ヒーロー 保育園の頃、よくサッカーをして遊んだ。今思うとママゴトみたいなそれをするときでも、みんなフォワードをやりたいと言ってきかなかった。ディフェンダーになろうものなら、どんよりと肩を落とす子もいた。キーパーなんて、さらに誰もやりたがらなくて、全員でじゃんけんをして、負けた人がなった。なぜかって?全然体を動かせないからだ!
だけど、ある日、パパといっしょに日本代表戦を見る事があった。パパは、このチームのうちの何人もがこの南葛市の出身なんだよ、と教えてくくれて、例えばこの人、と、その瞬間、テレビ画面に大きく映ったその人を指さしてくれる。オレは、びっくりした。だって、その人の体はすごく大きくて、日本人じゃないみたいだったからだ。そして、パパはさらに続けて、みっくんとパパがお散歩にいくと、公園の近くに大きいお家があるだろう?この人は、そこの息子さんなんだよ、と言った。だけど、オレはそんな言葉は半分きいてなかったし、何よりそんな事はどうでもよかった。その選手が、めちゃくちゃかっこよかったからだ!
斜めに被ったぼうしをかぶって、その人は自信がありそうなギラギラした目をしていた。危ない!点が入る!という場面、オレは怖くて思わずパパに飛びついて顔を隠した。だけど、恐る恐る目をあけると、その人がガッシリとボールをキャッチしているのだった。
若林源三は、その時から今までずっと、オレの一番のヒーローだ!
オレは、小学校五年生になった。代表戦で若林さんを見てゴールキーパーに目覚めてからは、ゴールキーパー一筋で、サッカーを続けている。
「ミツル、おはよう!」
「うん、ママおはよう」
朝ごはんをかっこみながら、今日は練習で何をしようか考える。夏の試合まであと2ヶ月ほどだったので、守備面をさらに強化しないと、とディフェンスの選手の顔を頭にいくつも思い浮かべた。
「今日は練習ちょっと早いの?」
「いや、いつも通りだけど、自主練するからちょっと早く行く」
「あらそう、車で送っていこうか?」
「歩いていくからいいよ。トレーニングになるし…ごちそうさま!」
そう?と少しだけ残念そうにするママを置いて、皿を流し場まで持っていく。リビングにあるスポーツバッグを肩にかけて、いつも上着かけにかけてあるバイエルンのキャップをかぶると、いってきますと大きな声をあげて玄関のドアを開いた。
若林源三。
小学生の途中から、ほぼ単身でドイツへ渡り、ハンブルガーSVのジュニアチームでヨーロッパNO1になり、そのハンブルクでブンデスリーガのトップチームでデビューした若干16歳から、今のリーグで首位を走っているバイエルン・ミュンヘンに移籍した後も、未だにブンデスリーガの第一線でプレイを続ける伝説の男。オレは今、その憧れの人がかつて在籍した南葛SCで正ゴールキーパーを務めている。
まだ小学生だけど、若林さんに憧れて、たくさんゴールキーパーについて勉強した。知れば知るほど、キーパーは面白い。何も知らなかった頃は、ただ暇みたいに突っ立って、ボールが来た時だけ反応すればいいのだと思っていた。だけど、本当は誰よりも試合をよく見て、相手選手や味方の選手、みんなを観察し、きちんと守備のコーチングをしなければならないのだ。
若林さんの言葉で、「サッカーはキーパーが点をとられなければ負ける事はない」という言葉がある。小学校三年生の時、こども向けに書かれた若林さんの事を詳しく書いた本を買ってもらったのだが、それに書いてあった言葉だ。若林さんは、小学生の頃からこんなかっこいい事を言っていたらしい。オレは、習字の時間にそれを書いて、担任の先生に怒られた。怒られたけど、それを今自分の部屋の机の前に貼って、もっとすごい、若林さんのようなキーパーになろう!と改めていつも目標を胸に刻んでいる。
ただ、去年……オレは少し落ち込んだ事がある。若林さんが結婚した。結婚するだけならいい。あの大空翼だって結婚して小さい子供が居るっていうし、Jリーガーのドキュメントみたいなやつでも、奥さんがいるから頑張れる!というような事を言っているのを見た事がある。だけど……問題は、その相手だった。
若林さんが結婚したのは、同じバイエルンに所属しているシュナイダーというフォワードの選手だったのだ。もちろん、若林さんもシュナイダーも男だ。
その相手のシュナイダーも、すごい選手だ。パワーのあるシュートをどの体勢からでも打てるし、頭のいい読みの鋭いプレーも、前は違うようだったけど、オレがブンデスリーガを見るようになってからは、守備も頭のいいポジションをいつもとっている、ドイツだけじゃなくて世界中のサッカープレーヤーの憧れのような選手だ。
オレだって、若林さんとシュナイダーが結婚するまでは、バイエルンの応援をする上でシュナイダーが大好きだったし、バロンドールに去年すんでのところで選ばれなかったのを見てガッカリさえした。だけど、よりにもよって……なんで若林さんと結婚なんてするんだろう。
そのニュースを知った時、おれはびっくりして、それから落ち込んだ。若林さんに少しだけ幻滅した。なんで幻滅するのかよくわからなかったが、男同士が結婚できる事も知らなかったし、意味がわからなかった。
二人が発表してから、ワイドショーはしばらくその事でもちきりになった。テレビの中には、なんだかちょっと若林さんをバカにしているようなものとかもあった。前は嬉々として見ていた若林さんのオフの時に出ているバラエティ番組も、なんだかいたたまれなくて見れなくなった。オレは、バカにされる若林さんなんて見たくなくて、知りたくなくて、実際のところ、若林さんがホモということより、俺のヒーローが周囲にバカにされているようなのが耐えられなかったのかもしれない。
だけど、少し幻滅した後に見る試合でも若林さんは、やっぱりかっこよかった。オフシーズンの騒がしさがなかった事のように、好セーブを連発した。そして、それはシュナイダーも一緒で、いままでになく得点を量産した。結果、バイエルンはいままでのどの年よりも、リーグ戦で早く優勝を確定させたほどだった。
試合の若林さんはかっこいいし、ゴールキーパーとしてすげえから、応援してるし、目標にしてる。でも、若林さんが自分から、バカにされるような変な目で見られるような事をするのにはガッカリした。どうせだったら、シュナイダーとの事も黙っていて、みんなからもかっこいいね若林!って言ってもらえる人でいて欲しかった。オレはこの事については、知った時からずっと複雑だった。なんだかよく分からない気持ちでモヤモヤし続けている。
日曜日だからか、会社や学校へ行く人がいないので歩道も空いている。グラウンドが見えてきて、今日も一番乗りだな、と色々と頭をぐるぐるしていた事をリセットした。練習をする時は集中する。これも、若林さんの本に書いてあった事だった。
「よっしゃ」
ゴールキーパーなので、普段はキャッチやパンチングの練習をする事も多いが、足元の技術もうまくなければいけない。ボールの倉庫の鍵は監督が持っているので、俺はしまってあった自主練用のボールをバッグから取り出して横に置くと、いつものように、ウォームアップをはじめて、それに没頭した。
ストレッチ、ダッシュ、リフティング、それから地味に続けている自分なりの体幹トレーニングに入っても、はじめて自分の近くに大きな影が近づいていた事に気付かなかった。
「Hye」
突然、すぐ後ろから声をかけられる。驚いて振り向くと、金髪で青い目の、見知った顔の大きな外人が立っていた。見知った顔といっても、とてもではないが知り合いではない。
「Spielst du jetzt Fußball」
「あ…え…シュ…ナイダー……選手…?」
「That's right」
さっきまで、どうのこうのと思っていたが、実際に会ってしまったら、ネガティブな印象など頭からすっぽり抜け落ちた。そんな事より、バイエルンのエースストライカーが目の前にいるという、純粋な感激と、非現実感に頭が混乱してそのまま爆発しそうだ。だって、あの、あの、ブンデスリーガの年間最多ゴール賞をとったあの、シュナイダーが?! なんで?
オレは処理が追いつかず、回線がショートしたように開いた口が閉じれずに呆然と彼を見上げた。目の前のオレが本当に何も言えないでいると、相手は勝手に何かに思い至ったのか、もう一度ゆっくりといい直した。
「Um…アナタ、football now? position Goalkeeper?」
いつか海外に行きたい、そのために語学を勉強しなければ、と思っていたオレは少しだけ英語はできた。でも、その時は頭がまったくおいつかなくて、とりあえずポジション、とゴールキーパーだけに脳が反応し、何度も首をたてに振った。
「OK」
シュナイダーは、いつも試合でしているように一瞬だけ不敵に笑うとすぐに真顔に戻り、俺の肩を叩いてゴールの方を指差した。言葉は使わずに、ジェスチャーでオレにゴールに立てと指示する。びっくりしたまま、とりあえず夢見ごこちでゴールの真ん中に立つと、彼はオレの目の前に立って、ボールをよこせとまたジェスチャーで言ってくる。
「Are you OK」
何がなんだかわからないし、何もOKではないが、とりあえずコクリと頷く。目の前の男は軽く右手をサムズアップしてみせると、足元にボール置いてから、スパイクではないジョギング用らしいトレッキングシューズで数歩後退し、軽快なリズムでボールに近づくとそれを蹴り上げた。
普段のシュナイダーからしたら、本当に遊びともいえないような強さのボールだ。夢の中のようだった意識が突然リアリティを持って目前に迫ってくる。そう、ボールだ!ボールをとらなければ!
シュナイダーのボールは、ちょうどゴールの真ん中から少し左に落ちてくる軌道だった。きっと、蹴り方からして少しだけ縦回転している。朝の光は強いけれど、キャップをかぶっているおかげでまぶしくない。オレはこれなら取れる!一瞬で判断して、手にボールが触れた瞬間に、それをぐっと抱きかかえて地面に伏せた。
「Nice save」
ドキドキしたまま顔をあげると、バイエルンのエースストライカーが、小さくガッツポーズをしてくれる。
オレは胸がわっとなって、思わずにやけると、ボールに目を落とした。手加減されたけど、簡単な球だったけど、オレが、シュナイダーのボールをとったんだ!
しかし、感慨に耽りそうになる前に、シュナイダーに「Next!」と声をかけられた。まだ続けるつもりらしい。どういう事なのかもまったくわからないが、とりあえずボールを渡そうとした時、背後からドでかい聞き慣れが声がした。
「カール!」
驚いて振り返ると、フェンス越しに、ずっと自分のヒーローだった若林源三が居る。さっきから起こるわけのわからない出来事に、頭の片隅でそういえばここは若林さんの地元だったのだと思い出す。オレが口を開けている間に、若林さんはグラウンドに駆け寄りながらシュナイダーに話しかけている。
「Was machst du」
「Fußball」
「Das ist es nicht あーもう」
ドイツ語なので何を言っているのかはわからないが、若林さんはとても疲れているように見えた。口論が始まるかもしれないと思ってじっとしていると、若林さんがオレの方を見た。オレはまた固まる。
「ごめんな。こいつの世話してくれてたんだろ?」
「世話っていうか、その」
「いや…ジョギングしてたら競争みたくなっちまって。コイツが負けず嫌いでどんどん先に行きやがるから…ったく道も知らねえのに…」
若林さんは疲れたようにため息をつくと、改めてぐるりとグラウンドを見渡すと、笑顔でオレに話しかけてくれた。
「ここで練習してるって事は、お前南葛SC?」
「は、はい!」
「まだ城山監督だよな。監督、元気してるか?」
「はい、元気、です!」
「俺も、小学校の時に監督してもらってたんだよ!知らないかもしれねェけど」
「い、いえ……知ってます!」
知らないも何も、オレは若林さんに憧れて頑張って南葛SCに入ったのだ。何度も頷いて、必死にバッグの中に紙とペンあったかなと考える。絶対にサインが欲しい。若林さんからもシュナイダーからも欲しい。
若林さんはシュナイダーにドイツ語で何か話しかけていた。時折、ツバサ、という単語が入るので、昔ここで大空翼と同じチームで練習していたと説明しているのかもしれない。シュナイダーはそれに興味があるのかないのかよくわからない表情で、足元のボールを足で転がして遊んでいる。ボールを蹴るとみせかけて、時々若林さんの足も蹴り上げている。これは、いいんだろうか。
「あ…の、若林さん、なんで居るんですか?」
ド緊張しながら、カチコチで声をかけると、実家にこいつ連れて帰ってきただけ、里帰り、と言って笑う。
緊張は解けないままそのまま他愛もない話をしていると、いつも通りの時間に城山監督がやってきた。俺が一番乗りで、いつも監督が二番なのだ。はじめ、監督は大人と話しているオレを見て、何かトラブルかと慌てて近づいてきたが、その巨体を見て明るく表情を変えた。
「あれ?若林じゃないか!」
「監督!お元気そうで!」
「しかも、こんな大型新人連れて!」
「ハハハ!」
若林さんは笑い声をあげて、シュナイダーに監督を紹介した。彼はボールを止めて、ウンウンと頷くと「ドウモ、ワカバヤシガオセワニナッテマス」と言って握手を求めて、城山監督も「どうもどうも」と笑ってその手を握り返した。
「若林、この後時間あるのか?」
「いや、朝飯もまだなんで、もう帰ります。ジョギングの途中で懐かしくなってここまで来ちゃって」
「そうか、いや…子供達が若林とシュナイダーに会えたら喜ぶなと思ったんだけど、それならいいんだ」
「いや、えっと、そしたら……」
若林さんは、シュナイダーに何やらゴソゴソと説明した。シュナイダーはじっとそれを聞くと、話が途切れてすぐに、軽い調子で「OK」といった。
「監督、俺ら飯食った後ならいいっすよ。俺もコイツも、今日は夕方から出かけるだけなんで、昼なら来れます。練習何時まででしたっけ?」
「えーっと、昼休憩は12時30分かな?だよな、ミツル」
「はい。12時半までです」
「じゃあ…11時くらいに来ようかな。それで大丈夫ですよね?」
「もちろん! すまんな若林。みんなのモチベーションになるから助かるよ!じゃあ、ひきとめて悪かった。後でよろしくな」
「それじゃあ後でまた。おい、Gehen wir Karl」
「Ja. Genzo. Sprich nicht laut」
じゃあな、と若林さんがもう一度こちらを振り返った。シュナイダーも同じタイミングで振り返ると、オレに向かって片手をあげ、またサムズアップした。やっと少し彼らの存在になれたオレは、それに大きく手を振り返した。
そういえば、と休みで家にいるパパにラインしようかと思ったけど、前に若林さんとシュナイダーのニュースに「えぇ?男同志ィ?」とか言っていたので、黙っておく事にした。
監督に、みんなを驚かせるのに黙っておこう、と言われ、俺はちょっとだけ練習に身が入らなかった。あのシュナイダーのボールを受けたのだ。そして、若林さんとも話す事ができた。マンガみたいな事が起こったのに、チームメイトに自慢できないのがつらい。
約束の11時の少し前になると、監督がみんなをミーティングだと言って入り口に背を向けて集合させた。オレは一人だけ知っているから、ドキドキしていたが、ちょうどきっかりより5分遅れて、若林さんとシュナイダーがグラウンドに現れた。その時のチームメイトは、最初の時のオレのようにポカンと口を開けたままフリーズして動けないほどに驚いていた様子だった。
「どうも、若林源三といいます。こっちはシュナイダー。俺たちはドイツのバイエルン・ミュンヘンってチームでサッカー選手してます。知ってるか?」
若林さんがみんなの前で言うと、ほとんど誰も何も言えずに、思い切り首を縦に振った。お調子者のひとりだけが「もちろんです!結婚おめでとうございます」と声をあげて、みんなそいつは勇気があるなと思ってびびってそっちを見た。若林さんをバカにした感じではなかったが、いやな空気が漂ったらいやだな、と思って俺は思わず下を向きそうになった。でも、若林さんはいつものように余裕綽々の顔をして、にっこり笑って言った。
「おう、ありがとな!」
そうして、隣で腕を組んで立っていたシュナイダーを、抱き寄せて頬にキスした。みんな、内心驚きすぎて目を見開く事しかできなかったが、さらに驚いたのはこの空間の中で一番不快そうな顔をしたのはシュナイダーだった事だ。シュナイダーはいつもの無表情を崩して、あからさまに「最悪」という顔をしながら、若林さんの脇腹を思い切り肘で突いた。その勢いが、あまりも強くて若林さんがよろけて震えて脇を抑える。そして、苦しそうに本当に痛そうな顔で「いってェ〜クソ力すぎんだろォが!ゴリラかよ!」と大きい声を出したので、オレ達はみんなそれを見て爆笑した。だって、どんな試合でどんなボールを受けても弱音を吐かない日本代表の若林源三が、本気で痛がっているのを初めて見たのだ。シュナイダーも、そんなオレたちを見て一瞬だけ笑った。もしかしたらこうやって、場を和ませるためにやった事なのかもしれないと気付いたのは、もっと後になってからだった。
完全なる休暇で帰ってきているのだから、話をして顔を出してもらうだけのつもりだったという城山監督に、若林さんとシュナイダーは30分程度だが練習に参加してくれた。そして、最後に見れたのが、これまたすごいものだった。
「どうせ来たんだから、いっちょデモンストレーションでも見せるか。みんな、こいつのそこそこガチのシュート見てぇだろ?」
チームメイトもオレも、みんなが一様にハイ!ハイ!と声をあげた。若林さんがシュナイダーの肘鉄に痛がってちょっと解けた空気は、練習中の二人の雰囲気でさらに和やかなものになっていた。
「Lass uns demonstrieren Ist das okay Karl」
「Ja. Natürlich」
「スパイクもないし、ボールも公式球じゃねえから、どんな感じになるかはわかんねェが……ショボい結果に終わっても言いふらすんじゃねえぞ」
そう前置きをしたが、若林さんはグローブを家から持参してきていたし、シュナイダーもさっきのオレとの勝負の時とは違って全体的に体をほぐすように少し念入りにストレッチをしている。バイエルンの公式ユーチューブで見た、練習風景の時にやっているやつだ、とオレはちょっとだけ興奮してしまった。
「監督、OKの合図してもらっていいですか?シュナイダーが手をあげた後に、笛ふいてもらえると」
「ああ、わかった」
突然、空気がピリっとした。若林さんとシュナイダーさんが、ボールを挟んで向き合ったのだ。さっき隣り合っていた時は和やかだった二人の雰囲気は、ゴールキーパーとストライカーとして対峙した瞬間にまったく違うものになった。
若林さんはニヤけていた口元を引き締めてじっと相手の様子を伺っていたし、シュナイダーはちょっとぼんやりとしていた眼差しをギラギラと燃やすようにゴールを注視していた。先ほど、オレと対峙していた時にはなかった「何か」がそこに存在している。この人たちは今、「敵同士」なのだ。ブルッと体が震えた。この二人は、紛れもなく世界で戦っているプロサッカー選手だという事がオレの胸に迫って、興奮のあまり、息をするのを忘れた。オレだけでなく、みんながそうだった。
シュナイダーが軽く左手を上げる。それを見て、監督が二人を交互に見た後ホイッスルを口に持っていく。
ピッ!
シュナイダーはボールから勢い良く数メートル後退し、足元でしばらく足踏みをすると、突然リズムをつかんだようにボールに向かって走り込む。そして、右足を高く振り上げ、空気を斬るようにボールの中心に叩きつけた。叩きつけたのだと思う。早すぎて、何が起こっているのかよくわからなかった。
細い隙間を強い風が通る時のような、ヒュン、という音が聞こえた気がした。
若林さんは体を少しだけ上下左右に揺らしながら、両手を前に出してかまえていたが、そのボールが自分に向かってきた瞬間、左ナナメスミに向かって、確信を持って飛んだ。
「Ich habe dir Blumen geschenkt.Genzo」
「オレの地元だから花をもたせたってよ。ったく、負けたんだから認めろ」
二人の対決は、若林さんがシュナイダーのボールをパンチングではじいて終わった。そして、そのはじいたボールがゴールポストに当たり、破裂した。もはや、どっちが勝ちなのかはわからなくて、オレたちは青ざめた顔でそのボールを見つめたが、若林さんは落ち着いた様子で「ッシャ!」とガッツポーズしていたし、シュナイダーは悔しそうに膝を打っている様子からして、多分二人の間では若林さんが勝ったのだろう。この反応で、こんな事が日常に起こるのがプロなのだとわかる。みんな驚きで口を開けてポカンとしていたが、誰かが拍手をすると、はじけたようにチーム全員が拍手をしてすごいすごい、と興奮したように盛り上がった。オレも世界的な選手を目指すなら、ボールを破裂されないといけないのだろうか。
「監督!備品のボール壊してすいません。あとでウチから寄贈するんで……」
「いやいや、あれはもう古いボールだったしいいんだよ。みんな!いいもん見せてもらったなぁ。若林さんとシュナイダーさんに挨拶しよう!」
「「ありがとうございました!」」
城山監督が、若林さんに、ありがとうはドイツ語ではなんていうんだ?ときいた。
「ありがとうですか?ダンケシェーンです」
「よし、みんなシュナイダーさんにも挨拶しろ。ダンケシェーンだ」
「「ダンケシェーン!」」
日本語での会話に気を抜いていたのか、突然ドイツ語で感謝されて驚いたらしいシュナイダーが、今日はじめて驚いたように目を丸くしてから、少しだけ微笑んで「Danke…アリガト」と小さい声で答えた。
本当は昼休憩で、昼飯を食う時間だったけど、みんな若林さんとシュナイダーにサインをねだった。チーム全員にサインをするのは大変だっただろうが、二人とも快く応じてくれて、若林さんが持ってきたお菓子を配ってくれた。小さい熊がたくさん入ってるグミで、姉ちゃんの居るチームメイトが「これ姉ちゃん好きなやつだ!ドイツのやつで、めっちゃ固いんだぜ!」と騒いだ。若林さんは「よく知ってんな!でもこれは、ドイツのミュンヘン空港限定のやつだぞ!」と言ったので、みんながオォ〜!!と言った。シュナイダーは言葉がわからないとは思うのだが、その様子を見ながらなぜか苦笑していた。
そろそろ二人が帰るというので、オレは思い切って、グミを入れてきた袋をウエストバッグにしまっている若林さんに話しかけた。
「若林さん、あのオレ……若林さん見て、ゴールキーパー目指したんです!本も読みました!もっとすごく、うまくなります!」
「おっ、なんだ。最初に言えよ!キーパーって面白ェだろ?」
若林さんは満面の笑顔になってオレの頭を撫でた。その様子を見たシュナイダーが若林さんに何か話しかける。どうやらオレの事を言っているようだが、ドイツ語なので当然何を言っているのかわからない。
ポカンとした顔で二人を交互に見ていると、若林さんが笑い声をあげて、オレに目線を合わせるためにしゃがみ込んだ。
「お前、さっきコイツのシュート止めたんだって?シュナイダーが、早くバイエルンに来て若林を倒せだとよ。こいつがこんな事言うの珍しいぜ?俺もさっき見てたけど、素質あるよお前。監督にさっきチラッと聞いたぜ。毎朝自主練頑張ってんだって?そのまま頑張れよ。そんで、俺を超えるくらいのキーパーになれ」
「えっ!」
簡単には抜かせねえけどな、と豪快に笑った若林さんは、そのまま監督の方に行ってしまった。憧れの人に褒められて固まっているオレを見て、シュナイダーがハハハと笑った。そして、俺の頬に手のひらで軽く二回触れると耳を軽くひっぱって頭をクシャクシャにされる。
日本人にやられる感じじゃないので驚いたけれど、試合前にボールキッズが同じように撫でられているのを見た事があった。その手があまりに優しかったので、今までシュナイダーに対して…いや、若林さんにも、二人に対して思っていたいろんな事が、申し訳なくて悲しくなって、俺は鼻の奥がツンとする。今までのオレはすごいかっこ悪くて、ださいやつのように思えた。若林さんとシュナイダーは、とてつもなくかっこいいのだ。何がどうしたって、かっこいい。微笑んでこちらを見ているシュナイダーの目を見上げて、オレは色々思ってごめんなさい、と心のなかで謝った。そして同時に、めちゃくちゃ嬉しくて、嬉しすぎて泣きそうだった。
「じゃ、監督。俺たち帰ります」
「あぁ、気をつけろよ。シュナイダーさんもありがとう」
「ドウイタシマシテ…Tschüss」
「チュース?」
「ドイツ語でじゃあね、みたいな感じの軽い挨拶ですよ」
二人がグラウンドを後にして去っていく時、みんなでありがとうございました、とかダンケシェーンとか、チュースとか、大騒ぎした。その背中が見えなくなると、全員が一斉にあのボールの威力がヤベエとか、シュナイダーにドリブル教えてもらった、とか、若林ってやっぱ超でかいよな、とか、口々に興奮してしゃべりだしたので、監督が「今日の練習はまだ終わってないぞ!」と言って喝を入れた。だから、皆急いで位置に戻った。全員、気持ちはすごくフワフワしていたけれど、同時にやる気にあふれていたので、午後の練習はすごく気合が入った。
家に帰ってから、ママとパパに今日の出来事を話した。若林さんも、シュナイダー…さんも、すっげーかっこよかったこと。とてつもなくサッカーがうまかったこと、二人とも優しかったこと。サインをもらったのを見せたら、二人ともオォー、と皆がグミをもらった時と同じ反応をしていたので、もらったグミも見せた。ママは食べようと言ったけど、オレはもったいないからとっておくんだと言って、カバンにまたそれをしまった。パパは、二人のPK対決を見れたと言った途端、耐えきれないように叫んで日曜日に家で寝ていたのを後悔していた。今日練習見に行けばよかったなぁ…とソファーに崩れ落ちて悔しがっている。
「でもさ、パパ…前に男同士が結婚なんて、変だとか言ってたじゃん」
「そんな事言ったっけ? むしろもうそんな事はどうでもいい!若林とシュナイダーの対決って何だよ?目の前でボールパンクしたのか…?ファイヤーショット、俺も見たかったなぁ……それにしても、まじか…シュナイダーが南葛に居る…」
と、なぜかそわそわし始めた。オレは若林さんと結婚したんだから、来年も再来年も来るかもしれないよ、若林さんが里帰りで帰ってきたって言ってたと伝えると、そうか…!若林、グッジョブ…と前と正反対の事を言った。
なんだよそれ、とちょっと思ったけど、オレがサッカーを好きになったのは、パパが本当にサッカーを大好きだったからだ。
お風呂に入ってから、オレは自分の部屋で机のところに貼った「サッカーはキーパーが点をとられなければ負ける事はない」という習字を見つめた。それを見て頷いてから、ルーズリーフに油性ペンで新しい文字を書いて、その隣に貼り付ける。その真ん中に、二人からメモ帳にもらったサインを写真たてに入れて飾った。
「打倒 若林源三」
布団の中に入ると、「キーパーって面白ェだろ?」という若林さんの言葉が蘇った。あの時は緊張してうまく言えなかったけど、次にもし会える事があったら、大きい声で俺はキーパーが大好きです、と答えたいと思った。
若林さんは憧れだけど、いつかオレも追いつくんじゃなくて、追い越さないといけない。まだまだボールはパンクさせられそうにないし、もっと先の話になるかもしれないけど、本当に、いつか、若林さんよりすごいキーパーになりたい!
そして先週、オレは若林さんが配ったグミが、練習終わりに買い食いするために寄ったスーパーにあるのを見つけてしまった。嘘を言っている感じはなかったから、きっと若林さん自身はミュンヘン空港限定だと信じていたのだろう。もしかしたらシュナイダーさんはこれを知っていて苦笑したのかもしれない。肘鉄で痛がるし、あの人すごいのにちょっと変だよな、とそのグミを買って帰った。なんでかというと、もらったやつは、机の引き出しにしまってあるから食べられないからだ。
オレは、すげえ固いグミってどんな味だろう、と地味に思っていたので、これが売っていて、よかったなと思う。いつか、ドイツでこのグミを買えるようになりたい。
おわり