連理の鎖(一部・公開版) 鬱蒼とした森の奥。木漏れ日もそこそこに、目の前には蔦の中で座り込んでいる親友の姿。野鳥の囀りを背後に、見えない何かと戯れるように身を捩らせている。それは決して神秘的でも微笑ましくもない。むしろこれは皮肉だ。頭の痛くなるような光景に、飛皋は思わず眉間に皺を寄せた。
「何を遊んでいるんだ」
思ったことをそのまま声にすれば、彼ー芳准は、ようやく飛皋の存在に気付いて、一瞬表情を強張らせる。ああ、いや、ええと。視線を泳がせ、言い訳を探している間に、飛皋は彼に近づいていく。乾いた枯れ葉は音を立てて飛皋の足を柔らかく受け止めた。
足を止めれば芳准の頭上に飛皋の影が落ちる。腰に手を当て、飛皋は改めて芳准を見下ろした。
縒れた髪や服には大小様々な枯れ葉が貼り付き、顔には土と小さな傷が刻まれている。何もなければ異性を射止める優男で十分通るであろうに。枯れ葉の絨毯で転がったような姿は幼少期の無邪気な面影そのものだ。
無言で見下ろす圧に、芳准は眉尻を下げて上目遣いに見つめてくる。後ろめたさが滲む、いつもの仕草だ。飛皋が小さくため息をつけば、案の定、彼は少しばかり情けない声で「手伝ってくれないか」と助けを乞う。
その申訳し程度の苦笑は、文字通りお人好しを絵に描いたようだった。
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本来、飛皋は後にも先にもこんな場所を訪れる予定などなかった。この日も書を嗜み、芳准と勉学に励む予定だった。
にも関わらず当の本人は約束の時間になっても姿を現さなかった。抜けた所はあれど、約束を軽んじる男ではない。寝坊かと迎えに行ってみれば、朝早くから出たきり帰ってないという。
飛皋は何となく彼の行き先に想像がついた。
そこは、かつてよく芳准と遊び場兼隠れ家に使っていた場所で、飛皋にとってはそれ以上でもそれ以外でもない。しかし芳准はそれ以上の価値を見出しており、年月を経ても足繁く通っていることを飛皋は知っている。それがこの近場の森だった。
芳准を見つけた瞬間、予想が的中したことに胸の内で小さく自信が満ちたものの、その姿は大きく飛皋の予想を裏切った。
「調査をするつもりじゃなかったのか?」
呆れの色を滲ませた飛皋の声に、芳准は目を二度三度と瞬かせて口を開く。
「覚えていたのか…?」
「お前な…、昨日の今日だぞ」
「いや、てっきり興味がないのかと…」
「俺を放置して思考に耽ってたのはお前だろう」
森の奥で蕾を見つけた。
それが昨日芳准が語った言葉だ。
雨季に入る前に咲くはずの花。本来なら三月後辺りに見られる蕾が今の時期についている。何故今ここに。例年と何が異なっているのか。
芳准は思案に沈んでそう語っていたのだ。目の前の親友を無視して。
挙げ句約束まで反故されているのだ。多少怒っても文句は言わせない。
「で、この状況を説明してもらおうか」
「いや…、調査してはいたんだが…その…」
気まずそうに頬を掻きながら、途切れ途切れに芳准は続ける。
曰く、雛が巣から落ちているのを見つけたのだ、と。
細心の注意を払って雛を巣に戻すも、降りる際に落木して枝と蔦に絡み取られたらしい。
「抜け出そうとすればするほど、酷くなってしまって……」
確かに、芳准の空色の髪は赤い蕾の枝に絡み取られ、青々と茂る葉に彩られている。それはまるで、天に焦がれて枝を伸ばしているように見えた。飾りとしてそのまま帰っても良いと思う程には悪くない。絡まりさえなければ、の話だが。
芳准はため息をつき、飛皋もまた同じく息を吐く。
「だから髪をちゃんと結えと言っただろう」
「あまり得意じゃないのは知っているだろう…」
「それでこの有様なら本末転倒だ」
「……面目ない…」
「面目などとうの昔に無いだろう。何度目だと思っている」
枯れ葉を丁寧に取り除きながら応じる飛皋に、芳准は「うっ…」と言葉を詰まらせ肩を落とす。反論できない様子に、飛皋は思わず小さく吹き出した。それが耳に届いたのだろう。芳准はへの字に曲げた唇で恨めしそうに飛行を睨みつける。決して迫力も真意もない、形だけの抵抗。そのささやかな抵抗にいじらしさすら覚え、飛皋は余計にも笑みが隠せなかった。
「からかうな」
「すまんすまん。まぁ、俺を待たせた罰だと思ってくれ」
「それは…、悪かったと思ってる」
「なら今度一杯奢れ。それで帳消しだ」
穏やかな飛皋の口調に、芳准もやっと頬を緩めて頷いた。
軽い言葉を交わしながら、飛皋は枯れ葉を払い、枝に絡んだ髪も解いていく。幼馴染として無数の時を共に過ごしたとは言え、それに飽きたことは一度もない。むしろ、こうして触れ合う穏やかな時間がずっと続けばと、飛皋は思う。
しかし、手は進むに連れて迷いを見せて、ついにはぴたりと止まってしまう。予想以上に枝が複雑に絡んでいるのだ。作業を進めれば進めるほど、それは顕著に現れて飛皋を悩ませた。
どうやらこの枝は、芳准に心底惚れているらしい。
思案する飛皋を見かねたのか、芳准は円柱の木の棒を差し出してきた。意図を測れないまま飛皋が棒の端を握ると、芳准は反対側を引く。
その中からするり、と鈍く光る刀身が姿を現し、飛皋は思わず大きく目を瞠った。
「こんなものを携帯しているのか?」
「採取が必要な時もあるから、行くときは携帯しているんだ」
そう言って、芳准は後ろ髪をかき上げる。無防備に晒された首筋に、飛皋の視線は思わず吸い付寄せられた。
「これ以上は難しいんだろう?なら思い切ってやってくれ。どうせすぐに伸びるから」
薄らと均一に日焼けした、血色のよい肌。まるで夕焼けに照らされた陶磁のようで。一筋の汗がなだらかな曲線をなぞっていく。
それを拭おうとした時、飛皋は己の手に握られている存在に息を呑んだ。
芳准の、薄皮一枚を隔てた奥に同じものが流れること。それらは今自分の手に委ねられ、握っている。その重みが指先から這い上がり、飛皋の胸に火を灯した。高まる鼓動が、未知の衝動をこじ開けようとする。
鋭く光る銀の刃が、鏡のように自らの姿を映した時、飛皋は柄を強く握って小刀を振った。
掌に感じた抵抗をそのままに、力を込めて一気に振り下ろす。
音を立てて落ちたそれに驚きの声を上げたのは芳准だった。
飛皋が再び小刀を振り上げたる、芳准の手がそれを止める。
「止めろ!切るのはそっちじゃない!」
二人の間には蕾のついた枝が無常に横たわっていた。
芳准の、慈悲のような優しさと揺らぎのない眩しい瞳に当てられ、急速に冷めていく波を感じながら飛皋は無言で芳准を見つめ返していた。
「これから花をつけようとしているのに…。邪魔をしたのは俺の方だ」
「そんな顔をするな。枝も蔦もまた伸びる。枝打ちだと思えばいい。必要な事だろう?」
「この枝は、そうじゃなかった」
まるで自分が傷ついたかのように芳准の手に力が込められる。
落木の際に着いたのだろう。その手に浮かぶ細かい傷を飛皋の手がそっと覆う。その優しさすら感じさせる動きに、芳准は僅かに動揺を見せた。飛皋は芳准から視線を外すことなくゆっくりと手を引き剥がす。それは思いの外簡単に離れてくれた。
そのまま小刀を振りおろし、絡みついた枝葉も蔦も彼から引き剥がす。芳准とは異なり、そこに躊躇いも罪悪感も沸くことはなかった。全てを徹底的に取り除いてから、縺れた髪を整える。
たしなみとして常備している櫛で、背中まである長い髪を、細く丁寧に解いていく。
その間芳准は飛皋のされるがままに、落ちた枝葉を無言で見下ろしていた。その手には小刀が握られたままで、刀身に映る彼の瞳は何処か迷っているようにも見えた。
そんな芳准を横目に、飛皋は黙々と作業を進めていく。櫛が毛先まで通るようになれば、それは彼の中に流れる清流のように背に広がった。
そうして今度は指先から零れそうになる髪を何度も掬い直し束ねていく。時折触れる首筋から少しずつ熱を感じるのは、どちらのものか分からない。解けないように気付く結い、先が広がらないように、絡まないように。出来るだけ先端近くまで固定してやった。
「これでいいだろう」
芳准の背を軽く叩いて、物思いから現実に引き戻してやる。芳准ははっと顔を上げて、整った髪を確かめた。先ほどまで絡まっていたとは思えないほど指通りよく整えられた姿に、芳准は感嘆の息を零して緩やかに微笑んだ。
その目には、まだ迷いは残ってはいたが。
「ありがとう、飛皋」
「構わん。さあ、心配かけないうちに帰るぞ」
「あ、ああ、すまな、いっ……!」
飛皋の促しに、慌てて小刀を仕舞い立とうとした芳准の顔が歪む。唸り声を上げてその場に蹲る芳准に飛皋もすぐに反応した。
「芳准…!?」
彼の異変に飛皋も眉を寄せ、訝しげに声をかける。視線を泳がせる芳准の様子に、嫌な予感が過る。それを察知してか、おずおずと彼は口を開いた。
「どうも、その…足を、捻ったみたいで……」
その先は言わずとも分かる。
またもや申し訳無さそうに上目遣いで見つめられ、飛皋はこめかみを押さえながら「お前な……」と呟いた。
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「全く、お前は俺がいなかったらどうするつもりだったんだ」
「だから反省していると言っているだろう……」
幼き頃から共に過ごし、変声期のぎこちなさも分かち合った。彼は何時も隣にいた。だがこの年になって、芳准を背負って森から連れ帰るなど、誰が想像しただろう。
それは芳准も同じようで、飛皋の背中で何度もため息をついては項を垂れていた。
「背中でため息をつくのは止めろ、芳准。ただでさえ重いのに俺の気まで重くするつもりか」
飛皋の苦言に、背中から小さな唸り声が響く。ため息を飲み込んだのだろう。観念したように、芳准は飛皋の背中に身体を預けてきた。
ため息は聞こえなくなったが、意気消沈した気配を感じる。飛皋は肩を竦めるついでに芳准を抱え直し、言葉を紡いだ。
「酒は朝まで付き合え。それで手打ちだ」
「朝って……」
芳准の声が詰まる。翌日の辛さを思い出したのだろう。互い調子に乗って程度を忘れて杯を重ね、芳准が先に潰れる。翌日の死んだような顔色を、からかいながら介抱する。この流れも慣れたものだ。
芳准は言葉を濁らせるが、覚悟を決めて「いや、分かった」と力強く承諾した。
そうして懐かしい道を、二人で辿る。
傾きかけた陽が森を茜色に森を染め、まるで木々が燃え上がるような鮮やかな朱に包む。枯れ葉に埋もれた枝が、足元で乾いた音を立てて折れる。その音を聞きながら、鳥の囀りに混じって芳准はぽつりと呟いた。
「これと同じ時期に咲く花があるんだ」
これ、とは視界の端で揺れる蕾のことだろう。彼の手には小刀の代わりに、切り落とされた一本の枝が握られている。蕾の数は丁度三つ。芳准がそれを選んだ理由は言わずもがな理解できた。
「その花の自生地にも行ったが、それには蕾すらついていなかった。他の植物もだ」
飛皋は黙って芳准の話に耳を傾ける。
「もしこの花が湿度や気温に敏感な種だとすると、そう遠くないうちに雨季に近いものが来るかもしれない」
「その蕾が予兆だと?」
「ああ。誰も信じはしないだろうが…」
そう自嘲気味に笑う芳准に、飛皋は眉を顰めた。
飛皋達が住む地域だけではない。この国の農村は昇竜江を中心に氾濫に悩まされ、昨年は下流で村が流された。
もし雨季を事前に知ることができるなら、どれほど救いになるだろう。
「なら早めに動いた方がいいな。納得させるにはもう少し調査がいるだろうが、もしお前の仮説が証明されたら大功だ」
「……信じるのか?」
驚きを帯びた声に、自分で言っておいてその反応かと、飛皋は胸の内で小さく笑う。
確かに、芳准の閃きは常人の理解を超えるだろう。しかし、一見頓痴気に見えるものでも、芳准の直観が実を結んだこともあった。そうして周囲を驚かせる度に、友として誇りに思うのだ。
とは言え、実績はあっても頭の堅い大人を説き伏せるのは芳准だけでは手に余る。だからこそ飛皋は後押しを惜しむつもりはなかった。
「そんな奴が一人くらいいてもいいだろう」
その言葉に、飛皋の肩に置かれた芳准の手に力が入る。戸惑いか、迷いか。布越しから伝わる彼の感情を拾おうとしていると、耳元で「飛皋」と囁かれ、甘い痺れが首筋からじんわりと広がった。
「いつもすまない。本当に、感謝してる」
「……今更だろう」
「そんなことはない」
柔らかく、それでいて迷いのない否定が鳩尾の辺りを優しく撫でる。
続けて芳准は小さく「俺は…」と呟くが、風が木々をざわつかせ、飛皋はその先の言葉を聞き取ることはできなかった。
ただ、背中で彼の呼気を、体温を感じる。
その度にあの重みが、胸の奥から込み上げた衝動が、小刀に見た自分の姿が蘇る。
ずくり、ずくりと、飛皋の香の中に芳准の草花の香りが混ざり合って、不思議な香りへと変えていった。
(公開版はここまで)