モデキャス モーディスは深く溜息を漏らした。普段から制服のネクタイを締めない彼も、公の場ではそんな礼節に欠ける行動が取れる筈もなく、何度か袖を通しているモーニングコートを纏っていた。黒地のジャケットの中は同色のベストを着込み、白地のシャツの首元は黒い縞の落ち着いたネクタイをきっちり締めている。見た目を補正する為のサスペンダーやシャツガーターのお陰かシルエットはすっきりしているが、慣れぬそれは窮屈には違いなかった。ただでさえ気乗りしないこの状況、しかしモーディスを悩ませるのは別の問題がある。
視線の先、壁の花として給仕に勤しむキャストリスだ。彼女は淡い紫色の長い髪を持ち、髪の隙間から覗く少し尖った耳も、丸くて大きなアメジストのような瞳を持ち、ビスクドールのように人の目を惹く美しい少女ではあるが、彼女に声を掛ける男は一人もいなかった。
“厄災の胡蝶”――そう、彼女が呼ばれていることをモーディスもよく理解している。キャストリスは不運を招く、と。誰が言い出したかはわからない。ただキャストリスに関わると不運な事故に見舞われるだとか、キャストリスに声をかけられたその日は何かしらの雑務を押し付けられる、そんな根も葉もない噂が飛び交い、入学してからキャストリスに近付くものはいなかった。
だがモーディスを含め、生徒会メンバーはそんなことはないと知っている。しかし噂を払拭するのは難しいもので、生徒会長であるファイノンがそれを否定しても、副会長のキュレネが嗜めても“でも”、“だって”とキャストリスをよく思わない生徒が、彼女とは何の関係もない不慮の事故の全てをキャストリスのせいにしてしまった。
悪意は、増幅する。それは恐怖が元なら尚更だ。
だがそんな状況をこの先も続けるのは馬鹿げているとモーディスは思う。それはキャストリスに何一つ瑕疵がないからだ。キャストリスはただの少女でしかない。口数は多くなく、読書が好きで、よく空想に耽っては帰って来なくなることもあるが――甘いものを分ければ嬉しそうに笑う、どこにでもいる普通の少女だった。
二度目の溜息を漏らし、モーディスは意を決してキャストリスに近付く。
「……モーディス先輩?」
その気配に驚いた顔で彼女が振り返ると、文句を言われる前にグラスの乗ったトレイをその細い手から奪い取った。そして反論される前にそれをテーブルに置くと、キャストリスに向き合ってから胸に手を当てて御辞儀をし、片手を差し伸べた。
「……一曲、付き合え」
「……! は、はい……」
断るのは不敬だと判断したのか、キャストリスは逡巡をした後に恭しく手を重ねた。アグライアに仕込まれているのであろう、ダンスを受けるマナーとしての笑顔も添えて。それは満面の笑みには程遠く、ほんの控えめに瞳を細めて微笑むだけだったが、その穏やかな笑みにモーディスはまた溜息を漏らしそうになってぐっと堪える。ここで溜息をついては彼女に勘違いをさせてしまうからだ。
重なった手に視線を落とす。想像よりも小さなこの手が、綴る美しい筆跡が好きだった。
「……先輩、あの……何かありましたか……?」
「なんでもない、行くぞ」
「は、はい……っ!」
キャストリスの手を握ると、白い肌が途端に朱色に染まった。モーディスは知る由もないが、キャストリスが異性の手を握ったのはこれが初めてのことで。ずっと昔から忌み嫌われて避けられ続けていた彼女は、見目は美しくとも遠巻きに見られることが多かった。オンパロス学園に入学してからは生徒会の面々が自然と接してくれるようになったが、それでも手に触れるのは初めてだった。ダンスの練習もアグライアやキュレネがいつも付き合ってくれていて、練習でさえモーディスと踊ったこともないのに。
(どうして、先輩は誘ってくれたのでしょうか……)
モーディスがその手を引くと、自らの腕に添えさせる。エスコートをするように緩慢と歩んで行き、ダンスホールの中心に辿り着くとまた向き合った。
もう一度、モーディスが手を差し伸べる。ダンスに誘う為に向けられる掌も、キャストリスにとってはどうしても意識せざるを得なかった。
とはいえ待たせるわけにも、ここで手を取らないわけにもいかず躊躇いがちに手を重ねる。その刹那、モーディスの口元が僅かに弛んだ。
そっとキャストリスの背に手を添えて、しっかりとホールドする。
「……っ」
「あ……! ご、ごめんなさい……!!」
キャストリスが緊張からかモーディスの足を踏んでしまった。途端に泣き出しそうな顔になるキャストリスを心配させないように腕を引き、足の位置をさっと戻すとその華奢な体躯を優しく引き寄せた。
「心配するな、俺に合わせろ」
「……っ」
こくりと頷き、キャストリスはモーディスに身を預ける。未だに緊張は解けないのか、先程の失態もあってまだ動きが硬い。だがモーディスは知っている。キャストリスのダンスの才能がアグライア以上であることを。
だから、それを信じた。
ステップを踏んで、曲に合わせてリードをする。ただそれは優しいものじゃなく、何処か強引でスピード感もあった。きっと並の令嬢ならば無理だと泣き出すほどに荒々しいリード。しかしキャストリスは、完璧にそのリードに身を委ねていた。荒々しく舞っている筈なのに、キャストリスの身体の動きは花畑で遊ぶ蝶のように可憐だった。
――――なんて綺麗なのだろう。
誰かがそう呟くのに、モーディスは更に笑みを深めた。
(そうだ、見ろ。見ているか、彼女を厄災の胡蝶などと謗った愚か者ども。キャストリスはこんなにも美しいことを思い知るがいい!)
まるでそれをホールに知らしめるように、モーディスはステップを踏む。それは美しさを讃えるように、厄災の胡蝶など存在しないのだと見せつけるように。
フィッシュテールがふわりと舞う。
それは蝶の翅の如く、美しかった。