[nera fiaba01]
空が飛びたいと、願ったことなど一度もない。
けれど艶やかに燃えるあの夕焼けに、娘は触れてみたかった。
朝に揺れる光の天蓋。
夜に降る星の銀貨。
それらは確かに美しく、旅する娘の虚しさを慰めてはくれたけれど。
「でも違うの」
牡丹の大輪がしっとりと散り落ちるような、熱さの中にも凍えた艶を宿すあの夕暮れを目にするたび、娘は心の中でそっと手を伸ばす。
そうして、うっとりと呟くのだ。
「綺麗ね」
娘が立つ場所は、爽やかな風が過ぎ去る丘の上。空には沢山の烏が飛び交い、がぁがぁと騒ぎ立てる鳴き声はうるさい。
燻る煙に、獣の焼ける匂い。崩れたばかりの瓦礫の下には、押し潰された肉片。三つの家が並び、それと同じ数の家族が慎ましく暮らす、村とも呼べない小さな集落は、誰に助けを求める間もなく何者かの手によって滅んでいた。
「残念だわ。ブーヨに襲われたのね」
瓦礫からは、まだ煙が燻っている。娘が半日でも早く集落に辿り着いていれば、助けられた命もあったかもしれない。
「本当に残念」
娘は――――ミノンは、壊れた家々を眺めて回った。
元は白かったであろう赤茶びた漆喰の壁は粉々に砕け、剥き出た木製の柱は黒く焼け焦げている。その先端を飾るように天高く串座された老女は、苦痛に舌をだらりと伸ばして歪な死に様を晒していた。
「お可哀想に」
しかし死体を降ろしてやるにも、ミノンの低い上背では難しい。そうこうしている間に、老婆の身体は腰から頭に向って徐々に黒く染まっていく。下半身がないのは、すでに崩れた後だからだろう。
ブーヨの呪いは全てを黒く染め、呪われた者は灰となって消えていく。
老女の回収はさっさと諦めて、娘は短く息を吐いた。
「形が残っているのは、彼女だけかしら」
ミノンが確認した範囲では、崩落の衝撃で千切れたと思しき手やら足やらが地面に転がっていても、頭部や胴体は見当たらない。弾けた腹から跳んだらしい生臭い内臓が、植木の枝のあちこちに引っかかってはいたが、果たしてこれが人間のものか動物のものかは、判断できないでいた。
集落を一通り見て回り、しばらく考え込んで、生存者はいないと結論付ける。
その事実を、娘は心から哀しんだ。
「生き残りがいないだなんて。これでは私は何もあげられない」
本当に残念だわ。
小さく嘆くと、上空の烏たちが一斉に叫び始めた。まるで娘に抗議しているようだ。そう言えば、この壊れた集落にやってきてから、ただの一羽も地面に降りてきていないことに、娘はやっと思い至る。
「ふふ。可愛い烏さんたち、どうぞ降りてきてくださいな。心配しなくても、食事の邪魔はしないわ。集落の人々は不幸だったけれど、彼らの血肉が貴方たちの糧になるのなら、これも立派な贈り物よね? ……ほら、ご馳走よ」
足元に落ちていた肉片を拾い上げ、近くを飛んでいた烏に優しく微笑みかけた。肉には早くも虫が這い始めていたが、娘は一向に気にしない。さあ、と烏がやってくるのを期待を込めて待つばかりだ。
「がぁ、がぁ……!」
ところが期待は裏切られ、娘を恐ろしく思ったのか、烏たちは悲鳴を上げんばかりに逃げていく。上空では無数の烏が慌てふためき互いにぶつかり合い、地面に落ちて死んだ烏もいる。
ややあって烏は去り、瓦礫にミノン一人が残された。
「遠慮しなくていいのに。ああ……でも私が収穫した食べ物ではないから、『私からの』贈り物と言うには不適切だったわね。ブーヨから、になるのかしら」
と、そこまで考えてミノンは気付いた。
「そうだわ。集落の皆様を殺したブーヨは、何処へ消えたのかしら」
早く見つけ出して退治しないと、大惨事になる。
「大変。急いで次の場所へ向かわなければ」
丘を下り、森を一つ抜けた先に町があったはずだ。大規模な都市であれば、ミノンのようなブーヨを倒す者――――レーティコが守っていても不思議はないが、小規模の村や町ではまず期待はできない。
もたもたしては、集落の二の舞である。
「そうね、急ぎましょう。あまり遅くなると、贈り物ができなくなるわ」
夕暮れの太陽が、地平の向こうに沈んでいく。
その、とろりと濡れた朱の空を見てミノンは頷き、静かに歩き出した。彼女の後ろに伸びる影法師は風に吹かれ、黒く楽し気に揺れていた。