泳げないマーメイド私は中学を卒業した。平等院くんももうすぐ春休み。彼はアメリカに留学に行くらしい。子供の頃から海外に行っていたのは聞いていたから驚きはなかった。
私達は海岸の公園に来ていた。お気に入りのワンピースに、まだ勉強中のメイク。ヘアアレンジは自分では出来なくて、お母さんに編み込んでもらった。一方で、さっきまで練習だった彼は黒のジャージで、乱れた髪が汗で少し額に張り付いている。かっこいい、私の好きな姿だ。
春の海は静かで落ち着いていた。風がやわらかく、少し肌寒さを感じさせるけれど、それがまた心地いい。寂しさを隠すように、鼻歌を歌いながら彼の前を歩いた。彼はそれを遮ることなく後ろをついてきた。私が好きなアイドルの曲だから彼は知らないだろうけど、なんとなく彼の顔が穏やかで、これを気に入ってくれた気がした。
ベンチに腰掛ける。
夕暮れの光が海面をきらきらと照らし、遠くの水平線がぼんやりとオレンジに染まっていた。
チラッと隣を見た。彼は真っ直ぐ海を見ていた。いや、海を見ているようで、世界を見据えているようだった。付き合い始めてからは毎日一緒にお弁当を食べていた。その距離と変わらないはずなのに、とても遠くに感じた。
彼を捕まえたいと思った。
私は彼の方を向くと、唇の端のギリギリの所を狙って口付けた。離れてても大好きだよって伝えるように、ちょっとゆっくりめに。
平等院くんの肩がわずかに動く。予想してなかったのだろう。心の中で笑みを浮かべながら、私は離れようした。
でも出来なかった。
彼が私の後頭部に手を添えたからだ。そのままほんの少し彼が顔をずらすだけ。それだけでかさついた唇が私のと重なる。
風も、波の音も、世界のすべてが止まったような気がした。触れた所からじんわりと温かさが広がって、私の寂しい心を溶かしていくようだった。
世界が動き出す。
こぼれるような笑みをした私に彼も目を細める。
ほんのり熱を持った頬を2人で夕日の光のせいにして、再び目の前に広がる海を見る。
この先きっと何度も大航海に向かう彼を見送るのだろう。
人魚姫は王子様に恋をして、声を犠牲に足を手に入れた。
海賊に恋をした私は、ヒレがなければついていけない。
この大海原を自由に泳げたらーー。
でも、確かな絆を得た私は、たとえ海の魔女が現れたとしても契約書にサインはしない。
きっとさっきの顔が浮かぶから。
陸で歌うことを選ぶんだ。