幼馴染の言うことは、素直に聞くが吉?「——っぽ……独歩ってば!」
「ううん……まだ寝かせてくれ……」
小学校以来の幼馴染である一二三に肩を揺らされ、俺は覚醒しきらない頭で、奴の手から逃れるように背中を丸めた。その腕の中に、馴染みのない温かな感触がある。
長い毛並みに覆われたやわらかなそれは、どうやら生き物らしい。俺の呼吸と近いリズムで、膨らんで、しぼんで、と繰り返している。ちょうど、俺の顎の下辺りから腹の辺りで丸くなっているようだった。少しごわついた長い毛足が首筋や手のひらに触れて、くすぐったいけれど心地よい。
煙草を思わせる少し煙たい匂いのするその毛並みに、俺は擦り寄るように顎を埋めた。毛布に包まれるようなやさしい睡魔が、再び意識を覆い隠していく。
「ちょちょちょ、気持ちよさそーに寝てるとこ悪いんだけど、ホントに起きて! じゃないと、どういう状況なのか気になり過ぎて俺っちが眠れないから!」
「……うるさいなぁ……状況って何——」
がくがくと肩を前後に揺すぶられ、仕方なく目を開ける。と、仕事帰りらしくジャケットだけ脱いで俺を見下ろしている一二三とワイシャツ姿の俺との間に、紺色の毛並みが見えた。がばりと飛び起きる。
俺と一二三が暮らすマンションの玄関。そこで靴も脱がずに寝こけていたらしい俺のすぐそばには、両腕で抱え上げられるサイズの猫が一匹。見覚えのある緑のモッズコートを下敷きに、しなやかな体を丸めてすやすやと眠り込んでいる。
「猫!? なんで!?」
「待って独歩、猫って何!」
「あっ……思い出した……違うんだ一二三、この猫は——」
「だから待てってば、独歩!」
常にないほど強く遮られて、口をつぐむ。一二三は、ひどく真剣な表情で俺の両肩を掴んだ。
「ここに、猫なんていないだろ」
「何言って——」
猫は、すぐそこにいるじゃないか。そりゃ、ペット禁止のうちに勝手に連れ込んだのは悪かったけど、これには事情があって。
俺がそう弁解を始めるより先に、一二三の手に力がこもった。
「ここにいるのは、シブヤのギャンブラーくんで、猫じゃない。しっかりしてくれよ、独歩」
一二三の言葉に、寝起きの頭が一層混乱した。ここにいるのはシブヤのクソジャリ。それは間違いない。けれどそのクソジャリが猫になっているのも、間違いないんだ。
一二三を見つめ返していた目を、もう一度隣に向ける。俺たちの声がさすがにうるさすぎたのか、両手で包めてしまいそうなほど小さな頭の上で、三角の耳がぴくぴくと震えた。
何かを探すように伸ばされた猫の手が、ぽす、と俺の太ももに触れる。と、猫になったクソジャリがその小さな体を引きずるようにして俺の腹に乗り上げてきた。ほどよい重さと温もりが、予定外の休日出勤に見舞われた俺の胸をじわりと温める。
やはり、何度見ても猫だ。これがあの図体も態度もクソでかいクソ生意気なクソジャリのままなら、俺だってこんなところにまで連れてきたりしない。奴が、遺伝子レベルで捨て置けない「猫」という形になってしまったからこそ、こうして家にまで上げたのだ。
今のコイツがメディアなんかの目に止まったら、ヒプノシスマイクの新たな効果だのなんだのと、研究対象にされかねない。
いくら敵対チームの人間でも、むざむざと不特定多数の好奇の目にさらすのは忍びなかった。
だから俺は、見知らぬラッパーのリリックで猫に変えられてしまったこのクソジャリを、奴のコートで隠して抱えて帰ってきたのだ。人目につかないように、わざわざタクシーまで呼んで。
「一二三」
「……何、独歩ちん」
「話せば長くなるんだが、驚かずに聞いてくれるか」
猫のクソジャリは俺の膝で完全に丸くなると、再び寝息を立て始めた。その頭をそっと撫でながら、一二三を窺う。
ああ……猫に触れるって、こんなに気持ちよくて、癒されるんだな。
猫と触れ合う機会なんて俺の人生にはないのだと、すっかり諦めていた。憧ればかり募らせた対象が膝の上にあって、ついつい意識が猫の方に持っていかれる。
一二三は、注意力が散漫すぎる俺を叱りもせずに、困惑しているような哀れむような、なんとも言えない顔で頷いた。
「今見てるものが今世紀最大のアンビリーバボーだから、何聞いても驚かねーわ……」
そう言って、当事者の俺でも信じられないこの状況を受け入れようとする一二三に感心する。こいつは昔から、肝が据わってるんだよな。
何かとビビリな俺とは違う幼馴染を頼もしく思いながら、俺は抱き上げても嫌がる素振りを少しも見せない猫のクソジャリと共に、我が家のリビングへ足を踏み入れた。
ことの起こりは、急な機器のトラブルだった。取引先であるマチダの病院から一報が入ったのは、十九時過ぎ。俺は貴重な日曜日にも関わらず、一二三が作り置いてくれた夕飯を残して家を飛び出した。
二十一時を過ぎてようやく事態が収拾すると、俺は予定外の休日出勤に疲弊した体を引きずって駅を目指した。
日が落ちて幾分涼しくなったが、それでも今は夏真っ盛り。暑いものは暑い。
せめてもとスーツの上着だけは脱いで、じわりとにじんでくる汗をシャツの袖で拭いながら、数少ない街灯が点る夜道を進んだ。
「うわ……ッ」
「あ?」
駅まであと十分ほど、というところで疲労の溜まった足がもつれて、倒れ込みそうになる。踏み止まろうとした体が、ひと気のないこの夜道で唯一前を歩いていた男の腕を咄嗟に掴んでいた。
黒い長袖シャツをまくり上げ、長いコートを小脇に抱えたその男が振り返る。
「おお、シンジュクのリーマンじゃねぇか」
「お、お前、シブヤの……!」
見覚えだけはありまくるその顔に、慌てて腕から手を離して飛び退った。それだけで、また足元がふらつく。
「なんだ、えらくヨボヨボじゃねーか。お疲れか? 俺はさっきまで、向こうのでっけぇ団地の祭りに行ってたんだ。世話になってるおっちゃんの出店を手伝っててよ。あっちの通りまではおっちゃんの帰り道と一緒だったから、車に乗っけてもらったんだ」
額に汗を浮かばせて、尋ねてもいないことをベラベラと喋りだした男の声を、右から左へと聞き流した。それでも聴覚から入り込んだ言語は、否応なく脳を刺激する。
本当に勘弁してくれ。今は人の話し声が聞こえるだけで、まだ熱がこもっている夜風に肺を焼かれるような、逃しようのない不快感が込み上げてくるんだ。
「そーだ、どうせお前も駅に行くんだろ? 杖になってやろうか、ワンコインで。もちろん五百円な」
千円出すなら負ぶってやってもいいぜ、なんて、がめつく笑ったシブヤのクソジャリが、親指と人差し指で金を表す輪を作った。
バトルのリリックどころか、SNSに上がる話題もほとんどがギャンブルに染まっている男の厚かましさに、苛立ちが募る。こっちは、今の今まで急な仕事に追われてきたっていうのに。
付き合ってられない。
「あ、おい待てよ——」
無視を決め込んで、クソジャリを追い抜いたときだった。俺を追おうとしたらしいクソジャリの言葉尻を掻き消すように、聞き慣れたマイクの起動音が背後で立て続けに鳴る。
俺たちが振り返るよりも先に、後ろからリリックを叩き込まれた。大した韻も踏んでいない安いリリックでも、疲弊した脳にはかなりの痛手だ。
視界がぐらりと大きく揺れ、尾を引く夏の熱気と相俟って、吐き気が込み上げてくる。思わずその場に手をついた俺の隣で、クソジャリも頭を押さえて片膝をついていた。
「ってぇな、いきなり何しやが……っ」
リリックが効いてきたのか、言葉の途中で呻いたクソジャリに、背後からの襲撃者——向こうも二人連れの男だった——が下卑た笑いを返す。
「ザマァみろ! たかだか一回、決勝トーナメントに出たくらいで、祭りでもチヤホヤされやがってよ」
「ホントは女が近くにいる時に食らわせてやりたかったんだが、麻天狼のDOPPOが相手なら不足はねぇ。てめぇら二人揃って、みっともねぇ姿を世間サマにさらしな!」
「証拠の動画は、俺たちがバッチリ撮って拡散してやっからよ」
追い討ちをかけるつもりか、男たちが笑いながらマイクを構え直した。
「く、そ……っ」
悔しげなクソジャリは、その手でアスファルトを掻くばかりだ。男たちのリリックがどんな効果となって奴の頭に作用しているのかわからないが、マイクを取り出す余裕はないらしい。となれば、俺がやるしかない。
脳を直接かき混ぜられるように世界が揺れるけれど、手は動く。
こんな、不意打ちしかできないようなチンケな奴らにやられっぱなしで終われるか。俺はあんたらと違って、取引先から要らん愚痴まで聞かされながら勤労してきたんだぞ、クソったれ!
その思いの丈を、起動させたヒプノシスマイクを通してぶちまける。息が続かなくなってリリックが切れた頃には、辺りはしんと静まり返っていた。
不意打ちをかました男二人がアスファルトに転がっているのを見て、ざまぁみろ、とクソジャリが奴らに言われたままの言葉が口から出た。
そのクソジャリも、えらく静かだ。気を失っているのかと振り返って、仰天した。奴のトレードマークである緑のモッズコート。地面に落ちたそれに埋もれるようにして、一匹の紺色の猫が倒れていたのだ。
「……というわけで、猫になってしまったクソジャリをコートで隠して、タクシーでここまで帰ってきたんだが」
玄関に入ったところで、力尽きたらしい。そう締めくくると、一二三はなんとも言えない生ぬるい表情のまま「そっか……」と呟いた。
そうだよな。いくら驚かないって言ったって、にわかには信じがたいよな、こんなこと。
普段は一二三と並んで座るソファに、今は俺一人で座っている。床に座ろうとした一二三をソファに誘ったのだが「俺まで座ったら狭いっしょ」なんて、断られてしまった。猫が一匹膝に乗っているだけだから、遠慮しなくていいのに。
そう思ったが、膝の上で丸くなっていた猫のクソジャリが、ことの成り行きを話している間にのびのびと大の字になっていたから、英断だと言わざるを得ない。
「とりあえず一晩寝て、何も変わんなかったら、寂雷先生に診てもらおーぜ」
「そうだな。いくら敵対チームとはいえ、猫になった奴を放っておくわけにはいかないもんな」
「何言ってんの。独歩ちんもだよ、診てもらうの」
きっぱり言い切る一二三に、首を傾げる。
「俺? 俺は何ともないぞ。それなのに、先生のお手を煩わせるわけには」
「いいから」
一二三らしからぬ圧に押されて、膝から落ちてしまわないように手で支えていたクソ猫ジャリを思わずギュッと抱きかかえた。猫になったクソジャリはもぞもぞと身じろいだあと、また健やかな寝息を立て始める。
人間だったら寝汚いの一言だが、猫の姿だとこんなにも愛くるしい。もう一生、猫のままでいいんじゃないか。ギャンブル漬けになることもなくなるし。
そんなことを考えながら腕の中に収まるクソ猫ジャリの後頭部辺りを撫でていると、一二三がいくらか引きつった声で続けた。
「ええと……そうだ、コロっちが変になっちまうほどのリリックを、独歩ちんも近くで食らってんだろ。自分では大丈夫だと思ってても、何か影響が出てっかもしんないじゃん」
「それは……まあ、そうだな」
頷くと、一二三がようやくホッとしたように笑う。
「んじゃ、ひとまずギャンブルボーイくんの寝床を用意してやりますかね」
どっこいしょ、と立ち上がる一二三に思わず声が出た。
「えっ」
「え……って、え?」
俺の反応に驚く一二三の前で、クソ猫ジャリを抱く腕に力が入る。
「いや、その……こ、こんな機会、もう二度と来ないかもしれないだろう?」
「こんな機会って?」
「猫と一緒に寝る」
「猫と、一緒に、寝る」
一字一句おうむ返しにされて、顔から火が出そうになった。いい年して、ぬいぐるみを抱いて寝たいと言い出してしまったような気分だ。
それでも、やっぱり諦めきれない。この温かくてやわらかいもふもふと、一度でいいから寝てみたい。
「毛は絶対、自分で掃除するから……!」
両手はクソ猫ジャリで塞がっているけれど、合掌して拝み倒す気持ちで頭を下げた。しばらくそのままじっとしていると、一二三がそっと俺の肩に手を置く。
「独歩ちんがそうしたいなら止めないけど……あとで死なないでね、独歩ちん」
どういう意味だ、とここで食い下がっておくべきだった。
けれど、そのときにはすでに、猫との初共寝にテンションが振り切れていた。
腕の中で身じろぐクソ猫ジャリの毛並みの感触に、寝ぼけてなのか、すりすりと首元に擦り寄ってくる小さな頭に、やに下がって仕方がない。着替えるために、ひと足先にベッドへ下ろしたクソ猫ジャリが、わざわざ俺の足元にまでやってきて丸まったときなんて、天にも昇る心地がした。
己のそんな愚かさを悔いたのは、翌朝、寝相がクソ悪いクソジャリの足で、狭いベッドから蹴落とされたあとのことだった。
クソジャリは自分が猫になったと思い込むリリックを、俺はそんなクソジャリが猫になったように見えるリリックを、それぞれ食らわされていたのだ。
一二三が「独歩ちん、口で言っても信じそうにないから」と、証拠として残していた地獄絵図のような写真や動画を見て、死にそうになった。そこには、れっきとした成人男性の姿をしたクソジャリを抱えて表情をゆるませる自分が、しっかりバッチリ記録されていたのだ。
あんなにも……あんなにも、幸福なひとときを過ごしたのに。すぐそばにある温かさが、手に触れる毛並みの感触が、泣きたくなるくらいに心地よかったのに。
それが全部、俺が見ていた幻覚による錯覚でしかなかったなんて!
猫との触れ合いという憧れの成就は、手からこぼれ落ちていく砂のように儚く散っていった。
地の底まで落ち込む俺とは対照的に、クソジャリはベッドで眠り、一二三が作った朝飯までたらふく食ったおかげで、超がつくほど上機嫌だった。余計に惨めだ。
公式プロフィールによれば、奴は七十七キロもあるらしい。そんな男を抱え歩いた全身の筋肉が悲鳴を上げる中、俺は一生分どころか、来世の、そのまた来世の分まで、後悔に後悔を重ねていた。
それからさらに数か月後、間違っても猫には見えないクソ生意気な二十歳の男を自分のベッドに再び招く未来なんて知りもせず、猫にしか見えなかったクソジャリを胸に抱く心地よさを、後悔の合間に思い返しながら。