2022年幣原誕生日記念話「セブ! 日本料理を作るわよ!」
そんな威勢のいい声を上げて、僕、セブルス・スネイプの幼馴染であるリリー・エバンズは、満面の笑顔のまま有無を言わさず僕の右腕を拘束した。
平日は騒がしい校内も、休日は人が散って静かなものだ。日曜の夕方以降は課題に追われて図書館にも生徒が流れ込むものの、土曜の早いうちは本物の読書好きしか集まっていない。
分厚い魔法薬学書を手にとっては、人気のない静かな場所を早々に確保する。内心ウキウキでページを捲った僕の手はしかし、突如乱入してきたリリー・エバンズによって力ずくで押しとどめられた。
柔らかで温かな彼女の手の感触に心臓が跳ねる。咄嗟にその手を振り払ってしまったが、リリーは特に気にした様子もなく、今度は僕の手の中にあった本を勝手に奪い取っては胸に抱えてしまった。
「……リリー、ひとつ聞きたい。どうしていきなり日本料理を?」
「そりゃあもちろん、今日は秋の誕生日だからよ!」
あまりにもまっすぐで明瞭な返事だった。うぅむ、ブレない。
幣原秋は僕とリリーにとって大切な友人である。レイブンクロー生の彼とスリザリンの僕、そしてグリフィンドールのリリーと寮は違うものの、それでもたびたび声を掛け合っては一緒にいる、得難い友で親友だ。
初めて出会った時は拙い英語しか喋れなかった秋は、尋常でない努力によって、たった一年で日常会話が不都合なくできるレベルまで自分の語学力を引き上げてしまった。今ではアクセントもネイティブと遜色ないものだから、気を抜くと秋が日本出身だということを忘れてしまうくらいだ。
秋の努力は並大抵でないことだと思う。少なくとも僕が今から外国語を──たとえば日本語を──学ぼうと決意したとして、果たして今の秋くらいのレベルになるまでどれくらいの時間が掛かるだろう。
その努力は賞賛されるべきものだ。だからこそ、僕は秋を心の底から尊敬している。
リリーもまた、秋の努力を知っている。「頭が良い」なんて雑な一言では括れない、秋の努力を見知っている。
そんな、どこまでも大事にしたい友人の誕生日なのだ。リリーが張り切るのも無理のない話だとは思う。
──思うのだが。
「……日本料理。うん、そう……ところでリリー、料理の心得は?」
「ないわ! でも、愛があれば大丈夫なんでしょう? 完璧よ!」
これまた想像通りのリリーの言葉に、僕は思わず眉間を押さえた。
その間もリリーは僕の袖を掴んだまま、ずるずると図書館から連れ出して行く。その足取りは軽やかでありつつも力強い。
この状態になったリリーを止めることは不可能だと、幼馴染の勘がそう告げている。
あーあ、秋の誕生日は昼食の後、ティータイムの時間にケーキとプレゼントを渡そうと設定していたのに、予定が崩れた。
せめて被害の規模を減らそうと、僕はこっそり秋に向けて魔法の紙飛行機を飛ばすのだった。ケ・セラ・セラ!
厨房に到着して、やっと僕はリリーから解放された。はぁと思わずため息をつく。
厨房にいた屋敷しもべ達はビクビクと僕らを遠巻きに見つめていた。彼らの聖域にいきなり突っ込んできた侵入者へ向けるのに相応しい視線とも言える。
「日本料理と言えば、必要なのは調味料よね。というわけで大豆を加工して作った調味料である『醤油』と『味噌』、それに『豆腐』を取り寄せたわ」
屋敷しもべ達の恐々とした視線にも全く動じることなく、リリーはカバンから用意していた調味料の瓶と袋を取り出した。
豆腐は調味料じゃないだろうと思いつつ、僕は「『みりん《sweet sake》』も試みたんだけど、お酒だから未成年とは取引できないって言われちゃったの。日本ではどうしてるのかな?」とのリリーの言葉にただただ頷きを返すので精一杯だ。
「……で。リリー、君はここから何を作るつもりなんだ?」
「ノーアイディアよ! だからセブルスを呼んだの。どうしたら良いかしら?」
おおっとそのボールは魔球過ぎないか?
しかしここで選択肢をミスると大惨事に直行するのは間違いない。僕は慎重に考える。
「……あー。そうだな……生の魚に醤油をかけて食べる『刺身』という日本料理があるだろう? 生食が可能な魚を捌いて……」
「却下よ! 魚を切って並べただけなんて、そんなもの料理とは呼べないわ!」
秒速で却下された。れっきとした料理だろうが。日本人に怒られろ。あと料理人に謝れ。
「……じゃあ、豆腐に醤油をかけた『冷奴という日本料理があって……」
「これもかけただけじゃない! ねぇセブ、あなた、提案する料理がどれもこれも手抜きすぎない? 私が料理できない子だと思ってる?」
思ってはいるが、口が裂けても言えっこない。
魔法薬学が得意だからといって料理が得意だとは限らないという典型的な例だと思っているが、リリーの前で口には出さない。
……せめて、善意でいろいろ味を足そうとするのは止めてほしい。薬学はレシピ通りに作るのに、料理はアレンジをしようとするのはどういう心理なのだろう?
「二人とも、何をしているの?」
その時、天の助け──もとい、幣原秋が厨房に姿を現した。僕はよしと拳を握る。ありがとう秋、来てくれて本当にありがとう。
リリーは唖然とした顔でぱくぱくと口を開け閉めしていたが、やがてパチンと口を両手で押さえると、僕を盾にするように背後に回り込んだ。
「いやっ、違、わたし──なんで秋がここにいるのよ! セブ、あなたが呼んだの!?」
「ははは、まぁいいじゃないか。秋にも料理に好き嫌いだってあるだろう。秋の好きなものを振る舞った方が喜んでもらえるだろうし」
「え?」ときょとんとする秋に、必死に目配せをする。幸運なことに、秋は僕の目配せの真意に気付いてくれたようだ。
「あー……好きなもの、か……」と言いながら、秋は僕とリリーを交互に見ている。
リリーは僕の肩をがっしりと掴んだまま(痛い)秋を窺うように僅かに顔を覗かせた。
「その……秋、お誕生日だから……一人でイギリスに来て、日本が恋しくなったりするかもと思って……日本料理で、秋の心が少しでも安らげばと……」
しおらしくリリーは言う。
僕の前では繕うことなくお転婆な姿を晒すリリーも、秋の前だといつもより少し大人しい。もっとも『少し』なものだから、秋にも地のお転婆さは既にバレている気もするが。
僕の肩を掴むリリーの手をそっと外して(痛かった)、僕は秋に「と、言うわけなんだ」と向き直った。
「もちろん懐石や天麩羅やら、難しい料理は作れそうにないんだが……よく口にしていたものとか、何かあるだろうか?」
言いつつ、さりげなく身をずらしては机の上にある醤油や味噌や豆腐をアピールする。あまりにも限界すぎる材料しか用意できず申し訳ないが、今は秋の機転が頼りだ。
秋は少しの間困ったように首を傾げていたが、やがて「そうだ」と軽く指を鳴らした。
「お味噌と豆腐があるから、お味噌汁が作れる気がするな」
「お味噌汁?」
「主食のご飯と共にいただく、味噌を使ったスープのことだよ」
「……それ、よく食べるの?」
「大体毎日の食卓に出るね」
「そう! それはいい考えね!」とリリーは途端に上機嫌になる。グッジョブと秋に目配せすれば、わかってると秋は軽く頷いた。
「秋、秋! それってどう作るのかしら?」
「あぁ、待ってね。実はぼくも自分で作ったことはないから、手順はうろ覚えなんだけど……」
うろ覚えだと言いながらも、秋の説明はわかりやすくて淀みない。記憶力が抜群に良いのだろう。
まずは具材を包丁で一口大に切り刻む。秋の「タマネギや人参があるといいかも」という一言で、足りない具材は屋敷しもべ達が持ってきてくれた。
その後、水を沸かした鍋に具材を入れて火を通す。具材に火が通ったら、一旦火を止め味噌を少しずつ溶かし入れた。その後、サイコロのような形に切った豆腐をそっと鍋の中に入れ、沸騰寸前まで煮込めば完成だ。
「すごい、すごいわ! これで本当に完成なの?」
「そう、これで大丈夫。最後に味見を少しして……」
小さな皿にスープをほんの少しだけ注いだ秋は、何度か吹いて冷ました後、器に口をつけて飲み干した。
リリーが不安とも期待ともつかない顔で「あ、味はどうかな?」と問いかける。
「うん、美味しいよ」
期待を裏切らない完璧な笑顔に、リリーは安堵したようにホッと胸を撫で下ろした。
……ありがとう、秋。誕生日だというのに、完璧な対応をしてくれてありがとう。リリーの暴走に付き合ってくれてありがとう。
「……出汁って大事なんだなぁ」
リリーが器を取りに立ち去ったタイミングで、アキがぽつりと何かを呟く。僕は聞こえなかったふりをした。
……一味足りなかったのだろう。一味で済んで良かったと思うべきか。
スープを入れる器に仲良く三等分して盛り付ける。
リリーは箸も用意していたが、僕は扱えそうにないのでスプーンを借り受けた。リリーは秋の手元をちらちらと盗み見ては、箸の扱いに悪戦苦闘しているようだった。リリーは凝り性だ。
味は……何だろう、よくわからない。野菜の煮込みスープに味噌の不思議な風味が合わさっているし、豆腐は特に味がしないまま、噛むと口の中でほろりと崩れる。
なんとも不思議な感覚だ、これが異国の料理というものなのだろうか。となれば日本からイギリスへと来た秋は、ずっとこんな感覚を抱えて生きているのか。そう思うと、再び秋に対する尊敬の念が湧いてくる。
その時、秋がふふふと含み笑いをした。
「あ、ごめん。なんだか……楽しいなって思ってさ。こうして三人でいる時間が、ぼくはすごく好きだなぁって」
そうして秋が、心底嬉しそうに笑うものだから。
「……ずっと一緒にいればいいだろう」
「そうよ! 絶対に離れてなんてやらないんだから!」
僕とリリーも、思わずそう本心をこぼしたのだった。