燐ニキ③ いと尊きかた。我々を救い、ほころびのない永久へ巡らせてくださる方よ。
人は巡るのだと教えられた。同じ色の魂を持って生まれた皆が同じ分の悩みと苦しみの人生を過ごし、深い眠りにつけば迷いの世界を巡る旅に出る。その旅路は再び燐音に出会う為にあるのだと。
巡るとは何だろうと考えていた。燐音の年齢が両手の指で数え切れた頃の話だ。
燐音の故郷に同じ年かさの子供は何人かいた。燐音と同じくらいの背丈、同じくらいの手のひらの大きさ。だけど彼らは自分と話す時、ふくふくとした頬も見えない程に頭を低く下げて、草木の葉も揺らさない程の小さな声でしか応えてはくれなかった。
感情を抑えた平坦な声も、大人と同じかしこまった口調も、燐音の興味を惹きつけることはなかった。皆が大人と同じ言葉を言う。尊きかた、あなた様は特別なのです。
巡るとはなんだろう。特別とはなんだろう。くる日もくる日も礼拝(らいはい)が終わるとこっそり家の外に出て、鳥獣除けに設置された鹿威しの水たまりを見つめて一人で考えていた。
人々が捧げてくれる言葉の値打ちが分かったのは弟が生まれてからだった。
「俺の弟なら、お前も『特別』なのか?」
真っ白に薄紅いろの花が咲いたような頬を膨らませる小さな弟に綴りも知らなかった言葉を囁いてみると、己の唇からまろび出た音が途端に胸を揺さぶる程の熱を持って耳に届いた。
まだ何も知らない弟は瞬きを繰り返すだけだったけれど、このいきものを守り、信じて己の全てを捧げたいと思うのは、燐音にとって天の光に星と名前が付くのと同義だった。
燐音の年齢が両手の指では数え切れなくなった頃、弟は他の人間と同じ言葉を覚えて燐音を縛るようになっていた。
成長して「巡る」の意味も「特別」の綴りも知った燐音は、大人の目をかいくぐっては外の世界に通じるようになっていた。
運搬車に隠れて乗って町に出たある日に、駅の待合室で見つけたのは黒い携帯ラジオだった。列車が止まり、走り出すだけの無人の駅から小さな機械を持ち出すのは簡単だった。
外の人間がしていたように銀色のアンテナを空に向けて伸ばしてみる。つまみの一つを右回りに捻ると、風の音を強めたようなノイズが走り、その中に知らない人間の声がする。
燐音の意志では止めることが出来ない言葉の流れの中から、知らない言葉を必死に聞き取って覚えていった。いつか意味を知れる様に、忘れないように。周りの人間に悟られないようにラジオを聞くのが財産になっていった。
池の縁にカキツバタが生え茂る場所は、燐音が迷わずに繰り返し訪れる事ができる場所の中で一番ラジオの音が澄んで聞こえる場所だった。
誰にも見つからないように走って来たから、すっかり熱くなってしまった両足を靴を脱いで泉の中に浸ける。冷たい水の心地よさに息を整えてから、膝の上にそっとのせたラジオのつまみを捻じる。
毎日知らない誰かの声を届けてくれていたラジオはもうじき貯蓄していた電気が尽きるのか、聞こえる音は随分鈍く、小さくなっていた。電池を入れ替えればまた使えることは分かっていたが、外の世界で使える金銭を持たない燐音にはこの音を途切れさせないでいられるすべがなかった。
風が髪を巻き上げて吹くような音に捕まらないように、慎重につまみを調節して人の声を探す。
『――じゃあニ…くんはおとうさんのどんなところが好き?』
聞こえてきた女性の声に指の動きを止める。ラジオを持ち上げて耳元に寄せて、鼓膜で言葉の先を捕まえる。
『たく――ある――』
『ふふっ……さんかっこいいものね』
『一番はぁ、おっきー!! ハン――作ってくれるとこ! です!!』
初めて聞く子供の声だった。粗末な音波が運んできたのに随分と澄んでいて、音なのに光って見えるような声だ。燐音の周りの子供とも、弟とも違う。感情を抑えきれないほど弾ませた、生きた人間の声だ。
(……いいな)
燐音が生きている世界では、こんなに感情を表に出すことが許されるのは己だけだった。この子供も「特別」なのだろうか。自分と同じように。……もしかしたら自分以上に特別な存在で、ラジオに声を乗せられる場所から、燐音を見下ろしているのかもしれない。
先程の会話の後はもう二人の聞こえてこなかった。短い音楽が流れた後、男性が「けいざい」の情報を読み上げる。
燐音が持っていたラジオが起動したのは、その日が最後だった。
一度だけ聞いた子供の声に湧いたもの――嫉妬や憧れの感情の名前は、結局大人になってから知った。
大人になれば隠れて運搬車に乗らなくても町に行ける。子供の頃に手に入れられなかった電池を買う為の金銭を手に入れることも出来る。
だけど世界の外に出てしまえば燐音は特別ではなくて、尊くもないから助けてくれる誰かもおらずあっと言う間に寄る辺を失くしてしまった。
真昼間に空っぽの財布と空っぽの腹を抱えて建物の隙間で蹲っていると、差し込む日差しを遮って誰かの気配が近づいてくる。
「――おにーさん、大丈夫っすか?」
(俺を『にいさん』って呼ぶのは一彩だけだ……)
だけど不思議と嫌ではなかった。見知らぬ青年から差し伸べられた音は明らかに困惑と恐怖が滲んでいたけれど、随分と澄んでいて、音なのに光って見えるような声だった。