待もしてたワケじゃねぇしな。
はは、でも、そうだなァ。じゃア、こう言ったらわかるか。お前、小学生の時、火事で燃えてる家に突っ込んでいってガキ一人助けたン、覚えてねェ?
……う〜ん、惜しい、オレはお前と一緒にあの燃え盛る家に飛び込んで、一緒にあの一家から子供を助けた黒髪だよ。
お、その顔。完全に思い出した、って顔だな。思い出して貰って何よりだ。
あの家はオレの友達ン家でね、あの家ン中にはオレの友人とその姉ちゃんが取り残されてたんだけど、お前がいなけりゃまじで二人とも助けられなかったからまじでお前には助けられたワ。
はは、偶々通りがかっただけとはいえ、マイキーとあの燃え盛った家に突っ込んでその友人達を助けてもらったんだから感謝してもしきれねェよ。あのあと、なんとかお前にお礼を言いたくて暫くお前のことを探して回ってたんだけど、学区は遠いわタイミングが合わないわでなァなァになっててさァ…。
マイキーには会えたけど、マイキーはマイキーでお前に会わせてくんねェし、マジで参った。ホント。
改めてこの場を借りて言わせてもらうが、あの時は本当に助かった。生まれてからずーっと付き合いのある大事な友達だったんだ。お前とマイキーが飛び込んで来なかったらオレの友達も、姉ちゃんも助からなかった。本当にありがとう。それから、危険な目に合わせて悪かったな。
…ふふ、頭を上げてください、ねェ。謙虚なンだなァ、花垣は。
………お礼を言った口でこういうことを聞くのも失礼だとは思うんだけどよ、一つ、聞いてもいいか?
こんなこと話しちまって気分悪くさせちまったら悪いンだけどよ、あの後、俺、さっき言ってたみたいにどうしてもお礼が言いたくってお前らのこと、勝手に調べててさ。そしたら驚いたことに、お前らの学区、オレ達の学区とはだいぶ遠く離れたところにあるじゃねェか。花垣ンとこなんて尚更、もっと遠いところだったろ。
率直に言ってお前らさ、なんであの時、オレ達の学区にいたんだ?
少なくともガキが冒険するにはあの歳じゃ体力だって限界がある場所だったと思うし、何よりお前らからしたら全く知らない土地、下手したら迷子になる可能性もあった。そのことを鑑みてみりゃ、遠出するにはマァ、そぐわない場所だわな。
…心配したんだぜ?これでも。
……そうか。花垣もよくわかんねェんだ。マイキーに突然連れ出されて、暫く歩いていたらそこで家が燃えてたから、人がいるんじゃないかと思ってつい、ね……。
いや、良い。教えてくれてありがとうな、花垣。お前がつまり、謙虚なだけじゃなくて根っからのお人好しだった、ってのはよォ〜くわかったよ。
ここにいる全員も長々とオレの私用に付き合わせて悪かったな。何、お呼ばれしたからにはきちんと本題に入って話をするさ。
…オレの友人にな、イヌピーって男がいるんだ。勿論イヌピーっていうのはあだ名で、本名は乾青宗。気の抜けるようなあだ名かもしンねェけど、オレにとってみれば幼いころからよく一緒にいた根っからの幼馴染なもんでね、こればっかりは、どうしても。マ、許してくれや。
あれは確か…、去年の夏頃だったと思う。正確にいえば、二年生の春から夏にかけての間。
オレとイヌピーは、幼稚園から小学校まではずっとおんなじ学校に通ってたんだけど、中学で離れっちまってね。まぁ、それはオレがこの学校を受験することにしたから至極当然なワケなんだが……。かといって、それでオレたちの関係が変わるのかといえばそういうわけでもない。
なんせオレの通う此処と、イヌピーが通うことになった学校は偶然にも近かった。だから今までと同じ様に一緒に登下校だってできた。
イヌピーは基本物静かなヤツなんだけど、なんだかんだマイペースで着飾らないきらいがあってな。嫌なことは嫌だっていうし、機嫌が悪ければ八つ当たりにすぐ暴力に走って、まぁ、なんだ、とにかくその衝動性にさえ目を瞑っちまえば、イヌピーは言動も行動も自分の考えとか信念だとかに正直な男だった。
もうその頃にはイヌピーは学校に飽きたのか、周りの環境が気に入らなかったのかは知ンねェけど、入学して多分、二週間足らずか?早々に学校をサボるようになった。そんで、これがうちの学校の近くを屯し始めたんだな。
表門らへんを屯してたんだったら、利用者も多いだろうから、今頃はセンコーにチクられて何かしら措置がなされてたっておかしくはないんだけどよ、イヌピーもなんだかんだそこら辺には気を配ってたらしくて、そこでイヌピーが溜まり場に目を付けたのが、裏門のある高等部の校舎裏だ。
去年、あの校舎裏は一夜にして一帯が焼け野原になっちまってね。
今は生え揃って綺麗な芝地になってるんだが、当時はそれはそれは手入れもされてない、ぼうぼうに雑草の生い茂る無法地帯だったわけだ。中庭みたいに規則正しくレンガが敷き詰められた広場があるわけでもなければ、花壇の一つもない、事務員の手によって鍵の施錠開錠だけがされる、如何にも脆くて錆びた門があるだけの場所。
その代わり何本か立派な桜の樹が生えてて、あそこだけ見れば、まぁまぁの絶景だったな。
話を戻す。
その日もオレはイヌピーとこの校舎裏で待ち合わせをしていつも通りに下校するつもりだった。
あの日はいつもだったら早く校舎裏に来ている筈のイヌピーが珍しくいなくて、こっそり持ち込んでいた碌に使わない携帯からメールを送ってみりゃ、どうも熱血漢なタイプの担任にイヌピーは当たっちまったらしい。
端的なのに読みづらくて要領の掴めないイヌピーからの返信の文面を見るに、担任は授業態度の悪かったイヌピーのことを改心させようと躍起になったんだろうな。
放課後に面談を無理矢理こじ付けてきた担任を振り撒けなくて、とうとう捕まったようなことを書いた文面だった。先に帰ってくれて構わない、って言葉で締め括られたメールを見たときオレは驚いたね。イヌピーってこんなこと言えたんだ…、ってさ。
そうは言われたけど、オレはイヌピーと帰りたかったから、イヌピーのことを待つことにした。
イヌピーとオレはいつも一緒だったから、今更一人で帰るのは何となく、違和感があった。
…本当はな、この学校を受験したのだって、そもそもがイヌピーとオレの学区がギリギリすれ違ってて、このまま指定校になんて通おうもんなら、もっとお互い離れた学校になる可能性があったからなんだ。もし今後、イヌピーに会う機会があったらこれはオフレコ、オレたちだけの内緒にしておいてくれよ?
兎も角、イヌピーを待つことにしたオレはイヌピーが来るまでの間、桜の樹に腰を下ろして其処で図書室で借りた本を読んだり、デカい岩なんかもあったから、其処で居眠りなんかして好きにさせてもらってたよ。
それからイヌピーが担任に捕まった度、その校舎裏利用させてもらってたんだがな。違和感を感じ始めたのはすぐだ。
本を読んでいてな、ふと本から目線を上げると地面にミミズが這っている。別に目に入っただけでミミズの一匹や二匹、特に珍しいものでもねぇんだけど…。
目を離してほんの暫く、また地面を見てみたら、ミミズは地面から姿を消して何処にもいなくなっていた。ミミズにしては移動速度の速いやつだなってそん時は思ったけど、今思えば、きっかけはきっと彼処からだった。
また、別の日にその桜の樹の下で時間を潰していたとき…そうだな、確か、あのとき見かけたのはカタツムリだった。
まだ梅雨の時期にしては早いっていうのに、いつかのミミズのようにカタツムリがズリズリと粘液を残しながら、其処らに転がってた少し大きい位の石の上を這っている。ちょっと見た目にそぐわない大きな殻を背負っていたのが印象的なカタツムリだった。
珍しいと思ってしばらく眺めたあと、オレはいつものように桜の樹に腰掛けて読書に明け暮れたよ。ただ、その時は遅れるっていってた割にイヌピーが来たのが意外に早くて、結局、読書ができたのはものの十分程度だったかねェ…。
イヌピーに急かされて読んでいた本をカバンに入れて立ち上がったときにな、ふと、カタツムリのことを思い出した。そう言えばあのカタツムリはどうなったのかってな。ちょろっと目線を外してカタツムリのいた石を見れば、粘液の痕が変に途切れてカタツムリだけが消えていた。石の丁度真上で途切れた粘液を見るからに、オレは最初、鳥にでも食われたかと思ってたんだが、その割にカラスを見かけたわけでもない。そのことを少し不思議に思いつつも、オレはそのことを咎めずにその場を離れた。
明確に何かが可笑しいと思い始めたのはまたそれから暫くしてのことだった。
巨大な岩に腰掛けて寝ていたとき、雀がテンテン、茂みの中で跳ね回ってこっちに顔を出したことがあった。その雀な、軽々、丸々太った身体とふかふかの羽を器用にうごしてひょこひょこ動き回っていると思ったらさ、何が起きたと思う?
オレが瞬きをした瞬間、ギェ、って音がして、そこに血痕だけが残ってンの。
濁った断末魔みたいな鳴き声を聞いて、オレが驚いて目を開けた時には、もう、その状態。驚いている間にも、少しできただけの血溜まりが、地面の土に吸われて消えていってさァ。
何よりもおかしかったのは、その時の自分だよ。
こうも、立て続けに生き物が消えていく様に出くわして、遂に雀があからさまで不審すぎる普通は気味が悪く思うところをまるで、それが当然のことで当たり前のことであるように思ってんの。
寝るときに見る夢でさ、体験したことねェ?
夢ン中で何かおかしい習慣とか出来事があって、自分はそれに最初は面食らうんだけど、何故か次の瞬間には順応してそれが当然であるように受け入れてンの。あれに近い感じだ。
さっきまで跳ね回っていた雀が、突然、断末魔あげて消えたことに驚いたってのに、次の瞬間には、当然のことだと思うようになにも感じずそれを受け入れてる。
異常を、異常だと気付けない。
これがどれ程恐ろしいことかわかるか?
…何?汗が凄いですよ?…へェ、花垣、お前、ハンカチなんか貸してくれんのか。普段持ち歩かなさそうな見た目してるのに。
…あ"? あぁ、うん、そう…、マイキー用。はは、うん、なんかこう、うん、うん…。気が抜けるよなぁ……。肩透かし喰らった気分というか…。…いや、いい。マイキー用だっていうならお前が持っときな。オレに貸す必要はないぜ。
…こほん。
そんなことがあったにも関わらず、可笑しくなっていたオレは、イヌピーに校舎裏での出来事を隠したまま、通うことをやめなかった。
不可解は勿論続いていた。雀を皮切りに、ハクセキレイ、シジュウカラ、姿を見せたと思えば、血溜まりを残して消えていくのは主に鳥類が多かった。
完全に桜が青葉に生え変わる夏、茹だるように気温が暑くなった頃のことだ。
そのころには教師側が折れたのか、イヌピーは以前ほど担任に呼び出されることはなくなって、春ほどあんまり校舎裏で時間を潰すことは無くなった。でも、かといってな、完全にイヌピーが捕まらなくなったわけでもないんだ。だって相手は熱血漢だし。
久しぶりにイヌピーから呼び出しを喰らった趣旨のメールを貰ったオレは、また校舎裏で時間を潰すことにした。
青々と茂った青葉に木漏れ日の差した桜の樹は、春ほどの華やかさはなかったが綺麗なもんで、暑い夏の視覚の中でも一等涼しげに見える。木漏れ日の下に入ってからいつものように適当な桜の樹に腰を下ろそうとして、オレの目にあるものが入る。それは校舎裏でも裏門から遠く離れた桜の樹で、その桜の樹の幹には樹洞ができていた。
樹洞ってのは樹の幹だったり枝にできる空洞のことで、主に樹が腐ったり、鳥によって巣穴が形成されることでできることが多いとされている。こぶし大のものから、子供一人が入れるようなものまでその大きさ、形状は多岐に渡る。
もし見かけることがあって、大きめの穴が空いているようなら、その木には近づかないほうがいいぜ。空洞が空いている分、その支柱は不安定だからな、その樹はいつ倒壊してもおかしくないことになる。
オレの見つけた縦長に歪んで空いた樹洞は丁度、立って胸ら辺の位置にあってそこまで大きなものではなかった。現に、腕が二本入るか入らないか程度の狭くて暗い樹洞の中を覗くと、そこにはうっすらと何個か楕円形の丸い物体が転がっているのが見える。どうも、この樹洞はさっき例に挙げた二つの内、後者によってつくられたものだったらしい。樹洞なんて始めて見たし、樹洞をつくって繁殖する鳥もいると話には聞いていたが、実際に見たことがなかったから、その巣と、その中にある卵はオレからしてだいぶ魅力的なように思えた。
好奇心に擽られて、なんの鳥がつくった巣なのかを知るべく、木漏れ日の中に入ってオレは卵に手を伸ばしたよ。卵を見て、なんの鳥がこの巣をつくったのか調べられないかと思ったんだな。腕一本分も入らないような小さい穴に果たしてオレの腕を入れられるかは不安だったが、そこは問題なく、あっけないくらいにオレの腕はするりと入った。
樹特有の硬くてゴツゴツした感覚に眉を顰めながら、入れた右手で空洞内を探れば、ざらりとした卵特有の感触を見つけるのには時間は掛からない。お目当ての卵を一つ掴んで、腕を穴から引き出そうとして、卵を持った右手が樹洞からもう少しというところだ。
オレは突如として、オレの右手の甲を襲った鋭い痛みに驚いて思わず、その弾みに持っていた卵を落とした。
樹の幹を這う蟻が、恐らくはオレの手の甲を噛んだのかもしれない。痛みに眉を顰めて、手の甲を確認してみれば、幸い甲に見て目立つような傷はなかった。ただその代わりと言ってはなんだが、取りこぼした卵はもう、手遅れだった。
硬質な殻は当たりどころが悪かったのか、オレが観察しようと取り出した卵は無惨にも足元に砕け散っている。そんなことを、するつもりじゃなかったんだけどな。でも覆水盆に返らずって言うだろ?割れちまった卵も、何をどうしたところで元には戻れない。
そう考えるとオレの頭は急に、卵を割ってしまったことへの罪悪感にいっぱいになった。
割れた卵からはうまく染みなかった灰色の液体がねっとりと地面に残っていて、その中心には雛になりぞこなったまるでエイリアンみたいな生き物が横たわっている。赤みがかってシワの寄った皮膚はふやけて、濡れたほんの微かな白い羽根は糸が波打ったように、グズグズに溶けた脚のなりぞこないから、手羽のなりぞこないまで、その全身にピッタリと張り付いていた。一生、これから開くことのない閉じたままの瞼がオレを責め立てて見つめているに違いなかった。
オレが雛に夢中になっている間に、さっきまで日が差して疎に明るかった木漏れ日が、塗りつぶされたように大きい影へと姿を変えていく。
これは例えなんかじゃないぜ?日が暮れる速度の比でなく、まるで突然、頭上に日を遮る巨大な何かしらでも現れない限り、できるようなものではない影がオレに差した。
できかけの雛に目を奪われて下を向くオレの頭に何か、生暖かいものが垂れてくる。生暖かい酸の匂いが鼻をツンと刺して、視界が暗くなった途端、オレは横から何者かに衝撃を受けて、大きく横に転げ込んだ。
「ッ、何してンだココッ!」
オレにタックルをかましてきたのはイヌピーだった。
腰にしがみついて一緒に地面に伏せったイヌピーが怒号をあげながら即座に起き上がって、動けないオレを羽交い締めに桜の樹から裏門の方向へ引き摺り離す。土に塗れて汚れていく制服だとか、引き摺られて、砂利の混じる地面との摩擦に痛む体とか、そんなものはどうでもよかった。その時にやっとオレは目が覚めて、今更になって体の震えが止まらなくなっていた。
…オレは今まで何をしていた?イヌピーに引き摺られながらオレはそのとき奴の正体を見たよ。
そこにいたのは規格外の大きさをした蟲の幼虫だ。
それはカブトムシの幼体によく似た風貌をしていて、ぶくぶくに太った白い巨大な体躯を、オレの立っていた後ろの地面から大きく顔を覗かせていた。あの胴体に、ポッカリと開いた大きな口だけで構成された単純な体だけを見るのであれば、あんまり嫌悪感を誘うような姿ではなかっただろうが…。それでも得体の知れない巨躯の大きさと、幼体独特の脚のない芋虫の姿は口の形状も相まって、大いに畏怖の念を抱かせるには十分な衝撃があった。なんせ底のない大きな黒い穴の内側を縁取るギザギザとした歯は重なっていてまるでサメの歯を連想させたし、開けられた口なんかはオレの体なんかよりもよっぽどデカくて、多分、熊だって飲み込めたに違いない。
大きな口から粘ついた液体が地面に滴って水溜りなんか作ってさ、もう呑み込まれる寸前だったっていうのに、ぼうっとしてオレは其処に突っ立ってたんだな。
あの痛々しい歯に、これから肉を撫ぜられて、次の瞬間には皮から肉へ、肉から骨へ、へし折られて食いちぎられるかも知れなかった。むしろ、恐らくは捕食されてそのままお陀仏になるかも知れないところだった。
目なんてどこにもないっていうのに、そいつはゆったりと、逃げるオレ達の方を向く。それから、どことなく残念そうな素振りをしたかと思うと、土の中に帰っていったよ。
茫然自失で逃げ帰ったイヌピーの家でオレはその後、イヌピーに今までの事を洗いざらい吐かされた。
無表情が多いにも関わらず、綺麗に整ってるもんだから周りに温厚とも称されるあのイヌピーの御尊顔が、もう怖い事怖い事。眉間に皺がよって、いつもは垂れ気味な凛々しい太眉だって吊り上がるもんだから、もう、チビるかと思ったね。
二時間にも渡る長いお説教を聞かされて、二時間経った頃にオレはようやく解放された。そのままイヌピーん家で夕食を食べさせて貰うどころか、お泊りまでさせて貰うことになって、イヌピーはオレがお風呂を借りようとすると一緒に入るとばかりについてくる。
どうしてそこまで引っ付いてくるんだって助けてもらった手前、気まずいと思いつつオレは伝えたよ。そしたらイヌピーは本当に心配したんだってしょぼくれてた。そんで、オレに言うんだわ。
「だって、あの時は本当にココが危ないと思ったんだ。蟲もそうだけど、こう…あの校舎裏自体? あれが、意思を持ってココを襲っているみたいに、オレにはそう見えた。」
わるい、意味わかんねェな、オレ、何言ってるんだろう、そう言ってコテン、ってイヌピーが首を傾げた。オレもそれに倣って、首を傾げることにした。
次の日、学校に来ると掲示板に、一枚の紙が掲示されていた。それは高等部校舎裏を立ち入り禁止にする旨の掲示物で、早朝の内に貼られたのか発行日には今日その日の日付が書かれている。立ち入り禁止の理由に、昨日の深夜に高等部校舎裏で火災があった為とか、放火の可能性も鑑みて集団で下校することとか、ごくありふれた内容が書かれた紙をオレが驚いて注視する中、他の生徒はそんな場所あったんだ、とか、校舎に燃え移んなくてよかった〜とかそんなことを呑気に呟いていた。
勿論、場所は変えて今でもイヌピーとはこの学校で待ち合わせしてるぜ。今度は昇降口近くの購買。どうも、あそこだったら他校の生徒でも多少のお目溢しが貰えるみたいでな。だから、もしかしたら花垣もいつか、あそこでイヌピーに会えるかも。イヌピーも花垣に会いたがってるみたいだから、会ってやってくれよ。淡い金髪のセンター分けに、他校の制服だからわかりやすいと思う。
………他に特徴はないのか?んーーー…、馬鹿にみたいに肌が真っ白くて、整った顔してんのと、手に火傷痕があるくらい?
まぁ、兎に角これでオレの話は終わりだよ。
でももしイヌピーの言葉を信じるんなら………、あの怪物の本体は校舎裏で、あの校舎裏はもしかしたら、生きていたのかも知れないな。過去にあった火災とやらで被害に遭いながらもまだご存命なのか、はたまた唯の庭と化してているのか、何処までが嘘で本当だったのかさえ、寄り付かなくなったオレからしてみれば知ったこっちゃねーんだけども。
五、 灰谷蘭 『それってホントにおまじない?』
あ、これってもう、話し始めていい感じ?喋ってもいいの?
いえ〜い♡ 俺、灰谷蘭♡ 所属は高等部の二年でクラスはB。もうわかってるとは思うけど、そこにいる竜胆とは兄弟で俺がお兄ちゃんだからさァ、そこンとこ今日はよろしくな?ひよこちゃん?
や〜、も〜、マジホント、待ちくたびれたワ〜♡
この俺をこんなに待たせて退屈させるとかさァ、これが大将の頼みで、オマエが大将のオキニじゃなかったら今頃、俺はそのまァるくて柔こそうなほっぺに一発………、この警棒を入れてるトコよ♡?
…なァに、その仕草。ほっぺ抑えて可愛いね。もしかして…想像しちゃった?
ンふふ、じゃあもう、今日は尚更、大将に足なんか向けて寝れないね?命拾いしたなァ、オマエ。マ、そういうことで、今日のところは諦めてやるからさ、大将には心から感謝しろよな〜?
ちなみに俺のオススメとしてはお礼にこのまま大将ン家にお泊まりして大将と一緒の布団で寝ること♡
わかってるとは思うけど、間違ってもあのマイキーと一緒の布団で寝るンじゃねェぞ。例えマイキーがオマエと大将の寝る布団の中に夜這いしたとしてもだ。絶対に突き返せ。わかったな?
ンー…、まったく、どっかでみたことある顔だと思ったらねェ…。どおりで………。まさかの兄弟でとかさァ…、そんなん、ウンウン、いいね……いいよ…。そんなン燃えるに決まってんじゃンね…。覇権とれるワ、覇権。何のとは言わンけど。
…あァ、それと、なァに竜胆。
さっきっから黙ってテメェの話聞いていりゃアさァ、そんなオモロいことがあったンなら、遠慮なくこの美しいお兄サマの顔に一発お見舞いでもして"兄ちゃん、怖くて寝れないよ、ベッドなんかと寝ないでオレと寝てよ“って、媚びた猫撫で声出しながら擦り寄ってくりゃアよかったンだ。俺のベッドに嫉妬しただなんてオマエ、本当に可愛いねェ。可愛い可愛い俺の竜胆、可愛い奴なんていくらでもいるけど、この世の何よりも、誰よりもオマエが世界で一等、一番可愛いよ。オマエの前じゃどんな弟の肩書きを持った有象無象だって塵と化しちゃうンだから、こんな可愛い弟を持って幸せモンだね、全くさ。
家に帰ったらこのお兄サマが沢山ハグして、キスして、今日の一晩だけオマエの毛布になってやろうね。愛の鞭を振るう奔放なオマエの女王様は明日に持ち越してサァ、そうしたら朝はテメェの頭をカチ割って頭にアツアツのホットコーヒーをかけながら起こしてやるンだ。何、俺だって偶にはオマエよりも朝早くに起きれるよ。なんせ、お兄ちゃんなんだから♡
さて、えーと、怖い話、だったっけェ?
そうだなァ。うーん…。唐突な話題にはなるけどさ、ひよこちゃん、オマエ、今までの中で女の子から告白を受けたことって………あったりする?
…あっ、コラッ、大将はオレのこと睨まないの。気になるコーハイちゃんの恋愛事情、大将だって気になるモンじゃないの?
………ふんふん、そっかァ、まァ、予想どおりだよねェ。うんうん、知ってた。だってオマエ、見るからにチンチクリンだし。そりゃア、女の子から告白されたことなんてないカモな〜って感じ?
もしオマエが今後、告白される機会があるんならさ、オマエ、その子のこと大事にして、一生離したりなんかしちゃあダメだぜ?オマエみたいなチンチクリン、好いてくれる物好きなんかきっと少数派だろうし。今後女子が殺到する気配も多分ないと思うから、大人になってモテ期が来ても乗っちゃダァメ。詐欺か美人局にでも引っかかってご破産したいなら別に止めやしないけどさ。
…ふふ、どうして俺がそんな話をしたのかって気になってる顔だ。焦らしてごめんね?大丈夫、俺はちゃ〜んとお話するつもり。
俺ってばオマエと違って、ご覧の通り楊貴妃には劣るンだけど、スキンケアも欠かさないおかげでそりャあ、ラプンツェルだとか眠り姫だとか童話のヒロイン達も真っ青になるくらいの美貌を持った見目麗しい男なワケよ。だからまァまァ、それなりに老若男女にもモテるんだワな。
そうなるとねェ、俺の場合は結構奥手な子猫ちゃんが多いのかなァ、下駄箱に沢山のラブレターを貰うことがそれがもう多くって多くって。
あ、沢山って言ってもまるで少女漫画みたいに下駄箱にぎっしり詰まってるンじゃなくて、週に二、三通貰うくらいな。そんなに貰ってたら、いくらマンモス校でも女子の在籍数追いつかねェし。
最初は煩わし〜〜って感じだったんだけど、ラブレターって結構貰ってみると嬉しいもんよ?
だって、ガッコーとか怠いで〜すって、普段イヤイヤ席につきながらケータイをカコカコ弄ってるってるような子たちがさぁ、好きな男の為に自室の勉強机なんかに向かって、丸っこい字で辿々しく愛の言葉を綴ってるの想像してみなって。想像なんかしたら初々しくて、そんなンもう、胸がキュンキュンしちゃう。
…ン?
“ってことは、女の子からの告白に応じることもあったンですか“?
…ンふふ、ひよこちゃん…じゃなくて、花垣、だったっけェ♡?オマエって本当、おバカで一途でカワイイね♡多分俺が見てきた中で下から四番目くらいの可愛さっていうの?それくらいにはカワイイかも。ダイオウグソクムシの次にカワイイよ♡
あのね、これは当然のことなんだけどさァ、俺が告白に応じるワケないジャン?
だってこの俺、灰谷蘭はカリスマもカリスマなんだぜ?カリスマってのはさ、誰の手も取らなければ誰のものにもならない、何者にも支配されない高嶺の花でなきゃならないの。俺は俺の後ろに追い縋る奴らにとって憧れの偶像でなきゃならないのさ。
なんでかわかる?
万が一にも、誰かの手を取ったり、誰かのモンになってみろ。そうしたらカリスマの灰谷蘭は唯の灰谷蘭に成り下がっちまう。皆の憧れの灰谷蘭じゃない、誰かの所有物の灰谷蘭に落魄れンだワ!アイドルだとか、神だとかと一緒!
恋だの愛だの、そんなものに足元掬われたらさ、敵わねェのよ!
…これは竜胆もなんだけど、俺ってば、人に崇拝されて慕われる当然の資質を持った生まれながらのカリスマだからさ、俺がそこにいるだけで、それはもう人に崇拝されて慕われて憧れの目を向けられるのが普通なの。
向けられるなら、俺はそれに応えてやらないと。
だから俺は竜胆と違って誰の手も取らなければ、誰のものにもならない。それがカリスマそのものとして生まれた俺の、有象無象にできる誠意ってやつなンだからな。だから俺はラブレターと俺への思いを称賛こそすれ、その思いには応えられないってワケ。
…ただね〜、それでも中には、あんまり好意的に思えないラブレターっていうのが存在するンだワ。
確か時期的にはバレンタインデーが近かったから…冬あたり?
一見するとさ、それはわかりやすいくらいにベタでありきたりな、使い古しのラブレターだったんだよね。無地のシンプルな封筒をハートのシールで封なんかして、罫線だけが引かれたシンプルな便箋が中に入ってるクッソ真面目なラブレター。
怠い学校もやっと終わった放課後にさァ、自分の下駄箱に俺はそのラブレターが入れられているのを見つけたんだけど、便箋に書かれている内容っつーか…文章の書き方?それがどっからどう見ても、頭がおかしいのなんの。
普通、横書きの文章って左から右に読むワケだからそれに倣って左から右に文字を走らせるのが当たり前だろ?それがそのラブレター、文字を右から左に走らせてンだね。
だから一発目に目に入ってくる文字が、『へ様蘭谷灰』だったことに当然俺は驚いたし訝しんだ。
そもそも、便箋に書き綴られている文章自体が右詰になってたから気付くのは簡単だったけど、それでもハ?ってなるっしょお?大正時代でもあるまいしさ。
別に内容は普通なンだよ。読み辛い文章に滑りそうになる目さえ瞑れば、他のラブレターとおンなじように、どうして俺のことが好きになったのか、俺のどこが好きなのか、その二つを踏まえてどうか自分と付き合ってくれないか、そんなことが書いてある。他にも一つだけおかしいところはあった。そのラブレターは差出人も、返事をするときの場所と日時さえ書いてなかった。
此処にいる奴等ってラブレターとかはあんま縁が無いと思うから教えるんだけどさ、基本、ラブレターの返事っていうのは対面でするンだよね。だから、ラブレターの締めくくりには、必ず返事を求める時の場所と日時が書いてあるもンなんだけど、そのラブレターにはそれがない。こうなると返事ができなくて困る。なんせ送り主の名前がないから、こっちから返事の手紙を書くことさえできやしねぇ。俺としちゃあ返事の手紙を書く気もないからここは一つ、無難に教室に凸したいところだったンだけどね。あ〜ア、蘭ちゃんは悲しいよ。だから俺はこの手紙を泣く泣く無視することにした。
だってどうしようもできなくね?こンなん。ここにいる奴だって寄越されたら俺とおンなじ対応すんだろ。人に聞かせるだけ聞かせておいて答えを求めないとか懺悔室と一緒じゃんね。独りよがりのオナニーとか、ホンット最悪。
すると暫くしてまたおんなじ内容で、おんなじ書き方のまるで複製でもされたようなラブレターが下駄箱に入れられてきた。そんでまた、俺はどうしようもないからそれを無視する。
バレンタインデーが終わってホワイトデーを迎えても、やり取りに発展しない不毛で一方的な無限ループは続いたかなァ。
俺は優しい優しい灰谷蘭様だから、珍しく三週間までは中身を律儀に確認してたンだけどね。流石の蘭様もそろそろ、同じ内容の手紙が毎回投函されている状況には本格的に気持ち悪さを覚えたワケよ。
それからはラブレターの中身にさえ目を通さなくなった。またかって思いながら、手紙をビリビリに破いて廊下のゴミ箱に捨ててさァ。
驚いたことにそれまでの間、俺の下駄箱に投函されていたのはその気味の悪いラブレターだけで、他の女の子からのラブレターが入っていることはなかった。もしかしたらあのラブレターの差出人が抜いて、処分してたのかもしれない。
さて、物事に始まりがあるように物事には終わりがあるのは当然だよな。
気味の悪いラブレターは春休みを迎えて進級すると突然パタリと止んだ。すると、またいつものように他の女の子からのラブレターが俺の下駄箱に投函されるようになる。
つまりあの気味の悪いラブレターを解決したのは永い永い時間だったワケだ。俺は一安心したよ。なんせ相手が諦めてくれたんだから。
俺はこうしてあのラブレターから解放された。
結局、あのラブレターの差出人が俺とどうなりたかったのか、ワケわかんねェオナニーに付き合わされた身としちゃ気にならないでもないケドさ、でも、そンなん差し出してきた人間しか知らねェだろ?俺も別に知りたいとは思わンかったし、この件は無かったことにしてとっとと忘れることにした。つか忘れた。
…そう言って、終わりたいところなんだけどね〜〜〜。
まだまだこの話ってもうちょい続くんだなァ〜〜〜、これが!ウン、話してる俺が一番だりぃのよ。マジ、ほんとうにダルすぎ。
春になると生徒指導のセンコーがマァ、張り切ること張り切ること。必死に服装検査だの、持ち物検査だの挙げ句の果てに休み時間も目ェ光らせてさ、餌を見つけたら嬉々として、生活指導だとか言ってセンコーのいう素行不良の生徒ってヤツを放課後に生徒指導室に連行するワケ。
お陰様で俺ももれなく目をつけられちゃって、学期早々、連行されたンたんだよね。
此処でバックれたら余計目ェつけられるから大人しく着いて行ったけど、あのセンコーの話す有り難いお説教とやらも余りに中身の無いスッカラカンだったから、俺、思わず脳みそ入ってるか確認がてら殴っちゃった。
音、結構重かったから、間違いなく脳みそは入ってたと思うケド、それにしても入ってた結果がアレだったかって思うと嘆かわしいモンがあるよね。
あー…話ズレたわ。そうそう、そンで眠ってくれたセンコーのご厚意に甘えて俺は荷物を取りに教室に戻ったんだけど、そしたら放課後に教室に残ってたクラスの女子が何やらコソコソとかわいい密談してるジャン?
内容的にざっくり纏めるとこんな感じ。
『ラブレターのおまじないがあって、それは好きな人の下駄箱に文章を右から左に書き綴ったラブレターを投函してから、自室で髪の毛を一本燃やすというもの。すると神様がその髪の毛と引き換えに好きな人から好意を向けて貰えるよう助力してくれるらしいが、絶対に相手に差出人がわかるようなことは書いてはならない。これは書いてしまうと何が起こるかわからないからである。』
え、どうしよ、ウケる。めっちゃ身に覚えがある。
その内容はラブレターっていう一点において完全に一致していたからさ、俺は聞き耳を立ててた廊下で内心めっちゃ盛り上がったね。
そしてそれと同時に一個、引っかかることもあった。
花垣、オマエ、おまじないっていったら普通何を思い浮かべる?
…そうそう、両思いになるために消しゴムの裏に好きな人の名前を書いたり、相合傘の絵に自分の名前と相手の名前を書くアレだな。雨の日に吊るすてるてる坊主とか手のひらに『人』の字を書いて飲み込むやつもそう。
オマエ、ちょっとその紙とペン、貸してくれる?
…そもそも、おまじないって文字は漢字で書くとこの通り、『御呪い』って書くワケだ。そんでもって更に言えばこの世の中、この事実だけがわんさか蔓延って有名になってるンだけど、そうすると今度はおまじないは呪いの一種なんだとか、呪いがおまじないの一種なんだとか、そーゆー間違った認識が独り歩きをし始めたンだな。
つまり何が言いたいのかっていうと、文字だけでこの二つを同列に見るのは勿論頭がおかしいとして、かといって本質的に見てみると、確かにこのおまじないと呪いっていうは結構似て非なるところがある。だからそんな風に間違った認識をするやつが一定層いるのもマァマァ仕方のないことなンだワ。
大まかに括れば、どの神様にお願いして、誰を相手に、お願いの結果を吉凶どちらに向かわせるのか、それが俺の思うおまじないと呪いの違いってやつ?
少なくとも俺から言わせてみれば、真っ当な神様に神頼みなんかして自分の物事を良い方向に導いてもらうのがおまじない。反対に、碌でもない神様に神頼みをして相手の物事を悪い方向にしてもらうのが呪いってところかなァ。
ホラね、こうしてみると結構違うけど、ちょっとは似たとこあるでしょ?
他にも決定的な違いっていうのはある、それはズバリ、自分でも相手でも何かしらの対価であれ依代を要求してくるか、してこないかだ。
花垣、オマエ、知ってるおまじないの内容を改めて振り返ってみな?そこに対価はあるか?
…無いよなァ?
じゃあ反対に呪いについて考えてみようか。
藁人形、コトリバコ、思いつくものなんでもいい、呪いはその対象であれ使用者であれ…対価か或いは依代を求めるモンじゃなかったか?
此処で俺の聞いた噂を振り返ってみようか。
『ラブレターのおまじないがあって、それは好きな人の下駄箱に文章を右から左に書き綴ったラブレターを投函してから、自室で髪の毛を一本燃やすというもの。すると神様がその髪の毛と引き換えに好きな人から好意を向けて貰えるよう助力してくれるらしいが、絶対に相手に差出人がわかるようなことは書いてはならない。これは書いてしまうと何が起こるかわからないからである。』
これってさァ、確かに一見するとなんの変哲もないおまじないの文言なんだけど、実際はこうなんじゃねェの?
『ラブレターの呪いがあって、それは好きな人の下駄箱に文章を右から左に書き綴ったラブレターを投函してから、自室で髪の毛を一本燃やすというもの。すると神様がその髪の毛と引き換えに自分以外に好きな人に好意を寄せる相手を全て呪い、妨害してくれるらしいが、絶対に相手に差出人がわかるようなことは書いてはならない。これは書いてしまうと呪いが自分に返ってくるからである。』
俺はてっきり、あの気味の悪いラブレターが入ってた時に他のラブレターが見当たらなかったことを、気味の悪いラブレターの差出人がこっそりラブレターを抜いていたからだと思い込んでいた。
でも本当は、このおまじないとやらで、ラブレターを投函しようとしていたあの差出人以外の女は妨害されていた、そうとも考えられるよな?
もちろん、季節柄、あの時期はインフルも流行してたし偶然の可能性もある。
あくまでこれは俺の推測でしかない。
でも、こうしておまじないとして噂に広まっている以上、あのラブレターの差出人もおまじないとして認識して、おまじないだと思ってこれを実行してたんじゃねェのかな。
必死におまじないをして俺の好意を此方に向けさせようとする。でも一向に灰谷蘭という男が好意を見せる気配がない。根気よくおまじないを続けてみるも効果を実感できず、ついに我慢を切らした差出人がとある行動に出る。
それは手紙の内容に遂に"差出人のわかる情報を書いてしまったこと、いわば灰谷蘭という男に認識してもらうべく、自分の名前を書いてしまったということ"。
そうして手紙は遂に途切れる。
おまじないだと思っていたそれは実のところ呪いで、自分に返ってきてしまった。
実際にさ、春、新学期が始まって早々、春休み中に骨折したかなんかで入院して、学校に来れてない女生徒が一人いるらしいんだわ。
オマエがそういうスピリチュアルに傾倒するような奴には見えないけどさ、もし、おまじないをするんだったら内容を吟味することをお勧めするね。
だってそれは実のところ呪いなのかもしんねェんだから。
俺の話は、これでやっと終わり。
六、 黒川イザナ 『分水嶺はすぐそこ』
…黒川イザナ。高等部の二年。本当は同学年の望月莞爾って奴に語り手を依頼していたんだがな、ちょっと気になることができて、俺があいつの代わりに出張ってきた。…マァ、丁度いいだろ。アイツ、今日は物理で赤点取ったから追試なんだとよ。あの見た目で理系なのメチャクチャ面白ェよな。体育教師にでもなんのかって体格してるくせに理系に進路決めてサァ。理系って将来何になるワケ?やっぱ医者?医者の望月とか全然イメージできねェんだけど。ほら、アイツ医療器具全部ぶっ壊しそうじゃん?なんかドラマであったろ、“あ〜さ〜く〜らァ〜〜〜〜!““せんぱァ〜〜〜〜いッ!“ってヤツ。望月が医者すんならさァ、やっぱ、あんな感じになんじゃねェの?
ゴッツイ見た目したドジっ子新米医師の望月。涙ぐましいなァオイ、色んな意味で。繊細さが足りねェんだよ、繊細さが。…あァ、でもあのドラマって確か、ナースもンだったっけ?……イヒッ、ギャハ、ギャーーーーッハッハッハッ!!!ウケる、グッロ!ナース服の望月グロ過ぎる、ハハッ、想像させンな、アハ、マジで、マジで似合わン。ンブフッ、ンフフ、フッ、ふ、ハァ、ハァ……ッ。
…ンフ、ン、ング、フゥッ、フッ、!追い打ちかけてんじゃねェよ、蘭!俺は全然勃起してるけどね、じゃアねェんだワ!オマエがナース服の望月にチンコおっ勃てられたってなぁ、俺はナース服の望月にチンコなんかおっ勃てらんねェの!
ったく、獅音のバカだって赤点回避して此処に顔出してんのによォ、望月は全く、何やってんだか!
…仕切り直すぞ。この場に俺がお前らを集めておいてなんだが俺はオカルトだの心霊だの怪奇現象の類を全くもって信じちゃいねェ。てか怖い話をさせておいてなんだが、お前らだってこういう類の話をまるっきり信じているワケじゃアねェだろ。少なくとも、自分が体験したこと以外は話半分の口から出まかせ、少なくともそれぐらいのこたァ思ってる筈だ。むしろこの中で本気で怖がってンのなんて、武道ぐらいじゃねぇの?何回も俺にしがみついてさァ、うっとおしいたらありゃアしねぇ。ナァ、こんな何回もチマチマチマチマしがみつくぐれェならさ、これから先もずうっとしがみついてたっていいんだぜ?もっとも、他の奴にしがみついたら殺すがな。
じゃあ、なんで今一体こんなことをしているのか。答えは自ずとわかる。
結局のところ、怖い話をお披露目し合うなんてことの意味なんざ、あくまで娯楽でしかねェンだ。
考えてもみろ。一つは暇つぶしに、或いは怖いもの見たさ。怪談話の文化がこうして受け継がれているのがイイ証拠だ。夏になると毎年やってるバラエティのホラー企画だとか、ゴールデンタイムを占領するホラー番組だとか、ああいう類な。怖い映像を自称したなんの変哲もねェ編集動画だの、イカサマを呆れるほど使い回して流したり、態々胡散臭い経験談を演者だけ豪華にVTRに起こして公共電波に流してさぁ、極め付けは自称霊能者を引き連れた肝試しの数字稼ぎ、ホント、馬鹿じゃねぇの。
…大衆ってのはな、常に平和ボケしてるのさ。
なんせ、不可解な現象だとか、得体の知れないものだとかに脅かされるような生活を大半の人間が送ったことがない。
正確に言うのであれば、今までに人類が体験した不可解な事象や災害は、科学の発展によって理解のできる、至って論理的な現象に成り下がった。説明がつくようになった。
だからこそ大衆は求めるんだよ。今までにない、説明のできないような不可解な現象の一端を求めて、スリルに刺激、夢を見る。悪魔の照明に夢を見る。
もし、仮に娯楽以外の意図があるってんなら…教訓と信仰あたりだろうな。
聞いたことあるだろ、稲荷神社に容易に参拝をするな、稲荷神は苛烈であるからして欲深い願い事や不敬は勿論、生半可に信仰して他の神に鞍替えするようなもんなら不幸な目に会うぞってやつ。
わかりやすい思想統一だよなァ、こんなン。それと、あとは…置いてけ堀の昔話とか。
マ、この手の話ってのは、こうやって道楽と思想の道具になんかなってさ伝播して広がっていってるンだワ。
はてさて、そんな俺がこれから話すコワァい話だがな、この場にいる全員、この俺に、これがもう可愛いくって愛おしい、そんでもってだからこそ、可愛さ余って憎さも百倍の愚弟がいるのは知ってるだろ。
そうそう、佐野万次郎、又の名を無敵のマイキー。
腹が立つことに、俺のニィだけじゃア飽き足らずこの花垣武道を誑かして、武道にとっての運命は俺一人なのだとか周りにほざいて回る俺にとって邪魔なことこの上ない血の繋がりのねェ弟のこと!
…ア"?そんなことはない?距離感は確かにちょっとおかしいけど?
フフ、武道テメェ、愚弟のあれを本当の本当にダチにとる態度だとでも思ってンの?オメでてェなァ、素直っていうの?それとも世間知らず?
ざまぁみろよ、愚弟、お前の気持ちなんざ、なァんも伝わっちゃアいやしねェ。
ふふ、こんなふうにさァ、アイツはこのカワイイカワイイ武道を誑かしてるワケ。
わかるか?俺のオトウトがこのチンチクリンに誑かされてるんじゃねェ。このチンチクリンが、俺のオトウトに誑かされてんのさ。俺のオトウトったら、全く人たらしで参っちまうなァ!ハン、こンのクソッタレが!
あいつ、昔っから不思議ちゃんっつゥかさァ、ふとした瞬間に突拍子のないこと言い始めて、突拍子もない行動をとるそれはそれは困ったチャンなクソガキだったワケ。あまりに突然だから家族は勿論、あいつにつるんでる連中、それから幼馴染まで、皆してそれはもう振り回されっぱなし!
ここにいる面子はともかくとして、オマエなんかは思いあたる節なんざいくらでもあンだろ、なァ、武道。それこそ、さっき九井の話に出た火事の話とかな。
…いきなり走り出したかと思えば、二百メートル先にあるコンビニ裏で、エマに絡んでた輩を延してくる。いきなりシンイチローのことを突き飛ばしたかと思えば、さっき迄シンイチローのいた頭上から植木鉢が落下してくる。海に行く予定を当日になっていきなり、あの愚弟が山がいいって我儘に喚き散らしたこともあった。余りに煩いもんだから予定を変更して、そしたら、山行ったその帰りの車で、ラジオから、元々予定していた海で発生した海難事故により、何人かが沖に流されて行方不明、とか言うニュースが流れてくンじゃねェか。
皆して不思議がった。
なんでわかったのかって訊きゃアよ、彼奴、なんて言ったと思う。
「……………勘?」
いや馬鹿か?こんな巫山戯た話、あると思うか!?
でもなァ、本当に万次郎がいう勘とやらはよく当たったンだ。まるで千里眼、第六感の領域には収まらない、未来予知そのものと差し支えない程にはな。
今思えば俺と彼奴が初めて会った時もそうだ。俺とシンイチローが血の繋がりで喧嘩別れするかも知れなかったあの日、万次郎は俺のことも、俺とシンイチローが誰にも内緒でこっそり会っていたことさえ知らない筈だった。…シンイチローは、俺の事を話していなかったらしいからな。だから勿論、俺たちが会っていた場所も万次郎が知るわけがない。なのに彼奴、この武道を連れてきてあの日俺とシンイチローの喧嘩の仲裁になんか入ってきやがったんだぞ。
…今朝のことだ。いつも通り俺はこのだりぃガッコーに行く為の支度をして、エマの作る朝食を食べる為にキッチンに行こうと自分の部屋を出ようとした。そんで障子を開けたらあらまぁビックリ、そこにはタオルケット握って寝巻きのままの愚弟が佇んで俺の足元を睨みつけてンだな。
「何。邪魔。」
俺が不機嫌に跳ね除けようとしたところで、万次郎は微動だにしない。いつものことだな。
「…今日は来ないよ。」
「は?」
「今日の新聞部の取材。誰かまではわかんないけど、二人来ない」
「…なんでお前がそんなこと知ってる。」
「そんなことどうだっていいでしょ。人数は揃わない。だから今日はやめさせて」
いつになく真剣な声だった。よほどやめさせたかったのかもしれないな。
初めは何が何だかわかんなかったがすぐにわかった。
これは万次郎の不思議ちゃんだ。
「フン、随分必死じゃねェか。やめさせたいならあの馬鹿に直接言えばいいだろうに。」
「そうはしたくても俺は今日、これから日中は動けないンだよ。急いだからって放課後に間に合うかもわからないし。だからイザナに頼んでる。」
「俺に頼むっつったって……、場地と春千夜はどうした」
「二人は今日俺と一緒。だから残念だけど行けないんだよね」
「…そもそもなんでやめさせたいんだ。」
問い掛ければ愚弟は気に入りのほつれたタオルケットを指先で弄りながら暫く何事かを考えているようだった。
うろうろと視線を彷徨わせて、眉間に皺を寄せたかと思えば、いつもみたいに黒々とした目をまんまるに開く。まんまるに開いたと思えば目を細めてまた眉間に皺を寄せる。如何にも言葉に詰まってる、って具合だった。きゅっと口をひと結びにしたかと思えば開きかけて、その繰り返し。
今思えばあの愚弟はかなり珍しかった。だって考えてみろ、あの我田引水な愚弟が俺に向かって、言葉なんか選んでンだぜ!?
「…嫌な予感がする。だから、七人が揃わなきゃ駄目。」
俺はその一言でやっと愚弟の言いたいことがわかった。
随分と回りくどかったが、愚弟の言っていることは今日今行われているこの取材に対する警告に他ならなかった。万次郎は今日、この日の取材で人数が揃わないことを恐らくこの日の早朝にでも予期したんだろう。そして今この時に七人が揃わなければ碌な目に遭わないぞ、と、そう警告してきたのさ。
「…なら俺が必ず今日の放課後までにあと二人代打を用意すればいい話だろ。間に合わなければその時点で中止。これで文句はないな?マイキー?」
「…まぁ、うん。でも、必ずだから。約束してね、イザナ」
妥協案を提示してやった俺に、愚弟はそういうとキッチンに向かったのか、ようやっと俺の部屋の扉から離れて階段を降りていった。ご飯食べてる時の愚弟はいつも通りだったよ。さっきまでの激しい剣幕はどこへやら、エマに目玉焼きの注文なんかつけて怒鳴られながらさ、眠そうに飯を食って、タオルケットを引き摺りながらまた自室に戻っていった。
そんでもってガッコーに登校したらこの通り、なんと他に語り手を頼んでいた武藤と望月が来れないときたじゃねーか。何、いつも通りのことだ。万次郎の予言が当たった。たったそれだけのこと。今この場には望月の代理として俺はきているが、武藤の代理は来ていない。七人目に来るはずだった予定の武藤も夏風邪拗らせて今日は欠席ときたからな、だから代打を俺は頼んだ筈だった。それがどうだ、いつまでも来ないからとこうして先にお喋りなんかしてよ、今だに奴は来やしねェ。
お前らに朗報だよ。
これを見ろ、代理に呼んでいた七人目から今さっき丁度来たメールだ。“急な身内の不幸で今日の取材には出られなくなった。これから祖父母家に向かって帰省するから俺のことは抜きにして取材をしてほしい。“だとさ。
どうする。俺たち、このままだと愚弟が言っていたように言葉にできないような事態になっちまうカモ。
…はは、武道以外の全員、何言ってんだって顔してやがンな。まぁ、気持ちはわからなくもないが。
だってそうだろ?なんてったってこんな話はあまりにも荒唐無稽で、出鱈目にもほどがある。信じる方が無理だワな。俺だって始めはそうだった。信じられなかったし、信じなくもなかった。
…でもな、俺と武道は身近にそれを何度も体験して実感してンだよ。
片や血が繋がってないたァいえ、一つ屋根の下で一緒に暮らしている家族、身内の関係。片やちっせェ頃から万次郎に何をするにも、振り回されては連れ回された、いっそ可哀想なほどに迄健気でニブチンの幼馴染だ。
なァ、わかるだろ?こちとら、万次郎とはそんな短けェ付き合いなんかしてねェの。
だからこそ断言してやろう。万次郎の予言は百発百中だ。外れたことなんざ、今まで全くの一度もねェ。
…なァ、この後俺ら、一体どうなっちまうンだと思う?
折りたたみ携帯の青白い光を受け、爛々と光る薄藤を細めながらイザナが薄く笑む。それから折りたたみ携帯をパタンと閉じたかと思うと、冷や汗をかいて戸惑う武道の頭をひと撫でしてから胸に抱え込み、それはもう豪胆な勢いで机の上に足を組んだ。
この空気の中で喋り出せるものはおらず、また誰しもがそのイザナの様子に目を奪われていたが、それは正確には根っからの合理主義で現実主義のイザナがまるで絵空事の馬鹿げた話をこの面子の前で語ってみせ、いくら可愛い後輩といえど普段のイザナからは到底考えられないような行動をとったからに他ならないだろう。
現にイザナが語り手として話の冒頭に全員に指摘したことは何も間違っていないのだ。
ここにいるメンバーの大半は少年期を過ぎて現実を直視しているプラグマチズムの持ち主であって、それぞれがスピリチュアルに傾倒した心霊主義とは遠くかけ離れている。彼らにとって、イザナこそがその模範であり、だからこそ誰しもがイザナという存在を前に、此処で語られる怪談とやらを嘘半分に聞いていた筈だったのだ。
然し、乍らどうだろう。
イザナの行動と武道の尋常ではない様子は、イザナの語るそのあまりにもその馬鹿げた話と共に、この取材とやらの一連の茶番をひっくり返して恐怖という価値と信憑性を帯びさせたし、だからこそ、この張り詰めるような空間を演出だったものから現実のものへと変換させたのである。
態度にこそ表さず平然を取り繕ってはいるが、各々が内心に危惧を抱いて緊迫する教室内の静寂は何をきっかけに爆発してもおかしくはないのだ。
冷房が効いているものの、取材中の水分補給の為に用意した人数分のペットボトルは未だ、汗をかいて未開封のままテーブルの上に鎮座している。
教室の壁掛け時計が秒針を刻むたびに尚、張り詰めていく空気の中で痺れを切らす寸前だったのは一体誰だったか、短いようで長い幾許の時間が過ぎ、或いは一旦お茶でも飲んで落ち着こうかとペットボトルに手を伸ばしたのは誰だったのか。
_____バンッ!
はち切れんばかりに膨れ上がる風船が割れるような衝撃、かといってそれにしては重厚で低い大きな衝撃音が突然に教室内を劈く。
場にいる全員の視線が音の出所に釘付けになって教室の出入り口に注目すれば、そこには一人の男が立っていて、その男がきっと教室の出入り口のドアを蹴破ったことは想像に難くない。
汗が滲み、所々肌に張り付いたその箇所から生々しい肌色を淡く透かせる他校の着崩されたカッターシャツ、元々はスラリと袖と下ろしていたであろうスラックスを加工して仕立てられた、膨らみのある黒いボンタンズボン。特徴的なポンパドールの髪をふるりと垂れ下げ、端正な顔立ちを覗かせるその人は、つい今し方イザナが話に出した男の姿をしている。
「…マイキー?」
ぽつりと呟いたのは恐らく鶴蝶だ。
教室内の均衡を崩したその正体、マイキーこと、佐野万次郎は息を切らしながら教室内をぐるりと見回す。
「…あと一人は?六人しかいねぇみたいだけど。」
細められた黒曜石、それから冷たくて硬い声色。眉を吊り上げ、無理やりに口角をあげた挑発的な笑みの裏から覗く、研ぎ澄まされた切先の鋭さに誰もが息を飲む。無敵と謳われる男だけあって、今の彼の振る舞いは平静たるものだったが、それにも関わらず万次郎という男のその佇まいからは隠しきれない暴虐性が垣間見えているのだ。動けなくなるほどの重圧を傍らに携える彼は末恐ろしいと同時、魅力的な男でもあった。
それぞれがたじろぐ中でその威圧を真っ向に受けている筈のイザナはといえばその威圧を受けても臆する様子を見せず、むしろ、余裕そうな態度で万次郎のことを見据えている。そして飄々とした態度を崩すことのないイザナの腕の中ではどうしてか武道がその拘束から逃れようと暴れていたが、イザナがその抵抗を受け入れて離してくれるわけもないので、早々に諦めてまた大人しくイザナの腕の中に落ち着いたようだった。
「代理を用意したンだがな、身内の不幸で来れなくなったんだと。連絡も今さっきに来た。」
「…ふーーん?…あはは、イザナの嘘つき。シンイチローにイザナが約束守ってくれなかったこと、愚痴っちゃおっかな。」
「…シンイチローは関係ねェだろ」
「ヘェ、大好きなのに?」
「いい加減にしろ」
イザナと万次郎の応酬は止まることを知らなかった。
あまりに二人がこの空間の人間を置き去りにして会話を推し進めるものだから、また武道が今度は腕からの脱出を諦めた代わりに間に入ろうと必死になるのだが、喋ろうとする度に今度はイザナの角張った大きな掌に口を塞がれてしまうのだ。余裕綽々な様子を見せていた筈のイザナの応答が珍しく普段の兄弟喧嘩とは打って変わって刺々しいものであったのもあって、それに気付いた武道が沈静化を図ろうと試みた結果のなんと情けないことだろうか。
武道の仲裁は仲裁をする前から徒労に終わってしまったのである。鶴蝶も武道が苦しそうにしているので、なんとはなしにやんわりとイザナを抑えようとはしているのだが、まァ、それがうまくいく筈もなく。
「…それで?オマエはここになんの用があってきた?」
「そんなの、イザナがよくわかってるンじゃない?」
オレはさ、助けに来たんだよね。
ころり、険しい顔を、万華鏡を転がすように万次郎が微笑みに変える。
そしてまた、ころり、万華鏡を転がすようにして次の瞬間、その微笑みを絶やしたのも万次郎だった。
「百物語でさ、百話目を話し終えると、怖いことが起きるっていうのは超有名じゃん?」
「…ハ?」
「でもさ、一番の悪手は最後の百話目まで話をせずに百物語をおえることなンだよね。…イザナはこれ、知ってた?」
「……それが?」
奥にある一つの空いた椅子に座ることもなく、長机に手をついて、突然に語りかける視線は一体何処に向いているというのだろうか。瑞々しい万次郎の瞳が何処となく、虚に揺れ始める。
そして虚に揺れる焦点のブレた目は、普段快活で天真爛漫な万次郎の姿を一変に異質なものへと孵化させるには十分だった。
冷房の効いた部屋の室温が一つ二つと下がったような感触に、半袖から剥き出しになった肌が震えている。寒いくらいに体が震えているにも関わらず、冷たい汗がなだらかな背中を撫で舐るのをこの場にいる面々が知覚していた。
「百物語はね、百個じゃなくたっていいんだ。
なんせ、あらかじめ決めた人数で、あらかじめ決めた話数を話す、たったそれだけで成立するンだからな。…単純だろ?
でもさ、だからこそ、決めたからには必ず決めた人数で、決められた話数を話さなくちゃいけないンだよ、イザナ。
…なァ、お前、此処で、この前、百物語をすることを宣誓したよな?
なのに、どうして約束を破ったの?」
「…フン、愚弟にしてはまどろっこしい。要件だけでも先に簡潔にいったらどうだ?
知ってるだろ?生憎俺は気が短い方なンだ」
「じゃあこの際ハッキリ言ってあげようか、百物語ってさ、実は降霊術なんだよね」
万次郎は一方的にそれだけを言い放つと、蕾が花開くような軽やかさ、或いは一口、大きく口を開けただけで獲物を捉える捕食者の俊敏さで、イザナが力を緩めた隙を突く。万次郎は、イザナの腕からはずみ逃れた武道の掌を取って、教室を飛び出したのだ。
一拍遅れて飛び出したイザナが、鬼の形相で暫くリノリウムの床が続く長い廊下へと二人の跡を追ったがもう遅い。
「やられた」
足の遅い武道を引き摺っても尚逃げ出した万次郎の逃げ足は早かった。
そこに、いつもイザナが嫉妬する仲睦まじい二人の姿は見当たらない。二人分の足音が遥か向こうへ遠ざかっていく音だけが廊下に木霊して響いていた。
例え時刻が六時を回っていようと、日が暮れて濃紺に空が染まりかける気配もなく、ただ薄暗くなるだけの日の延びた夏至の前では夜というものが暫くの間訪れるということはない。
だからこうして今も、周囲を黄昏に染める焦げたカラメルの夕陽を浴びながら連れて行かんと言わんばかり、大きくて皮膚の厚い手のひらによって走らされている体には熱が籠って制服のシャツに汗が滲む。制服のシャツが肌にへばりついて、革靴の中の靴下と、足の裏との皮膚の間で起こる蒸れた摩擦に、土踏まずでさえもが熱く痛むのだ。
時間が夜に移り変わることに抗うように泣き喚く蝉の音に灼熱の太陽が未だ地球を燃やし尽くそうと励んでいる成果か、それとも無理やり掌を引かれていることによって上がる息と緊張のせいか、びっしょりと掌を濡らす汗の滑りで、万次郎の掌から、武道の掌がずりずりと時間をかけて抜け落ちる。
ふとしたところで万次郎の手と武道の手は抜け落ちてその結束が離れるのだが、それは追い縋るように武道が万次郎の手を握り直すことをしなかったからだ。抜けそうになる手を握り直すことを選択したのは万次郎だけで、武道は細やかな抵抗をするように万次郎の手を握り直すことをせず、ただ、掴まれた掌を無理やりに引かれて無理やりに歩を進めるのみだった。だからこそ、その攻防に万次郎が白旗をあげたが故、遂に万次郎の掌から完全に武道の掌が抜け落ちた時、アスファルトの上に武道が立ち止まると、先を歩いていた万次郎が勢い余って進んだ先から武道のいる後ろへと振り返る。
「どうして手を繋いでくれないの、タケミっち?」
狭い歩道の上に立つ武道と、僅かばかりというべきか、少しぐらいと言うべきか、同じく狭い歩道の上に立って踏み切り前にいる万次郎。
突然に武道が立ち止まったからといって万次郎から近寄る様子はなく、その様は武道から歩み寄ってくるのを待っているかのように思える。
呼びかけられた武道は暫く挙動不審になってあちこちに視線を彷徨わせたかと思うと、覚悟を決めたように万次郎の顔を見つめる。
「あ、の、ですね」
「うん」
「変なことを、聞くんですけどね、」
「ウン」
唾をうまく飲み込めず、吃るような口振り。
それでも、彷徨わせた視線を、武道は目の前の男の瞳に向き合わせた。
「貴方、誰、ですか?」
_____カーン、カーン、カーン……
踏切の遮断機が降りる。耳触りで煩い、伸びた警告音が鳴り響く。
「…どうして、そんなこと聞くの?」
微笑みながら、男が武道に対して問うた。
武道は口を鯉のようにはくはくさせて、再度言葉を紡ぐ。
「だって、万次郎は隠してるつもりだけど、いつも、何があっても俺と手を繋いでくれないもん。
だから、そもそも俺からも、きっとこれから先、万次郎の手を握ることはないんだと思う」
遮断機の警告音は止まず、蝉の音が遠いなと、場違いにも思った武道が、俯きながら手元無沙汰に下ろした腕の先で両手を組む。
慎ましくも、片手で片手を慰めるように両手を組んだ仕草は、誰しもが寂しさを紛らわすように見えたに違いない。
「………そうだね」
長いまつ毛と瞼を伏せた男が寂しそうに笑う。
ただ、それも一瞬のことだ。
「あ〜あ、バレちゃった!」
急にからりと笑った顔は武道もよく見る万次郎の年相応に子供っぽくて、無邪気な笑い顔によく似ている。
決定的な違いがあるとすれば、そこには空元気の色がよく滲み出ていることだ。
何の違和感もなく、それが当然であるように、降りた遮断機のレバーの下を潜って男が踏切の中に足を踏み入れた。
武道が驚いて連れ出そうと踏切の元へ向かおうとするが後ろから何者かによって腰に回された腕に引き戻されてそれは敵わない。
「でもね、オレも、佐野万次郎だったんだ」
諦めて、泣き笑ったような震えた声だった。
武道がその声を拾った瞬間、本来、踏切に人が立ち入っているのであれば急ブレーキを踏んでいたであろう列車が、まるでそこには誰もいないかのように唸りをあげて、豪速に踏切の上を通過する。
電車が走り抜けて、そこに、血に塗れてぐちゃぐちゃの肉塊のカケラもなければ、血の痕跡もない綺麗に舗装された踏切だけがあるのを見て遂に、武道は抱えられている腕を巻き込みながら腰を抜かす。
「何してるの、タケミっち」
後方、しかもその頭上から降りかかる声に武道が顔を上に向けると、今度こそ、そこには武道の知る万次郎の姿があった。きっと武道のことを引き止めたのはこの何万次郎なのだろう。
何をしてるのと言っておきながら、万次郎は全てを見透かしたような目をしている。
武道が今日、二人目に目にした万次郎は、武道の知らない長ランタイプの裾広がりの黒い特服を着ていて、ヒラヒラと舞う赤い襷だって初めて見るのだけれど、もしかしたら三ツ谷あたりに仕立て直してもらったのかもしれない。
此方の万次郎もよほど急いできたのか、いつもはしっかりと纏められた誉ノ錺のポンパドールを、荒々しく乱し、か細い一房の飴細工を額にピッタリと張り付かせている。喧嘩帰りなのか、白くてまろい万次郎のほっぺには少し、土汚れが滲んでいた。
「…大丈夫かってきいたとこで、マァ、大丈夫じゃア、ねェよなァ……」
嫌な予感がして無理にでもバブ飛ばしてきてよかった〜………イザナのやつ、朝も言い聞かせたのになんも話聞いてねぇじゃん。マジでムカつく。
正真正銘、本当の万次郎がへたり込んでいる武道を介抱するべく、正面から武道の両脇に腕を差し込む。よっこらしょと武道のことを持ち上げて地面に直そうとすると、よさほど差のない身長差のおかげで地面からそうそう、足が遠く離れることはなかったが、やはり浮遊感には慣れないのか武道の背中に薄寒いものが走った。それどころかむしろ、思っきし腰が抜けた影響からか武道が上手く地面に足をつけれず、自重を支えられない有様だったので、立ち上がれないと判断して万次郎はまた、武道を地面に下ろすことにした。
「…マイキーくん?」
名前を呼びながら武道が改めて、初めて見る格好をした万次郎の顔をまじまじと見る。むせ返るほどに濃くなる鉄と汗の匂い。万次郎の身体から発される熱気。その全てが武道の全身に伝わるほど、密着するような距離も今更で、何も変わらなかった。
「俺以外に誰に見えるって?」
むっ、と少しむくれた顔で万次郎が武道の呼びかけに答える。膨らませた頬はきっと、イザナがここにいれば可愛こぶってんじゃねェぞと指摘が飛んだことだろう。
マイキーもやっぱりまだそこらへんが年相応にガキなところがあるので、行動に幼稚なところがあるのだ。
極め付けに万次郎の掌を武道が握ろうとして、万次郎はなんとなしにそれをあれよあれよと交わしていくのでこれが武道には堪らない。
武道は次の瞬間、万次郎の首に腕を回してしがみつく。蹌踉けることも、驚くこともなく抱っこしたマイキーの腕に支えられながら暫くの間、武道はそれはもう大きい声を出して泣きじゃくった。
泣きじゃくる武道を抱っこする万次郎は、後になって追いついてきたイザナを見て、べっと舌を出す。
これを見てイザナが癇癪を起こしたのはまたの話である。