ハンブルガー・ハーフェン「若林」
フォルクスパルクシュタディオンの脇にある練習場から、いつものように帰ろうとドラムバッグを肩に乗せ直したところで背後から声をかけられた。振り向くと、毎日見慣れた馴染みのストライカーが同じようにバッグを持ってゆっくり歩いてくる。
「あぁ、シュナイダーか」
カール・ハインツ・シュナイダー。
このハンブルガーSVのジュニアチーム…いや、ドイツひいてはヨーロッパのジュニアの中でも随一のサッカーセンスを持った男である。
プレイ中ならいざしらず、普段は寡黙なこの少年から、日本から渡ってきたGKに自分から声をかけるのは珍しい事だった。若林も少し驚いた様子で先を促す。
「どうしたんだよ、お前はいつもすぐ帰るのに、珍しいな」
「……若林、お前。この後は暇だろ」
ちょっと付き合ってくれ、そう言ってシュナイダーは若林の隣に並ぶと、相手の返事も聞かずに合意を得たという様子で歩き出した。
若林は思わず肩を竦めるが、己のまだ未熟なドイツ語とは関係なしの一方的な会話には慣れきっていたのでおとなしく従う事にした。日本では、どちらかといえば自分がわがままを通すようなタイプだったが、ドイツに来てからはそれが逆になっている気がする。この男はいつもそうなのだ。はじめは自分の語学能力に問題があるのかとも思ったが、何という事はない。こいつは誰に対しても、そのような口の聞き方をする。
「お前、そんな失礼な態度でよく生きてこれたよなァ」
「……お前よりはマシだ」
ハンブルクジュニアの皇帝は、普段から無表情の顔を少しだけ歪ませてから少しだけ片頬を上げて見せた。若林は、この男のこういったシンプルな感情表現を気に入っている。腹に一物抱えているような奴よりも、気分を害する事なく付き合える。シュナイダーは、見た目よりも単純だ。
駅に着くと、普段よりも遠い駅の切符を買うように言われた。
基本的には練習場と、保護者の見上と住んでいる家との往復なので、買った切符の駅の名前がどこの場所を指すのかわからない。若林にはこれから彼が自分をどこへ連れて行こうと思っているのか皆目見当もつかなかったが、帰り道は連れ出した本人に責任をとらせればいい、と半ば何も考えずに連れ立って電車に乗った。
「なァ、結局どこに行くんだよ。俺なんも聞いてねぇんだけど」
「ハンブルク港」
車窓を眺めていた視線をそのままに、シュナイダーはぶっきらぼうに答えた。
今日は少し早めに練習が終わったから、まだ日が落ちていない。夕陽を受けた横顔に落ちるまつ毛が、建物の影でオレンジ色になったり、青い瞳に暗く影を落としたりするのを、若林は何も言わずにじっと見つめていた。
彼と出会ってから一年が過ぎている。カレンンダー上はそうなのだが、ドイツでの日々に翻弄されすぎて、10年居たようにも、まだ1ヶ月しか経っていないような気もする。ただ、隣にいるシュナイダーの初対面の頃の丸かった少年の頬は、今やもうしっかりした大人の顔になりかけていたし、若林も先月、ふと気づけば彼の身長を抜かしてチームの中でも1、2を争う長身になっていた。伸び悩んでいるカルツが悔しそうにしているのはまだわからないでもなかったが、他人を気にする事のなさそうなシュナイダーが、若林と並んだ時、少し悔しそうに不満げな顔で睨んできたのは意外だな、と思ったのを覚えている。
結局、二人がハンブルク港に到着したのは、一時間ほどかかって、もう陽もすっかり落ちてしまってからだった。練習場からこちらのエリアに来ようとすると、間に運河を挟んでいるため、直線距離よりも移動に時間がかかる。
少しウロウロして二人して落ち着けるベンチを見つけると、シュナイダーが先に腰を下ろした。若林も隣に続く。
しばらくは、お互いに黙っていた。
「……何か話でもあるのか?」
最初に口火を切ったのは若林だった。あまり知らない場所まで連れてこられた上、相手が何も言わずに黙っているのに我慢がきかなくなったのだ。もともと、気は短い男だ。
「別に、話なんてない」
少し苛立ちの混ざった声も、シュナイダーはさらりとかわして答えた。
「しばらく、隣に居てほしいと思って、呼んだだけだ」
若林は絶句して、こいつは何を言っているんだと思い、それから不可抗力で頬が熱くなるのを感じた。陽が落ちていてよかった。多分どんどん赤くなっていく顔の色を見られないで済む。「へぇ、そうかよ」とだけ、なんとか口にして、キャップをかぶりなおして俯いて、チラリと隣を盗み見た。
電車の中で見た横顔より、どこか寂しげに見える。彼の表情自体は特に変わっていないので、きっと辺りが暗くなったからそう見えているだけだろう。
対岸に見える倉庫街の明かりが水面に写ってなんだか幻想的なので、隣にいる相手がチームメイトなのが何ともむず痒く居心地が悪い。朴念仁に見える若林だって、こういう場所は、本来であれば恋人と来るような場所なのは、何となくわかる。
若林が黙り込んでしまったので、シュナイダーは実際には興味が無いのを隠そうともせずに「日本てどんなところなんだ」と珍しく世間話を振った。
「どんなところって…まァ、飯はうまいかな」
「そんなもんか」
「そんなもんって……お前なぁ」
思わず苦笑すると、隣からもふっと息をつく声が聞こえる。
「俺はこの街から外に出た事がないから」
今日初めて、彼は若林に向き直って言った。遠征で外の街に行く、という意味ではないだろう。
「チームの奴らもほとんどそうだと思う。だから、そういう意味じゃお前が一番大人だ。若林」
背も一番高いしな、とシュナイダーはまたそっぽを向いて付け加えた。
「うーん、大人かぁ」
そう言われても、若林はピンと来なかった。サッカーの面での成長は我ながら疑う余地もないが、生活面で言えばすべて見上に頼りっきりである。少し遠くに行くのだって、誰かに車を出してもらわないといけないし、そもそもドイツに来れたのも大人のおかげだ。
「そうかな。俺もまだまだ子どもだと思うけど」
「俺には……源三が一番大人びて見える」
初めてファーストネームで呼ばれた。静かに動揺していると、シュナイダーはバッグを持って立ち上がった。
「もう行くか」
「えっ、来たばっかじゃねェか」
「……もういい」
「何だよ、せっかく来たのに」
文句を言いつつ、若林も立ち上がる。知らないうちにまた身長が伸びていたのか、一年前は見上げていた顔を静かに見下ろした。ドイツに来たばかりの頃、シュナイダーはもっと年上の男に見えた。
「本当は……もっと上手く誘いたかったんだ」
シュナイダーはポツリと呟いて、戸惑ったように若林を見上げた。暗がりで、いつもは目立つ金髪も青い瞳もよく見えない。それでも、若林は初めて彼の表情をもっとよく見てみたいと思った。
「もっと上手く?」
「ああ」
早く大人になりたいから。お前の事をもっと知りたい。
彼はそう言って俯くと、そのまま若林を残して駅の方へ歩いて行ってしまう。
「……どういう意味だよ、おい」
いつもであれば、何を言われているのかわからない時、若林は相手を大声でどやしつけてしまう。
しかし、今回は違った。小さく呟く事しかできなかった。自分の心臓が普段とは違う力で、思い切り胸に叩きつけられているのを感じる。なんだろうこれは。そして、あいつは何を言ってるんだろう。俺のこの気持ちは何なんだろう。
行き来するコンテナ船の汽笛の音が、ブォーだとか、グォーだとか、怪物のような鳴き声で、近いような遠いような不思議な距離感で二人を包んだ。ここから、どれだけの船が行って、そして帰ってくるのだろう。
シュナイダーの隣に並べるように、若林は少し足早に港に背を向けた。
おわり