朝のひばりが歌うまで「……、……バデーニさん」
最期の時が来るまでを過ごすにはあまりに暗く寒々しい牢の中で、其処を満たす陰鬱な沈黙に耐えかねたオクジーが口を開いた。
しかし、オクジーの隣で俯き、美しい金色の貝と化したバデーニは応えない。それでもともう一度名前を呼べば、錆びた機械のようにぎこちない動きながら、バデーニは漸く顔を上げたのだった。
「……」
二人の間を、気まずい沈黙が流れる。常ならば一方的とも思えるペースでバデーニが語り、オクジーがそれに相槌を打つ事で会話が進行していた。しかし今、バデーニは重く口を閉ざしたままだ。
オクジーは焦った。夜が明ければこの命は終わりなのに、一蓮托生として過ごして来たバデーニと何の言葉も交わさずに終わるなんて、と考えたのだ。
「ば、バデーニさん……っ!」
内気な自分としては殊の外大きな声が出たと、オクジーは驚き肩を揺らした。それはバデーニも同じだったのだろう。切れ長の目を丸く見開き、真っ直ぐにオクジーを見た。
「……どうした、オクジー君」
「あ、えっと……」
言葉を交わしたいとは思ったが、具体的な内容なんて考えていなかった。何でもいいから話題を、とオクジーは考える。しかしもう二人の間には、語るべきものなど何も無かった。
地動説については、その研究資料は失われ、それを記憶しているバデーニの命も明日には失われてしまう。そもそもオクジーはそれについて語れる程の知識を有してはいなかった。かと言って何気ない明日の話など出来る筈もない。二人にはもう未来は無いのだから。
バデーニはじっとオクジーの顔を見詰め、続く言葉を待っている。
「その、あの、……お、お揃いですね、そういえば俺たち……なんて……」
悩んで、悩んで、言葉を絞り出したオクジーは、己の顔を指差してそう笑った。
──オクジーの顔には、右目を覆うように包帯が巻かれいる。そう、オクジーの右目は拷問の一環で、異端審問官のノヴァクの手によって潰されてしまったのだ。
あの時、あの瞬間、バデーニは自白を躊躇した。躊躇して、やはり見過ごす事は出来ないと制止を叫んだその一瞬が、オクジーから片目を奪ったのだ。
「……」
しまった、とオクジーが思った時には遅かった。オクジーを見るバデーニの左目は、何も映し出す事のない右目と同じくらい虚ろな色をしていて、顔は、上質な紙を思わせる白さをしていて、まるで生気を感じない。
失言だった。オクジーはそれを痛感したが、しかし挽回する言葉など天地が逆さまになっても出て来そうにはなかった。
「……」
「……」
二人の間を再び、気まずくて重い沈黙が流れる。どうしよう、どうしようと、オクジーは頭を抱えて苦悩した。
行動を共にする間、浅学なオクジーが博学なバデーニに呆れられる場面は多々あったが、今の状況は非常に不味い。
あの頃と違い、失態を挽回する時間などないのだ。このまま、心が離れてしまったまま処刑の時間を待つなんて。
「……、……私は、」
「え……」
ぽつり、とバデーニの口から言葉が零れる。まさか返答があるとは。オクジーは姿勢を正し、バデーニの方を見た。
「私の右目は、……非常に腹立たしい話だが、行き過ぎた好奇心への罰という名目で、教会に焼かれた」
「……っ」
紡がれた言葉に、オクジーは息を呑んだ。バデーニが右目を失明している事は知っていたが、その理由までは知らなかったからだ。
生きている人間の目を、それも教会の人間が焼くなんて。神は、そんな非道をお許しになったのか?
「そんな顔をするな、オクジー君。私は後悔などしていない」
随分と酷い顔をしていのだろう。オクジーの表情を見て、バデーニは僅かに口角を上げた。
「……だが、あの瞬間の恐怖を、想像を絶する苦痛を、今でも夢に見る事がある。──理解していて、私はそれを君に背負わせた」
バデーニは手を胸の前で組み、まるで神に懺悔する使徒のように……いや、懺悔しているのだろう。知っている痛みだからこそ、バデーニは慙悔している。知らない痛みならば、それを言い訳にして目を背ける事が出来た筈だ。けれどバデーニは知っている。生きながらに視力を奪われる痛みを、恐怖を。知っていて、それを他人に味わわせる事の罪深さを。
「君は私を恨んでいるだろう。分かっている……君にはその権利があるのだから」
「恨んでなんていませんっ!」
か細く響く慙悔を掻き消すように、オクジーは声を張り上げた。思わず大きな声が出てしまった先程とは違う、自らの意思で声を張り上げたのだ。
「オクジー君、君の気遣いは感謝するが……」
「そんなんじゃない!」
オクジーは衝動のまま、三度声を張り上げた。
「確かに、口の横は痛くて喋りづらいですし、目も、正直に言えば……頭が割れるんじゃないかってくらい痛みますしっ」
胸の奥から、込み上げるものがある。それは、“満ちた金星をこの目で見たい”と思ったあの瞬間の感情に似ている気がした。
「今だって怖くて、怖くて堪りませんけどっ……でも俺は、後悔だけはしてません。だからお揃いなんです、俺たちは」
オクジーを見るバデーニの表情が、くしゃりと歪んだ。
「……君は愚かだ。本当に、どうしようもなく」
バデーニはそう呟くと、オクジーから視線を外して顔を伏せた。
吐き捨てるような語調に、これまでのオクジーならば、バデーニを怒らせてしまったと慌てていただろう。けれどこれはそうではないと、オクジーは確信している。
──だって顔の前で組んだバデーニの手が、痛ましい程に震えているからだ。
「バデーニさん」
「分かっている、分かっている……そんな君の言葉に救いを見た私は、もっと愚かだ……」
オクジーが、微かに震えるバデーニの肩を抱き寄せる。バデーニはそれを振り払わなかった。
二人の間に言葉は無い。もう、必要ない。
朝のひばりが終わりを告げるその瞬間まで、二人はずっと、ずっと、そうしていた。