雑伏 午後の授業が終わり、委員会活動の一環として山まで薬草の採取に来ていた伏木蔵は籠を背負って山を散策しながら薬草を探していた。普段から薬草の摂取場所としてある程度の目ぼしは保健委員会で共有しているのだが、気候や環境の変化などで同じ場所でも昨年や数か月前にはあった薬草が今年にはまったく生えていないというのはよくある事だった。
今日も以前にはたくさん薬草が生えていた場所に来たのだが、殆どまったく生えておらず、僅かばかりに生えた薬草を必要分取ろうとすれば全てなくなる。そうなると、来年どころか数か月後にはここにまったく何も生えてこないという事態もありえた。その為、伏木蔵はここの薬草を採るべきではないと判断したのだが、そうなると薬草が補充出来ない。忍術学園で栽培している薬草もそう多いわけではないから、いつまでも栽培している薬草頼りというわけにもいかなかった。勿論、薬草を採れない場合の事を見越し、常に最低限のストックを常備する為に忍術学園で栽培しているわけなので、直ぐに全て無くなるわけではないが、外で採取出来ずストックを増やせなければ、いつかは栽培している薬草すら底を突く可能性があった。
「困ったなぁ」
当てが外れてしまい、どうしたものかと伏木蔵は頭を悩ませる。せめて背負っている籠一杯分くらいは欲しいところだった。どこかに無いだろうかと辺りをキョロキョロと見回すが、それらしい生息地はない。
「やっぱりないか。こうなったら…」
伏木蔵はくるりと身体を反転させ、木が生い茂る森の方を見た。奥深くまではまだ行った事がない森だが、だからこそ薬草があるかもしれない。見れるところは全て見た。それでないのであればもう未開拓の場所へ行くしかない。
まだ陽が出ているとはいえ、森の奥は光が差し込まず暗くて見えない。何があるか分からないその森に、伏木蔵は思わず「スリルぅ」と声を漏らした。
未知の場所への興味と恐怖が共存する気持ちが、伏木蔵の心をワクワクとさせた。
目的は薬草だけれども、もしかしたら何か起きるかもしれない。期待していないと言ったら噓になる。スリルとサスペンスを想像し高鳴る胸に従い、ゴクリと喉を鳴らして森の中へと一歩を踏み出した。
その時だった。
「伏木蔵くん。そっちの森の中は危ないよ」
どこからともなく声がした。慌てて振り返ったが誰もいない。しかし今の声と伏木蔵くんという呼び方には心当たりがあった。ならばと上を見上げれば、木に行儀よく足を揃えて座っている雑渡昆奈門がいた。
「こなもんさん!」
「雑渡昆奈門だ」
お決まりのやり取りをするなり雑渡が木から降りて伏木蔵の側にやってくる。
「どうしたんですか?こんな所で」
「まあちょっとね」
伏木蔵からの質問をはぐらかす様に答える雑渡に、伏木蔵はそれが忍務だと分かった。忍者に忍務の事を聞くのはご法度だ。だから伏木蔵は直ぐに話題を変えた。
「それよりこの森の中が危険ってどういう事ですか?」
「ああ。この森の奥に山賊が住み着いているんだよ」
「山賊が!」
まさかこの森の奥に山賊がいるとは思っていなかった伏木蔵は、思わず大きな声を出してしまう。知らぬまま入っていたら山賊に遭遇してしまった可能性もあった。いくらスリルとサスペンスを求めているからといって、命と引き換えに味わいたいわけではない。命あっての物種。スリルとサスペンスを味わう為には生きていてこそ。雑渡に引き止められて命拾いをした事に気づいた伏木蔵は、青白い顔を更に青くさせ雑渡にお礼を言う。
「こなもんさん引き止めてくださってありがとうございます」
「いや、礼には及ばない。しかし伏木蔵くんはここで何をしていたんだ?」
「あ、薬草摘みです」
そう答えた伏木蔵だったが背負っている籠には何も入っていない。雑渡の視線がそれを疑問に思っている事が分かった伏木蔵は、苦笑を浮かべて事情を説明した。
「摘みに来たんですけど、いつも生えていた場所に薬草があんまり生えていなかったので摘めなかったんですよねぇ」
そこで再び伏木蔵は薬草が摘む事が出来ていない現実を思い出させられる。この森の中にも探しに行けないとなれば、今日薬草を収穫するのは無理だろう。そもそも薬草が生えている場所の見当すらないというのに。忍術学園に戻って校医の新野か保健委員会委員長の善法寺伊作に相談するしかないだろう。
「はぁぁ~」
思わず大きなため息を零れ落ちた。伏木蔵の言葉を聞いていた雑渡は顎に手を当て、数度指先で顎を撫でた後に伏木蔵に一つの提案をする。
「伏木蔵くん、薬草が沢山生えている場所を教えてあげよう」
「え!?」
雑渡からの提案は伏木蔵にとっては予想外の事すぎて驚きの声を上げてしまう。それもそのはずだ。戦ばかりしているタソガレドキ城なら常に薬を欲しているだろう。いくらあっても足りるという事ない。薬になる薬草が沢山生えている場所を知っており、他者が知らないのであればタソガレドキがそれを占領したいと考えるのが普通だ。その場所は隠し財産と言っても過言ではない。それを忍術学園の生徒である伏木蔵に教えるなんてありえない。
「いいんですか?そんな事教えて」
雑渡の言葉が信じられなくて目をまん丸にして見つめる伏木蔵の姿を見て、雑渡は思わず笑みを零した。
「保健委員の君になら教えてもいい。それにそれは巡り巡って私や尊奈門、他の者達に返ってくる事になるだろうしな」
結局は忍術学園の医務室に怪我する度に訪れるタソガレドキ忍軍達や己の為だと言う雑渡に、伏木蔵はほぇ~と言葉にならない声を出す事しか出来なかった。勿論、本当にこの提案を受けていいのだろうかと悩んだが、利害が一致しているというのであればこの提案を蹴る必要はない。伏木蔵だって薬草を求めている。教えてくれるというのであれば素直に受け入れる事にした。
「こなもんさん、ありがとうございます」
お礼を言う伏木蔵に雑渡は目元だけで微笑むと地図を一つ取り出した。それはここ周辺の地図だった。雑渡は忍術学園がある辺りを指さしたかと思えば指を滑らして、薬草が生えている場所への経路を指し示すように動かしていく。
それを見た伏木蔵は雑渡の意図している事を汲み取り、地図を見る事に集中した。
「こっちって金楽寺の方面って事ですか?」
「ああ。だがその手前で逸れてオーマガドキ方面へと向かえば、川へとぶつかりそこを沿うように行く事になる」
オーマガドキとタソガレドキ方面に向かう途中にある一本の川の事を言っているのだろうと伏木蔵は察する。雑渡は川沿いをしばらく進んだ後に指を止め、その場所を軽く円を描くように撫でた。そこが薬草の生息地はなのだろう。
「この場所に行ってみるといい。きっと伏木蔵くんの期待は裏切らないと思うよ」
思わせぶりな言葉を言いながらニヤリと笑う雑渡に、伏木蔵もまたニヤリと微笑む。
「その言葉、期待しておきますぅ」
二人してふふふと不気味に微笑みあえば、雑渡は広げていた地図を懐に仕舞い込んだ。端(はな)から地図を伏木蔵に渡すつもりはなかった。タソガレドキ城しか知らない薬草の生息地はいわば極秘。おいそれと地図を渡せるわけがなかった。あくまでも雑渡が勝手に話した事を伏木蔵が勝手に暗記したのであれば、それは雑渡の知るところではない。伏木蔵もそれを察していたからこそ、必死に経路を頭に記憶させた。
ぶつぶつと己しか聞こえないような小声で経路を繰り返し呟き、記憶に定着させる。その姿を見た雑渡はふっと笑みを零すと伏木蔵の頭にポンッと手を置いた。
「…こなもんさん?」
急に頭に手を置かれてしまい、一体どうしたのだろうかと伏木蔵が首を傾げるが雑渡は何も言わず、小さなその頭を何度か撫でた。その手つきはとても優しく、愛しいものに触れているかのようで、どうしてそんな風に触れるのだろうかと伏木蔵は思ってしまう。雑渡に頭を撫でられるのは別に初めてではない。今までも何度もあった。でも今日の触れ方は過去のどれにも当てはまらないような気がしてしょうがない。
抱いた疑問を雑渡本人に聞こうかどうか考えあぐねいていたら、じんわりと伝わる雑渡の掌の温もりが心地よく感じて伏木蔵は言葉に詰まってしまった。無言のまま雑渡に頭を撫でられていたが突然撫でていた手を放し、雑渡は音もなくその身を木の上へと移した。
「それじゃあね伏木蔵くん」
別れは一瞬だった。雑渡は伏木蔵の返事を待つことなく、その身を伏木蔵の前から消した。一人その場に取り残された伏木蔵はさっきまで雑渡に撫でられていた頭に手をやる。
優しく撫でられたその感触が、雑渡の掌の温もりがまだ残っているような気がして、まるで名残惜しいかのように自分で頭を撫でた。
***
数日後、伏木蔵は雑渡に教えてもらった薬草が生えている場所へ乱太郎と向かっていた。
大きな籠を背負いながら、伏木蔵を先頭に山道を進んでいく。
「ねぇ伏木蔵。本当に薬草が生えてる場所見つけたの?」
「見つけたというか教えてもらったんだよ」
「え?誰に?」
乱太郎の質問に伏木蔵は意味ありげに、ふふふと笑いながら口元に人差し指を当てた。
「内緒。そっちのがスリルでしょぉ?」
一年ろ組特有の青白く顔色が暗いのだが、伏木蔵の目はワクワクしたような意味ありげなもので、その笑みを見た乱太郎はきっと深くは追求しない方がいいんだろうなと察した。思わず、はははと乾いた笑い声を零した。誰に教えてもらったかはさておき、向かっている方向的には金楽寺がある位置だった。
「こっちって金楽寺がある方向だよね?」
「うん。でもそこから少し逸れるって言ってたから、どっちかと言えばオーマガドキ方面かな」
伏木蔵はあの日、雑渡から教えてもらった場所を思い出しながら乱太郎に伝える。
途中までは金楽寺に向かう方面と同じだが、途中で道を逸れてオーマガドキ方面へと向かう事になる。
確かにオーマガドキ方面など滅多に向かう事もないので、知らない薬草の生息地があっても不思議ではない。それでもまったく行った事がないわけではないし、何より保健委員会委員長である善法寺伊作が把握していない事はないのではと思ってしまい、それが気がかりだった。
「あっちにそんな場所なんてあったっけ?」
疑問をぶつけてみたが、伏木蔵は「行ってみたらわかるよ」とだけ返すだけだった。四半刻ほどかけてここまで来た以上、なんの成果も無しに引き返す事も出来ない。ここは伏木蔵について行くしかないと乱太郎は覚悟を決めた。
見知った道から道を逸れ、オーマガドキ、タソガレドキの領地に向かう間にある川の方へと進んで行く。川に辿りつくと沿うように歩みを進めながら二人で他愛無い会話をしつつ、更に四半刻ほど道を歩き続ければ、突然そびえ立つ崖が現れた。その崖の間を進んだ先で急に開けた場所が現れた。ぽっかり空いた空間に陽が降り注ぐように綺麗に周りが崖になっており、その一体だけが平地のような場所になっていた。一面が野草で埋め尽くされているのではないかと思うくらいに様々な草が生えており、近づいて見ればそれは求めていた薬草達だった。芍薬にヨモギ等結構な種類があり、まさに宝庫と言える。
あまりにも沢山の薬草に伏木蔵と乱太郎はお互いの手を取り合い、「きゃぁ~」と思わず歓声を上げてしまった。
「伏木蔵!これ、これ凄いよ!」
「エキサイティングぅ!こんなにあると思ってなかった!」
テンションが上がった二人はきゃっきゃっとハシャぎながら、各々薬草を採取していく。
これだけあれば医務室のストックは勿論、委員会の予算として薬を売りに行くにも十分な量を確保する事が出来る。
「乱太郎、僕こっち側採ってくから」
「分かった!私はあっちに行くね」
お互い左右に分かれ目的の薬草を採っては籠に入れていく。興奮状態の二人は黙々と薬草を採っていった。薬草を採りながら伏木蔵は雑渡の言葉を思い出す。
『きっと伏木蔵くんの期待は裏切らないと思うよ』
裏切らないどころではない。期待以上だった。これだけの薬草の生息地を本当に教えてもらってよかったのだろうかと考えてしまうが、雑渡が良いと判断したのであれば伏木蔵がこれ以上考えたところで無意味だ。なのでその思考は直ぐに捨て去り、目の前の薬草を摘む事だけに集中する。それに雑渡が言っていた利害の一致で教えてくれたのであれば、次に雑渡が忍術学園に来た時にお裾分け出来る薬を作った方がお礼になるだろう。
なら、雑渡の為にも火傷に効く薬を作りたいなと伏木蔵は思った。火傷に効く薬を作った事はないが、伊作に頼めば教えてくれるだろうと考えながら黙々と薬草を採っていく。
一心不乱に薬草を採り続けて、どれくらいの時間が経っただろうか。
気づけば籠いっぱいに薬草が入っており、これ以上を採って持ち帰るのは無理だとなったところで乱太郎が伏木蔵に声をかけた。
「伏木蔵~!そっちはどう?」
「籠いっぱい採れたよ!」
「こっちも採れたから、そろそろ帰ろうか。早くしないと日が暮れるかも」
言いながら空を見上げれば、陽が随分と傾いている。ここに来るまで半刻程かかったので、今から帰るとなると忍術学園に着くころには完全に日が暮れてしまうかもしれない。山の夜道は危険なので、早く戻らなければと乱太郎は気持ちが逸った。籠を背負って伏木蔵を急かす。
「伏木蔵早く戻ろう!」
「あ、乱太郎待ってよ!」
先に行く乱太郎を追うように伏木蔵も籠を背負って駆けだした。少しだけ早歩きのように来た道を戻って行く。
「ちょっと遅くなっちゃったけど、いっぱい薬草採れて良かったね」
「うん。乱太郎手伝ってくれてありがとう」
「私も保健委員なんだから当然の事だよ」
そう言って笑う乱太郎の優しさに伏木蔵は自然と笑みを零す。
帰ったら薬草を乾燥させないとや、今日の夕飯なんだろうなど他愛無い会話をしながら来た道を引き返していき、金楽寺に向かう道にもうすぐで着きそうだという時だった。
「うわっ!」
いきなり乱太郎が足を滑らしてその場で転倒した。前方に倒れた勢いで背負っていた籠から薬草が飛び出し、地面に散らばる。
「乱太郎大丈夫!?」
慌てて乱太郎に近づき、身体を起こしてやる。顔面を強く打った乱太郎は手で顔を押さえながら痛そうに顔を歪めていた。
「いててて」
「こんなところでコケて不運を発揮するなんて、流石乱太郎だね」
「…なにそれ。嫌味?」
くすくすと笑いながら言う伏木蔵のいつもの毒舌に、乱太郎は頬を膨らませて不服そうな顔をする。
「ていうか、道に枯れ葉がいっぱい落ちて足を滑らしたんだよ。秋でもないっていうのに。ついてない」
はぁとため息を零しながら、乱太郎は散らばってしまった薬草を拾い集めていく。結構な量が道に落ちてしまった。伏木蔵も散らばった薬草を拾うのを手伝う為にしゃがみ込んだ。
薬草を拾いながら、ふと視線を上に向けた時だった。
伏木蔵は何か違和感を覚えた。目の前にある道脇の茂みに強烈な違和感を覚えたが、それがなんでなのかは分からなかった。視線を一度、先ほど乱太郎が足を滑らした箇所へと向ける。やたらと落ちている枯れ葉。しかし枯れ葉だと思っていたそれは、枯れ葉などではなかった。まだ青々しい葉ばかりで、草なども交じっていた。それも不自然な程に綺麗に切れた葉や草で、伏木蔵はもう一度茂みの方へと視線を向けた。
そして先ほど感じた違和感の答えにたどり着く。
茂みがまるで人の手を加えて刈られたように、綺麗に高さが均一になっていた。
瞬間、伏木蔵の身体は考えるより先に行動に移っていた。
茂みに背を向けて薬草を拾っていた乱太郎の腕を勢いよく掴むなり、自分と位置を入れ替えるように思いっきり後ろに引っ張った。いきなり腕を引っ張られると思っていなかった乱太郎は、物凄い勢いで再び前に倒れこむ形になる。倒れこんだ勢いで集めた薬草が無残にも再度地面に散らばった上に、背から下ろして置いていた籠も倒れ、全ての薬草が飛び出す結果となった。
二回目の顔面からの倒れこみで、ダメージを負った乱太郎は痛みから涙目になる。
「…いったぁー!もう!伏木蔵いきなり何するんだよっ!」
危ないじゃないか!と乱太郎が倒れる原因となった伏木蔵に抗議の声をあげるが、それに返す者はいなかった。伏木蔵がいるはずの場所を見て乱太郎は声を無くす。
大柄な男が伏木蔵の両腕を掴んで、その首元に刀を向けている。伏木蔵の腕を掴んでいる男だけでなく反対側にはもう一人、伏木蔵を捕まえている男より一回り小さい男がいた。その男もまた刀を手にしている。
「チッ!そっちの奴も狙ってたのにこいつが引っ張ったせいで捕まえ損ねた」
伏木蔵の腕を掴んでいる男が不機嫌そうに言っている。言っている言葉から人攫い目的の山賊かと察した。二人だけの山賊とは珍しいと思いつつも、山賊と言えば子供を攫ってどこぞに売り飛ばすという話を聞いた事があった乱太郎の背に嫌な汗が流れ落ちていく。
「まあいい。捕まえればいいだけだ」
男が視線をもう一人の男の方へ向ければ、そいつは乱太郎を捕まえようと動き出す。どうやら伏木蔵を捕まえている男の方が立場的に上のようだった。
近づいてくる男達に乱太郎は慌てて身体を起こした。しかし相手は一人。隙をつけば逃げられるかもしれない。だが伏木蔵は大柄な男に捕まって刀を突き付けられている。下手に動けば伏木蔵が危ない。どうすれば。伏木蔵を助けないと。乱太郎の脳内で思考が目まぐるしく動くが、何一つまとまらない。
小柄な方の男が乱太郎を捕まえようと、じりじりと身体を近づけさせたその時だった。
「イデッ!!」
大柄な男がいきなり大声を上げた。それに驚いた小柄な方の男がそちらに視線を向ける。
すると腕を掴まれていた伏木蔵が大柄な男の刀を持っている腕に噛みついていた。首元に刀を突き付けられた状態で子供がいきなり噛みついてくると思っていなかったからか、完全に油断していたのだろう。伏木蔵は大柄な男の腕から血が出る程に力強く嚙んでいた。
「伏木蔵…っ!」
乱太郎が思わず声を上げる。だがそれに被せるように伏木蔵が叫んだ。
「行って乱太郎!早く!」
「こいつ…っ!」
いきなり噛まれた事に腹を立てた大柄な男は伏木蔵の頬を刀の柄の頭で殴りつけた。バキッと嫌な音が伏木蔵の頬からした。
「伏木蔵!」
「乱太郎…っ!」
思わず伏木蔵の方へと駆けそうになる乱太郎を、伏木蔵が名前だけ制する。歯で咥内を傷つけたのか口端から血が流れ落ちている。痛みで涙が溢れている眼差しが訴えていた。このままここで二人共捕まったらいけない。忍術学園に助けを呼びに行ってくれと。
言葉など無くても分かる。だから乱太郎は籠を手に取り、小柄な男の方に向けて投げつけると同時に迷いなく駆けだした。
小柄な男は大柄な男の方に気を取られていた上に飛んでくる籠を避けようと身体を屈ませたから、脇を抜けるのは容易だった。
「あ!あの野郎!追いかけろ!」
「へい!」
大柄な男が小柄な男に命令を下す。小柄な男は慌てて乱太郎を追いかけたが、乱太郎は忍術学園で俊足と言われる程に足が速い。そんじょそこらの大人では追いつけない。グングンと追いかけてきている小柄な男を引き離していく。しかし体力は無限ではない。大人と子供では体力が違いすぎて、走り続ければいつかは追いつかれるだろう。
道を走りながら、乱太郎は考える。ここはもう見慣れた道だ。幾度となく学園長からのお使いで金楽寺と忍術学園を行き来した乱太郎にはこの付近は庭と呼べる程に熟知しており、近道も把握している。だから直ぐに道を逸れ、小柄な男を撒く為に森の中へと入っていった。
あの付近で山賊を見たという話しは聞いた事がない。つまりはここ最近やってきたばかりの山賊なのではないかと推測した。なら道に不慣れだろう。森に入ってしまえば、もう乱太郎に追いつく事は不可能だった。
森に入ってから背後にあった威圧的な気配は無くなり、追ってくる様子もない。小柄な男を撒けたのだろう。ほっと安心する。だが、乱太郎は走る足を緩めない。
自分は逃げられたが、それは伏木蔵が助けてくれたからだ。伏木蔵がいなければ乱太郎は確実に捕まっていた。
逃がしてくれた時の伏木蔵の姿を思い出して胸が痛くなる。
本当なら今すぐ助けたい。この足の進行方向を反転させ引き返したい。置いてなんていきたくない。伏木蔵を助けたい。でもその力が乱太郎にはない。だからこそ、早く忍術学園に戻らなければいけない。伏木蔵を確実に助ける為に。
「伏木蔵…っ」
溢れ出そうになる涙を腕で乱暴に拭いながら、乱太郎は木の枝や草で身体中を傷つけられても速度を落とす事無く、一心不乱に忍術学園への帰路を駆け抜けていった。