ハッピーハロウィン? 今日で十月も終わる、金曜日の朝。俺はラブホテルの洗面台に向かって、身なりを整えていた。目の下の隈はどうしようもないけれど、代わりに髪と髭だけは、このまま出社しても問題ない状態にまで持っていく。
今日は七と五連勤目。鏡の中の自分は相変わらず死んだ顔をしているが、どこぞのギャンブラーのように七を強調して物事を考えられる程度には、回復している。
明日にはようやく休めるし、何よりもそのギャンブラーと共に一晩過ごして同じベッドで深く眠り込んだおかげで、なんとかラストの一日を乗り越えられそうだ。
「なあ、このシャツって今日はもう着ねぇの?」
件のギャンブラーが、ベッドルームの方から声をあげてきた。「んー?」と生返事をしながら剃り残しのチェックを終えて、そちらに戻る。
ソファに陣取った彼が——帝統くんが、その長い脚を持て余し気味に片方の膝に乗せていた。下着一枚で煙草をふかしながら、脱ぎ捨てられていた俺のワイシャツを掲げてくる。
「これ」
「着ないよ。それで会社に行く勇気なんて、俺にはない」
一目で使用感がわかるほど皺くちゃな上、洗濯しないままのそれに腕を通すのは、自分でも嫌だった。昨晩はシャツを脱ぐ間も惜しんでおっ始めてしまったので、かなりの汗を吸っている。
昨日は限界すぎて、端から帝統くんを呼び出す気満々だったのだ。だからあらかじめ、シャツと下着だけは替えを持ってきていた。
そのため、今は糊の効いた真っ白なワイシャツに身を包んでいる。一二三が、丁寧にアイロンまでかけてくれたものだ。肌触りも非常によかった。
「ふーん」
よれた襟首を掴んだまま、帝統くんがそのストライプ柄のワイシャツを目の高さにまで持ち上げる。左手に挟み込んだ煙草を深く吸った彼が、その紫煙をふー、と、シャツに向けて吐き出した。
「じゃあさ、俺に預けねぇ? コレ」
「え」
「最終的に、一二三サンに渡せばいいんだろ? 俺が持ってってやるよ」
傍らに置いた灰皿に灰を落とした帝統くんが、俺のシャツを軽く揺らす。
「……運搬料一万円とか言うんじゃないだろうな」
「お! いいな、それ。そうしよっかな」
「ばか。そう言われて誰が渡すか。返せよ、それくらい自分で持って帰るから」
「まーまー、そう言わずに。タダで言いからよォ」
へらりと笑った彼が、俺の手から遠ざけるようにシャツを後ろへ引いた。
「いや、タダより怖いものはないんだが」
特にお前みたいな、隙あらば軍資金を得ようとする輩相手には。
帝統くんはシャツを膝に下ろすと、煙草をもう一口味わってから紫煙の奥で笑った。
「タダっつーか、持ってったついでに一二三サンのメシが食いてえなーって」
「なんだ、そっちが目的か。なら素直にそう言えよ」
らしいというか、なんというか。
ため息をつきつつ、ソファの座面に投げていたネクタイを手に取る。
「まあ、あいつなら喜んで何か食わせてくれるだろ。お前の食いっぷりは気に入ってるみたいだしな」
「マジで? やりぃ」
シャツの襟を立ててそいつを締めていく俺の傍らで、にししと笑った帝統くんが新しい煙草に火をつけた。
「……お前、何かあったのか? 朝から、やけに吸ってるけど」
彼の喫煙量は元々、嗜む程度というレベルではない。それでも灰皿には、この三十分で吸い殻が三本も増えている。ここまでのハイペースぶりは、あまり目にした覚えがなかった。
俺の指摘に、帝統くんの目が丸くなる。そうして少し間を置いてから、彼は火をつけたばかりのそれを口に運んだ。吐き出した煙のあとを追うように、軽く答えてくる。
「別に、何もねーぜ。なんとなく、そういう気分なだけ」
その顔に、へらりとした笑みが浮かんだ。定職にも就かず、あっちへフラフラこっちへフラフラと賭場を渡り歩く、根無し草の彼にふさわしい笑みだ。
その表情を見る限り、何かに苛立っているとか塞ぎこんでいるとか、そういうことはなさそうだ。
まあ、俺の観察眼なんて当てにならないし、こいつは曲がりなりにもギャンブラーだ。彼が隠そうと思えば、その内面を看破することはできないだろう。
「……あんまり吸いすぎるなよ、早死にするぞ」
「キョーミねえな」
彼の口振りは、外の通りをさらりと吹き抜けていく秋風のようだった。放っておけば、本当にどこか遠くへ消えてしまいそうだ。
降って湧いたセンチメンタルな印象を吹き消すように、からりと帝統くんが笑う。
「ま、やりてぇことは山ほどあるし、まだまだ死ぬ気はねーぜ」
「なら、少しは控えろよ」
彼のその笑みにホッとしつつ、首元のネクタイをキュッと締め上げた。
「ていうか、吸うならせめて、俺のスーツから離れてくれ。匂いがつく」
彼が陣取っているソファの背もたれからスーツの上着を取り上げると、埃を落とすようにその前身頃をはたいた。この程度で匂いが落ちるはずもないが、あいにくと消臭剤の類いはストックを切らしている。
帝統くんは無駄に足掻く俺をおちょくるように、払ったばかりのスーツに向けて紫煙を吹きかけてきた。
「オイ、言ってるそばから」
「いいじゃねぇか。全員が全員、禁煙してマ〜スって職場でもねぇんだろ?」
「そりゃそうだけど……って、もうこんな時間か!」
ふと、腕時計に目を落として飛び上がる。今日はゆとりを持って起きられたと思っていたのだが、彼とのんびり話をしすぎた。
「俺はもう行くけど、お前も延長料金を取られないうちに帰れよ」
「へーへー」
まだ悠々と一服している帝統くんをよそに、煙草臭くなったスーツを着込んで鞄を引っ掴む。
「それと、そのシャツは忘れずに持って行けよな。お前が言い出したんだから」
「わーってるって」
ひらひらと手を振る軽さがイマイチ信用できないが、万が一放置されても着古したワイシャツ一枚だ。諦めもつく。
そう思い直して「じゃあな」と部屋を飛び出した。
廊下に出ると、スーツに染みついた煙草の匂いが不意に際立った。紫煙が満ちる室内との落差のせいだろうか。
すん、と袖口の匂いを嗅いだ。鼻腔の奥が、つんと痛む。
もう、すっかり馴染み深くなった苦みだ。彼の、煙草の匂い。
「……口うるさいお局サマにネチネチ言われたら、詫びの一つくらいさせてやるからな」
今日が休日であれば、己に染みついたこの匂いをむしろ喜んでいただろうに。
そんな残り香をまといながら、俺は職場へと急いだのだった。
結果的に、その口うるさい年配の女性社員は、不快そうに眉を寄せただけでひたすらに俺を遠巻きにした。
虫除けスプレーみたいでいいかもしれない。今日は溜まりに溜まった社内業務がメインなこともあって、呑気にそう思った。
そのあと同僚から「なんだよ、彼女からのマーキングか?」なんてからかわれたので、やっぱり消臭剤は買って帰ることにしたけれど。
そうしてほどほどの残業を経て家に帰った俺は、いつものように出迎えてくれたオフの一二三にちょっと目を丸くした。
「お前一人か?」
「何それ、どーゆー質問?」
逆に、俺一人じゃなかったら怖くね? おばけいんじゃん、それ。
そう返されて、あの腹減り男が一二三の飯を食い終わって早々に帰ったわけではないことを悟る。
これは、あのワイシャツはもう戻ってこないと思った方がいいかもしれない。
気まぐれが過ぎるギャンブル猫の頬を頭の中でひねりつつ、一二三が作ってくれた夕飯にぱくついた。
ふわとろ卵の鮭入りオムライスをせっせと口に運んでいると、ソファに座ってテレビを見ていた一二三が、不意に「あ、そーだ」と声を上げた。
「独歩ちん、コロっちに聞いといてよ。あのシャツ、いつウチに持ってくるのかって。あれ、昨日着てたヤツっしょ? 入れ違いになって、玄関前にでも放置されたらヤダし」
なんだ。あいつ、自分が持ってることは一二三に伝えたのか。……待てよ? それなら、どうして——。
「お前、そのときに自分で聞かなかったのか?」
「そのときって、どのとき? コロっちとは喋ってねぇけど、俺」
「は? それならなんで、あいつが俺のシャツ持ってるって知ってるんだよ」
ダイニングテーブルとソファの間が、お互いの疑問符でいっぱいになる。
「なんでって……ちゃんどぽ、わかってて貸したんじゃねーの?」
そんな風に言われても、何のことだかさっぱりわからない。
埒が明かないのを逸早く察した一二三が、ソファからダイニングテーブルへと歩み寄ってきた。その手に持ったスマートフォンを操作して、俺に画面を見せてくる。
「ほい、これ」
「なに……、!?」
促されるままに目を向けて、俺はその場にひっくり返りそうになった。
表示されていたのは、SNSに投稿された写真付きの呟きだ。
今朝ラブホテルで別れたあいつが、缶ビールを手にした左手で、器用にVサインを作っている。アルコールによるものか、その頬はうっすらと赤く染まって、表情も日頃よりゆるかった。
そんな顔を、世界中の人間が見られる場所にさらすな。
瞬間的に湧き上がった独占欲の奥から、状況を把握する冷静さがようやく覗く。
へらりと笑った彼の、その顔の下。年がら年中着られている彼の黒いVネックシャツが、白のワイシャツに変わっていた。皺くちゃで、縦のストライプが入った、俺の、ワイシャツに。
フリーズする俺を見て、一二三が「なーんだ」と拍子抜けしたように口を開く。
「てっきり、独歩ちんがサイレント匂わせするために貸したんだと思ってた」
「サイレント匂わせ……!? だ、誰がするか、そんなこと!」
「んじゃ、これはコロっちからの匂わせかぁ」
「いや、それもないだろ……」
彼と特別な仲にあることは確かだが、あの万年ギャンブル中毒者が、わざわざそんなことをするタマとは思えない。
自信を持ってそう言える。悲しいことだが。
けれど一二三は「そっかな〜?」と首をひねるばかりだった。
「シグマっちのところに集まって、こうやって何かのコスプレしながら宅飲みすんの、前から決まってたみたいだけど」
写真に添えられた投稿文に改めて目を向けると、シブヤ、ハロウィンというハッシュタグと共に「帝統は、七と五連勤目のサラリーマンだって」という文言が飛び込んできた。
リアルに汚いんだけど、何日洗ってないやつ?——なんて失礼すぎる文章が続いているが、そんなことには構っていられない。
七と五連勤目。
今朝、ラブホテルの洗面台の前で思い浮かべた言い回しが、世に解き放たれている。おそらくは彼自身の——帝統くんの口から、出た言葉として。
ぐわ、と体温が上がった。一気に汗が噴き出てくる。
そんな——だって俺は、彼には「十二連勤だ」とぼやいたのだ。七と五連勤なんて表現は頭の中でしかしていないし、彼の口からもその言い回しは聞いていない。それでどうして、一言一句被っているのか。
そもそも俺が何連勤かなんて、絶対に、一秒で忘れ去られている自信があった。それなのに。
火が出そうになっている俺の顔色から、黙り込む理由が驚愕から羞恥に変わったことを察したのだろう。にんまりと笑った一二三が、追い打ちをかけてくる。
「シグマっちの投稿を遡ればわかるけど、少なくとも先週には、このコスプレ宅飲みするって決まってたみたいだぜ〜?」
「……っそ、そうだとしても! たまたま、目の前にあったから持ってっただけだろ……!」
「そりゃ、その可能性もあるけどぉ」
信じられないほどに整った容姿の幼馴染が、縦に長い体を前へ折り曲げて、ダイニングテーブルに頬杖までついてくる。にまにまと、こっちを覗き込む顔が恨めしい。
「誰かが一日中着てた服を洗いもしないで着てるんだから、それだけでジューブン……じゃね?」
一二三が明言を避けて、暗に含ませただけの部分をつつくことはできなかった。これ以上、藪から蛇を出したくはない。
だって、彼が身につけているワイシャツは、ただ丸一日着ていただけじゃなかった。俺に組み敷かれていた彼は、他の誰よりもそれをわかっているはずなのに。一体どんな気持ちで、それに腕を通したのか。
——別に、何もねーぜ。
不意に、今朝の彼とのやりとりが蘇る。
——なんとなく、そういう気分なだけ。
へらりとした彼の軽薄な笑みが、頭の中で印象を変えていた。
他人に言うのもはばかられるようなことを共にしたシャツを着て、七と五連勤目というワードを出し、サラリーマンとまで明言する。
そんなことをされたら、一二三の発言を、ただの妄言で終わらせられなくなるじゃないか。
とどめのように、スーツに紫煙を吹きかけてきた彼の顔まで思い出して、とうとうテーブルに突っ伏してしまう。
顔が熱い。いっそ、このまま跡形もなく蒸発してしまいたかった。
「ま、なんでもいーけど、シャツのことはちゃんと聞いとけよなー」
他人事だと思って、面白半分に言い置いた一二三が、撃沈した俺の手からひょいっとスマートフォンを取り上げる。
簡単に言うな。そんなものを、俺に見せておいて。
メールだろうと電話だろうと、どんな顔をして彼に連絡しろというのか。
そうして身悶える俺の携帯電話に向こうから着信が入るのは、もう少しあとになってからのことだった。